消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

本山美彦 福井日記 13 消し去られた一揆の郷、豊原寺

2006-06-20 23:47:32 | 路(みち)(福井日記)

 写真は、越前の一向一揆の拠点であった豊原寺(とよはらじ)の旧跡に建っている碑である。

 

 私の住んでいる兼定島からまっすぐ北に県道110号線が走っている。この路を辿れば丸岡城につく。丸岡城の天守閣は、現存するものの中では、もっとも古い建築だとされている。元々は、五角形の広い内堀に囲まれた城郭であった。城郭の周囲に侍屋敷、内堀の外には寺院や民家が配置され、その外に河川を利用した外堀があった。天守閣は姫路城のような層塔式天守閣ではなく、望楼式天守閣という形のもので、通し柱がなく、一層が二階と三階を支えている。屋根瓦はすべて石瓦である。こうした瓦は珍しい。

 丸岡城の第6代城主、本多成重(なるしげ)の父が、本多重次(しげつぐ)である。重次は、戦場から奥さん宛に、「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」という日本一短い手紙を出して歴史上有名となった人である。「お仙」とは成重の幼名である。「馬肥やせ」とは常に戦に備えよという意味である。

 丸岡は、平成18年4月1日から市町村合併で坂井市になったが、丸岡町の時代から、この「日本一短い手紙」を町興しに利用してきた。町民から募集し、その中の楽しい手紙は丸岡城に展示され、本にもなっている。ちなみに、世界でもっとも短い手紙は、文豪、バルザックのものだと言われている。「?」としか記されていないバルザックからきた手紙に対して、版元も愉快な人で、「!」という返事を出した。バルザックが、「本は売れているか?」と問い合わせたのに対して、版元の返事は、「意外にも、売れていますよ!」というものであった。

 丸岡のほんのりとした優しい町の風景はなかなかのものである。私が毎朝、ジョギングに利用する、それはそれは美しいグリーンセンター、越前竹人形の館などは、是非、多くの人に訪れていただきたい情緒溢れる空間である。

  しかし、丸岡城の別名「霞ヶ城」というのはいただけない。もともと丸岡城は、越前一揆を平定した柴田勝家が造ったものである。勝家は甥の勝豊(かつとよ)を豊原に派遣した。豊原とは一向一揆の拠点、豊原寺があったところである。豊原寺は、丸岡城の北東4キロ、県道110号線が五味川を横切る橋(五味川橋)の東の山中にあった。200メートルほど山を登った所である。一揆の全盛時には、宿坊は300以上あったと言われている。平地からこの寺に通じる路を六本木坂という。

  柴田勝家は、この寺や宿坊を焼き払い、寺を再建させないために、豊原城を築き、甥の柴田勝豊(かつとよ)を住まわせたのが、天正3年(1575年)のことであった。翌年(天正4年、1576年)、丸岡城を建造して勝豊を豊原城から丸岡城に移したのである。

 天正3年の大虐殺にもかかわらず、一揆勢はしぶとく生き残り、たびたび丸岡城を攻撃した。しかし、伝説では、一揆勢が押し寄せる度に、城は深い霞で包まれ、一揆勢の攻撃の出鼻を挫いたとされている。そこで、この城は、霞ヶ城と呼ばれるようになったというのである。殲滅させられた一揆勢への憐憫どころか、一揆を押しのけた丸岡城を自慢した説明が、城の外に堂々と書かれていることは、丸岡の情緒にそぐわない。残念である。

 

 私は6月18日(日)に豊原寺跡を訪ねてみた。まだ6月というのに、すでに深い夏草が生い茂り、路が草で覆われていて、歩行が困難であった。熊と蛇におびえて、3キロほど山道を登って、やっと寺跡に辿りついた。ハイキング・コースになっているのに、路が草で埋まってしまっているということは、もはや町民が訪れることもないことを示す。石碑がポツンと建っているだけで、豊原寺の伝承や一揆の説明をした立て札はどこにもない。まさに「消された伝統」そのものである。私は思わず涙ぐんでしまった。この山中に何千人もの虐殺死体が放置されたはずである。せめて死者の魂を弔う施設が欲しいものである。歴史に残る豊原の一向一揆の事蹟が完全に消しさられている。哀しいことである。町の教育委員会に訴えたい。いまの素敵な丸岡の町を際だたせるためにも、若い人たちに、豊原一揆があったのだということを伝えていただきたい。

