消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(274) オバマ現象の解剖(19) ハミルトン・プロジェクト(5)

2010-02-08 21:27:06 | 野崎日記(新しい世界秩序)


  四 ミッシング・マーケット


 ハミルトン・プロジェクトの顧問会議(Advisory Council)が、プロジェクトの紹介をしている。個条的にまとめる。

①ハミルトン・プロジェクトは、機会・繁栄・成長に関する米国の約束を促進させることを目的とする。

②長期の繁栄は、幅の広い層の経済成長、個人の経済的安全、必要な公共投資を展開する効率的政府の役割によって実現される。

③我々の基本的な戦略は財政規律を求め、基本的重要部門への公共投資増大させることにある。

④我々は、イデオロギーや教条を離れた、経験と事実に基づく全米の幅の広い経済政策議論を求める。

⑤本プロジェクトは、「政府の賢明な援助と激励」が、市場を導き、向上させ、財政規律と経済成長を図るとした、アレキサンダー・ハミルトンにちなむものである(http://www.
brookings.edu/media/NewsReleases/2006/20061218furman.aspx)。

 ハミルトン・プロジェクトのディスカッション・ペーパーは、経済的安全(Economic Security)、教育(Education)、エネルギーと環境(Energy & The Environment)、グローバル経済(Global Economy)、健康保険政策(Health Care Policy)、住宅(Housing)、インフラストラクチャー(Infrastructure)、ミッシング・マーケット(Missing Markets)、科学と技術(Science & Technology)、税政策(Tax Policy)の一〇分野に整理されている(Index of the Hamilton Project Papers by Subject, http://www.brookings.edu/projects/hamiltonproject/~/media/Files/Projects/hamilton/papers_released_to_date_0209.pdf)。

 なかでも、ハミルトン・プロジェクトのもっとも重要なキーワードは、ミッシング・マーケットである。この言葉は、日本語ではまだ定着していない。ミッシングという連想で、ミッシング・リンク(Missing Link) という用語と関係があるのかどうかはまだ確定できない。だが、まだ実現してはいないが、存在し得る市場という意味で、ハミルトン・プロジェクトでは使われているようである。その意味では、ミッシング・リンクと非常に近い使われ方をしているように思われる。

 ミッシング・リンクという用語は、研究者中英和辞典によると、①系列を完成するのに欠けているもの、②失われた環[鎖], 類人猿と人間との中間にあったと仮想される動物、とある(http://ejje.weblio.jp/content/missing+link.)。しかし、ダーウィン的進化論が、まだタブーである米語圏では、この用語すらタブーとして使用されていない。グーグル(google)で"Missing Link"を検索しても、ヒットしない。

 ミクロ経済学では、パレート最適(Pareto-efficient)に相当する市場など存在しないという意味で使われてきた。つまり、理論上では存在を前提にされてきたが、実際には「存在しない市場」という意味で使われてきた。

 公害などがミッシング・マーケットの具体例である。行為の結果に対して、行為者はなんらの責任をとらないという分野が公害である。工場廃液が海を汚染し、魚類を有毒化し、それを食した流域民が中毒になるという結果をもたらせても、その結果が排出者を罰するように設計された市場などは存在しない。経済行為の結果はすべて市場に繁栄されるという意味での市場など存在しないのである。廃液排出者を特定することも、排出者をすべて訴えることもできない。密かに数多くのものが廃液を流すからである。その意味でも、こうした問題の解決を市場に委ねることはできない。

 この場合、政府が調停に立たねばならない。政府の関与の下で、工場廃液の排出に関する罰則コストとか被害者保証額の設定ができる。そうすることによって、もともとはなかった市場を新たに創り出すことができる。政府の関与によってのみ生み出される市場のことをミッシング・マーケットとして扱うことができる(http://homepages.strath.ac.uk/~hbs97102/econ101/Docs/Supplement%20I%20Pollution.pdf、ミッシング・マーケットに関する研究書として、Hahn[1989]がある)。

