消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

本山美彦 福井日記 12 永正の越前一向一揆が殲滅された九頭竜川畔

2006-06-16 00:30:55 | 路(みち)(福井日記)
福井県立大学の兼定島キャンパス(福井キャンパス)は、かつて、越前の一向一揆朝倉勢によって壊滅させられた古戦場である。残念ながら、キャンパスの中にはそうした遺跡を偲ぶものはない。中ノ郷から九頭竜川を渡って朝倉勢が上陸し、迎え撃つ一揆勢が虐殺された地点が、いま私がパソコンを叩いているこの場所なのである。

 『朝倉始末記』によると、加賀からの応援が30万人と聞いていたが、実際に逃亡したのは10万人であったと書かれている。九頭竜川はそれこそ20万人以上の首が跳ねられた血の川になっていた。写真は、その悲劇を悼んだ首塚である。

 日野富子。希代の悪女とされ、室町幕府第8代将軍、足利義政(銀閣寺建立)の正室。義政の生母、日野重子は富子の大叔母である。16歳で嫁ぐ(1455年)。1959年第一子が生まれるがその日の内に死亡。恨んだ富子は義政の乳母と義政の4人の側室を追放。男児に恵まれないと思った義政が実弟の義尋を還俗させ、細川勝元を後見として足利義視(よしみ)と改名させて、次期将軍に指名。それに反発した富子は、その翌年(1466年)義尚を出産。義政の子ではなく、後土御門天皇の子と噂される。次期将軍職を巡って、義視を廃し、義尚を富子は推し(第9代)、斯波、山名を巻き込んだ争いになる。これが応仁の乱である。しかし、義尚が酒色に溺れる無能者であると分かった瞬間に、富子は義視と自分の妹との間に生まれた義尚と同年の足利義材(よしき)を将軍に擁立。1489年、義尚が六角高頼を攻めている最中に、深酒が祟って25歳で没し、義政も没した。1490年、義材が将軍になる(第10代)。しかし、義材は父の遺志を継いで富子に反旗を翻した。富子は1493年、細川政元と組んで、反乱。義材を廃し、義政の甥、足利政知の子、義澄を第11代将軍につけた(明応の政変)。じつに、3代もの将軍を富子は女手一つで誕生させたのである。しかし、富子は1496年57歳で世を去る。

 越前との関わりは、義材から始まる。明応の変のとき、朝倉勢は、細川と協力して義材を廃することに協力した。義材は畠山一族の領地、越中に逃れ、「越中公方」と呼ばれるようになった。捲土重来を期した義材は、越前、朝倉の一乗谷の外に住み、今度は、越前公方と称されるようになった。約1年間のことである。朝倉は行動を起こさなかった。やむなく、義材は、六角攻めで功労のあった周防の大内義興を頼って周防に逃れた。

 そうこうするうちに、細川家では、政元の気分屋的性格が災いして、家督争いが生じた。細川政元は、そうした内紛を煽ったとして諸国の有力者たちの足下に火を放った。これが一向一揆である。一向一揆が諸国の半政元の有力者たちを抹殺しようとしたのである。しかも、それは、本願寺第8代管長蓮如の子供の第9代管長実如(じつにょ)の命による蜂起であった。

 管領、細川政元と本願寺は親密関係にあり(『実隆公記』等にその記述がある)、政元の強い要請により本願寺が反細川派である朝倉氏を含む北陸諸大名を攻撃するようになったのである。永正3年(1506年)3月、加賀一門の本泉寺蓮悟は越中の長尾勢・能登の畠山勢打倒の檄文を発し、6月になるとその騒乱が越前に飛び火するようになった。

 室町時代、足利将軍の威光が輝いていた頃、斯波一族は越前の守護であり、将軍と同格の扱いを受けていた。しかし、斯波一族は室町幕府の要職を歴任していたので、ほとんど京都にとどまり、守護職は部下の甲斐一族が守護代を任せられていた。その甲斐の配下が朝倉一族だった。三つどもえの争いの末、朝倉は越前守護代の地位を得て、甲斐を加賀に追放することに成功した。しかし、そうした修羅場の中で、朝倉は細川政元に憎まれることになった。

