歴史の父と呼ばれるヘロドトスは、オクシデントの始原と言われるアテネではなく、オリエント、小アジア西岸のイオニアの南、ハルカリナッソスに、紀元前484年に生まれた。イオニアは、タレス、アナクシマンドロスといった自然哲学を生んだ地である。ヘロドトスの父も、こうした伝統の中で活躍した詩人、パニュアシスである。ヘロドトスを歴史学の父として称賛したのは、ストア派哲学者のキケロであった。
イオニアは、ペルシア支配への反抗を、ギリシャ植民市として最初に組織した市である。そうした抵抗運動が続く中、ヘロドトスは、故郷を離れ、地中海各地を遍歴することになった。自ら見聞したペルシャ戦争の歴史的意義を、彼は、「驚嘆すべき事跡」として、全9巻にわたる『歴史(ヒストリアイ))』を著したのである。
歴史とは、現場の証言である。彼は、その著の序で宣言する。
「本書は、ハリカリナッソス出身のヘロドトスが、人間界の出来事が時の移ろいとともに忘れ去られ、ギリシャ人や異邦人(バルバロイ)のはたした驚嘆すべき事跡の数々、とりわけ両者がいかなる原因から戦いを交えるに至ったかの事情も、やがて世の人に知られなくなることを恐れて、自ら探求調査したところのものを書き述べたものである」。
ヘロドトスの『歴史』は、ダレイソウ1世、クセルクセス1世が率いたペルシャ大軍のギリシャへの侵攻に対して、ギリシャ・ポリス市民連合が、マラトンの陸戦で、サラミスの海戦で、ミュカレ岬の戦いで、ペルシャ軍を破ったという大事件を記述したのはもちろんであるが、叙述はギリシャだけに限定されていない。ペルシャ、エジプト、小アジア、黒海沿岸、インドにまで筆を延ばしているのである。その理由を彼は次のように述べている。
「かつて強大であった国の多くが、いまや弱小となり、私の時代に強大であった国も、かつては弱小であったからである。されば、人間の幸運がけっして不動安定したものではないということわりを知る私は、大国も小国も均しく取り上げて述べてゆきたいと思うのである」。
エジプトでは、彼は、最南端の第一瀑布があるエレバンティネ、つまり、現在のアスワンまでの1000キロメートルも走破している。エーゲ海から東2000キロメートルのバビロニア、北はウクライナのステップ地帯を流れるドニエプル河の下流から上流のキエフまで行っている。イタリアでは南部のトリポリ地方にまで旅している。
1962年、呉茂一・中村光夫共著
『ギリシャ・ラテンの文学』(新潮社)
の劈頭で、次のようなヘロドトス評価が記述されている。
「ヘロドトスの出現の重大な意味は、単に彼がペルシャ戦役の記事をまとめたというだけではなく、この戦役の重大性をよく認識し、ここに初めて西洋と東洋との独立を確認したことにあります。ヘロドトスの時代には、ギリシャはまだごく若い国としてしか一般に考えられていませんでした。彼はエジプトに旅行し、相当長く滞在していたようですが、そこで彼が会ったエジプトの神官たちは、ギリシャを若い国とし、青少年に譬えました。エジプトのほか、ギリシャにとって先達の大国というべき国々には、バビロニア、アッシリア、フェニキアなどがありました。これらの東方の諸国に比較すると、ギリシャは、まだ若く、小さく、貧しい国でしかないように見えました。そかし、これらの国々を一まとめにしてアジアとみなし、ギリシャを本(もと)とする地続きの一帯をヨーロッパとし、この対立が根本的なものであるとして、そこから生まれたペルシャ戦役に勝利を得たことで、ギリシャの独立と自由とが確保されたというはっきりとした認識を持ったこと、ここにヘロドトスの、また当時のギリシャ人一般の、価値がありました。」