 あまりの悲しさに耐えきれず、それこそ一揆のメッカ、吉崎御坊を訪ねた。少しでも、一揆勢への鎮魂の思いを強くしたかったからである。しかし、ここでも大きなショックを受けた。権力側が如何に宗教を利用して民衆を操作してきたのかが如実に分かったからである。  そもそも、蓮如が吉崎御坊を建造したという説明は正しくない。とくに『広辞苑』の説明はかなりひどい。その「吉崎御坊」の説明を引用しよう。

 

 「越前国吉崎(現在の福井県坂井郡金津町吉崎)に創建された本願寺の別院。1471年(文明3)蓮如が建立し北陸化導の根拠地となった。のち破却され、江戸中期、東西の両本願寺の別院がそれぞれ開かれた」。

 

 そして、「別院」と「御坊」はそれぞれ、

 

 「本寺とは別に、それに準ずるものとして設けられた寺院。浄土真宗などで各地に設けられている。御坊(ごぼう)」

 

 「寺院または僧侶の敬称」

 

だそうである。私は、吉崎について、まだ確固たる知識をもっているわけではないので、間違っているかも分からないが、『広辞苑』の上記の説明には、一揆や徳川幕府の浄土真宗政策との関連がまったく触れられていないことに不満である

 まず、「御坊」の意味からして『広辞苑』は間違っているのではないだろうか。そもそも、「御坊」という単語は、江戸時代になって使われるようになったのではないだろうか。つまり、それは本来役所の別名であったのではないか。

 江戸幕府は周知のように、キリシタン禁圧の手段として領民の宗門を問いただした。キリシタンではないことを「宗門人別帳」に登録させたのである。この人別帳に記載されなければ無宿者とされ監視の対象になった。逆に言えば、領民はなんらかの形で仏教に帰属しなければならなくされたのである。享保時代(1716~1736年)以降、人別帳は6年ごとに作成されるようになった。江戸時代の戸籍制度とは、宗門が担っていたのである。宗門の中でも浄土真宗とくに、徳川家康が立てた東本願寺がその多くを束ねていた。

 「御坊」とは、本願寺側からすれば位の高い自己の直轄寺院であり、幕府側からすれば地域の末寺を束ねる役所の元締めだったのである。江戸時代以前には「御坊」という言葉は使われていなかった。したがって、蓮如が建てたのは「吉崎御坊」ではなく、吉崎道場だったのである。本願寺は、江戸時代、領民の相互監視機関、「5人組」を作り、まさに権力の走狗になっていた。御坊とは浄土真宗の格式の高いお寺であると同時に、役所を表す言葉だったのである。

 明治新政府は、権力を幕府から奪うや否や、仏教の大弾圧を開始した。1868年(慶応4年)の神仏分離令廃仏毀釈は、上で説明したように、仏教、とくに本願寺が江戸幕府の権力を支えていたことへの仕返しの意味があった。

 近代的戸籍制度ができたのは、やっと明治6年(1873年)になってからである。同時に、新政府は御坊から役所的仕事を剥奪した。それとともに、本願寺は、地方を束ねる御坊という格式の高い直轄寺の呼び名を「別院」としたのである。

 吉崎御坊を例に引くと、「御坊」時代は、事実上、東本願寺がこの地を支配していた。吉崎御坊とは、東本願寺の直轄寺だったのである。ところが、御坊が廃止されるや否や、東西の本願寺がそれぞれ「別院」を建て、周囲の多くの末寺に財産の寄進を迫ったのである。私たちはなにげなく、寺院に財産を寄進するという表現を多用するが、寄進とは強制収容であると言った方が正しいであろう。地元の有力者たちが中央の本山に寄進したのではなく、中央の本山が有力者の財産を強制的に召し上げたというのが真相であろう。おそらく、東西両本願寺が、旧御坊の財産切り取り争いを演じたはずである。これが、吉崎御坊には東西両本願寺の別院があるということの意味である。

 『広辞苑』は、吉崎御坊が破却された後に、江戸中期になって、別院ができたと説明しているが、これは完全な間違いである。まず、吉崎は小山である。周囲は北潟湖で囲まれ、海につながっている。吉崎は完全な軍事要塞だったのである。その山の頂上に道場があった。道場を囲んで宿坊が300もあった。一向一揆の総司令部がこの道場であった。一向一揆が鎮圧されてからは、道場や宿坊は焼き払われ、徳川幕府は山に道場を再建することを禁止した。そして、まだ残っていた麓の寺に、御坊として役所の仕事をさせたのである。明治に入り、そうした御坊が廃止された後に東西の別院ができたのである。したがって、『広辞苑』の言うように、江戸時代の中期に別院が建てられてというのは間違いである。


