消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(282) オバマ現象の解剖(27) 金融権力(4)

2010-02-23 21:50:38 | 野崎日記(新しい世界秩序)


 三 セカンド・バンク・オブ・ジ・ユナイテッド・ステイツ


 ファースト・バンク・オブ・ジ・ユナイテッド・ステイツの免許失効と同時に、センカンド・バンク・オブ・ジ・ユナイテッド・ステイツ(Second Bank of the United States)が認可申請をしたが、同じく、国の認可銀行嫌いが多数を占めていた議会によって認可されなかった。しかし、一八一二年六月に米英戦争(War of 1812)が勃発した。戦争は、一八一四年一二月に集結し、両者はなんの成果もなく集結した。当然、膨大な軍事費が米国経済を圧迫することになった(http://www.users.kudpc.kyoto-u.ac.jp/~c53851/uk2a.htm)。

  やむなく、連邦政府は、中央銀行を創り、赤字の補填を銀行に託する道を選んだ。こうして、セカンド・バンクは認可されることになった。一八一七年一月のことである。免許更新期間は、前の銀行と同じく二〇年であった。

 ファースト・バンクとセカンド・バンクとの間には六年の空白があった。第四代大統領は、ジェファーソンと同じ民主共和党のジェームズ・マディソン(在任期間、一八〇九~一七年)であった。当時の米国の借金は、建国以来の最高額であった。一八一二年一月一日時点でのの公的借入は四五二〇万ドルであったが、戦争が終結した後の一八一五年九月三〇日には一億一九二〇億ドルにまで激増したのである(http://www.publicdebt.treas.gov/history/1800.htm)。

 この銀行も、建前としては民間銀行であったが、実質的には政府の御用組織でしかなく、連邦政府の歳入の保管場所という役割を担っていた。当然、各州で認可された州の認可銀行からの政治的標的になっていた。免許更新申請年は一九三六年であったが、やはり、リパブリカンの伝統を継ぎ、民主共和党の後継である民主党の第七代大統領のアンドリュー・ジャクソン(Andrew Jackson、一七六七~一八四五年、在任期間、一八二九~三七年)の、一八三二年の二期目の大統領選挙の綱領には、セカンド・バンクの許可を延長しないことが盛り込まれていた。ジャクソンの政敵は、金融マンで政敵のでもあったセカンド・バンク総裁、ニコラス・ビドル(Nicholas Biddle)であった。

 銀行券そのもにに信を置かず、金貨・銀貨・金銀地金こそが真のカネであるとの認識を持つジャクソンは、特定の銀行にのみ銀行券発行という特権を与えることを批判していた。

 ジャクソンのセカンド・バンク批判は必ずしも荒唐無稽なものではなかった。この銀行の貸出が農地投機をあおっていたからである。一八一二年の米英戦争によって、連邦政府自体は膨大な借金を抱えてしまっていたが、農民は、空前の好景気を享受していたのである。ヨーロッパ大陸は、ナポレオン戦争によって、農地が荒廃し、食糧難で喘いでいた。米国の農産物輸出が、一八一〇年代後半には激増し、一大農地ブームが生じていたのである。米国の農業生産の拡大に応じるべく、セカンド・バンクは、土地融資に邁進した。これが農地投機をあおった。地価は二~三倍に急騰した。一八一九年の一年間だけで、五五〇〇万エーカー(約二二万平方キロメートル)の農地が売買された。

