Ⅱ シティ・グループ傘下に組み込まれた老舗金融機関
上記のような相次ぐ合併劇の事実のみを記しても事の本質が浮かび上がるわけではない。合併を推進させた金融人脈こそが重要なのである。「シティ・グループ」という巨大金融集団の出現とは、とてつもなく巨大な力をもつ金融人脈が形成されたことを意味するのである。
(1)「シティ・コープ」 「シティ・コープ」の1方の旗頭である「シティ・バンク」(Citibank)は1812年の「シティ・バンク・オブ・ニューヨーク」(City Bank of New York)を嚆矢とする。創設者はサミュエル・オスグッド(Samuel Osgood)である。合併を繰り返して1865年「ナショナル・シティ・バンク・オブ・ニューヨーク」(National City Bank of New York)になり、1894年には全米最大の銀行になる。1897年最初の海外支店を設置し、上海、マニラに進出する。1913年「ニューヨーク連邦準備銀行」(Federal Reserve Bank of New York)設立に寄与する。1929年には世界最大の商業銀行になる。1939年には世界23か国で100支点をもつようになる。1940年ウィリアム・ゲイジ・ブレイディ(William Gage Brady Jr.)が頭取になり、1952年ジェームズ・スティルマン・ロックフェラー(James Stillman Rockfeller)が頭取になる。1962年創立150年を期して「ファースト・ナショナル・シティ・バンク」(First national City Bank)と改称。1968年持株会社「ファースト・ナショナル・シティ・コーポレーション」(First National City Corporation)設立。この持株会社が1974年に「シティ・コープ」(Citicorp)と改称。そして傘下の「ファースト・ナショナル・シティ・バンク」が「シティ・バンク・N・A」(Citibank for National Association)と改称。1981年「ダイナーズ・クラブ」(Diners Club)を買収。1984年ジョン・リードが頭取、1998年まで。1992年「シティ・バンク・N・A」が全米最大の銀行になる。1993年世界最大のクレジット・カード提供銀行となる。そして、1998年「シティ・グループ」を結成するのである(Citigroupホームページより)。
(2)「リーマン・ブラザーズ」 1850年、ドイツ・リンパール(Rimpar)から移民してきたリーマン3兄弟、ヘンリー(Henry)、エマニュエル(Emanuel)、マイヤー(Meyer)によって設立された証券会社である。1844年若干23歳で長男のヘンリーがアラバマ州(Alabama)、モンゴメリー(Montgomery)で設立した衣料店を出発点とする。原棉ビジネスを経て証券仲介業務を営むことになる。証券会社の名は「リーマン・ブラザーズ・ホールディング」(Lehman Brothers Holdings, Inc.)。南北戦争(U.S. Civil War)後、アラバマ州再建に貢献。鉄道債で大儲け。20世紀に入って株式発行を主たる資金調達手段にする金融手法を普及するのにも貢献。フィリップ・リーマン(Philip Lehman)が経営者の時、「ゴールドマン・サックス」(Goldman, Sachs & Co.)のパートナーとなり、「ジェネラル・シガー」(General Cigar Co.)という煙草会社や「シアーズ・ローバック」(Sears Roebuck & Company)などを上場させる。以後20年間で100を超える会社を「ゴールドマン・サックス」と組んで上場させる。1929年本体から分離した投資会社「リーマン・コーポレーション」(Lehman Corporation)を設立し、資産管理会社としての絶大な地位を得る。1969年ロバート(Robert)・リーマン死去後、経営にリーマン1族が関わらなくなった。1977年CEOのピート・ピーターソン(Pete Peterson)の下で「クーン・レーブ」(Kuhn, Loeb & Co.)と合併し、「リーマン・ブラザーズ・クーン・レーブ」(Lehman Brothers, Huhn Loeb Inc.)となる。