消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

本山美彦 福井日記 13 消し去られた一揆の郷、豊原寺

2006-06-20 23:47:32 | 路(みち)(福井日記)

 写真は、越前の一向一揆の拠点であった豊原寺(とよはらじ)の旧跡に建っている碑である。

 

 私の住んでいる兼定島からまっすぐ北に県道110号線が走っている。この路を辿れば丸岡城につく。丸岡城の天守閣は、現存するものの中では、もっとも古い建築だとされている。元々は、五角形の広い内堀に囲まれた城郭であった。城郭の周囲に侍屋敷、内堀の外には寺院や民家が配置され、その外に河川を利用した外堀があった。天守閣は姫路城のような層塔式天守閣ではなく、望楼式天守閣という形のもので、通し柱がなく、一層が二階と三階を支えている。屋根瓦はすべて石瓦である。こうした瓦は珍しい。

 丸岡城の第6代城主、本多成重(なるしげ)の父が、本多重次(しげつぐ)である。重次は、戦場から奥さん宛に、「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」という日本一短い手紙を出して歴史上有名となった人である。「お仙」とは成重の幼名である。「馬肥やせ」とは常に戦に備えよという意味である。

 丸岡は、平成18年4月1日から市町村合併で坂井市になったが、丸岡町の時代から、この「日本一短い手紙」を町興しに利用してきた。町民から募集し、その中の楽しい手紙は丸岡城に展示され、本にもなっている。ちなみに、世界でもっとも短い手紙は、文豪、バルザックのものだと言われている。「?」としか記されていないバルザックからきた手紙に対して、版元も愉快な人で、「!」という返事を出した。バルザックが、「本は売れているか?」と問い合わせたのに対して、版元の返事は、「意外にも、売れていますよ!」というものであった。

 丸岡のほんのりとした優しい町の風景はなかなかのものである。私が毎朝、ジョギングに利用する、それはそれは美しいグリーンセンター、越前竹人形の館などは、是非、多くの人に訪れていただきたい情緒溢れる空間である。

  しかし、丸岡城の別名「霞ヶ城」というのはいただけない。もともと丸岡城は、越前一揆を平定した柴田勝家が造ったものである。勝家は甥の勝豊(かつとよ)を豊原に派遣した。豊原とは一向一揆の拠点、豊原寺があったところである。豊原寺は、丸岡城の北東4キロ、県道110号線が五味川を横切る橋(五味川橋)の東の山中にあった。200メートルほど山を登った所である。一揆の全盛時には、宿坊は300以上あったと言われている。平地からこの寺に通じる路を六本木坂という。

  柴田勝家は、この寺や宿坊を焼き払い、寺を再建させないために、豊原城を築き、甥の柴田勝豊(かつとよ)を住まわせたのが、天正3年(1575年)のことであった。翌年(天正4年、1576年)、丸岡城を建造して勝豊を豊原城から丸岡城に移したのである。

 天正3年の大虐殺にもかかわらず、一揆勢はしぶとく生き残り、たびたび丸岡城を攻撃した。しかし、伝説では、一揆勢が押し寄せる度に、城は深い霞で包まれ、一揆勢の攻撃の出鼻を挫いたとされている。そこで、この城は、霞ヶ城と呼ばれるようになったというのである。殲滅させられた一揆勢への憐憫どころか、一揆を押しのけた丸岡城を自慢した説明が、城の外に堂々と書かれていることは、丸岡の情緒にそぐわない。残念である。

 

 私は6月18日(日)に豊原寺跡を訪ねてみた。まだ6月というのに、すでに深い夏草が生い茂り、路が草で覆われていて、歩行が困難であった。熊と蛇におびえて、3キロほど山道を登って、やっと寺跡に辿りついた。ハイキング・コースになっているのに、路が草で埋まってしまっているということは、もはや町民が訪れることもないことを示す。石碑がポツンと建っているだけで、豊原寺の伝承や一揆の説明をした立て札はどこにもない。まさに「消された伝統」そのものである。私は思わず涙ぐんでしまった。この山中に何千人もの虐殺死体が放置されたはずである。せめて死者の魂を弔う施設が欲しいものである。歴史に残る豊原の一向一揆の事蹟が完全に消しさられている。哀しいことである。町の教育委員会に訴えたい。いまの素敵な丸岡の町を際だたせるためにも、若い人たちに、豊原一揆があったのだということを伝えていただきたい。

 あまりの悲しさに耐えきれず、それこそ一揆のメッカ、吉崎御坊を訪ねた。少しでも、一揆勢への鎮魂の思いを強くしたかったからである。しかし、ここでも大きなショックを受けた。権力側が如何に宗教を利用して民衆を操作してきたのかが如実に分かったからである。  そもそも、蓮如が吉崎御坊を建造したという説明は正しくない。とくに『広辞苑』の説明はかなりひどい。その「吉崎御坊」の説明を引用しよう。

 

 「越前国吉崎(現在の福井県坂井郡金津町吉崎)に創建された本願寺の別院。1471年(文明3)蓮如が建立し北陸化導の根拠地となった。のち破却され、江戸中期、東西の両本願寺の別院がそれぞれ開かれた」。

 

 そして、「別院」と「御坊」はそれぞれ、

 

 「本寺とは別に、それに準ずるものとして設けられた寺院。浄土真宗などで各地に設けられている。御坊(ごぼう)」

 

 「寺院または僧侶の敬称」

 

だそうである。私は、吉崎について、まだ確固たる知識をもっているわけではないので、間違っているかも分からないが、『広辞苑』の上記の説明には、一揆や徳川幕府の浄土真宗政策との関連がまったく触れられていないことに不満である

 まず、「御坊」の意味からして『広辞苑』は間違っているのではないだろうか。そもそも、「御坊」という単語は、江戸時代になって使われるようになったのではないだろうか。つまり、それは本来役所の別名であったのではないか。

 江戸幕府は周知のように、キリシタン禁圧の手段として領民の宗門を問いただした。キリシタンではないことを「宗門人別帳」に登録させたのである。この人別帳に記載されなければ無宿者とされ監視の対象になった。逆に言えば、領民はなんらかの形で仏教に帰属しなければならなくされたのである。享保時代(1716~1736年)以降、人別帳は6年ごとに作成されるようになった。江戸時代の戸籍制度とは、宗門が担っていたのである。宗門の中でも浄土真宗とくに、徳川家康が立てた東本願寺がその多くを束ねていた。

 「御坊」とは、本願寺側からすれば位の高い自己の直轄寺院であり、幕府側からすれば地域の末寺を束ねる役所の元締めだったのである。江戸時代以前には「御坊」という言葉は使われていなかった。したがって、蓮如が建てたのは「吉崎御坊」ではなく、吉崎道場だったのである。本願寺は、江戸時代、領民の相互監視機関、「5人組」を作り、まさに権力の走狗になっていた。御坊とは浄土真宗の格式の高いお寺であると同時に、役所を表す言葉だったのである。

 明治新政府は、権力を幕府から奪うや否や、仏教の大弾圧を開始した。1868年(慶応4年)の神仏分離令廃仏毀釈は、上で説明したように、仏教、とくに本願寺が江戸幕府の権力を支えていたことへの仕返しの意味があった。

 近代的戸籍制度ができたのは、やっと明治6年(1873年)になってからである。同時に、新政府は御坊から役所的仕事を剥奪した。それとともに、本願寺は、地方を束ねる御坊という格式の高い直轄寺の呼び名を「別院」としたのである。

