1880年(明治13年)、浦上庄屋屋敷を買って、キリシタンたちは教会建設にとりかかった。1895年(明治28年)から本聖堂の建設にかかり、1914年(大正3年)、着工以来20年目に落成した。貧しい生活の中から金を出しあい、労力奉仕をつづけた。
建物の正面に2つの塔をつくって、すべてが完成したのは1925年(大正14年)であった。間口18メートル、奥行き62メートル、高さ25メートル、双塔の高さ24メートル、東洋一の教会堂であった。
浦上は明治、大正時代から、昭和にはいって、信仰と祈りの村として生きつづけた。ミレーの名作「晩鐘」そのままの風景が、毎日、普通のこととして見られた。しかし、『浦上四番崩れ』から帰郷した後も、キリシタンに対する差別、蔑視は続いた。
被差別が長崎市の寺町から西坂町に移され、更に浦上に移されたのは、浦上キリシタン監視のためだった。の人たち400数10人が被爆で亡くなった。同じ運命にさらされたキリシタンとの人たち――それが長崎原爆の特徴でもあった。
昭和の戦争の時代になって、またもやキリシタンに対する迫害と弾圧はくり返された。
昭和12年7月、日本が中国大陸に出兵して、国内が急にさわがしくなってきた。ちょうどその頃、シスター江角ヤスは苦心して家野町に純心高等女学校を新築したばかりであった。長崎県警察部の特高課の刑事が訪ねてきて、質問した。
「この学校は、外国人との関係はどうなのか」
江角校長は、純心聖母会が日本人だけの修道会で、外国から資金はもらっていないと説明すると刑事は帰って行った。そのうち、特高の警察官ばかりでなく、陸軍の憲兵までが、長靴で荒々しくはいってきた。憲兵は長い剣を両膝の間に突き立てて、ものものしく構えて、取り調べでもするようにいった。
「お前たちの神様のキリストと、天皇陛下とどっちが上か下か」
江角校長は、おちついていた。
「キリストと天皇陛下とは、上も下もございません」
江角校長は、軍人とはなんと乱暴な考え方をするものだろうと思いながら、反論した。このころの憲兵に反論することは、江戸時代のキリシタンが、長崎奉行に抗議するのと同じような、勇気のいることであった。
「日本人らしく、天皇陛下をおがんで、キリストなどをおがむのは、やめたらどうだ」 「この非常時に、キリストを信仰しておったら、天皇陛下にそむくことだぞ」
憲兵の粗暴な頭脳では、江角校長に歯が立たなかった。江角校長は綿密な思考をもっていた。彼女は当時日本女子教育最高の名門、東京女子高等師範学校を卒業して、東北帝国大学で数学を専攻した。当時、日本中の帝国大学で女子を入学させたのは東北帝国大学だけであった。
江角校長が黒の修道服姿で、電車の中でラテン語の祈祷書で祈っていると、近くの男が大声をあげた。「何だ、人前で英語なんか読みやがって。非国民め」。
「日本人のくせに、毛唐のまねをしやがって、つん燃やしてやるぞ」
とうとう、修道女たちは、修道服をぬいでモンペやズボンの姿になった。聖堂で声を合わせて祈ることも、ひかえるようになった。憲兵はしばしばやってきた。「日本人なら日本人らしく、日本の神様をおがめ。教員室に神棚を作って、伊勢神宮のお札をまつって、毎朝必ずおがめ。お前たちはキリストを毎朝おがむそうだが、伊勢神宮も、毎朝おがめ」。憲兵のいってきたことは、国の方針にもなっていたので、純心高女でも神棚を教員室に設けた。そして、その中に伊勢神宮のお札というものを納めた。江角校長以下、修道女や職員は、毎朝、その前にならんで、柏手を打って、最敬礼をした。
このような迫害や圧迫は、戦争が長引いてくると激しくなった。佐世保では憲兵隊長がカトリック教会に乗り込んできて、建物の撤去を要求した。それに呼応して右翼団体が市中を演説してまわった。
そのうち、教会の中に暴漢が侵入して器物を破壊してあばれた。信者の家には、脅迫状が送られてきた。誰も助ける者はいなかった。学校に行く子供にまで、「伝道士の子はスパイの子だ」と、石を投げつけた。
信者総代のひとりは、憲兵に尾行されるようになり、さらには憲兵隊に軟禁された。 このようなことは、日本全国でおこり、憲兵は至るところで陰険で暴虐な行動をした。
真夜中に、シスター江角は荒々しい叫び声でおこされた。「この非国民め」「売国奴」と、ののしる声が聞こえた。大変なけんまくであった。シスター江角は驚いて、戸口に身をひそめるようにして、恐る恐る、わけを尋ねた。外に来ていたのは、町の警防団の団員たちであった。
「明かりがもれているぞ。早く、消せ」
「灯火管制の演習をなんだと思っているのか」
演習のあることは知っていた。建物のなかの電灯は、全部消すか、覆いをつけておいた。ところがよく聞いてみると、礼拝堂のなかに、あかりがついている、というのだ。シスター江角はあきれてしまった。あかりといっても、聖体の安置を示す常夜灯の小さなランプである。そんな光であれば、空中の飛行機から見えるはずはなかった。しかし、うかつなことは言えなかった。警防団はいきり立っていた。
