福井県は、『図説福井県史』という出版物をネットで公開している。これは、なかなかのできばえである。そこでは、継体天皇の妃たちの出身地を記載してくれている。すでにこの年代から、豪族たちは姻戚関係をなるべく広範に結ぼうとしていたことが示されていて興味深い。
『日本書紀』と『古事記』とでは、継体天皇に関する記述が異なるので、どこまでが史実であったのかは疑わしい。それでも、神話の中に、おそらくはそうであったろうなと思われる可能性が垣間見られる。大和政権がすでに最高の権威をもち、その血筋を地方の豪族は欲していたらしいということ、すでに越前、とくに三国の財力は図抜けていたであろうこと、越前から見れば大和への路も尾張への路も同じ程度の重要性をもっていたこと、姻戚関係はなるべく遠くの地域をも含むものであること、等々が『日本書紀』の記述から類推できる。
『日本書紀』によると、子供のいない大和政権の武烈天皇の死後、皇位継承者が周辺にいなかったことから、大連であった大伴金村が全国に候補者を探し周り、応神天皇の五世孫、越前の三国にいた男大迹(おほと)(57歳、後の継体天皇)に白羽の矢を立て(507年)、樟葉宮で即位させたとされている。この記述は限りなく怪しい。武烈天皇に子供がいなかったのは事実であろうが、さりとて、周囲に後継者候補が払底していたというのは信じがたい。それこそ、数え切れないほどの妃をもつ当時の風習の中で、それこそ何百人も天皇家に連なる血筋が存在していたであろうに、まったく、それらのことごとくが絶えていたという記述は信じ難い。
この点は、多くの人が研究してきたのであろうから、軽々に仮説を出すのはいいことではないとは思いつつ、事態は逆ではなかったかと思わざるをえない。逆というのは、継体が天皇家を簒奪したのではなかったのかということである。簒奪に当たって大伴金村が大きな役割を果たしたのであろう。大連とはいえ、皇族でないものが天皇の後継者を捜しまわるという事態そのものがありえないことである。
即位後、継体は、仁賢天皇の娘であった手白香皇女(たしらかのひめみこ)と結婚し、彼女を皇后にした。その後、山背の筒城(綴喜)宮、弟国(乙訓)宮を転々とした後、三国を出てから20年後、ようやく大和、磐余の玉穂に都を定めたとある。
『日本書紀』によると、継体の父は彦主人王といい、近江の三尾の別業にいたときに継体の母、振媛(ふりひめ)(三国の坂中井=高向出身)を妃に迎え、継体を産ませた。父、彦主人王の死後、母、振媛は子を連れて故郷の高向に帰った。母は、垂仁天皇の七世孫とされ、三尾という氏(うじ)の一族であったとされる。
五世孫、七世孫といっても、きちんとした戸籍制度のない時代に、そんなことを事実として認定するわけにはいかない。七世といえば、それこそ、150年以上も昔の話である。皇族の血筋は限りなく希薄である。重要なことは、直前の天皇の実際の娘と継体が結婚して、天皇家の血筋を継承したということである。
この点だけは事実のようである。『古事記』では、応神天皇の五世孫、袁本杼(おほど)が近江にいたところ、大和に呼び出され、元天皇の娘、手白髪命と結婚させられて、皇位につかされたとされている。
女系天皇の擁立が現在、かまびすしく論議されているが、継体天応は限りなく女系天皇に近い可能性がある。
継体の父は、近江湖東の豪族、息長氏とも言われている(『上宮記』の継体の系譜)。母は、いまの丸岡(高向)出身であるが、この付近には、六呂瀬山1号古墳、九頭竜川対岸の松岡、手繰ケ城や古墳、同じく、二本松山古墳など、いずれも石棺をもつ北陸最大級の古墳である。松岡の古墳は山そのものである。これらは、広域首長墳と言われ、4世紀から6世紀まで綴喜、6世紀以後は、碗貸山1号墳などの横山古墳群という前方後円墳が密集している。これが継体一族のものになることはあきらかである(写真参照)。
さらに、確認できる継体の9人の妃は、遠方の豪族の娘である。最初の妃、目子媛(めのこひめ)は、尾張の地名の基になった尾張氏の一族である。越前からの路は、大野を越えて、尾張に連なっていたのである。尾張への路、湖東地区、そして大和というように、継体は姻戚関係を広げていた。そうした布陣でもって大和政権を乗っ取った。そういうように、律令時代前の勢力地図を読み解くことも可能なのである。