しかし、この会社は投資バンカー(Investment Banker)とトレーダー(Trader)との角逐が深刻になり、ピーターソンは、トレーダーのキャップのルイス・グラックマン(Lewis Gluckman)を1983年5月に共同CEOとして遇するが、結局はピーターソンが追い出され、グラックマンが実権を握る。このグラックマンがCEOの時の1984年3・6億ドルで「アメリカン・エクスプレス」に買収されてしまう。これが「シェアソン・リーマン・アメリカン・エクスプレス」(Sheason Lehman/American Express)になる。名門中の名門である「クーン・レーブ」商会の名がここに消えたのである。そして1988年、この会社と「E・F・ハットン」(Hutton)が合併して 「シェアソン・リーマン・ハットン」(Sheason Lehman Hutton Inc.)になる。そして、再度、「プリメリカ」のワイルに買収されたのが1993年のことであった(Wikipediaによる)。
(3)「クーン・レーブ」 「クーン・レーブ」は1867年アブラハム・クーン(Abraham Kuhn)とソロモン・レーブ(Salomon Loeb)によって創設された投資銀行である。19世紀末から20世紀にかけてジェイコブ・シフ(Jacob H. Schiff)の下で「J・P・モルガン」(J.P.Morgan & Co.)の最大のライバルとして金融界に君臨した名門である。鉄道債の取引で米国では第2位の地位を確保し続けた。とくに鉄道王のE・H・ハリマン(Harriman)が優良顧客であった。経営陣にはオットー・カーン(Otto Kahn)、フェリックス・ウォーバーグ(Felix Warburg)といった大物が1920年のシフの死後も続いた。「ウェスティング・ハウス」(Westinghouse)や「ポラロイド」(Polaroid)といった新興企業を支援するので夢有名な投資会社であった。しかし、この名門も激しい金融戦争で没落し、1977年には独立性を失った。上記のように、「リーマン・ブラザーズ」に買収されたのである(Wikipediaによる)。
(4)「スミス・バーニー」 「トラベラーズ・グループ」の「スミス・バーニー」の経緯も見ておこう。1873年証券仲買人チャールズ・バーニー(Charles Barney)が「チャールズ・D・バーニー」(Charles D. Barney & Co.)を設立。1892年エドワード・スミス(Edward Smith)が投資銀行「エドワード・D・スミス」(Edward B. Smith & Co.)を設立。1910年ハーバート・アーサー(Hurbert Arthur)とパーシー・ソロモン(Percy Salomon)が「ソロモン・ブラザーズ」(Salomon Brothers & Co.)を設立、さらに「モートン・ハッツラー」(Motron Hutzler)と組んで「ソロモン・ブラザーズ&ハッツラー」(Salomon Brothers & Hutzler)となる。1938年「チャールズ・D.バーニー」と「エドワード・B・スミス」)が合併して「スミス・バーニー」(Smith Barney & Co.)となる。1970年「ソロモン・ブラザーズ&ハッツラー」の「ハッツラー」が落ちて「ソロモン・ブラザーズ」だけになる。1976年「スミス・バーニー」が「ハリス・アッパム」(Harris, Upham & Co.)と合併して「スミス・バーニー・ハリス・アッパム」(Smith Barney, Harris Upham & Co.)となる。この時のバーニー側の副頭取が初代J・P・モルガン(Morgan)の曽孫ジョン・アダムズ・モルガン(John Adams Morgan)であった。1989年ワイルが「プリメリカ」に「アメリカン・エクスプレス」から移籍する。1987年「スミス・バーニー・ハリス・アッパム」が「プリメリカ」(Primerica)に買収される。1993年7月「プリマリカ」が「シェアソン・リーマン・ブラザーズ」(Sheason Lehman Brothers)を買収して「スミス・バーニー」に編入させる。同年12月「プリマリカ」が「トラベラーズ」を買収し、「スミス・バーニー」は「トラベラーズ・グループ」傘下に入った。そして1997年「スミス・バーニー」が「ソロモン」と合併して「ソロモン・スミス・バーニー・ホールディング」(Salomon Smith Barney Holdings Inc.)となり、1998年を迎える(Citigroupのホームページより)。
