消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

須磨日記(10) 古代ギリシャ哲学(42) ヒポクラテス(4)

2008-07-18 22:04:55 | 古代ギリシャ哲学(須磨日記)
 ピタゴラス

 「ヒポクラテスの誓い」は、ヒポクラテス自身の手ではなく、後生の、まだ残っていたピタゴラス派の誰かによって書かれたものらしいということが最近の通説になってきた。そこで、ピタゴラスのこともここで、書いておきたい。

 サモスのピタゴラス(Pythagoras of Samos、BC.569(?) ~BC.475(?))。最初の純粋数学者。ただし、著作が残されていないので詳しい理論は不明。科学者にして神秘的な宗教家。父、Mnesarchusは、ティレ(Tyre)出身の商人。サモスの飢饉のときに、食糧を持ち込み、サモスを救った功績で市民権を与えられた。母、Pythaisはサモスの人。幼児期、サモスで過ごしたピタゴラスは、長じると父とギリシャ各地を旅行、Tyreにおいて、Chaldaeansの教育を受けた。またシリアの学者たち(the learned men of Syria)からも学んだ。父とイタリアをも旅行した。



 Chaldaeanstという命名は、ギリシャの地理学者、Strabo of Amasia (BC.64 ~AD.23) による。バビロニア人の一群の哲学者たちを指す。バビロニアには哲学者が蝟集する居住区があり、いくつかの集団からなっていた。Orcheni [Uruk出身]、Borsippeni [Borsipp出身]などが著名な学者。ここで、訓練を受けた天文学者・哲学者・数学者たちが、アラビア半島各地に展開し、ギリシャにも居住していた。彼らのデータ管理と観測技法は緻密であった。天体の軌道計算はほぼ完璧な正確さであった。日食、月食日も2秒程度の誤差で的中させた。

  彼らは天体の運行に宗教的な神秘性を付与した。たとえば、月食はその地の王の廃位を求める天の配剤とした。月食に遭遇した王は廃位に追い込まれるか、天命として殺害された。王の殺生与奪を左右する月食を予言する天文学者たちは恐れられた。彼らは、暦も作っていた。バビロニアでは、陰暦の235か月は太陽暦の19年に相当すると計算されていた。この誤差はわずかに2時間であった。彼らは、太陽暦の19年を区分し、最初の7年間を収穫の年代とした。閏月は、天文学者からの助言によって、国王が国民に告知した。天文学者たちは、天文学の秘密の知識によって、権力者を支配したのである。

 しかし、ペルシャ王のCyrusが、BC.539年にバビロニアを支配するようになって、バビロニアの天文学官僚たちは追放された。

 ペルシャは、暦を秘儀化するのではなく、季節感に沿う暦を国民に与えた。BC.503年、時の大王、ダリウス1世Darius I the Great)が、そうした暦を完成させた。



 太陽を基準とする19年という周期は、陰暦の月の周期と交錯するので、ダリウス暦は、バビロニアの天文学そのもは継承した。19年のうち、陰暦で閏月を7回置く(確証はないが、この閏年はペルシャ語でUluluという。閏の語源かもしれない)。そして、立春が元旦になるように工夫されていた。この235月齢がメトニック・サイクル(Metonic Cycle)と呼ばれている。メトンとは、このサイクルを紹介したギリシャの天文学者の名前である。BC.433年、アテネの数学者メトンが発見したとされているが、メトンは、実際には、ペルシャ暦を伝えだけである。

 中国では、19年を1章と呼ぶことからダリウス暦は、章法(しょうほう)と呼ばれた(独自に発見したとも、東漸したとも言われる)。いまでもユダヤ暦はこのサイクルを踏襲している(http://www.livius.org/k/kidinnu/kidinnu.htm)。

 そうした彼らの姿勢がピタゴラスに大きな影響を与えたのであろう。青春時代のピタゴラスに大きな影響を与えた教師は3人いたと言われている。



   ペレキデス(Pherekydes)、ターレス(Thales)、ターレスの弟子、アナクシマンドロス(Anaximander)である

   ターレスとアナクシマンドロスはミレトス(Miletus)在住であった。ピタゴラスは18歳から20歳にかけてミレトスのこの2人をしばしば訪ねたという。ターレスはすで老人であったが、ピタゴラスに数学と天文学を勧め、エジプト旅行の必要性を説いた。アナクシマンドロスは熱心にピタゴラスを教育した。

 BC.533年、サモスは専制君主のポリクレイトス(Polycrates)の支配下に入った。ピタゴラスはポリクレイトスに気に入られ、王の紹介状を得て、エジプトにBC.535年に旅した。ポリクレイトスがエジプトと同盟していたからである。ピタゴラスは、エジプトの僧侶たちと会いたがっていたが、面会を許可されたのは、ディオスポリス(Diospolis)にある1寺院だけであった。

 このエジプトで、ピタゴラスの思考様式が形成された。エジプトの僧侶は豆を食さなかった。毛皮を着なかった。純粋さを渇望した。こうし習慣のすべてを彼は採用した。

 BC.525年、ピタゴラスのエジプト滞在中、ペルシャ王のカンビセス(Cambyses II)が、エジプトに侵攻した。サモスのポロクレイトスは、エジプトを裏切り、40隻の艦隊をエジプトに派遣し、ペルシャに与した。そして、ヘリオポリス(Heliopolis)とメンフィス(Memphis)を占領。そして、こともあろうに、かつての友人、ピタゴラスを捕虜として、バビロンに連行した。

 しかし、ピタゴラスは、学問の継続を許され、バビロンの地で本格的にバビロニアの学問に取り組めることになった。宗教上の秘儀、数学、計算法等々をこの地で学んだ。

 BC.520年、ピタゴラスは、バビロンを去り、サモスに戻れた。BC.522年の夏、ポリクレイトスが死去した。当時、サモスはペルシャのダリウスの統治下にあった。ピタゴラスがサモスに帰還できた理由は不明である。

 サモス帰還後、ピタゴラスは、クレタ(Crete)に旅する。法律を学ぶためである。サモスに帰国後、彼は、セミサークルという学校を作る。彼自身は、校外に洞穴を作り、数学を教えたと言われている。

 BC.518年、彼は、サモスを離れ、南イタリアに移る。サモスの人々に彼のエジプト的慣習が受け入れられなかったからだと言われている。

 ピタゴラスは、南イタリアの靴の踵部分の東側にあるクロトン(Crotone)に宗教的な組織を設立。真実とは数学的なものである。精神の純化のために哲学が使われるべきである。魂は聖なるものと結合する。秘儀は重要である。人々はこの組織に貢献すべきである。等々が彼の教義であった。

 ピタゴラスは、あらゆる関係性は数学的関連性に還元できると説いていた。それは、音楽、数学、天文学の研究から生み出されたピタゴラスの信念であった。和音の数式化を行う彼自身が竪琴の名手であった。楽器を奏でることで病人を癒したといわれている。

 偶数(even numbers)、奇数(odd numbers)、三角数列(triangular numbers、自然数を頂点として正三角形に並べることのできる数)、完全数(perfect numbers、nを除くすべての約数の我がnになる数、たとえば、6、28)。こうした数に神秘性を見ようとしたのである。

  たとえば、10という数値を最高のものとした。それは、最初の4つの整数の和になるうえに、これら数を点で表せば、正三角形を形成するからである。
 
  ただし、有名な「ピタゴラスの定理」(Pythagoras's theorem)は、彼よりも1000年以上も前にバビロニア人によって証明されていたhttp://www-history.mcs.st-andrews.ac.uk/Biographies/Pythagoras.html)。

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