消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

際限なく巨大化する米銀とその仕掛け人たち 2

2006-11-25 01:33:24 | 時事
 Ⅰ シティ・グループ形成史

 世界100か国で営業するシティ・グループの業績は目覚ましい。2005年度の収益836億ドル、当期純利益246億ドル、株主資本利益率22・3%、株主持分(自己資本)1188億ドル。収益基盤は4つに分かれている。グローバル個人金融部門が最大の柱で収益の53%を稼ぎ出している。法人金融・投資銀行部門が34%、グローバル・ウェルネス・マネジメント部門が6%、シティグループ・オルタナティブ・インベストメンツ7%。地域別では米国内が圧倒的に大きく57%である。日本を除くアジア14%、日本6%、メキシコ10%、メキシコを除くラテンアメリカ5%、ヨーロッパ・中東・アフリカ8%と米国以外ではアジアとラテンアメリカに集中している。

 1998年10月、保険持株会社旧トラベラーズ(Travelers)(後述)と大手銀行持株会社旧シティコープ(Citicorp)(後述)が統合したことによりシティ・グループの大枠ができた。銀行、証券、保険引受という総合金融サービス機関となった

 シティ・グループの本拠はニューヨークにある。『フォーブズ』(Forbes)の『グローバル2000』(Global 2000)によれば、世界最大の企業にしてもっとも収益を上げている金融機関である。大恐慌以降、銀行業務と保険引受業務を兼営する最初の米国企業である。従業員30万人超、世界の顧客数2億人以上、米国財務省証券の主たるディーラーである。

 The Thomson Financial League,2003によれば、同社のシェアは、世界の資本市場の10%、消費者金融6%、プライベート顧客サービス5%、米国内リテール銀行業務4%である。

 こうした巨大金融コングロマリットを形成させた立役者はスタンフォード・ワイル(Stanforf Weill、愛称サンディ・ワイル、Sandy Weill)である。合併時にはトラベラーズのCEOがワイル、シティコープのCEOがジョン・リード(John Reed)であった。

 ワイルは大恐慌時ニューヨークのブルックリン(Brooklyn)に生まれた。両親はポーランド系ユダヤ人である。コーネル大学に入るが空軍に属し、パイロットでもあった。1955年ウォール街の「ベア・スターンズ」(Bear Stearns)に入社したのが彼の最初の就職である。友人にアーサー・カーター(Arthur Carter)がいた。カーターはその時には「リーマン・ブラザーズ」(Lehman Brothers)(後述)に勤務していた。そして1960年5月ワイルはカーターとその他2人(Roger Berlind、Peter Potoma)と組んで「カーター・バーリンド・ポトマ&ワイル」(Carter,Berlind, Potoma&weill)という証券ブローカー社を設立し、ワイルが社長になって、15を越えるM&Aを繰り返して、1970年「CBWL・ハイデン・ストーン」(CBWL-Hayden, Sone Inc.)という会社になった。このいCBWLという会社はふざけた名前である。ニューヨーク証券取引所はこのような名称でも上場させるのかとの思いを強くする。つまり、この会社は「レタス付きコーン・ビーフ」(Corned Beef With Lettuce)である。さらに、会社は合併を継続して、1972年「ハイデン・ストーン」(Hayden Stone,Inc.)、1974年「シェアソン・ハミル」(Sheason Hammill & Co.)と合併して「シェアソン・ハイデン・ストーン」(Sheason Hayden Stone)、1979年「レーブ・ローデズ・ホーンブロワー」(Loeb Rhoades Hornblower)と合併して「シェアソン・レーブ・ローデズ」になる。これは1867年に創設された「クーン・レーブ」(Kuhn, Loeb & Co.)という名門証券会社の後継である(後述)。

 「ホーン・ブロワー」というのもいい加減な名前である。この「シェアソン・レーブ・ローデズ」は1979年時点で資本金2・5億ドルと当時の「メリル・リンチ」(Merrill Lynch)に継ぐ第2位の規模にまでのし上がった(前掲、Citigroupホームページより検索)。