『日本書紀』と『古事記』とでは、継体天皇に関する記述が異なるので、どこまでが史実であったのかは疑わしい。それでも、神話の中に、おそらくはそうであったろうなと思われる可能性が垣間見られる。大和政権がすでに最高の権威をもち、その血筋を地方の豪族は欲していたらしいということ、すでに越前、とくに三国の財力は図抜けていたであろうこと、越前から見れば大和への路も尾張への路も同じ程度の重要性をもっていたこと、姻戚関係はなるべく遠くの地域をも含むものであること、等々が『日本書紀』の記述から類推できる。
『日本書紀』によると、子供のいない大和政権の武烈天皇の死後、皇位継承者が周辺にいなかったことから、大連であった大伴金村が全国に候補者を探し周り、応神天皇の五世孫、越前の三国にいた男大迹(おほと)(57歳、後の継体天皇)に白羽の矢を立て(507年)、樟葉宮で即位させたとされている。この記述は限りなく怪しい。武烈天皇に子供がいなかったのは事実であろうが、さりとて、周囲に後継者候補が払底していたというのは信じがたい。それこそ、数え切れないほどの妃をもつ当時の風習の中で、それこそ何百人も天皇家に連なる血筋が存在していたであろうに、まったく、それらのことごとくが絶えていたという記述は信じ難い。
この点は、多くの人が研究してきたのであろうから、軽々に仮説を出すのはいいことではないとは思いつつ、事態は逆ではなかったかと思わざるをえない。逆というのは、継体が天皇家を簒奪したのではなかったのかということである。簒奪に当たって大伴金村が大きな役割を果たしたのであろう。大連とはいえ、皇族でないものが天皇の後継者を捜しまわるという事態そのものがありえないことである。
即位後、継体は、仁賢天皇の娘であった手白香皇女(たしらかのひめみこ)と結婚し、彼女を皇后にした。その後、山背の筒城(綴喜)宮、弟国(乙訓)宮を転々とした後、三国を出てから20年後、ようやく大和、磐余の玉穂に都を定めたとある。
『日本書紀』によると、継体の父は彦主人王といい、近江の三尾の別業にいたときに継体の母、振媛(ふりひめ)(三国の坂中井=高向出身)を妃に迎え、継体を産ませた。父、彦主人王の死後、母、振媛は子を連れて故郷の高向に帰った。母は、垂仁天皇の七世孫とされ、三尾という氏(うじ)の一族であったとされる。
五世孫、七世孫といっても、きちんとした戸籍制度のない時代に、そんなことを事実として認定するわけにはいかない。七世といえば、それこそ、150年以上も昔の話である。皇族の血筋は限りなく希薄である。重要なことは、直前の天皇の実際の娘と継体が結婚して、天皇家の血筋を継承したということである。
この点だけは事実のようである。『古事記』では、応神天皇の五世孫、袁本杼(おほど)が近江にいたところ、大和に呼び出され、元天皇の娘、手白髪命と結婚させられて、皇位につかされたとされている。
女系天皇の擁立が現在、かまびすしく論議されているが、継体天応は限りなく女系天皇に近い可能性がある。
継体の父は、近江湖東の豪族、息長氏とも言われている(『上宮記』の継体の系譜)。母は、いまの丸岡(高向)出身であるが、この付近には、六呂瀬山1号古墳、九頭竜川対岸の松岡、手繰ケ城や古墳、同じく、二本松山古墳など、いずれも石棺をもつ北陸最大級の古墳である。松岡の古墳は山そのものである。これらは、広域首長墳と言われ、4世紀から6世紀まで綴喜、6世紀以後は、碗貸山1号墳などの横山古墳群という前方後円墳が密集している。これが継体一族のものになることはあきらかである(写真参照)。
さらに、確認できる継体の9人の妃は、遠方の豪族の娘である。最初の妃、目子媛(めのこひめ)は、尾張の地名の基になった尾張氏の一族である。越前からの路は、大野を越えて、尾張に連なっていたのである。尾張への路、湖東地区、そして大和というように、継体は姻戚関係を広げていた。そうした布陣でもって大和政権を乗っ取った。そういうように、律令時代前の勢力地図を読み解くことも可能なのである。