建物の正面に2つの塔をつくって、すべてが完成したのは1925年(大正14年)であった。間口18メートル、奥行き62メートル、高さ25メートル、双塔の高さ24メートル、東洋一の教会堂であった。
浦上は明治、大正時代から、昭和にはいって、信仰と祈りの村として生きつづけた。ミレーの名作「晩鐘」そのままの風景が、毎日、普通のこととして見られた。しかし、『浦上四番崩れ』から帰郷した後も、キリシタンに対する差別、蔑視は続いた。
被差別が長崎市の寺町から西坂町に移され、更に浦上に移されたのは、浦上キリシタン監視のためだった。の人たち400数10人が被爆で亡くなった。同じ運命にさらされたキリシタンとの人たち――それが長崎原爆の特徴でもあった。
昭和の戦争の時代になって、またもやキリシタンに対する迫害と弾圧はくり返された。
昭和12年7月、日本が中国大陸に出兵して、国内が急にさわがしくなってきた。ちょうどその頃、シスター江角ヤスは苦心して家野町に純心高等女学校を新築したばかりであった。長崎県警察部の特高課の刑事が訪ねてきて、質問した。
「この学校は、外国人との関係はどうなのか」
江角校長は、純心聖母会が日本人だけの修道会で、外国から資金はもらっていないと説明すると刑事は帰って行った。そのうち、特高の警察官ばかりでなく、陸軍の憲兵までが、長靴で荒々しくはいってきた。憲兵は長い剣を両膝の間に突き立てて、ものものしく構えて、取り調べでもするようにいった。
「お前たちの神様のキリストと、天皇陛下とどっちが上か下か」
江角校長は、おちついていた。
「キリストと天皇陛下とは、上も下もございません」
江角校長は、軍人とはなんと乱暴な考え方をするものだろうと思いながら、反論した。このころの憲兵に反論することは、江戸時代のキリシタンが、長崎奉行に抗議するのと同じような、勇気のいることであった。
「日本人らしく、天皇陛下をおがんで、キリストなどをおがむのは、やめたらどうだ」 「この非常時に、キリストを信仰しておったら、天皇陛下にそむくことだぞ」
憲兵の粗暴な頭脳では、江角校長に歯が立たなかった。江角校長は綿密な思考をもっていた。彼女は当時日本女子教育最高の名門、東京女子高等師範学校を卒業して、東北帝国大学で数学を専攻した。当時、日本中の帝国大学で女子を入学させたのは東北帝国大学だけであった。
江角校長が黒の修道服姿で、電車の中でラテン語の祈祷書で祈っていると、近くの男が大声をあげた。「何だ、人前で英語なんか読みやがって。非国民め」。
「日本人のくせに、毛唐のまねをしやがって、つん燃やしてやるぞ」
とうとう、修道女たちは、修道服をぬいでモンペやズボンの姿になった。聖堂で声を合わせて祈ることも、ひかえるようになった。憲兵はしばしばやってきた。「日本人なら日本人らしく、日本の神様をおがめ。教員室に神棚を作って、伊勢神宮のお札をまつって、毎朝必ずおがめ。お前たちはキリストを毎朝おがむそうだが、伊勢神宮も、毎朝おがめ」。憲兵のいってきたことは、国の方針にもなっていたので、純心高女でも神棚を教員室に設けた。そして、その中に伊勢神宮のお札というものを納めた。江角校長以下、修道女や職員は、毎朝、その前にならんで、柏手を打って、最敬礼をした。
このような迫害や圧迫は、戦争が長引いてくると激しくなった。佐世保では憲兵隊長がカトリック教会に乗り込んできて、建物の撤去を要求した。それに呼応して右翼団体が市中を演説してまわった。
そのうち、教会の中に暴漢が侵入して器物を破壊してあばれた。信者の家には、脅迫状が送られてきた。誰も助ける者はいなかった。学校に行く子供にまで、「伝道士の子はスパイの子だ」と、石を投げつけた。
信者総代のひとりは、憲兵に尾行されるようになり、さらには憲兵隊に軟禁された。 このようなことは、日本全国でおこり、憲兵は至るところで陰険で暴虐な行動をした。
真夜中に、シスター江角は荒々しい叫び声でおこされた。「この非国民め」「売国奴」と、ののしる声が聞こえた。大変なけんまくであった。シスター江角は驚いて、戸口に身をひそめるようにして、恐る恐る、わけを尋ねた。外に来ていたのは、町の警防団の団員たちであった。
「明かりがもれているぞ。早く、消せ」
「灯火管制の演習をなんだと思っているのか」
演習のあることは知っていた。建物のなかの電灯は、全部消すか、覆いをつけておいた。ところがよく聞いてみると、礼拝堂のなかに、あかりがついている、というのだ。シスター江角はあきれてしまった。あかりといっても、聖体の安置を示す常夜灯の小さなランプである。そんな光であれば、空中の飛行機から見えるはずはなかった。しかし、うかつなことは言えなかった。警防団はいきり立っていた。