この叙述だけなら、この本は、ギリシャ万歳論として受け取られる危険性がある。そうではない、呉・中村の本は、ギリシャ自体が東方からの大きな影響を受けていることに言及している。その点については次回に説明する。またこのギリシャ哲学シリーズは、いいだもも氏の数多くの著作に導かれて学ぶギリシャ哲学論である。
(平成18年6月24日(土))
イオニアは、ペルシア支配への反抗を、ギリシャ植民市として最初に組織した市である。そうした抵抗運動が続く中、ヘロドトスは、故郷を離れ、地中海各地を遍歴することになった。自ら見聞したペルシャ戦争の歴史的意義を、彼は、「驚嘆すべき事跡」として、全9巻にわたる『歴史(ヒストリアイ))』を著したのである。
歴史とは、現場の証言である。彼は、その著の序で宣言する。
「本書は、ハリカリナッソス出身のヘロドトスが、人間界の出来事が時の移ろいとともに忘れ去られ、ギリシャ人や異邦人(バルバロイ)のはたした驚嘆すべき事跡の数々、とりわけ両者がいかなる原因から戦いを交えるに至ったかの事情も、やがて世の人に知られなくなることを恐れて、自ら探求調査したところのものを書き述べたものである」。
ヘロドトスの『歴史』は、ダレイソウ1世、クセルクセス1世が率いたペルシャ大軍のギリシャへの侵攻に対して、ギリシャ・ポリス市民連合が、マラトンの陸戦で、サラミスの海戦で、ミュカレ岬の戦いで、ペルシャ軍を破ったという大事件を記述したのはもちろんであるが、叙述はギリシャだけに限定されていない。ペルシャ、エジプト、小アジア、黒海沿岸、インドにまで筆を延ばしているのである。その理由を彼は次のように述べている。
「かつて強大であった国の多くが、いまや弱小となり、私の時代に強大であった国も、かつては弱小であったからである。されば、人間の幸運がけっして不動安定したものではないということわりを知る私は、大国も小国も均しく取り上げて述べてゆきたいと思うのである」。
エジプトでは、彼は、最南端の第一瀑布があるエレバンティネ、つまり、現在のアスワンまでの1000キロメートルも走破している。エーゲ海から東2000キロメートルのバビロニア、北はウクライナのステップ地帯を流れるドニエプル河の下流から上流のキエフまで行っている。イタリアでは南部のトリポリ地方にまで旅している。
1962年、呉茂一・中村光夫共著
『ギリシャ・ラテンの文学』(新潮社)
の劈頭で、次のようなヘロドトス評価が記述されている。
「ヘロドトスの出現の重大な意味は、単に彼がペルシャ戦役の記事をまとめたというだけではなく、この戦役の重大性をよく認識し、ここに初めて西洋と東洋との独立を確認したことにあります。ヘロドトスの時代には、ギリシャはまだごく若い国としてしか一般に考えられていませんでした。彼はエジプトに旅行し、相当長く滞在していたようですが、そこで彼が会ったエジプトの神官たちは、ギリシャを若い国とし、青少年に譬えました。エジプトのほか、ギリシャにとって先達の大国というべき国々には、バビロニア、アッシリア、フェニキアなどがありました。これらの東方の諸国に比較すると、ギリシャは、まだ若く、小さく、貧しい国でしかないように見えました。そかし、これらの国々を一まとめにしてアジアとみなし、ギリシャを本(もと)とする地続きの一帯をヨーロッパとし、この対立が根本的なものであるとして、そこから生まれたペルシャ戦役に勝利を得たことで、ギリシャの独立と自由とが確保されたというはっきりとした認識を持ったこと、ここにヘロドトスの、また当時のギリシャ人一般の、価値がありました。」
この叙述だけなら、この本は、ギリシャ万歳論として受け取られる危険性がある。そうではない、呉・中村の本は、ギリシャ自体が東方からの大きな影響を受けていることに言及している。その点については次回に説明する。またこのギリシャ哲学シリーズは、いいだもも氏の数多くの著作に導かれて学ぶギリシャ哲学論である。
(平成18年6月24日(土))