消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

本山美彦 福井日記 16 律令時代にもあった賃金労働

2006-06-23 23:16:23 | 路(みち)(福井日記)
奈良の正倉院には、奈良時代の越前国の農民の貧しさを示す資料が3つ残っている。730年(天平2年)の「越前国大税帳」と「越前国義倉帳」、732年の「越前国郡稲帳」がそれである。これらは中央政府(民部省)に提出され、不用になった段階で反故紙となり、裏が写経所で再利用されたものである。こうした農民及び税に関する文書が残されているのは、全国では、越前だけである。

 当時、中央政府の地方役所は国衙(こくが)と呼ばれていた。国衙の財政収入は、田に課され、稲で納める租と、地方の正倉という備蓄倉庫に蓄えられた稲を5割の利子付きで強制的に農民に貸し付ける出挙によって賄われていた。おそらくは、当時の農民は籾を私有することは許されなかったのであろう。この2つが「大税」とされ、その収支を記録したのが、「大税帳」である。それによれば、大税のうち、中央に送る舂米(稲をついて精米したもの)は1万束余があるくらいで、後は、22万7000石もの厖大な籾が備蓄されていた。とてつもなく高率の税であったことが分かる。

 「越前国義倉帳」は、農民の貧しさを記載しいたものである。これは、災害や飢饉・疫病などに備えて、戸の資産によるランクに応じて粟を徴収して蓄え、非常時には支給するという義倉の収支決算書である。記載されているのは、わずか1019戸分しかないが、大半が貧窮状態であったことが分かる。上上戸、上中戸、上下戸、中上戸、中中戸、中下戸、下上戸、下中戸、下下戸、等外戸の10等級に区分されている。

 9割の920戸が等外戸であった。義倉穀を負担したのは中中戸以上であったが、この地の負担戸は29戸にすぎず、大半が貧窮戸であったことになる。
 ちなみに、酒に弱い人を下戸というが、それは、この課税の等級制からきている。婚礼時の酒の量が、上戸は八瓶、下戸は二瓶であったことから、酒が飲めない人を下戸と呼ぶようになり、酒をよく飲む人を上戸と呼ぶようになったのである。貧富の差から飲酒量を喩えた言葉は中国にもあり、大戸や小戸と呼ばれている。

 とんでもない貧しい農民たちであったが、彼らは賃労働者であったことが、東大寺に残された文書で分かる。越前における東大寺の荘園は、自らの荘民をもたず、荘園の外の農民を1年契約で出挙にいよる賃金雇用をしていた。用水路の開削・維持もこれらの雇用労働にたよっていた。

 東大寺が越前国に荘園としての墾田地を求めて本格的に進出し始めるのは、749年(天平勝宝元年)からのことである。この年、造立途上の東大寺大仏の完成の目処が立ち、その造立・維持費用として東大寺に100町の墾田地が認可された。同年閏5月には国司と一緒に大規模に占定作業が進められたほか、足羽郡大領(だいりょう)の生江臣東人(いくえのおみあずまひと)や坂井郡大領の品遅治部君広耳(ほむちべのきみひろみみ)などの現地の郡司といった有力者から土地の寄進を受けた。東大寺の荘園は、これら地元有力者との共同経営であった。

 坂井郡にあった東大寺領桑原荘に関する文書として、755年から59年にかけての4通の収支決算書が残されている。桑原荘(写真参照)は、755年に、東大寺が都に住む貴族より土地100町を銭180貫文で買収して開墾したものである。

 東大寺には、「東大寺越前国桑原庄券第三」に「越前国田使曾祢乙万呂解」という文がある。これは、東大寺から田使として桑原荘の経営を命じられて派遣された曾祢乙万呂の757年(天平勝宝9)2月1日の報告書である。そこには、見開(開墾された田)42町のうち、この年の開田(開墾田)は10町であるとか、収支決算や、建物の状況などが記載されている。しかし、東大寺の文書には、この報告書には、越前国史生の安都雄足と足羽郡大領の生江東人の署名がなかったため、東大寺は受理しなかったとされている。ここから、東大寺の荘園は地元の有力者との共同経営であったことが分かる。

 共同経営したのは、もっぱら労働力の調達が必要だったからである。こうした工事や労働力の提供を地元有力者が担っていたのである。東大寺側は史生を派遣し、大領と交渉させていたのである。

 大領とは地方豪族である郡司の大本締め、つまり、長官である。史生(ししょう)とは、都・地方のあらゆる役所に置かれ、公文書を繕い写し、文案を整理・作成し、四部官(四等官・四分官)の署名を得ることを担当している下級書記官のことである。この史生の下がいまでもその名が残る召使(めしつかい)である。
 