 そして1506年7月、加賀、越中、能登の一向宗門徒が、越前で起こった一向一揆に加勢するため越前甲斐氏の浪人衆らと合流し越前へと侵攻を開始した。
 越前の本覚寺、超勝寺などの大寺がこれに加わった。これを向かい討つため宗滴を総大将とする朝倉・他門徒の連合軍が九頭竜川一帯で対峙した。これが永正三年の一向一揆(九頭竜川の戦い)である。この時一向宗勢力は30万を上回る勢力となっていたと言われ、対する朝倉軍は1万1000ほどであった。

 一揆の軍団は、加越国境を越え、坂井郡から越の国に入り、兵庫(坂井)、長崎(丸岡)にひとまず結集し、一乗谷に攻め入るべく、私の住んでいる五領が島に布陣した。
 これに対して朝倉勢は、敦賀郡司の朝倉教景(宗滴)を総大将として迎撃態勢を取った。宗滴は、敦賀から一乗谷に向かう途中の本願寺派の寺院の大塩の円宮寺、石田の西光寺、久松の照厳寺、荒川の興行寺などの大寺の住職を人質として捕らえて、後方の攪乱を防止したと言われている。

 朝倉勢は、九頭竜川を防御戦と定め、本陣を朝倉か移動を下った中ノ郷に置き、ここに3000人、その東の鳴鹿表に3300人、高木口に2800人、黒丸に2000人を配置した。そして、本願寺派と対立していた高田派や三門徒派の3000人も松本口で朝倉に荷担していた。

 一揆側は、鳴鹿表に超勝寺と本向寺を大将として加賀河北郡と越前勢5万5000人、中ノ郷に和田本覚寺を大将とする加賀石川郡と越前勢10万8000人、高木口には越中瑞泉寺・安養寺を大将に越中の一揆勢、そして越前甲斐牢人8万8000、中角ノ渡しには越前勢5万7000人が陣取った。

 朝倉勢1万1000人に対して、一揆郡は30万8300人と数の上では圧倒的な優位さを示していた。
 九頭竜川の流れがあまりにも速いので、両軍は長くにらみ合っていたが、1506年(永正3年)8月5日の早朝、最下流の中角の渡しで合戦の火蓋が切られた。一揆勢の方が渡河したのである。いきなり多数の斬り合いがあったわけではない。両軍の大将がまず一騎打ちするという礼儀を取った。まず、一揆方大将の河合藤三郎、朝倉方大将の山崎某。一揆方が首を切られる。そして、二番手が一揆方山本円正入道、朝倉方中村五郎右衛門。これも一揆方が首を切られる。その後、乱戦となったが、一揆勢は総崩れになった。

 高木口でも大将同士の一揆討ちでこれは一揆方が勝った。
 中ノ郷の本陣では、朝倉勢が8月6日、一気に渡河した。一揆勢は総崩れであった。
 勝利後、朝倉は吉崎をはじめ、和田本覚寺、藤島超勝寺、久松照厳寺、荒川興行寺、宇坂本向寺、等々、越前の本願寺派の寺のことごとくを廃棄し、坊主と門戸の財産を没収した。

 その後、何度も一揆側は朝倉を宗敵として攻めた。その都度、一揆側は撥ねつけられた。両者が和睦するのは戦国末期、織田信長を共通の敵とするようになってからである。両者はともに信長勢によって討ち取られてしまう。

 石川県白山市出合町甲に、鳥越一向一揆歴史館がある鳥越の地では、毎年8月中旬に一向一揆祭りを実施している。権力への反抗のエネルギーを賞賛して、いまでもそうした祭りを行う鳥越の人々には心から頭が下がる。

 わが大学の学生たちにもそうした思いが伝わるといいのだが。それにしても、純粋な心の持ち主たちが、邪な権力欲に燃える俗物の思惑に乗せられてしまう。いつの時代にも視られる痛々しい現実。せめて、あの世には天国があって、こうした権力亡者たちの犠牲になった人たちの清純な心がさらに美しく清く輝かんことを涙して祈るのみである。本稿は、国土交通省近畿整備局福井工事事務所『九頭竜川流域誌』や、福井商工会議所元事務局長奥山秀範氏「越前・若狭・歴史回廊」を参照させていただいている。

 申し訳ない。一句。
邪な(よこしまな) 俗(ぞく)に破れし 魂の 
いやます輝き 暑き日ぞ知る