消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(283) オバマ現象の解剖(28) 金融権力(5)

2010-02-24 21:53:45 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 
四 リンカーンのグリーンバック紙幣


 一八六一年に第一六代大統領になった共和党のエイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)も、東部の銀行家への強烈な反感の持ち主であった。盟友ウィリアム・エルキンズ(Col. William F. Elkins)に宛てた一八六四年一一月二一日付のリンカーンの手紙はその反感が強く表されている。

 「金融権力(money powers)は、平和時にも国民を食い物にする。異常時には国民を欺く。君主よりも専制的であり、独裁者よりも傲慢であり、官僚よりも自己中心的である。我が国の安全を求める私をくじかせ、おののかせるような危機が近い将来にくるだろうと私は思う。企業が王位についた。その後には、汚職の時代がくるだろう。金融権力は、国民の誤った理解に乗じて自分たちの支配を強め、長続きさせようとするであろう。その結果、富は少数者の手に集中させられ、共和国は破壊されてしまうであろう」(Shaw[1950])。

 南北戦争(The Civil War、一八六一~六五年)は、地方分権=小さな中央政府賛美論から、レッセフェール(laissez-faire)を基調とするが、より中央集権化された国家体制が望ましいという雰囲気に変わる分水嶺だとよくいわれている(Bense[1991])。l

 その一例とされているのが、BEP(政府造幣局=Bureau of Engraving & Printing)である。BEPは、一八六二年八月に創設された。一八六一~六三年の三年間だけ、財務省は、民間の銀行券印刷会社を使っていたが、財務省の仕事だけをする国立の造幣局を作ったのである(Noll[2009], p. 25)。

 一八六一年七月の第一次マナサス(Manassas)の戦い(6)での大敗戦のほぼ一か月後の一八六一年八月中旬、当時の財務長官のソロモン・チェース(Salmon P. Chase)が北東部の大銀行に融資申込をし、一・五億ドルを金貨で三回に分割して融資を受けることに成功した。融資は三年物財務省証券(Treasury notes)の購入という形でおこなわれた。利率は年率七・三%、つまり、額面から二二%も割り引いて銀行は購入したのである。これは銀行にとってかなり有利な取引であった。最初の五〇〇〇万ドル相当の金貨が到着するまで、チェース財務長官は、五〇〇〇万ドルのデマンド・ノート(要求払い約束手形=Demand Notes)を発行した(Mitchell[1903], p. 23)。これは、政府が銀行を通さずに直接発行する一種の政府紙幣であり、のちに、グリーンバックス(Greenbacks)との愛称で呼ばれるようになったものである。この政府紙幣は、将来、持ち主が財務省事務所にそれを持参すれば金貨と交換するという意味で、要求払い紙幣なのである。そして、それは、発行に時間のかからない即効性を持つものであった。この種の紙幣が発行されるようになる南北戦争前には、財務省の資金調達は時間がかかるものであった。

 時間がかかっていたということは、以下の手続きが必要であったからである。まず、年間二万五〇〇〇ドル分の財務省証券を作成するには、ニューヨークのある銀行券印刷会社と契約する。印刷会社に依頼された財務省証券は、印刷されたものからワシントンに運ばれる。最初の到着便は早くても一か月後である。完了するには六~八週間かかる。証券は、一シートごとに一~四枚印刷されている。それらは大部の本のように括られている。証券が販売される段階になって初めて、財務省の記録局(Register’s office)の書記官によって、帳簿に記録され、シートから切り離される。さらに、記録責任者のサインを受けて、財務省証券は財務省の事務所に運ばれる。ここで、もう一度記録され、財務長官が証券にサインする。こうして正式のものになった証券は財務長官の事務室に運び直され、本物であることを証明するシールが貼られて、やっと発行されるという段取りである。チェース財務長官が七・三%証券を発行したのは、この手続きに沿うものであった。しかし、作成された証券は二一万枚もあった(Noll[2009], p. 26)。