 吉崎御坊を例に引くと、「御坊」時代は、事実上、東本願寺がこの地を支配していた。吉崎御坊とは、東本願寺の直轄寺だったのである。ところが、御坊が廃止されるや否や、東西の本願寺がそれぞれ「別院」を建て、周囲の多くの末寺に財産の寄進を迫ったのである。私たちはなにげなく、寺院に財産を寄進するという表現を多用するが、寄進とは強制収容であると言った方が正しいであろう。地元の有力者たちが中央の本山に寄進したのではなく、中央の本山が有力者の財産を強制的に召し上げたというのが真相であろう。おそらく、東西両本願寺が、旧御坊の財産切り取り争いを演じたはずである。これが、吉崎御坊には東西両本願寺の別院があるということの意味である。

 『広辞苑』は、吉崎御坊が破却された後に、江戸中期になって、別院ができたと説明しているが、これは完全な間違いである。まず、吉崎は小山である。周囲は北潟湖で囲まれ、海につながっている。吉崎は完全な軍事要塞だったのである。その山の頂上に道場があった。道場を囲んで宿坊が300もあった。一向一揆の総司令部がこの道場であった。一向一揆が鎮圧されてからは、道場や宿坊は焼き払われ、徳川幕府は山に道場を再建することを禁止した。そして、まだ残っていた麓の寺に、御坊として役所の仕事をさせたのである。明治に入り、そうした御坊が廃止された後に東西の別院ができたのである。したがって、『広辞苑』の言うように、江戸時代の中期に別院が建てられてというのは間違いである。


 私がショックを受けたのは、そうした間違いに対してではない。道場は廃止されたが、御坊となった本願寺の寺は大繁盛した。信じられないことに、旅の案内図がそこでは売られていた。そこでは、日本各地の名所旧跡が説明され、宿場間の距離が記載されている。しかも、馬を雇うときの費用(それを駄賃という)まで書かれている。

 それだけではない。寺が勧める宿屋まで紹介されているのである。おそらく、宿屋は寺にリベートを払っていたのであろう。まだある。北潟湖は天然の良港である。この港は物資の集散地であった。そして、位置が御坊の眼前に立てられていたのである。当然、寺はなんらかの名目で金を取っていたのであろう。

 徳川幕府は、織田信長とは正反対に、浄土真宗を人民統治の手段として育成するようになった。本願寺の内紛に乗じて、それまでの本願寺の東の烏丸に東本願寺を建てて、相続争いに敗れた大谷家の長男、教如を1602年(慶長7年)法主の座に座らせたのである。そして、いつしか、堀川にある本願寺は西本願寺と呼ばれるようになった。

 本願寺は、親鸞の娘、覚信尼が1272年(文永9年)東山大谷の御影堂祖廟を起源としている。そして、1591年(天正19年)豊臣秀吉が寄進した現在の地に移転したものである。東西本願寺は、全国で金儲けをした。幕府がそれを支えていた。本願寺にカネが回るようにすることで、幕府は一向一揆の再来を防ぐと同時に、領民支配の強力な武器に仕立て上げることに成功したのである。宗教が権力のもっとも忠実な僕になることは、洋の東西、そして古今を問わない共通項である。

 私が吉崎でショックを受けたのは、そした金儲けの証拠の品々が、現地で飾られていたことである。考えて見れば、不思議でもなんでもないことなのに、莫大なカネが動いていたことの証拠品を見るのは、辛いことであった。一揆を主導した北陸浄土真宗の本家の本願寺が、一転して、権力と手を結び、集金にいそしんでいたのである。

 吉崎にはさらに異様な光景がある。別院の本堂の前、別院の境内の寺院の一つが、土産物屋なのである。寺院が土産物屋を経営しているのではない。寺院の中に商人が住み着いているのである。東本願寺は、彼らを追い出したいのだが、地上権の発生により、追い出せないのだということを境内の寺院の一つの願慶寺の住職から聞いた。

 願慶寺の秘宝に「嫁威肉附面」(よめおどし・にくつきのめん)という鬼の面がある。その縁起を紹介しておきたい。

 

 日山城(ひやまじょう)の城主、日山治部右衛門(ひやま・じぶうえもん)の家臣に吉田源之進(よしだ・げんのしん)という武士がいた。日山城が没落したことによっって、この武士は吉崎近くの十楽村(じゅうらくむら)で百姓になった。この子孫に与三次(よさじ)という人がいたのであるが、本人と二人の子息が病死した。夫の命日に清(きよ)という名の妻が、文明3年(1471年)に、吉崎に滞在していた蓮如の説法を聞き、たちまち信心を深くした。毎夜、説教を聴きに吉崎に詣でる嫁を姑が憎み、鬼の面をかぶって、夜道を帰る嫁を脅した。清は、食らわば食らえ、仏罰があたるぞと、言い捨てて吉崎に参った。鬼面による威しの効果がなかったことに落胆した姑が、家に帰って、面を取ろうとしたが、取れなくなってしまった。それを吉崎から帰ってきた清が見た。泣いて詫びる姑に対して、清は南無阿弥陀仏と唱えなさいと言った。姑が一言念仏を唱えると鬼の面はただちに取れた。感謝してこの面を清は蓮如に差し出すと、蓮如は後々の言い伝えをせよと、面を願慶寺の開基(かいき)、祐念坊霊空に託した。

 

 これが縁起物語である。文明3年5月、蓮如がこの地に滞在したとき、和田重兵衛が説教を聴いて直ちに信心を強め、一族30人を率いて熱心な信者になった。そして、寺を開くことを許され、願慶寺の名を蓮如から賜った。この寺は吉崎で最古の寺である。現在の住職はその末裔であり、和田姓を名乗られている。


本山美彦 福井日記 12 永正の越前一向一揆が殲滅された九頭竜川畔

2006-06-16 00:30:55 | 路(みち)(福井日記)
福井県立大学の兼定島キャンパス(福井キャンパス)は、かつて、越前の一向一揆朝倉勢によって壊滅させられた古戦場である。残念ながら、キャンパスの中にはそうした遺跡を偲ぶものはない。中ノ郷から九頭竜川を渡って朝倉勢が上陸し、迎え撃つ一揆勢が虐殺された地点が、いま私がパソコンを叩いているこの場所なのである。

 『朝倉始末記』によると、加賀からの応援が30万人と聞いていたが、実際に逃亡したのは10万人であったと書かれている。九頭竜川はそれこそ20万人以上の首が跳ねられた血の川になっていた。写真は、その悲劇を悼んだ首塚である。

 日野富子。希代の悪女とされ、室町幕府第8代将軍、足利義政(銀閣寺建立)の正室。義政の生母、日野重子は富子の大叔母である。16歳で嫁ぐ(1455年)。1959年第一子が生まれるがその日の内に死亡。恨んだ富子は義政の乳母と義政の4人の側室を追放。男児に恵まれないと思った義政が実弟の義尋を還俗させ、細川勝元を後見として足利義視(よしみ)と改名させて、次期将軍に指名。それに反発した富子は、その翌年(1466年)義尚を出産。義政の子ではなく、後土御門天皇の子と噂される。次期将軍職を巡って、義視を廃し、義尚を富子は推し(第9代)、斯波、山名を巻き込んだ争いになる。これが応仁の乱である。しかし、義尚が酒色に溺れる無能者であると分かった瞬間に、富子は義視と自分の妹との間に生まれた義尚と同年の足利義材(よしき)を将軍に擁立。1489年、義尚が六角高頼を攻めている最中に、深酒が祟って25歳で没し、義政も没した。1490年、義材が将軍になる(第10代)。しかし、義材は父の遺志を継いで富子に反旗を翻した。富子は1493年、細川政元と組んで、反乱。義材を廃し、義政の甥、足利政知の子、義澄を第11代将軍につけた(明応の政変)。じつに、3代もの将軍を富子は女手一つで誕生させたのである。しかし、富子は1496年57歳で世を去る。