 1981年、「ボストン・カンパニー」(Boston Company)買収。これは金融界に大きな衝撃を与えた。「シェアソン・レーブ・ローデズ」という証券会社が「ボストン・カンパニー」という銀行を兼営することになり、1933年の「グラス・スティーガル法」(Glass-Steagall Act)に抵触することになるからである(広瀬隆『世界金融戦争』NHK出版、2002年、84ページ)。これは当時の「証券取引委員会」(SEC)委員長、ジョン・シャド(John Shudd)によって問題にされなかった(後述)。

 1981年、ワイルは「シェアソン・レーブ・ローデズ」を「アメリカン・エクスプレス」(American Express)に9・3億ドルで売却する。1983年ワイルは「アメリカン・エクスプレス」の会長(president)となる。しかし、1985年8月52歳の時に、ワイルは「アメリカン・エクスプレス」を去る。

 1度は「バンカメ」(BankAmerica)のCEOを狙ったり、「メリルリンチ」の買収を画策したりするが、いずれも失敗して、1986年、今度はミネアポリス(Minneapolis)を基盤とした「コントロール・データ・コーポレーション」(Control Data Corporation)から子会社「コマーシャル・クレディット」(Commercial Credit)という小さな消費者金融会社を700万ドルで買収し、自らがCEOに就任した。

 
この会社は徹底的なリストオラ路線をとってIPOで成功する。1987年「ガルフ保険」(Gulf Insurance)を買収、1988年「スミス・バーニー」(Smith Barney)(後述)と「A・L・ウィリアムズ保険」(Williams Insurance Company)の親会社である「プリメリカ」(Primerica)を15億ドルで買収、1989年には「ドレクセル・バーナム・ランベール」(Drexel Burnham Lambert)(後述)という証券仲介業の会社を買収、1992年には7・22億ドルで「トラベラーズ保険」(Travelers Insurance)株27%を取得した。この時の「トラベラーズ保険」は 不動産投資に失敗して経営難に喘いでいたのである。

 1993年には、1981年に「アメリカン・エクスプレス」(アメックス)に売却していた旧「シェアソン・レーブ・ドーデズ」、その時には「シェアソン・リーマン」(Sheason Lehman)となっていた証券会社を12億ドルで「アメックス」から買い戻し、同年末、40億ドルで1985年に辞職した「トラベラーズ・コープ」そのものを買収してしまう。そして自ら経営しているすべての会社を「トラベラーズ・グループ」(Travelers Group Inc.)と総称してしまう。さらに、1996年40億ドルを投じて「エトナ生命損害保険」(Aetna Life & Casualty)を買収、1997年にはさらに大きな「ビッグ・ディール」を成功させる。90億ドルという巨費で「ソロモン・ブラザーズ」(Salomon Brothers)(後述)の親会社「ソロモン」(Salomon Inc.)を買収したのである。

 そしてついに、1998年10月8日世紀の大合併、「トラベラーズ」と「シティ・コープ」の合同が実現する。合併に投じられた費用は760億ドルという巨費であった。

 世紀の合併は、法的には許可されるはずのないものであった。銀行業務と保険引受業務、さらには証券業務を包含する事業は、それを禁じている1933年の「グラス・スティーガル法」に抵触するからである。

 当時のそれぞれのCEOのワイルとリードは法律そのものを議会に廃止させると豪語していた。こうした目標を実現させるために、まず、新興シティ・グループの重役に元共和党大統領ジェラルド・フォード(Gerald Ford)と民主党クリントン(Clinton)政権下の財務長官(Secretary of Treasury)のロバート・ルービン(Robert Rubin)を加えた。そして、あらゆる金融業務の兼営が認められる新しい「金融サービス法」(グラム・リーチ・ブライリー法=Gramm-Leach-Bliley Act1)が、1999年11月12日、クリントン大統領の署名の下にに成立し、「グラス・スティーガル法」(1933年銀行法)は66年ぶりに廃止されたのである。名実ともに総合金融機関になりえた。シティ・グループの総帥CEOはワイルが務め、エンロンの金融処理不適切で社会から糾弾された2003年の責任をとって、CEOの職をチャック・プリンス(Chack Prince)に譲り、2006年4月18日、ニューヨーク司法裁判所による大型合併禁止令を受けて、会長の座も辞した(ワイルの軌跡についてはWikipedia)。

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