 ハミルトン・プロジェクトは政府介入を積極的に支持する。しかし、それは市場を抑制するためでなく、まだない市場を育成するためにのみ許されるものである。つまり、ミッシング・マーケットを現実に存在するようにさせるための政府介入である。 

 同プロジェクト理事のジェイソン・ファーマン(Jason Furman)は、ミッシング・マーケットを次のように説明している。それは、ファーマンの「機会・繁栄・成長を促進させるハミルトン・プロジェクト」(Hamilton, the Project Advancing Opportunity, Prosperity and Growth)という題の報告の中でなされている(http://www.brookings.edu/~/media/Files/rc/papers/2008/06_missing_markets_furman/06_missing_markets_furman.pdf)。

 ファーマンはいう。市場こそがもっとも重要なものである。財・サービスの購入はもとより、健康保険、生命保険、不動産保険等々の各種保険を購入するにも市場が重要な役割をはたす。保険を通して様々なリスクを人々は回避することができる。リスクそのものも売買され得る。ライフサイクルに合わせて住居を変えることも市場を通してできる。テロの驚異ですら保険の購入でそうしたリスクを最小化することもできる。保険という保護装置がなければ、社会は非常に傷つきやすいものになってしまう。そうした市場がもしあれば、その市場は上記のリスクを軽減する役割を担っているはずである。しかし、そうした市場は存在していない。

 政府がはたすべき第一のことは、そうした存在していない市場を創り出すことである。政府の介入はそのためにも必要である。政府介入のない完全な放任主義に社会をさらしてしまえば、重要なミッシング・マーケットを誕生以前に窒息させることになる。

 そこで、ファーマンは、結論を大きなフォントで書いている。「リスクを減少することができる市場が消えている。我々はどう対処すればいのか。ミッシング・マーケットが、住居を購入したり、老後に備えて貯蓄したりするさいに家計が直面するリスクを本来的に減少させ得るものである」と。

 まず法と規制。これは、市場を窒息させるのではなく、市場を窒息させるような要素を排除するという役目も持っている。

 こときは、まだ、証券化の危険性が現実化していない次期であった。しかし、債権の証券化を推し進めることがミッシング・マーケットの事例とされていたことは注目されてよい。金融手段を社会生活向上の梃子にしようとの発想が出されたことに、このプロジェクトがウォール街の利益を反映したものであることが率直に表現されているからである。

 例として、モーゲジ証券の小口化がある。住宅を取得しやすくするために、モーゲジ証券をまとめて、大口の投資家が個別に持つのではなく、個々の証券を分割して多くの小口投資家が共有する(shared-equity mortgage)制度を作れば、つまり、協働で証券を保有するというミッシング・マーケットを創れば、住宅は非常に取得しやすくなる。このまま住宅金融の混乱が継続すると、米国は、住宅取得に関して未曾有の危機に突入するという危機感から書かれたものである。しかし、ブームのときは住宅価格が上がり、ブームが去った後は下落し、それとともに銀行貸出が増減するという現行システムは、改善しなければならない。こうした「ブーム・破裂サイクル」(boom-and-bust cycle)を阻止する方策が「不動産担保証券共有化」(SAM=shared appreciation mortgage)市場の発展である(Caplin, Andrew,  Cunnigham, Noël B., Engleler, Mitchell, L. & Frederick Pollock, "Faciliating Shared Appriciatin Mortgages to Prevent Housng  Crashes and Affordability Crises," a Hamilton Project Discussion Paper, September 2008)。

 証券化を工夫する方策の一つに、大災害での損害への金融方法がある。これは、〇八年六月に書かれたディスカッション・ペーパーに見られる(Smetters, Kent & David Torregrosa, "Financing Losses from Catastrophic Risk," a Hamilton Project Discussion Paper, June 2008)。この論文のテーマは、テロや自然災害に備えての保険を、証券化で賄おうとするものである。大災害に備える現行の保険料は高すぎ、補償額も十分ではない。保険料が高くて十分な保険に入っていなかった貧乏人は、大災害時には、不公平なほどの莫大な出費を余儀なくされる。損害保険料を安くするためには、保険会社が資本市場を積極的に利用すべきである。そのさい、政府が再保険システムを担えばよい。

