消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

原爆 2 長崎原爆に思う (III)

2006-08-09 09:16:07 | 時事
 「ヤソはスパイかも知れんぞ」

 聞くにたえないことを言う者もいた。このような警察も、憲兵も、警防団の人たちも、ふつうの善良な市民なのだ。「ヤソはスパイかも知れんぞ」「ヤソはスパイかも知れんぞ」


 昭和16年(1941年)、太平洋戦争がはじまると、世間一般が戦争気分でわきかえった。軍部は国民の戦意をあおるために反米、反英の宣伝をし、英語を使うことをやめさせた。

 長崎医科大学は爆心地から700メートル東方にあった。金毘羅山(こんぴらさん)の中腹にあったため、原爆の熱線と衝撃波の直撃を受けた。永井隆はラジウム室の机に向かい、古いレントゲン写真を整理していた。原爆の爆発の時のことは「長崎の鐘」に詳しく書かれている。

 戦後、平和な信仰の自由の時代の到来かと思われたが、また迫害の時代ともいえることがおきた。今度は、作家や評論家が永井隆が「原爆は神のみ摂理、神の恵み、神に感謝」というのはけしからんというのだ。豊臣秀吉も、徳川の将軍たちも、長崎奉行たちも、みんな自分の考えが一番正しいと思っていたのだ。作家や評論家も自分が一番正しい考えだと思っているのかも知れない。

 長崎医大では、非常事態に備えて、臨床各科を一単位とする医療救護隊が編成されていた。永井隆を部長とする物理的医療科は第十一隊であった。永井隆は軍隊に召集され戦場にいたこともあった。広島第五師団の野戦衛生隊長で陸軍中尉であり、自らも銃弾で負傷した。

 彼は直接近距離被爆者であり、重症を負いながら被爆者の救護活動を続けた。家も財産も妻も原爆で失った。彼は、キリシタンになって長くなかった。浦上キリシタンの新鮮な信仰に燃ゆる指導者であった。だから原爆でなくなったキリシタンの弔辞を読まねばならなかった。他に彼にかわる者はいなかった。

 原爆が落ちた時、何百年の先祖の迫害や拷問の歴史は浦上キリシタンにとって先祖の思い出ではあったが誇りではなかった。浦上キリシタンは四番崩れ以来、極貧の中に生きて、スパイや非国民とののしられ、一生懸命戦争のため働いて、そして原爆被爆。神社に参らなかったから、外国の宗教を信じたから、原爆は天罰だといわれ、親も、兄弟も、子供も被爆死、完全に心身共に打ちのめされた。

 一人の兵隊が戦塵にまみれ、九死に一生をえて帰りついた懐かしい故郷は一望の廃墟。自宅のあった場所に水たまりができていて、幼い妹の赤い鼻緒の下駄がうかんでいた。そのときつくづく、神も仏もあるものかと思って、それっきり教会へ行くのをやめたというのである。キリシタンは、天国へ行くために、この世で苦しみを背負うのだと教えられたけれども、一生懸命、祈りと労働にあけくれたのに、この残酷さは本当に神様のご意志なのだろうか。

 その時、永井隆は叫んだ。
 ――浦上は神様に選ばれた民だった。みんなに代わってわれわれが犠牲になったのだ。われわれが、みんなの悲しみや苦しみを引き受けたのだ。不正義の戦争に勝利があるだろうか。賠償をはらって謝罪をしなければ。世界平和が再来し、日本の信仰の自由が許可されたのだ。神のみ摂理、神の恵み、神に感謝。

 集まった二千人のキリシタンを激励し、希望を与え、神への愛と信頼をとりもどすために、ほかにどんなことばがあっただろうか。信仰の自由を神様が許可されたのだ。
 合同葬に集まった浦上キリシタン2000人は激しく泣いた(敬称略)(ww.seibonokishi
-sha.or.jp/kishis/kis0010/ki03.htm )。

 しかし、本島元市長のようなクリスチャンばかりであると考えると大間違いである。世界最大のキリスト教国家の米国民の70%は日本への原爆投下を容認している。

 2005年8月4日付のBBC放送は、エノラ・ゲイ元乗組員3人の声明を発表した。
 「私たちは、原爆投下を後悔していない」と。

 戦争が終わって60年も経過してなお、数万人の人々を一瞬で焼き殺した行為に対して「歴史の中で、原爆使用が必要とされる瞬間だった。私たちは後悔していない」と言い切るクリスチャン。いつも何かしらの理由を作って国際法を破り、自国の権益のために戦争を仕掛けるクリスチャンの国、米国。この「戦争病」から彼らはいつ目を覚ますのか?

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