 越前との関わりは、義材から始まる。明応の変のとき、朝倉勢は、細川と協力して義材を廃することに協力した。義材は畠山一族の領地、越中に逃れ、「越中公方」と呼ばれるようになった。捲土重来を期した義材は、越前、朝倉の一乗谷の外に住み、今度は、越前公方と称されるようになった。約1年間のことである。朝倉は行動を起こさなかった。やむなく、義材は、六角攻めで功労のあった周防の大内義興を頼って周防に逃れた。

 そうこうするうちに、細川家では、政元の気分屋的性格が災いして、家督争いが生じた。細川政元は、そうした内紛を煽ったとして諸国の有力者たちの足下に火を放った。これが一向一揆である。一向一揆が諸国の半政元の有力者たちを抹殺しようとしたのである。しかも、それは、本願寺第8代管長蓮如の子供の第9代管長実如(じつにょ)の命による蜂起であった。

 管領、細川政元と本願寺は親密関係にあり(『実隆公記』等にその記述がある)、政元の強い要請により本願寺が反細川派である朝倉氏を含む北陸諸大名を攻撃するようになったのである。永正3年(1506年)3月、加賀一門の本泉寺蓮悟は越中の長尾勢・能登の畠山勢打倒の檄文を発し、6月になるとその騒乱が越前に飛び火するようになった。

 室町時代、足利将軍の威光が輝いていた頃、斯波一族は越前の守護であり、将軍と同格の扱いを受けていた。しかし、斯波一族は室町幕府の要職を歴任していたので、ほとんど京都にとどまり、守護職は部下の甲斐一族が守護代を任せられていた。その甲斐の配下が朝倉一族だった。三つどもえの争いの末、朝倉は越前守護代の地位を得て、甲斐を加賀に追放することに成功した。しかし、そうした修羅場の中で、朝倉は細川政元に憎まれることになった。

 そして1506年7月、加賀、越中、能登の一向宗門徒が、越前で起こった一向一揆に加勢するため越前甲斐氏の浪人衆らと合流し越前へと侵攻を開始した。
 越前の本覚寺、超勝寺などの大寺がこれに加わった。これを向かい討つため宗滴を総大将とする朝倉・他門徒の連合軍が九頭竜川一帯で対峙した。これが永正三年の一向一揆(九頭竜川の戦い)である。この時一向宗勢力は30万を上回る勢力となっていたと言われ、対する朝倉軍は1万1000ほどであった。

 一揆の軍団は、加越国境を越え、坂井郡から越の国に入り、兵庫(坂井)、長崎(丸岡)にひとまず結集し、一乗谷に攻め入るべく、私の住んでいる五領が島に布陣した。
 これに対して朝倉勢は、敦賀郡司の朝倉教景(宗滴)を総大将として迎撃態勢を取った。宗滴は、敦賀から一乗谷に向かう途中の本願寺派の寺院の大塩の円宮寺、石田の西光寺、久松の照厳寺、荒川の興行寺などの大寺の住職を人質として捕らえて、後方の攪乱を防止したと言われている。

 朝倉勢は、九頭竜川を防御戦と定め、本陣を朝倉か移動を下った中ノ郷に置き、ここに3000人、その東の鳴鹿表に3300人、高木口に2800人、黒丸に2000人を配置した。そして、本願寺派と対立していた高田派や三門徒派の3000人も松本口で朝倉に荷担していた。

 一揆側は、鳴鹿表に超勝寺と本向寺を大将として加賀河北郡と越前勢5万5000人、中ノ郷に和田本覚寺を大将とする加賀石川郡と越前勢10万8000人、高木口には越中瑞泉寺・安養寺を大将に越中の一揆勢、そして越前甲斐牢人8万8000、中角ノ渡しには越前勢5万7000人が陣取った。

 朝倉勢1万1000人に対して、一揆郡は30万8300人と数の上では圧倒的な優位さを示していた。
 九頭竜川の流れがあまりにも速いので、両軍は長くにらみ合っていたが、1506年(永正3年)8月5日の早朝、最下流の中角の渡しで合戦の火蓋が切られた。一揆勢の方が渡河したのである。いきなり多数の斬り合いがあったわけではない。両軍の大将がまず一騎打ちするという礼儀を取った。まず、一揆方大将の河合藤三郎、朝倉方大将の山崎某。一揆方が首を切られる。そして、二番手が一揆方山本円正入道、朝倉方中村五郎右衛門。これも一揆方が首を切られる。その後、乱戦となったが、一揆勢は総崩れになった。

 高木口でも大将同士の一揆討ちでこれは一揆方が勝った。
 中ノ郷の本陣では、朝倉勢が8月6日、一気に渡河した。一揆勢は総崩れであった。
 勝利後、朝倉は吉崎をはじめ、和田本覚寺、藤島超勝寺、久松照厳寺、荒川興行寺、宇坂本向寺、等々、越前の本願寺派の寺のことごとくを廃棄し、坊主と門戸の財産を没収した。

 その後、何度も一揆側は朝倉を宗敵として攻めた。その都度、一揆側は撥ねつけられた。両者が和睦するのは戦国末期、織田信長を共通の敵とするようになってからである。両者はともに信長勢によって討ち取られてしまう。

 石川県白山市出合町甲に、鳥越一向一揆歴史館がある鳥越の地では、毎年8月中旬に一向一揆祭りを実施している。権力への反抗のエネルギーを賞賛して、いまでもそうした祭りを行う鳥越の人々には心から頭が下がる。

 わが大学の学生たちにもそうした思いが伝わるといいのだが。それにしても、純粋な心の持ち主たちが、邪な権力欲に燃える俗物の思惑に乗せられてしまう。いつの時代にも視られる痛々しい現実。せめて、あの世には天国があって、こうした権力亡者たちの犠牲になった人たちの清純な心がさらに美しく清く輝かんことを涙して祈るのみである。本稿は、国土交通省近畿整備局福井工事事務所『九頭竜川流域誌』や、福井商工会議所元事務局長奥山秀範氏「越前・若狭・歴史回廊」を参照させていただいている。

 申し訳ない。一句。
邪な(よこしまな) 俗(ぞく)に破れし 魂の 
いやます輝き 暑き日ぞ知る

本山美彦 福井日記 11 福井の条里制

2006-06-15 12:11:04 | 路(みち)(福井日記)
京都の碁盤の眼の町を見慣れた者には、条里制とは京都的町、あるいは、せいぜい長安的街路のことと錯覚しがちである。そうではない。条里制とは班田制の基本的計算単位の決まりであった。645年の大化の改新以後、条里制に従う耕地整理が全国的規模で行われた。つまり、条里制が斑田制の基礎を形成したのである。