 戦争遂行のためには、上のような手続きを踏む時間的余裕などない。他の民間機関に委託しないですむ政府直轄の造幣局が、緊急に必要になったのである。それだけではない、緊急に財務省証券を政府が自前で印刷しても、今度は北東部の銀行が財務省証券を引き受けてくれなくなっていたのである。戦争に勝つ見込みのない北軍政府にカネを貸したくなかったのが銀行の本音であっただろう。一八六二年の初めには、南北戦争の長期化は必至であることが明白になった。しかも、財務省の従来方式による資金調達の見込みは絶望的であった。

 そこで、やむなく踏み切ったのが、デマンド・ノートの増発である。議会は、一〇〇〇万ドルのデマンド・ノートの追加発行を決めた(Act of February 12, 1862)。さらに、新たな不換紙幣(兌換の保証なく政府が一方的に法貨として宣言した貨幣)(fiat money)を一・五億ドルの発行も議会は認可した(Act of February 25, 1862; Bayley[1970], pp. 153, 156)。財務省の職員たちは、四〇〇〇万枚のデマンド・ノート、二五五〇万枚のグリーンバックスを短期間に発行し終えたのである(Noll[2009], p. 27)。
 一八六二年末には、財務省は、印刷された札をシートからはがす作業の機械化に成功し、シールそのものも札の表面に印字する技術も確立した。技術開発に当たったのは、スペンサー・クラーク(Spencer Clark)という技術者であった(Scalia[2006], p. 6)。

 そして、一八六三年会計年度で、財務省は、新しい五・二%金利の財務省証券五億ドルを額面でグリーンバックス対価に売ることに成功した。一八六二年一〇月にチェース財務長官がジェイ・クック(Jay Cooke)という名の金融マンを財務省の代理人として雇い、銀行を経由せずに財務省証券の大量販売させたのである。クックは、財務省証券は儲かるという大宣伝を打った。彼は、じつに、一日で一〇〇万ドル相当の財務省証券を売りまくった。一八六三年春から五・二%金利の財務省証券の販売に勢いがついた。一八六三年三月の売り上げは七五〇万ドルであったが、同年六月になると、一億五六五〇万ドルも爆発的に売れたのである(Bayley[970], p. 156)。

 購入依頼を受けて四日以内に財務省証券を顧客に渡すというのが、チェースの夢であり、クックにさらにそのための技術開発に勤しむようにはっぱをかけ続けた。一八六二年冬頃は、まだ引き渡しに一か月かかっていた(Noll[2009], p. 29)。

 結局、チェース財務長官は、財務省内に印刷局の設置に踏み切る決心をし、一八六三年七月、技術者のクラークを通して印刷機の蒐集をおこない、独自の造幣局の創設に踏み切ったのである。一八六四年二月までには、印刷機四〇台、一日二五〇〇万部もの証券を印刷することができるようになった(Noll[2009], p. 30)。

 こうして、連邦政府は、金融権力そのものをひとまず押さえつけることに成功
した。そして、南北戦争時に発行されたデマンド・ノートは、現在の連銀券の原型をなしている。五ドル、一〇ドル、二〇ドルの三種類の紙幣が発行されたが、いずれも、裏面が緑色のインクでデザインされいるので、グリーンバックスと呼ばれた。表面には、"Freedom"、"Liberty"、"Art"、"Bold Eagle"という定型とともに、ハミルトン、リンカーンの肖像が印画されている。

 二〇〇六年四月にロバート・ルービン(Robert Rubin)がハミルトン・プロジェクトと銘打った新経済政策を作成しているのも、政府紙幣発行と連邦政府の権限強化というメッセージを秘めているのかも知れない。

 南北戦争時、連邦政府が認可する銀行はゼロであった。それに対して州政府認可の銀行は、全米で一六〇〇行ほどあった(Malloy, Michael P., "National Bank Act(1864)," http://www.encyclopedia.com/doc/1G2-3407400212.html)。州政府認可の銀行を監督する連邦政府による本格的な国法銀行を設立しようとしたのが、チェース財務長官であった(一八六一年)。彼は、複数の国法銀行の設立を目論んでいた。国法銀行に連邦政府の赤字国債の買取と政府への融資をされたのである。チェースが、国法銀行を設立する前に、いきなり市場に国債を売却する方向に進んだことは、前節で見た通りである。