 私がショックを受けたのは、そうした間違いに対してではない。道場は廃止されたが、御坊となった本願寺の寺は大繁盛した。信じられないことに、旅の案内図がそこでは売られていた。そこでは、日本各地の名所旧跡が説明され、宿場間の距離が記載されている。しかも、馬を雇うときの費用(それを駄賃という)まで書かれている。

 それだけではない。寺が勧める宿屋まで紹介されているのである。おそらく、宿屋は寺にリベートを払っていたのであろう。まだある。北潟湖は天然の良港である。この港は物資の集散地であった。そして、位置が御坊の眼前に立てられていたのである。当然、寺はなんらかの名目で金を取っていたのであろう。

 徳川幕府は、織田信長とは正反対に、浄土真宗を人民統治の手段として育成するようになった。本願寺の内紛に乗じて、それまでの本願寺の東の烏丸に東本願寺を建てて、相続争いに敗れた大谷家の長男、教如を1602年(慶長7年)法主の座に座らせたのである。そして、いつしか、堀川にある本願寺は西本願寺と呼ばれるようになった。

 本願寺は、親鸞の娘、覚信尼が1272年(文永9年)東山大谷の御影堂祖廟を起源としている。そして、1591年(天正19年)豊臣秀吉が寄進した現在の地に移転したものである。東西本願寺は、全国で金儲けをした。幕府がそれを支えていた。本願寺にカネが回るようにすることで、幕府は一向一揆の再来を防ぐと同時に、領民支配の強力な武器に仕立て上げることに成功したのである。宗教が権力のもっとも忠実な僕になることは、洋の東西、そして古今を問わない共通項である。

 私が吉崎でショックを受けたのは、そした金儲けの証拠の品々が、現地で飾られていたことである。考えて見れば、不思議でもなんでもないことなのに、莫大なカネが動いていたことの証拠品を見るのは、辛いことであった。一揆を主導した北陸浄土真宗の本家の本願寺が、一転して、権力と手を結び、集金にいそしんでいたのである。

 吉崎にはさらに異様な光景がある。別院の本堂の前、別院の境内の寺院の一つが、土産物屋なのである。寺院が土産物屋を経営しているのではない。寺院の中に商人が住み着いているのである。東本願寺は、彼らを追い出したいのだが、地上権の発生により、追い出せないのだということを境内の寺院の一つの願慶寺の住職から聞いた。

 願慶寺の秘宝に「嫁威肉附面」(よめおどし・にくつきのめん)という鬼の面がある。その縁起を紹介しておきたい。

 

 日山城(ひやまじょう)の城主、日山治部右衛門(ひやま・じぶうえもん)の家臣に吉田源之進(よしだ・げんのしん)という武士がいた。日山城が没落したことによっって、この武士は吉崎近くの十楽村(じゅうらくむら)で百姓になった。この子孫に与三次(よさじ)という人がいたのであるが、本人と二人の子息が病死した。夫の命日に清(きよ)という名の妻が、文明3年(1471年)に、吉崎に滞在していた蓮如の説法を聞き、たちまち信心を深くした。毎夜、説教を聴きに吉崎に詣でる嫁を姑が憎み、鬼の面をかぶって、夜道を帰る嫁を脅した。清は、食らわば食らえ、仏罰があたるぞと、言い捨てて吉崎に参った。鬼面による威しの効果がなかったことに落胆した姑が、家に帰って、面を取ろうとしたが、取れなくなってしまった。それを吉崎から帰ってきた清が見た。泣いて詫びる姑に対して、清は南無阿弥陀仏と唱えなさいと言った。姑が一言念仏を唱えると鬼の面はただちに取れた。感謝してこの面を清は蓮如に差し出すと、蓮如は後々の言い伝えをせよと、面を願慶寺の開基(かいき)、祐念坊霊空に託した。

 

 これが縁起物語である。文明3年5月、蓮如がこの地に滞在したとき、和田重兵衛が説教を聴いて直ちに信心を強め、一族30人を率いて熱心な信者になった。そして、寺を開くことを許され、願慶寺の名を蓮如から賜った。この寺は吉崎で最古の寺である。現在の住職はその末裔であり、和田姓を名乗られている。