 大化の改新の詔には、「およそ田は、長さ30歩、広さ12歩となし、10段を町となせ」とある。ここで、「歩」とは、ほぼ「間」(けん)と等しい。つまり、1歩とは1間(180センチ)のことである。「広さ」とは幅のことを指す。つまり、30歩×12歩=360歩が1枚の田となり、これを1段という。1段とは約200平米弱。10段で1町(ちょう)、つまり、2000平米が1町なのである。田は、原則、1段の大きさとし、それを10枚(筆)併せて1町とする。そして、10段は、正方形の町になるように配置された。1町の周囲には畦畔(けいはん=あぜ)と溝渠(こうきょ=みぞ)を巡らし、税収の計算を容易にしたのである。この町が「坊」とも「坪」とも呼ばれた。

 行政単位としては、50戸を1里ないしは1郷とした。原則、里を集合させて、大行政区とした。上から条、条に平行に沿って里があり、里の中に坪があった。それは、きわめて分かりやすい田畑の位置と広さの表現であった。

 ここ福井でも、鯖江市中野町付近の条里制の土地割が有名である。
 越の国境は、律令制の成立とともに定められたと言われている。『日本書紀』の持統天皇6年(692年)には、すでに「越前国司」という表現が出てくる。当時は、能登(分離は718年)、加賀(分離は823年)も越前の国に属していた。

 律令時代の国府は、武生の高森に置かれていたらしい。武生は良港として知られる三国と敦賀の中間に位置していたので、律令国家としての統治上重要な地だったのであろう。
 斑田収受の法は、公地公民制を基本とすると教科書的には言われているが、現実問題としてそうしたことはありえない。中央集権とは言え、当時の国家機構と官僚が、税のすべてを単独で徴収などできるものではない。必ず、農民と接触する中間組織を利用したはずである。

 律令制時代の越前は、そうした中間組織は東大寺であった。東大寺は、自らの僧や史生を越前に派遣して、この地に荘園を築いてきた。有力者から寄進を受けたり、用地買収に依存することもあったが、治水事業を行うことによって新規に開墾した田畑を東大寺は荘園の基調にしていた。

 東大寺の荘園は、大仏造営費用を賄うために設立されたと公式にはされている。聖武天応が東大寺大仏の造立を発願したのが、天平15年(743年)である。その6年後の天平勝宝元年(749年)の閏5月、越前に荘園の占定に東大寺の僧たちがやってきた。越前国府はすでに開拓されていたが、坂井郡や足羽郡にはまだ未開拓地が一杯あったので、ここを占定めたものと思われる。そのさい、大規模な用水路を開削した。荘園の産物は、九頭竜川を船で三国湊まで運ばれ、海路を敦賀、陸路を近江の塩津、海津まで運ばれ、再度船で、琵琶湖、宇治川、木津川を平城まで運ばれた。

 開墾によって設定された代表的な荘園は、坂井郡桑原荘足羽郡道守荘丹生郡椿原荘などであった。東大寺は農民に土地を貸与し、税を取り、一部分を国家に納めていた。国家は、護国の役割を東大寺に与えるとともに、税収の確保をも東大寺に委ねていたのである。信仰のみによって仏教があがめられたのではなく、国家経営の先兵として国教としての仏教が、権力によって使われていたのである。

 東大寺の荘園は、その多くが機内ではなく、遠い、近江、越前、越中にあった。正倉院の開田図の多くが、越前関連のものであることからもそうしたことが想像される。越前の豊かさが、大和朝廷を支えていたと言えなくもない。

 10世紀に入ると、耕作請負の農民の確保が難しく、律令国家権力の衰退によって、東大寺は、越前の荘園を放棄していく。その後、越前の経営に乗り出してくるのが春日大社であった。東大寺は原野を開墾して荘園にしていったが、春日大社はもっぱら、有力者の寄進に頼るというように、基本的な経営のあり方が異なっていた(依拠した資料は、『図説・福井県史』)。

 平安時代は、こと春日大社に関しては、神社の下に仏教寺院が立つという、現象があった。この時代になると、東大寺のような原野を開墾する墾田型荘園が姿を消し、その土地の有力者が開墾した土地を教徒の貴族や有力自社に寄進し、その庇護の下に荘園の管理者である荘官にしてもらうという寄進型荘園に移行した。
 春日大社は興福寺によって鎮守されていた。この興福寺に田畑が寄進されたのである。興福寺春日大社に寄進された大荘園が、越前で、相次いで設立された。春日大社の著名な荘園は、坂井郡河口荘(現在の金津・芦原・坂井市)、坪江荘(現在の金津、丸岡町)である。醍醐寺は大野郡の牛ケ原荘(現在の大野市)、延暦寺は吉田郡の藤島荘(現在の福井市)、藤原摂家は足羽郡の方上荘(現在の鯖江市)を保有していた(『にっぽん再発見・福井県』同朋社、76ページ)。

 河口荘は、その名の通り、九頭竜川と竹田側川の河口付近に位置していた。白河天皇が、康和2年(1100年)に興福寺に寄進したもので、一切経料所としての意味をもっていた。牛ケ原荘は、東大寺の僧、忠範から醍醐寺に寄進されたものである。国衙との領地争いを繰り返した結果、現在の大野市の北半分という広大な面積をもつ荘園であった。興福寺に寄進された土地は、北国武士団の力によるものである。平安時代には、源頼光と並び称されていた藤原利仁を頭とするという武士集団が住んでいた。彼らが一族の繁栄を願って白河、後深草上皇の帰依する春日大社の鎮守である興福寺に、競って土地を寄進したのである(『福井県の歴史』山川出版社)(68-69ページ)。

 ここには、仏教が民衆の心のみならず、財産をも巻き上げる役割をはたしていたこと、しかし、天皇家の権威の前にして、仏教は天皇家の神社の鎮守の地位に甘んじていたことが示されている。

本山美彦 福井日記 10 忘れ去られた民―木師師と漆掻き人―そして蛍再考

2006-06-14 23:12:08 | 路(みち)(福井日記)
福井県の面積の75%は山林である。しかし、福井県は林業県ではない。これは、かつて木炭の大産地が共通に辿った運命である。岩手県、島根県などは、クヌギなどを伐採して木炭を作っていたが、炭材を伐採した後に植樹することはなかった。そのまま放置しておけば、30年後にはまた新しく炭材が成長するからである。炭焼きは昭和30年代の石油革命によって没落してしまう。それとともに、100年単位で山林を管理しなければならない林業は育たず終いであった。

 明治までは木地師というのもいた。ブナやトチの木を求めて全国の山をくまなく歩き、いい素材が見つかると移動で携えてきた轆轤(ロクロ)を回して、碗、木鉢、木盆などを制作し、それを売って生計をたてていたのである。彼らはグループを組んで、全国を渡り歩いていた。彼らは江戸幕府から各種税を免除され、商売と移動の自由が与えられていた。
 しかし、明治期に新たな土地所有制度ができて、自由な木材利用の特権を木地師は奪われてしまった。

 越前の谷には、こうした木地師の末裔が集落を作っている。スキー場で有名な大野市の六呂師はその名残である。
 名品の越前鎌を全国に広めるのに役立ったのが、木地師であった。木地師とともに、漆を全国の農民から集めて回る漆掻き人も越前の優秀な刃物を全国に普及させた功労者たちである。全国の漆掻き人の8、9割は越前人であった。彼らは東北、中部を回って漆を集めていた。彼らは漆を買うとき、支払い代金の一部として越前鎌を、売ってくれる人に渡していた。越前鎌は各地で評判を取った。その後は、絹織物商人たちも、この鎌の普及に貢献した。

