消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

本山美彦 福井日記 04 継体天皇のこと

2006-06-06 13:59:49 | 水(福井日記)
福井に来て受けたもっとも大きな衝撃は、農村が高度技術によって、作り出されたという史実である。田畑には用水路が張り巡らされている。これは当たり前の風景である。しかし、よくよく観察すると、用水路の精巧さに感嘆させられる。眼には平坦に見えても、実際には、農地には、微妙な高低差がある。高度差のある土地のすべてに、用水を引き入れ、かつ、排水する。用水路自体が、土地の形状に合わせて見事に高低差をもつ。水は数ミリの高低差に直ちに反応して、低い土地に流れるので、高度差のある用水路を無数に造らなければならない。取水口を土地の高さに応じて多数作り、用水路を血管のごとく縦横に張り巡らせなければならない。しかも、用水路は、設計段階だけでなく、維持にも大変な労力を必要とする。「結」(ゆい)とは、そうした村人の共同作業のことであり、権力がそうした結を指揮する。つまり、農村は自然発生的に出来上がったものではなく、人間社会の大変な労力の結晶である。おそらく、古代の権力は、そうした高度技術をもつ専門家集団を擁し、そうした集団を各地に派遣したのであろう。

 水道しか知らなかった私には、芸術品の用水路をまじまじと見ることは驚きであった。そして、権力のもつ意味について考え直さざるを得ないと思うようになった。権力が軍事力を根幹としていることは当然である。しかし、武力で民衆を慰撫することは不可能である。むき出しの暴力は民衆反乱を呼び起こすだけのことである。権力は、民衆に慕われる正統性をもたねければならない。古代権力は、その意味で、治山治水事業を権力基盤にしたのであろう。

 私は、以前から継体天皇が大和朝廷に迎えられたことが疑問であった。6世紀の初めに第26 代天皇として越前から継体は迎えられた。しかも、迎えがきて大和に入るのに20年も要している。そもそも、越とは、木の芽峠の向こう、つまり、夷の住む野蛮な地域という蔑称である。九頭竜川の南の丘陵地帯の松岡、吉野が夷を従わす前線基地であったことは、松岡に春日、神明という地名があることからも明らかである。この夷の地から天皇が迎えられる。『日本書記』によれば、応神天皇(第15代)と血がつながっているとはいうものの、それより5代も下る遠い血筋である。なぜなのか。そして、なぜ、大和に入るのに、20年もかかったのか。

 この謎を解く鍵は、治水事業にある。『続日本記』によれば、越前の三国(みくに)地域は大きな湖の水国(みくに)であった。継体天皇が水国の岩山を切り裂いて湖の水を海に流し、広大な農地を作ったとある。つまり、継体は大土木事業を遂行したのである。暴れ川、くづれ川として猛威を奮う九頭竜川を治め、干拓し、農業用水を作ることは大変な技術を必要としたはずである。司馬遼太郎も『街道をゆく―越前の緒道』でも指摘されているが、越前の灌漑技術は当時から図抜けていた。

 継体は、三国の坂中井(さかない)出身であり、足羽山(あすわやま)に建てられている石像は韓国の寺院に見られる巨大な図体をし、巨大な顔をもつ。しかも、韓国の方に顔が向けられている。おそらくは、高い灌漑技術をもつ渡来人の専門家を配下にもっていたのが継体だったのであろう。飛鳥時代の大和朝廷はつねに、水不足に悩んでいた。この苦境を脱するには、三国の継体の力が必要だったのだろう。飛鳥で治水事業に継体は20年もかかった。そうした事業が完成した後、継体が正式に大和に迎えられたと理解するのは突飛すぎるだろうか。

 757年(天平宝字元年)、『越前国使等解』には、桑原荘内で、溝の開削、樋の設置に関する計画書が記されている。奈良時代には五百原(いおはら)堰が作られ、平安時代の1110年十郷用水が開設され、五百原堰と結ばれた。28キロメートルもあった。大和平野や河内平野には「大溝」と呼ばれる用水路が作られていたが、五百原堰とか十郷堰とかの固有名詞はこの2つの堰が日本最初である。
 私の下宿近くの福井県丸岡町の足羽神社には継体天皇がまつられている。

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1 コメント

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農業、国家建設、平和 (y.s.)
2006-06-07 01:39:21
最近、農業と国家建設(nation building)、あるいは農業と平和の関係の重要性に気づくようになりました。



このところ少しの間、アフリカ経済の勉強をしました。1950年代には、アジア諸国の一人あたり所得とアフリカ諸国の一人あたり所得がほとんど同じだったのに、なぜいまこれだけアジアとアフリカの経済格差が開いているのか。両者の決定的な差の一つは、アジアは農業革命に成功し、農業生産性を大きく向上させることができたのに対して、アフリカでは農業革命が起こっておらず、農業生産性が大きく上昇していない点にあると言ってよいようです。

じつは農業生産性が上昇していない国は、アジアや中南米にもあって、たとえばハイチやネパールなどがそうなのです。ご承知のとおり、これらの国も、多くのアフリカ諸国と同様に政情が安定していません。それともう一つ重要なのは、土地制度で、中米で例外的に政情が安定しているコスタリカは、周辺国と異なって大地主が少なく自作農が多いという特徴があります。

アフリカで農業生産性が上昇しない理由はいろいろあるようなのですが、米作に関して言えば、農民同士の協力関係に基づいた用水路管理がなされない点に原因の一端を求める見解があります。そしてこの種の協力関係の構築には年月を要しますので、協力関係の形成に不慣れなうちは、なかなか用水路管理がなされず、農業生産性の向上にも結びつかない、というわけです。協力関係を形成する基盤になるのは、今風に言えば、「ソーシャル・キャピタル」です。



そんなこんなで、農業というのは、国家建設(nation building)や平和を大きく規定しているのではないかという気がしています。ちなみに、今週末に開催される日本平和学会では、「農は平和とどう結びつくのか」というプログラムがあります。

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