 チェースは、一八六三年に国家貨幣法(1863 National Currency Act)を制定したが、まったく機能できなかった。これを基に改訂されたのが一八六四年のNBA(国法銀行法=National Bank Act, 13 Stat. 100)である。この構想が、のちの米国の銀行制度の伝統となる二重銀行制度(dual banking system)の伝統を作ったといえる。つまり、連邦政府が認可する国法銀行(national bank)と州政府が認可する州法銀行(state bank)という二種類の銀行が併存するという制度である(7)。

 現在でも機能しているOCC(通貨監督局=Office of the Comptroller of the Currency)がこの法律に基づいて財務省内に設置された。しかも、このOCCのシステムは、一八六四年以降も変更されていないのである(Malloy, op. cit.)。
 国法銀行とは、このOCCに登録する銀行のことをいう。OCCの条文には次のような条文がある。

 「銀行業務を営む組織は、・・・五人を下らない自然人(natural persons)(8)によって設立されなければならない。・・・設立者は、組織設立目的を明示した趣意書を作成し、設立者たちの署名を付して、その趣意書の写しを通貨監督局に提出して、監督局の登録を受けなければならない」(http://chestofbooks.com/finance/banking/Banking-Law/Revised-Statutes-Of-The-United-States-And-Acts-Amendatory-Thereof-Part-2.html)。

 この条文によって、国法銀行が許可され、強力な全国的規模での銀行が輩出することになるのだが、その国法銀行は、当初は、依然として財務省証券を引き受けるだけの機能しか発揮できなかった。許可条件には、資本金の三分の一、ないしは、三万ドルの国債を準備として持つことが定められていたからである。この条件は、一九一三年まで維持され続けた。その後、この条件は廃止されたが、通貨監督局の監督に服することはずっと維持されてきた。

 この法律を強制すべく、チェースは、国法銀行と州法銀行との課税額で不公平な取り扱いをした。国法銀行に模様替えすれば、税を減額させるという強引な政策であった。課税額は発行銀行券の一〇%もの高額であった。それまでは一%だったのである。これにメイン(Maine)州のビージー銀行(Veazie Bank)がIR(内国歳入庁=Internal Revenue)の税務官のフェノ(Richard F. Fenno)を相手取って、一八六九年に訴訟を起こした。しかし、このときには、チェースは最高裁の裁判長(Chief Justice of the Supreme Court)を務めていて、連邦政府による州法銀行への課税も国法銀行への模様替えの催促も, ともに憲法違反にはならないとしてビージー銀行の訴えを却下した(http://www.encyclopedia.com/doc/1O51-VeazieBankvFenno.html)。

 一八七五年には、最高裁判所が決定的な判決を示した。一八六四年の国法銀行法は、セカンド・バンクといった国法銀行と同じ原理に基づいて成案されたものであり、憲法違反はいささかもない。憲法第一条第八項に基づいて国法銀行が認可されていることは、上述の一八一九年のマカロック対メリーランド(McCulloch v. Maryland)訴訟において認められたものである。同じ判決は、一八二四年のオブズボーン対バンク・オブ・ジ・ユナイテッド・ステイツ(Osborn v. Bank of the United States)でも出されている(http://www.encyclopedia.com/doc/1G2-3401803112.html)として、農民と工業者の国法銀行対ディーリング(Farmer's and Mechanics' National Bank v. Dearing)訴訟を除けたのである(http://supreme.justia.com/us/91/29/)。

   少なくとも、リンカーン時代には、中央銀行までの設立はできなかったが、国法銀行の法的地位を定着させたかに見えた。しかし、以後、論争は止むことなく、中央銀行、国法銀行、州法銀行との諍いは続いたのである。

 


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