 そもそも、福井では刃物以外に鋳物も名品であった。越前は、非常に古くから鋳物産地を抱えていた。私が下宿している松岡は、そのうちで、もっとも古い鋳物生産地である。松岡の鋳物師たちは、椚(クヌギ)、窪(クボ)、志比堺(シヒサカイ)に集中して、鍋や釜を作っていた。椚の中根には、「なべ売り坂」という坂道がいまでも残っている。福井では、吉田郡芝原の松岡、今立郡の五分市、南条郡の島村、同じく南条郡の北杣(そま)山村、敦賀郡の松原、遠敷郡の金屋村の鋳物師たちが有名であった。

 嶺北の瓦も趣がある。こちらの屋根瓦は青みを帯びた暗灰色で、「銀鼠瓦」と呼ばれている。耐寒性に優れた堅牢な瓦として東北、北陸、北海道の民家で重宝がられていた。特に金津、武生、丹生が大産地であった。これらが、江戸後期には、三国湊の商人たちによって北に運ばれていたのである。

 漆、焼き物、和紙、刃物、すべてが継体天皇によって奨励されたと言い伝えられている。越前焼は、日本六大古窯の一つである。男性的な常滑(愛知)、微妙な肌合いの備前(岡山)、優雅な信楽(滋賀)、土の臭いの瀬戸(愛知)、素朴な丹波(兵庫)と並び、もっとも地味に生活用焼き物を作り続けてきたのが備前であった。
 いずれも、大陸の交流を伺えるものである。

 ここまで書いたとき、時計は午後8時を回っていた。6月13日(火)は、気温と湿度がともに高く、クーラーを使わない私にはいささか堪えた。たまらずに、宿舎の前の農道を散歩した。水田を渡ってくる東風が心地よかった。私は、兼定島という川の中州に住んでいる。九頭竜川は東から西に向かって流れ、東が岐阜につながる山地、西が越前海岸である。風は、教科書通りに吹く。内陸が冷たい朝と夜は東風、内陸が熱せられる昼は西風である。神戸のような凪がないのが不思議である。瞬時に西風から東風に変わる。しかも、そよ風でなく強風である。おかげでクーラーの使用をけちられている研究室(まだクーラーの電源は止められている)も東西に風の通り口があるので、クーラーなしでも結構涼しい。

 それはともかく、心地よい、しかし、神戸とは異なる、いささか強い東風に吹かれながら、ゆっくりと歩いていると、なんと幅50センチ程度の狭い農業用水、しかも排水路に、蛍が乱舞している。赴任挨拶にお伺いした時に、学長の祖田修先生が幻想的な蛍の乱舞が兼定島の宿舎では見られますよと、私にお話になってくれた。蛍の飛び交う有名な場所は、この日記で紹介したように、いちはやく見つけ出したが、宿舎からはいあささか遠く、ジョギングで30分の距離の所であった。

 だが、なんということ。堂々と流れる農業用水ではなく、地表よりはるかに深い所にある、ちょろちょろと流れる排水路、しかも、宿舎方30メートルの近さで、蛍が一直線に、文字通り飛び交う。水路の幅が小さいので、まさに密集して光っている。涙が出そうなほどの幻想的な光景に感激した。この高温多湿の日に一斉に成虫になったのだろう。早速、携帯で同僚の鄭海東氏(京大・本山ゼミOB)を呼び出し、2人してうっとりと眺めた。先生に乗り込まれて、いささか窮屈な思いをしているだろうと、私は私なりに気を遣っていたのだが、彼も感激してくれた。少しばかりは恩返しができたのかも知れない。

 そして、本日(14日(水))大学の食堂で、学長と蛍談義をひととき楽しんだ。子供の笑顔を魅せてくれた。うれしかった。
 蛍の生育に適した水の流速は、秒速30センチそこそこであるとされている。地表よりかなり低い所を流れる低水路に、砂や石、しかも、形の異なる巨石や砂利を配置して緩やかな勾配が川のあちこちに作られなければならない。蛇行する水路も必要になる。砂、石を組み合わせた瀬や淵も必要である。川岸も蛍の幼虫が入り込みやすい緩やかな勾配にしなければならない。藻が付着しやすいように、木材をも上手に投入しなければならない。蛍は、ヨモギ、セリ、カンスゲ、ヤナギといった植物を好む。そうした植栽をも実現しなければならない。蛍の乱舞する川とは、単調な形ではなく、微妙な複雑さが保証されていなければならないのである。

 福井県は、足羽川と一乗谷川の合流点から一乗谷朝倉遺跡の上城戸橋までの2.3キロを、「ホタルの乱舞する川」にすべく改修中であるという。そうした複雑な工事をしなければならない蛍の生息場所が、しかも、農薬不安のある排水路で、自然にできたことに、私は本当に興奮している。そして、一句。

お帰りと 天川(あまかわ)作った やさしさを わが窓辺にも 運べや 蛍
 

本山美彦 福井日記 09 ジャガイモの花

2006-06-10 23:42:30 | 花(福井日記)
ジャガイモの花が咲いた。収穫直前に花を咲かすのがジャガイモの特徴である。
 いま花が咲いたということは、このジャガイモは今春4月初旬に植え付けられたものである。まず、堆肥を耕起した畑にまぶし、2日後にイモを植える。その際、10cmほど離して鶏糞を並べる。2週間ほどして芽が出る。

 5月初め、草取りを兼ねて、土を耕し、畝を揃える。中肥を施す。さらに、5月中頃、2回目の中耕培土(土寄せ)を行う。かなり、土の高さを増すことが必要となる。土のかけ方が少ないとイモが土の外に出て、緑色になってしまう。

 そして、いま花が咲いた。葉っぱも大きくなり、畝間が見えなくなっている。ジャガイモは茎のお化けだと言われほど、立派な茎になる。いまから、あれよあれよと言ってる間に、茎が枯れて倒れてくる。その後、梅雨の晴れ間を見て、収穫が始まるのである。7月初めに収穫されるであろう。ちなみに、先日紹介した六条大麦は黄ばんだ麦秋風景を示した後、きれいさっぱりと刈り取られてしまった。トラクターであっと言う間であった。

 ジャガイモをニドイモ(2度薯)、サンドイモ(3度薯)というのは、年間に栽培される回数が、2度、3度あるという意味である。ゴショウイモ(5升薯)、ハッショウイモ(8升薯)というのは、1株から採れる量を示すからである。
 ニドイモという言葉は、東北と近畿で使用されている。馬鈴薯とかゴショウイモは北海道、ジャガイモは関東、中部で使われている。

 だいたい、官庁とか農協は、「ばれいしょ」と平かなで表記されることが多く、研究者は「ジャガイモ」とカタカナで表記し、北海道の人々は単に「イモ」と呼ぶことが多い。国木田独歩は『牛肉と馬鈴薯』と書き、「じゃがいも」と読ませた。土の中では「ばれいしょ」と呼ばれ、スーパーの店頭では、「ジャガイモ」、主婦は「おジャガ」として持ち帰り、料理されると「ポテト」に変身する。

 ただし、漢字で馬鈴薯として表記することは感心しない。蝦夷という蔑称を北海道という優雅な名前に改めさせた伊勢の探検家、松浦武四郎ですら、1856年(安政3年)の『武四郎廻浦日誌』で「馬鈴薯」という単語を使っている。ただし、松浦は、福島村の遊女がそう呼ばれていると紹介しただけである。 ジャガイモを馬鈴薯と名付けたのは、幕末の薬用植物学者小野蘭山(おのらんざん)らしい。中国の芋で、馬の首につける数個の鈴のような姿で土中にできる芋のようなものがあり、中国ではこれを馬鈴薯と言っていたから、これと同種だと勘違いしたのである。しかし、これは豆科のものであり、ジャガイモとはまったく別種のものである。そこで、植物分類学者の牧野富太郎博士は「形が似ていたため思い違いをしたのであろう」と指摘し、馬鈴薯の使用を止めるように提唱した。

