消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

際限なく巨大化する米銀とその仕掛け人たち 4

2006-11-28 04:28:45 | 時事

Ⅲ シティ・グループを形成させた華麗な人脈

 世の中は多かれ少なかれ人脈で動くものである。私たちの小さな生活空間から、大きな宗教界、政界、財界、学会という大きな世界に至るまで、人脈の重要さについては誰でも皮膚感覚で知っている。しかし、巨大組織が合併したり、当事者間の紛争に介入したりする人脈については、それがあまりにも生々しいがゆえに、公の目にさらされることは少ない。筆者もシティ・グループ形成に果たした人脈を懸命に探って見たが正確なことを確定できないでいる。

 現在、日本でただ1人、金融界の人脈を探っている広瀬隆の『世界金融戦争』(NTT出版、2002年)に全面的に依拠して人脈理解のよすがとさせていただきたい。以下はすべて広瀬隆からの転載である。

  ①ゴールドマン・サックスはロスチャイルド資本で動いている。ゴールドマン・サックスの若きホープがロバート・ルービンであった。ルービンは鉄道王の未亡人パメラ・ハリマンと組んでクリントンを大統領にすることに貢献した。財務長官として活躍したが1999年7月2日の退任に際して「金融近代化法」(Financial Modernization Act)成立に貢献した。

  ②倒産した「ロングターム・キャピタル・マネジメント」(LTCM)の創業者ジョン・メリウェザー(John Meriweather)は「ソロモン・ブラザーズ」副会長を経験し、経営幹部でノーベル経済学賞を受けたロバート・マートン(Robert Marton)は「トラベラーズ」の投資部門担当重役であった。

  ③「ドレクセル・バーナム・ランベール」のドレクセルは「モルガン商会」を設立した名門1族、ランベールはリュシー・ロスチャイルド(Ricie Rothschild)と結婚したベルギーの男爵レオン・ランベール(Leon Lambert)の同名の孫であった。

  ④1979年ワイルが買収した老舗「レーブ・ローズ・ホーンブロワー商会」は「世界ユダヤ人会議」(World Jewish Congress)議長エドガー・ブロンフマン(Edgar Bronfman)1族の経営になるものである。この商会はハリウッドのMGMをも支配していた。1981年に「シェアソン・レーブ・ローデズ」が「ボストン・カンパニー」を買収するに当たって「グラス・シティーガル法」違反の疑いがあったのに、問題視しなかったSEC委員長のジョン・シャドはワイルが買収した「シェアソン・ハミル」の元幹部であった。そしてSEC委員長に就任する前は投資会社「E・F・ハットン」の会長であった。当時のレーガン政権時代の「連邦準備制度理事会」(FRB)議長のポール・ボルカー(Paul Volcker)も問題にしなかった。ボルカーは「チェース・マンハッタン」(Chase Manhattan)銀行の副頭取を経験し、FRB議長退任後は創設者がシティ・グループのアドバイザーとなる投資会社「ウォルフェンゾーン」の会長をしていた。ジョン・シャドが会長を務めていた「E・F・ハットン」は、「ゼネラル・フーズ」(General Foods)会長のエドワード・フランシス・ハットン(Edward Francis Hutton)が設立した会社である。ハットン自身の姻戚には、ウォール街の地主で全米最大の財閥を形成したアスター(Aster)1族、「暗黒の木曜日」を引き起こした財務長官アンドリュー・メロン(Andrew Melon)、SECを設立した大統領フランクリン・ルーズベルト(Franklin Roosevelt)がいる。ジョン・シャドがハットン死後、それまで務めていたシェアソンから急遽「E・F・ハットン」に移籍したのもこうした華麗な人脈を得るためであった。

  ⑤「プライメリカ」は缶詰製造を制覇した「アメリカ製缶」(American Can)が本業を売却してJ・P・モルガン系列の「ギャランティー・トラスト」(Guarantee Trust)を基盤とする名門証券「スミス・バーニー・ハリス・アッパム」を買収してできあがった。89年に「コマーシャル・クレジット・グループ」(Commercial Credit Group)を買収して社名を「プライメリカ」に変えた。

  ⑥ワイルの個人資産は『フォーブズ』によれば、98年6億7500万ドル、年収は全米の企業経営者の中で1位の2億2761万ドルであったが、2002年には資産18億ドルと3倍にもなった。人口2600万人のアフガニスタンを救うために2002年東京で供出が約束された支援金が世界で13億円であった。それはワイル個人にも及ばない額であった(同、78~94ページ)。「昔であれば独占資本として多くの批判を浴びたはずの巨大化が、むしろどこの国でもかなりの国民と大部分の政治家によって支持されている」(同、94ページ)。 「シティ・グループ」のホームページにはアドバイザーの経歴が掲載されている。その中の2人を引用しておこう。

  「シティ・グループ・シニア・アドバイザー」(Citigroup Senir Adviser)にハワード・ベーカー」(Howard H. Baker, Jr.)がいる。ベーカーは1966年テネシー州(Tennessee)選出共和党上院議員、第26代米国駐日大使、上院院内総務(US StateSenate Majority Leader)を歴任し、2005年には駐日大使を辞めた後、祖父が設立した法律事務所「べーカー・ドネルソン・ビアマン・カルドウェル・バルコウィッチ事務所」(Baker, Donelson, Bearman, Caldwell & Berkowitz, PC)に復帰し、同年より「シティ・グループ」のアドバイザーになっている。ベーカーの駐日大使は、子ブッシュ(George W. Bush)によって2001年に任命されたものである。

 1976年国連大使、1985~1990年まで大統領の「国際情報局」(President's Foreign Intelligence Board)、さらに「外交問題評議会」(Council on Foreign Relations)、『フォーリン・アフェアーズ』(Foreign Affairs)理事を歴任した有力者である。

 イスラエルとパレスティナとの仲介を国連から委嘱されたいたジェームズ・ウォルフェンゾーン(James D. Wolfensohn)も2005年から「シニア・アドバーザー」、2006年には同グループ「国際顧問会議議長」(Chairman of Citigroup's International Advisory Committee)になっている。10年間第9代世銀総裁(President of the World Bank)を2005年まで務めた。彼自身も投資銀行家である。「ジェームズ・D・ウォルフェンゾーン」(James D. Wolfensohn, Inc.)のCEOであった。1981年にこの銀行を設立し、世銀入行時に会社を清算している。自分の銀行設立前はニューヨークの「ソロモン・ブラザーズ」の共同経営者(Executive Partner)、ロンドンの「シュローダーズ」の副会長をも歴任した。ニューヨークの「J・ヘンリー・バンキング・コーポレーション」(J. Henry Schroders Banking Corporation)頭取も務めている。18年間「プリンストン大学応用研究所理事会」(Board of Institute for Advanced Study at Princeton University)理事長を務めた。「カーネギー・ホール」(Carnegie Hall)運営委員長、「ロックフェラー基金」(Rockefeller Foundation)理事でもある。出身はオーストラリアで、同国空軍の経験もある。1956年フェンシングでオーストラリアのオリンピック出場選手でもあった。


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