 自治体のリスクについても、同じことがいえる。自治体は、突然税収不足に見舞われて、増税か、住民サービスの低下かという苦しい選択を迫られることがある。そうした不意の緊急事態に備えるべく、自治体も保険を買えるようにすればよい。理論的にはそうであるが、現実にはそうした保険はいまのところはない。それを創りだそうというのである(Deep, Akash & Robert Z. Lawrence, "Stabilizing State and Local Budget: A Proposal for Tax Base Insurance," A Hamilton Project Discussion Paper, June 2008)。

 政府がはたすべき第二に重要なことは、市場の失敗を修正することである。市場の失敗が市場創出を阻害するからである。保険市場では、とくにそのことがいえる。自分は健康だと思う人たちが健康保険を解約するようになるとしよう。しかし、そうすることは健康に自信がなくて健康保険に入ったままの人が掛けなければならない保険料が高くなる。今度は、保険料が高くなりすぎて、健康に不安を覚える人でも、低収入の人は、健康保険に入ることができなくなる。そのうえに経済危機が社会を直撃すると、健康保険に関する無保険者が激増する。さらに、医療費の高騰に悲鳴を上げる保険会社は、医療費支出の可能性の少ない健康者しか保険に入れなくしてしまう。ますます、保険に入る人が少なくなり、保険料が馬鹿でかくなり、保険そのものの効用が小さくなってしまう。こうして、この市場は消滅する。健康保険の分野では、とくにこのことがいえる。健康保険加入者が減少すれば、健康保険そのものがなくなってしまうからである。米国の健康保険制度の病弊はここにある。

 健康保険の分野では、リスク調整済みのバウチャー(risk-adjusted voucher)を政府が個人に対して発行し、個人が民間保険会社から健康保険を買うようにすれば、現行のように、健康な人のみを保険に勧誘するという悪弊はなくなる。そうした健康保険バウチャー制もこのプロジェクト研究の成果の一つである(Emanuel, J. Ezekiel & Victor R. Fuchs, " A Comprehensive Cure: Universal Health Care Vouchers," A Hamilton Project Discussion Paper, July 2007)。

 失業者の打撃を緩和するための、民営化された失業者健康保険制度の提唱も、政府主導下の新しい市場の創出である(King, Jeffrey R., "Fundamental Restructuring of Unemployment Insurance: Wage-Loss Insurance and Temporary Earnings Replacement Account," A Hamilton Project Discussion Paper, September 2006; Kletzer, Lori G. & Howard Rosen, "Reforming Unemployment Insurance for the Twenty-First Century Workforce," A Hamilton Project Discussion Paper, September 2006)。

 自己資産を超えた生活をしてきて、退職時には未曾有の経済危機に見舞われて家計が破綻するという悲劇を避けるためには、企業に社員の貯蓄を奨励し、年金に加入させることを義務づけ、その分、減税措置を施すとか、四〇一kとか個人退職勘定(IRA=Individual Retirement Account)(9)の充実に向かって政府がこの分野に積極的に介入すべきであるとの提言もなされている(Gale, William G., Gruber, Jonanthan & Peter R. Orszag, "Improving Opporyunities and Incentives for Saving," A Hamilton Project Discussion Paper, April 2006)。

 「社会問題を解決し、個人や社会が直面するリスクを減少させるには、市場に基礎を置くか、市場的な解決策が魅力的なものである。これらの市場を妨げているものを除去するということも大事であるが、しかし、多くの場合、市場が失敗し、行動上の障害があるために、『自由市場的』解決策が支持を失ったことである。それゆえ、効率的な政府が健全な市場を繁栄させる条件を作る手助けをすることが決定的に重要であることになる。幅広い経済成長と経済的安定を促進させるうえで、効率的政府の伝統的、決定的役割を有効に補完するのが、市場に基礎を置く解説策である」。「政府は、ミッシング・マーケットを実現させる決定的な役割を担うことができる」。

 この報告をしたファーマンが、オバマ政権の中枢に登ることになった。