 ジャガイモの原産地は、南米ペルーとボリビアにまたがる高原地帯のチチカカ湖周辺と言われている。この付近では6世紀より以前から栽培され、インカ文明のエネルギー源になったと考えられている。

 ヨーロッパに伝播したのは、スペインの探検家ピサロによるインカ帝国征服の1532年前後ではないかと言われている。英国には1586年前後に伝えられた。粗末な土地でも収穫できることがわかり、プロシア皇帝が奨励してドイツ人が食用にし始めた。18世紀半ば、凶作に見舞われたフランスで、薬学者パルマンティエ男爵は、フランス国王ルイ16世にジャガイモの有効性を訴えた。ドイツの国力がジャガイモによって増したこともあり、ルイ16世はパルマンティエ男爵の進言に従って、ジャガイモ栽培の普及に乗り出した。
マンティエ男爵の名を取った『パルマンティエ風』とつけば、ジャガイモを使ったフランス料理のことを言う。

 日本にジャガイモが伝来したのは慶長三年(1598)とも、慶長八年(1603)とも言われている。それが、オランダ経由できたものか、それとも、ポリメシアから北上してきたものかは確定されていない。しかし、長崎貿易では、オランダ人によってジャワ島のジャガタラ(またはジャガトラ:インドネシアの首都ジャカルタの旧名)から長崎に持ち込まれたので、ジャガタラ芋と呼ばれ、転じてジャガイモと言われるようになった。

 ジャガイモじゃ、日本でも数々の飢饉の度に、食料としての重要性が知られていき、江戸末期にはすでに全国的に広まっていた。
 北海道産ジャガイモの雄「男爵イモ」は、明治40年(1907)頃、函館ドックの社長で農場主だった川田龍吉男爵がアイルランド産のアイリッシュ・コブラーを輸入して改良したとして「男爵イモ」と命名されたものである。

 ジャガイモの花の鑑賞時間帯は朝である。午後になると花弁がしぼんでくるからである。花の数は、1房につき、通常数個である。花房の数は早生種では茎の数と等しいが、晩生種だと、第1花房だけでなく、その上に2段、3段にも咲く。
 開花初日の花弁は外への反りが強く、2、3日目のものは反りがしだいに消え、大きく見える。この期の雌しべ(花の中央の黄緑の柱)は粘っこい宝石のような液をだしていて、花粉が付きやすい状態になっている。
 基調は白、そして、紫。しかし、黄色は珍しい。4弁の花弁もクローバー以上に珍しい。

 福井県の煎餅に越前海鮮煎餅という非常に美味なものがある。無味無臭のジャガイモ澱粉を生地に、甘えび、かに、ほたるいか、小鯛、わたりがに、じゃこ、岩のり、わかめ、あさり、うにの本物が姿のまま入っている煎餅である。素材の海の幸の旨味風味をそのまま焼き上げたもので、塩味でさっぱりした味。各海鮮物の形と香りと味わいがそのまま出ていておいしい。ほたるイカがそのまま煎餅にくっ付いているなんて嬉しくなる。

本山美彦 福井日記 08 血液としての用水

2006-06-09 00:06:45 | 水(福井日記)
 取水の事情を知らない都市の人間は、洪水を防ぐには、堰を頑丈に作ればいいではないかと、つい簡単に考えてしまう。しかし、事実はそうではない。暴れ川のもっとも基本となる堰は、大堰と呼ばれている。これを頑丈に作って、下流への水の氾濫を防ぐことができれば、洪水を制御できると思い勝ちだが、ことは、そう簡単にはいかない。大堰から引かれる大幹線用水の下流には、分水すべく、もれ水を引く二番手、三番手の堰が控えている。大堰、あるいは、大堰から直接取水する大幹線用水を完璧に作ってしまえば、下流のもれ水をたよりにする地域は干上がってしまう。しかたなく、洪水のために壊れることを覚悟した華奢な堰堤が、意図して設計されなければならなかったのである。

 それでも、このもれ水に頼るという仕組みが、過去の農村の紛争の種であった。6月7日の日記でも説明したが、宝暦元年(寛延4年ともいう、1751年、正確な年次は確定されていない)、御陵用水を使っている五領ヶ島(御陵用水)の農民が、十郷大堰を切り崩すという事件を起こした。毎年8月、大堰の一部を切り落とすという従来の慣例に反し、この年、そのような堰の切り落としがなかったからである。しかし、十郷用水側の118か村はこれに怒り、江戸評定所に提訴、裁判は5年もかかった。

 農民のこうした苦境に拍車をかけたのが、城下町に引き込む上水路であった。十郷大堰の左岸下流に取水口をもつ芝原用水は、「御上水」(ごじょうすい)という別名をもち、福井藩53万石の城下町の命綱であった。

 徳川家康の次男の結城秀康が越前藩の初代藩主になった(1601年)。彼が、城下町の飲料水確保のために、芝原の上水を開削した。これは、江戸の神田上水(1590年)と並ぶ、日本でもっとも古い大水道ということになっている。

 芝原用水は、十郷大堰の左岸(河口に向かって左)4キロメートル下流に取水口があり、用水はすぐ外輪(そとわ)用水と内輪(うちわ)用水に分水される。外輪用水は、城下町北部から九頭竜川左岸(九頭竜川は東西に流れていて、城下町は、九頭竜川の南部に位置している)にかけての農地に引き込まれ内輪用水は城下町の上水道と堀用水になる。

 この芝原用水には、「分水量長御定杭」といわれる目印が立てられている。取水口から分水される地点(志比口の荒橋上流)に立てられたこの目印は、流量を計るもので、水量が下がると農業用水への放流は止められ、飲料水のみに回されたのである。
 芝原用水の管理は、家老直属の上水奉行が担当していた。理由なく水に触れたり、雨水の外部からの流入も禁じられていた。大雨の時には、村の長が流入を防ぐという義務を負っていた。

 用水は飲料水だけに使われるのではない。洗濯、風呂、掃除、防火、融雪、産業用と種々の用途ごとに区分されていた。そのすべてが上水奉行を含む水奉行が管理していた。そうした用水の区分は幕末で95か所あったとされている。

 芝原用水のもれ水を利用する桜用水では、水面幅で7対3の分水をしていた。7が上水、3が農業用水である。流量が低下すれば、農業用水にはまったく吐き出されない構造になっていた。弘化2年(1845年)、渇水に怒った桜用水に頼る4つの村(現在の丸山町)が、岩を投げ込み、上水そのものの取水を妨害した。藩は村に修復を求めたが、直後、洪水が起こり、用水自体が破壊されてしまった。再建にあたって、藩は、農民の労働奉仕に頼らざるをえず、農民の主張を認めてしまった。

 城下町を作るということは、水路を造ることと同義であったのである。それは、洪水との戦いでもあり、分水紛争の調停でもあった。

 九頭竜川の氾濫で大堰を大修復しなければならなかった回数は、享保7年(1722年)から安政2年(1855年)の133年間で14回という記録が残っている。

 寛政2年(1798年)の洪水では、大堰修復後わずか2日後に大雨で再び堰が壊されてしまった。天保13年(1842年)の復旧工事は、延べ18万8000人の農民と2万3000本弱の竹、1万7000本強の杭、1万8000本の雑木、250束の粗朶(そだ)、3千400貫の藤(とう)、100枚の莚(むしろ)を投じた大工事であった。