ここで、大和政権と越前の緊密な関係を示すために、生江臣東人のことを詳しく紹介しておこう。
749年(天平勝宝元年)、藤原仲麻呂は大納言となった。同時に、仲麻呂は東大寺の荘園を越前に造るべく、部下の生江臣東人を越前に派遣する。しかし、仲麻呂は、764年(天平宝宇8年9月、四畿内・三関国(さんげんこく―伊勢・美濃・越前)・近国3か国の軍事権を統括する官になったときに、私兵を密かに集め出した。クーデターを企んでいたのであるが、これが、道鏡に牛耳られていた孝謙上皇側に漏れた。

 同月11日、上皇派は、仲麻呂の息子、藤原久須麻呂(くずまろ)を射殺した。仲麻呂は、平城京から脱出し、近江国府に向かったが、上皇派に阻まれ、やむなく、琵琶湖西岸を通って越前国府に向かったが、ここでも、上皇派は先回りして、越前国府にいたやはり仲麻呂の息子、藤原辛加知(しかち)を殺害した。そこで、仲麻呂は、琵琶湖西岸の三尾崎(みおさき―高島町明神崎)に向かった。そして、9月18日、三尾崎近くの勝野(かつの―高島町勝野)の鬼江(おにえ)での両軍は相まみえた。仲麻呂はこの戦いに敗れ、息子の真先(まさき)、朝猟(あさかり)、小湯麻呂(おゆまろ)、薩雄(ひろお)、執棹(とりさお)が殺された。

 仲麻呂は、越前に子供をはじめ、配下を派遣していて、東大寺の荘園経営にも関与していた。事実、仲麻呂が滅びた後、東大寺領として有名な道守(ちもり)荘では、道鏡政権になって行われた検田によって、船王(ふなおう)・田辺来女(たなべのくめ)の墾田が没収された。船王は淳仁天皇の弟、父は舎人親王で仲麻呂派の人物。田辺来女の一族は仲麻呂の家司(けいし)になっている者もいて、やはり仲麻呂派であった。仲麻呂自身も越前国に墾田を所有しており、この墾田200町が、乱後、西隆寺に接収された。

 仲麻呂は大仏造営や東大寺建立に大きく貢献しているのだが、結局は、自らの懐刀であった造東大寺司の裏切りに遭ったのである。乱の直前に反仲麻呂派の吉備真備が造東大寺司長官に就任して仲麻呂との抗争の指揮を執った。また、琵琶湖に浮かぶ竹生(ちくぶ)島に所在する都久夫須麻(つくぶすま)神社は、仲麻呂の乱の鎮定に霊験があったということで従五位上勲八等を授けられていることが、『竹生嶋縁起』に見える。

 造東大寺司とは、東大寺建設のための役所である。
 さて、生江東人は、越前国足羽(あすは)郡の在地首長である。生江東人は、先述のように、天平勝宝元年(749年)、東大寺が越前国内に荘園を設定するために、造東大寺司から派遣された者の中に名前が見える。このとき東人は造東大寺司の官人であったが、その後、天平勝宝7年には足羽郡大領として名前が見えるので、この6年の間に足羽郡大領に就任したことになる。東人の前の大領は生江安麻呂という人物である。つまり、東人は安麻呂の嫡子である可能性が高く、安麻呂の後を継いで大領に就任したものと見られる。地方豪族が中央政権の官吏に登用されていたことをこれは物語る。

 東大寺の初期荘園は90以上あり、北陸には30ほどが所在する。その中でも、規模の大きな荘園の1つが足羽郡にある道守荘(ちもりのしょう)である。東人は道守荘経営に大きな役割を果たした。東人は約7キロメートルの用水路を自らの力で開削して開発した墾田100町(未開地も含む)を、先述のように、東大寺に寄進し、この墾田を中心に道守荘を発展させた。道守荘は当時の絵図が現存することでも有名で、その絵図を見ると荘域内南西部に荘所がある。荘所は、荘園の管理事務所であり生産物の収納倉庫もともなっているもので、現地での経営拠点である。この荘所も東人が寄進したものである可能性がある。

 藤原仲麻呂政権下で東人は先に寄進した用水路を私的に使用して墾田の開発を進めた。仲麻呂失脚後、この件に関して東大寺から追求されることになり、この新たな墾田も東大寺に寄進し、謝罪した。この謝罪の上申書が、天平神護2年(766年)の「越前国足羽郡大領生江東人解」(『東南院文書』)である。

 なお、藤原仲麻呂と東人については、WEBサイト、「時事スコープ」、歴史探訪、第3回(98.6)藤原仲麻呂の乱(開成高校講師 小市和雄)、第4回 (98.7)生江東人開成高校講師 小市和雄)を参照した。