 州の認可銀行はセカンド・バンクに対して強烈な反感を持った。メリーランド(Maryland)州は、州法に基づかないセカンド・バンクの、首都、ボルチモア(Baltimore)での営業活動を拒否した。州権と連邦政府権のどちらが優先されるのかの大問題が蒸し返されたが、メリーランド州は敗退した(McCulloch v. Maryland, 17 U.S. 316, 1819)。しかし、背景には農地投機を押さえ込もうとした州と連邦政府の権威でそれを跳ね返そうとしたセカンド・バンクとの対立があった(Schweikar[1987])。州の了解なしに中央銀行がその支店を一八一七年に州内に設置し、派手な営業活動をすることは越権行為だとして、セカンド・バンクのボルティモア支店に重税を課して駆逐しようとしたメリーランド州に対して、セカンド・バンクのジェームズ・マカロック(James McCulloch)が州裁判所に訴えた。元最高司法判事であり、当時の州判事であったジョン・マーシャル(John Marshall)は、中央銀行に対する州の課税は連邦法に反する(「課税する権限は破壊する権限を含む」)として州の主張を退けた。連邦政府の機関に対する州による課税を禁止し、州政府に対する連邦政府の優位を認めた(http://www.landmarkcases.org/mcculloch/marshalllegacy.html)。

 しかし、連邦政府が州政府よりも優先するとのフェデラリストを喜ばす判決にもかかわらず、セカンド・バンクの派手な融資態度は全米の非難の対象となり、以後、土地バブルが急速に収束し、この年、恐慌が発生した。

 アンドリュー・ジャクソン大統領は、セカンド・バンクが選挙選で特定の候補者を支援していると非難した。この銀行が、政治的腐敗と米国の自由に対する脅威となっていると見なし、銀行を追い詰めていた。ジャクソンは、庶民の共感を呼び起こすことを意図して、激しい言葉使いで、銀行を支配する富裕層や海外株主を攻撃した(Ratner[1993], ch. 7)。

 ジャクソンは、一八三三年に、財務長官のロジャー・B・トーニー(Roger B. Taney)に対して、州銀行に連邦税収入を預託し直すように指示した。たとえば、同年九月、トーニーは、セカンド・バンクにあった連邦政府のペンシルベニア(Pennsylvania)州分預託金をフィラデルフィアのスティーブン・ジラール銀行(Bank of Stephen Girard)の後継銀行であったジラール銀行(Bank of Girard)に移した。

 ただし、このスティーブン・ジラール銀行が曲者であった。この銀行は、スティーブン・ジラールの個人銀行であり、免許更新を拒否されたファースト・バンクの資産を一八一一年に購入していた。その資産には、一八一二年の米英戦争時の一八一三年戦時貸付の大半が含まれていた。ジラールは、セカンド・バンクの当初の組織者であり、主要な株主であった。一八四一年に死去した(http://www.ushistory.org/people/girard.htm)。

 こうした政治的な圧迫によって、セカンド・バンクは急速に資金を失い、顧客から貸し剥がしなどの資金回収を急ぎ、顧客の怒りを買った。一八三六年の免許更新は提起されず、免許は失効した。国の認可銀行であることをやめても、普通銀行として存続を図ったが、一八四一年に倒産した(http://www.questia.com/library/book/jackson-versus-biddle-the-struggle-over-the-second-bank-of-the-united-states-by-george-rogers-taylor.jsp)。

 こうしたジャクソンの強引なセカンド・バンク苛めに激高した反ジャクソン派が、一八三三年にホィッグ党(Whig Party)を結成したが、多数を占めることはできなかった(http://dig.lib.niu.edu/message/ps-whig.html)。

 しかし、経済は、一八二〇年代末から不況の度合いを強めていた。セカンド・バンクの影響力が縮小するや否や、地方銀行が雨後の筍のように新設された。勝手に銀行券を発行するようになってしまったのである。その多くが不換紙幣であった。あっという間に悪性インフレーションが起こってしまった。そこで、ジャクソンは、一八三六年正貨流通法(Specie Circular)を制定した。国有地は金貨や銀貨などの正貨を対価でなければ払い下げないという法律である。そのことによって、正貨の裏付けのない銀行券は直ちに流通しなくなり、銀行倒産が激増した。それが、一八三七年の恐慌を引き起こしてしまったのである(http://coins.about.com/od/presidentialdollars/a/andrew_jackson_2.htm)。

 そして、国の認可銀行と州の認可銀行との棲み分けは、まだまだぎくしゃくしたままであった。


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