 当時の十郷大堰は、三角錐に組んだ櫓(やぐら)に粗朶を置くという粗末なものであった。それでも、この十郷大堰は千年の寿命を保ってきたのである。

 農業用水は、人間の血管に似ている。堰は心臓、幹線水路は動脈、分水路は毛細血管、そして、排水路は静脈なのである。用水は血の一滴である。自然の位置エネルギーだけを頼りに引き込み、平野をくまなく潤す壮大な水路網。これこそ、わが先人たちが心血を注いで作り上げてきた手作りの資産である。

 水田は、ダムに劣らない洪水調整機能、地下水の涵養、土壌の殺菌、脱窒効果、空気を冷やす、等々のすばらしい効能をもっている。にもかかわらず、高いコメを食べさせられる日本の消費者は可哀想だ、コメを自由化すればはるかに高い消費者余剰を得られるはずだとする新古典派経済学者は、のっぺりとした顔でとくとくと経済的合理性の必要性を説き回る。

 流血を繰り返して千年、やっと作り上げた精密な社会秩序は、茶碗一杯のご飯の価格100円を30円にするというつまらない消費者余剰のために、一瞬にして崩壊させられるべきものではない。

 降れば洪水、照れば渇水という急峻な国土、暴れ馬のアジア・モンスーンをもつこの国土では、水田、水路作りが、社会秩序の真の基盤であった。この歴史の重みを捨てるべきではない。

 明治初期、日本政府に招かれたオランダ人の技師、ファン・ドールンは、日本の川を見て、これは川でなく滝だとうめいたという。ゆったりと流れる川が当たり前のヨーロッパに対して、日本の川は、とくに日本海側の川は3千メートル級の峻厳な山から一気に海にまで駆け下る。九頭竜川は717メートルから河口まで116キロメートルしかない。ローヌ川は400メートルから降りて、河口まで500キロメートルもゆったりと流れる。メコン川に至っては400メートルを2千キロメートルかけて、ゆうゆうと下る。

 最大流量の最小流量に対する倍率で見ると、九頭竜川は249、ローヌ川は35である。日本では、梅雨の集中豪雨の後、夏の2か月も雨が降らなくなる。

 わが先人たちは、水路を造って分水、貯水してきた。山に植林して保水能力を高めてきた。過酷な風土からここめで豊かな国土に仕立て上げた。そのことに思い馳せよう。

 土壌を殺し回り、農薬で汚染の限りを尽くす米国の農産物の低廉さを手放しで自慢する新古典派経済学の稚拙なモノロークにいつまでもつきあっている必要はない。彼らはかなり近い将来、自滅するのだから。(利用した資料は、前日のものと同じ)

本山美彦 福井日記 07 複雑・緊密化する水路

2006-06-08 00:20:42 | 水(福井日記)
これまで十郷用水のことについて、たびたび触れてきた。十郷とは、平安時代の越前にある興福寺領荘園、河口荘に属する、本庄、新郷、王見、兵庫、大口、関、溝江、細呂宜、荒居、新庄といった10村のことである。平安時代の天永元年(1110年)に十郷用水は開削された。この水路は現在も現役である。

 十郷大堰からの取水といっても、10村に公平に分水できたわけではない。10の村が同じ高さの土地をもつわけではないし、水路の分かれ目の断面積によって、分水される水量は異なる。上流が多く取水すれば、直ちに下流は不利になる。そこで、下流の村は絶えず上流の村の取水状況を監視しなければならなくなる。

 水路は、こうした紛争を避けるべく、権力によって、じつに細かく形状を決められていた。例えば、朝倉氏の支配下では、天文6年(1537年)に、水路の幅が6尺1寸、水深が3尺2寸1分と定められていた。朝倉時代には、十郷用水には横落堰と呼ばれる調整堰が設置され、そこから下流の村々に分水する規定が細かく作られていた。権力が派遣する監督官の下で水路には厳重な管理体制が敷かれていたのである。

 十郷大堰から新江(しんえ)用水(1679年)、高椋(たかぼこ)用水(1455年)を分水した後、一番堰から七番堰にかけて磯部用水(十郷用水と同じ時期に設立)などが分かれ、高椋村、春江村と分水して後、十郷用水の幹線水路になる。その後も、兵庫川へ水を落とす形で分水していた。

 わずか10の村で分水していた用水は、江戸時代には118か村にまで増大した。九頭竜川の水流は変わらないのであるから、渇水時になると、堰が切って落とすために、農民たちが殺気だってにらみ合い、各時代の権力者が調停に乗り出した。

 十郷用水の末端地区である芦原町内(現あわら市)だけでも、江戸時代に約30回の水利紛争が記録されている。文化10年(1804年)には死者が出て、江戸出訴にまで発展した。
 こうして、水路は1ミリの変更も許されない複雑かつ緊密なものになっていったのである。

 本稿は、北陸農政局九頭竜川下流農業水利事業所発行のパンフレット『千年の悲願』平成16年3月、の記述に依存した。

本山美彦 福井日記 06 村上ファンドで思うこと

2006-06-07 14:47:04 | 世界と日本の今
46歳にしては稚拙な、のっぺりとした顔。知性の片鱗を感じさせない顔。なんとかモンと双璧。最近、つまらぬ卑しい顔の人が増えてきたね。元同僚の中にも卑しい顔が増えてきました。権力志向、稼ぎ志向。人間関係が浅く、粘膜で人間が辛うじてつながっているのでしょうね。規制緩和という新たな金儲けに邁進する構造改革旗振りたち。全員、無機質のは虫類的顔をしている。こんな卑しい連中などいない社会で生きていこうよ。
 本山美彦。平成18年6月7日、村上ファンドに思う。



本山美彦 福井日記 05 水路に関する高度技術と権力

2006-06-07 13:23:17 | 水(福井日記)
私の下宿は、兼定島という地にある。不可思議な地名だが古老に聴いても、名前の由来は知らないという。兼定島が九頭竜川の中州であったことは確かである。下宿から、ものの数分歩いた所に下合月(しもあいづき)という地域がある。この地域が江戸時代の天宝年間に起こした水争いのことが、この地の石碑に記されている。

 石碑は大正15年9月に刻まれたもので、かなり、風化していて、文字の判読が困難である。元の文書は福井のどこかの資料館に保存されているはずなのだが、まだ私は所在をつかめないので、辛うじて判読できた範囲で石碑の中身を紹介したい。現代風に文章を改め、要約していることをお断りしておきたい。

 碑の題は「用水功労者記念碑」である。元・大庄屋・戸枝太左衛門と他3名の事蹟を記したものである。
 保元元年、九頭竜川に鳴鹿堰ができ、そこから、十郷用水路が引かれ、坂井郡の水田110余の区画を潤すことになった。さらにそれから160 年後、鳴鹿堰の下流に春近用水路向けの堰が作られた。こうして、上合月以下、37区の水田が養われることになった。