(5)「ドレクセル・バーナム・ランベール」 フランシス・マーチン・ドレクセル(Francis Martin Drexel)がフィラデルフィアに「ドレクセル」(Drexel & Company)という銀行を1837年設立した。フランシスは、1792年オーストリーのチロル(Tyrol)に生まれた。1803年宗教絵画を学びにイタリアに留学、1809年帰国した時には故郷はフランス軍によって占領されていた。スイスやフランスを転々として絵画の勉強を続けた後、1817年アムステルダムからフィラデルフィアに移民。しかし、ペルーやチリを漫遊して絵画の勉強を続ける。南アメリカの将軍(General)サイモン・ボリバール(Simon Bolivar)の肖像をその時に描いている。ちなみに、ボリビアという国名は南アメリカのこの独立闘争の闘士ボリバールの名前からきたものである。南アメリカを2度訪問した後、メキシコにも寄り、フィラデルフィアに帰って銀行を設立したのである。当時は米国最大の銀行であった。 1847年、21歳の息子のアンソニー・ジョセフ・ドレクセル(Anthony Joseph)が加わり、カリフォルニア州の金採掘業務に融資していた。メキシコ戦争(Mexican War)や南北戦争時には連邦政府債を扱っていた。1863年父フランシスの死後、息子のアンソニーが社長となって後、1868年パリに「ドレクセル・ハージェ」(Drexel, Harjes & Co.)を設立し、1871年には、J・P・モルガンと組み、当時世界最大の銀行「ドレクセル・モルガン」(Drexel, Morgan and Co.)を設立した。社名からモルガンを消した後、さらに、「バーナム・&カンパニー」(Burnham & Company)と合併し、「ドレクセル・バーナム」となる。経営危機に陥った時にブリュッセルの銀行が救済に入る。「グループ・ブリュセル・ランベール」(Groupe Bruxxelles Lambert)である。そして、「ドレクセル・バーナム・ランベール」に社名を変更する。行員には著名な経済学者のアビー・ジョセフ・コーエン(Abby Joseph Cohen)もいた。しかし、1980年代にはジャンク・ボンドに傾斜する。有名なマイケル・ミルケン(Michael Milken)が活躍した頃である。1986年には会社は5・45億ドルもの空前の純利益を上げ、1987年にはミルケンは5・5億ドルの報酬を得た。しかし、アイバン・ボースキー(Ivan Boesky)やデニス・レビン(Dennis Levine)などがインサイダー取引で司直に逮捕され、彼らを雇っていた同社は経営に行き詰まり、1990年市場から姿を消した。 ただし、創始者の芸術家としての素養は子供たちにも受け継がれ、1826年9月13日生まれのアンソニーは「ドレクセル大学」(Drexel University)を創設。1833年1月24日生まれのジョセフ・ウィリアム・ドレクセル(Joseph William)は1876年に銀行業務から引退した後、「メトロポリタン美術館」(Metropolitan Museum and Art)や「米国ナショナル科学アカデミー」(U.S. National Academy of Sicence)の管財人を務め、「メトロポリタン・オペラ・ハウス」(Metropolitan Opera House)理事を歴任した。1824年6月20日生まれのフランシス・アンソニー・ドレクセル(Francis Anthony)は聖キャサリン・ドレクセル(Saint Katharine Drexel)の父である(Wikipediaによる)。 聖キャサリン・ドレクセルは1858年3月3日というカトリックの聖なる日に誕生。1955年死去という長寿。ネイティブ・インディアンや有色人種の教育・福祉に2000万ドルを寄進。貧民地区にシスター養成所を設立。1988年ローマ法王・パウロ2世(Pope John Paul Ⅱ)によって列福された(beautified)(死者を天福を受けた者の列に加えること)(Catholic Online, Festday: March 3, 1955, http://www.catholic.org)。