 そこに、天宝年間、大干魃が生じた。鳴鹿堰は完全に閉じられ、下流の春近堰に水が行くことはなかった。鳴鹿堰を基とする十郷用水に頼る地域は水を確保できたが、春近堰の合月地区は干上がってしまった。そこで、下合月の庄屋の戸枝太左衛門、名主の伊兵衛、上合月の百姓の惣左衛門、下合月の百姓の喜兵衛の4人が、村人の先頭に立ち、鳴鹿堰を切断して、下流37区の危急を救った。

 しかし、十郷の118区の代表者たちが怒り狂い、上記4名の告発を江戸幕府に対して行った。裁判は5年の長期に及んだが、命をかけた4名の大活躍によって、春近側の農民の全面勝利となった。以後、毎年8月、長さ48間の鳴鹿堰の南側(九頭竜川は福井平野を東から西に流れている)24間をそのままにして、北側の24間を開けることになった。以後、明治中ばまで、合月地区は毎年、8月14日を休業日とし、龍神に祈り、雨乞いの儀式をするとともに、先人の事蹟に感謝する日と定められた。

 明治に入って、水田が増えたことから、深刻な水不足に悩まされることになった。明治36年、五領が島村長の多田金三郎を中心として、春近、芝原、合月の村長が協議し、明治40年、御領普通水利組合が結成され、用水を地域農民の協議の下で運営することになった。こうした事蹟の重要性を、工学博士・仙石亮がこの碑に刻んだ。そして、いまでも、この地の水路は水利組合によって監督されている。福井の強さの現れである。

 水路の建設は道路建設よりもはるかに難しい。
 取水する川は、その地域のもっとも低いところを流れているので、取水口は村の標高よりもはるかに高い所に設定されねばならない。まず、水路通すことについて、上流の地域住民の許可を得ることができるかが問題になる。
 さらに、等高線がきちんと測られなければ水を引くことはできない。その等高線を測ることが至難の業である。夜中、大勢の農民が松明を同じ高さに立てて、火が一直線に並ぶ場所を探して等高線を探っていたという。

 苦労して水を引いても、水は余所の村を通る。当然、その地への補償がいる。春近用水では、水を引くために潰れる余所の地を補償するのに、俵を並べたらしい。良い土地は俵を横に並べ、条件の落ちる土地は俵を縦に並べ、その数の米を補償として渡したという(森田町史)。

 土手を石垣などで固め、水が地中に染み込まないように、粘土を底に張らねばならない。そうした労力は大変なものである。
 ところが、ようやく完成した用水路が逆に村にとって命取りになりかねない。大雨のときには、この水路を通って洪水が押し寄せるからである。洪水を恐れて水の取得を少なくすれば、夏の渇水時に水の取得ができない。しかも、川の水量は一定しない。しかも、前回に書いたように、無数の枝別れを水路は必要とする。

 もっとも、重要な難問は、水の分け合いである。一本の水路を分け合うことは、それこそ、血を見る争いごとになる。上の石碑がそれを示している。越前平野だけでなく、日本の農民を苦しめたのは、他ならぬ、千年にわたる水争いであった。
 継体天皇が権力を維持できたのは、こうした水争いを治めたからであろう。強力な権力が複数の村の水争いを治め、その成功がまた権力基盤を強化する。
 灌漑技術において劣っていた大和が、継体の技術に教えを請うという事態はけっして不思議なことでもなんでもないのである。轟音を立てて山から駆け下る九頭竜川という「崩れ川」を目の当たりにするとき、私は、渡来人が大和朝廷の中枢に入り込むことができた素地に納得してしまう。

本山美彦 福井日記 04 継体天皇のこと

2006-06-06 13:59:49 | 水(福井日記)
福井に来て受けたもっとも大きな衝撃は、農村が高度技術によって、作り出されたという史実である。田畑には用水路が張り巡らされている。これは当たり前の風景である。しかし、よくよく観察すると、用水路の精巧さに感嘆させられる。眼には平坦に見えても、実際には、農地には、微妙な高低差がある。高度差のある土地のすべてに、用水を引き入れ、かつ、排水する。用水路自体が、土地の形状に合わせて見事に高低差をもつ。水は数ミリの高低差に直ちに反応して、低い土地に流れるので、高度差のある用水路を無数に造らなければならない。取水口を土地の高さに応じて多数作り、用水路を血管のごとく縦横に張り巡らせなければならない。しかも、用水路は、設計段階だけでなく、維持にも大変な労力を必要とする。「結」(ゆい)とは、そうした村人の共同作業のことであり、権力がそうした結を指揮する。つまり、農村は自然発生的に出来上がったものではなく、人間社会の大変な労力の結晶である。おそらく、古代の権力は、そうした高度技術をもつ専門家集団を擁し、そうした集団を各地に派遣したのであろう。

 水道しか知らなかった私には、芸術品の用水路をまじまじと見ることは驚きであった。そして、権力のもつ意味について考え直さざるを得ないと思うようになった。権力が軍事力を根幹としていることは当然である。しかし、武力で民衆を慰撫することは不可能である。むき出しの暴力は民衆反乱を呼び起こすだけのことである。権力は、民衆に慕われる正統性をもたねければならない。古代権力は、その意味で、治山治水事業を権力基盤にしたのであろう。

 私は、以前から継体天皇が大和朝廷に迎えられたことが疑問であった。6世紀の初めに第26 代天皇として越前から継体は迎えられた。しかも、迎えがきて大和に入るのに20年も要している。そもそも、越とは、木の芽峠の向こう、つまり、夷の住む野蛮な地域という蔑称である。九頭竜川の南の丘陵地帯の松岡、吉野が夷を従わす前線基地であったことは、松岡に春日、神明という地名があることからも明らかである。この夷の地から天皇が迎えられる。『日本書記』によれば、応神天皇(第15代)と血がつながっているとはいうものの、それより5代も下る遠い血筋である。なぜなのか。そして、なぜ、大和に入るのに、20年もかかったのか。

 この謎を解く鍵は、治水事業にある。『続日本記』によれば、越前の三国(みくに)地域は大きな湖の水国(みくに)であった。継体天皇が水国の岩山を切り裂いて湖の水を海に流し、広大な農地を作ったとある。つまり、継体は大土木事業を遂行したのである。暴れ川、くづれ川として猛威を奮う九頭竜川を治め、干拓し、農業用水を作ることは大変な技術を必要としたはずである。司馬遼太郎も『街道をゆく―越前の緒道』でも指摘されているが、越前の灌漑技術は当時から図抜けていた。

 継体は、三国の坂中井(さかない)出身であり、足羽山(あすわやま)に建てられている石像は韓国の寺院に見られる巨大な図体をし、巨大な顔をもつ。しかも、韓国の方に顔が向けられている。おそらくは、高い灌漑技術をもつ渡来人の専門家を配下にもっていたのが継体だったのであろう。飛鳥時代の大和朝廷はつねに、水不足に悩んでいた。この苦境を脱するには、三国の継体の力が必要だったのだろう。飛鳥で治水事業に継体は20年もかかった。そうした事業が完成した後、継体が正式に大和に迎えられたと理解するのは突飛すぎるだろうか。

 757年(天平宝字元年)、『越前国使等解』には、桑原荘内で、溝の開削、樋の設置に関する計画書が記されている。奈良時代には五百原(いおはら)堰が作られ、平安時代の1110年十郷用水が開設され、五百原堰と結ばれた。28キロメートルもあった。大和平野や河内平野には「大溝」と呼ばれる用水路が作られていたが、五百原堰とか十郷堰とかの固有名詞はこの2つの堰が日本最初である。
 私の下宿近くの福井県丸岡町の足羽神社には継体天皇がまつられている。