消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

福井日記 No.114 咸臨丸-1

2007-05-31 03:09:33 | 福井学(福井日記)


 私たちが、歴史認識で戒めなければならないことは、「指揮官が馬鹿だったから」という決めつけである。

  清朝が崩壊したのは、宮廷が無能であったから。江戸幕府が薩長土肥によって打倒されたのは、幕府側の大老たちが頑迷であったから。旧日本陸軍が暴走したのは、官僚主義のことなかれ主義が人材を潰していたから、等々。

「馬鹿に指導される組織は必ず自壊する」、「守旧派に支配されていた身動きの取れない巨大組織は、新鮮な感覚に満ちた若々しい指導者の下で実力を養ってきた柔軟で積極果敢な新しい組織によって葬り去られるものである」との史観に従えば、歴史は非常に単純である。「善は悪を倒す。知恵は暗愚を葬り去る」。「必要なことは、誰が知恵者で誰が暗愚者かを見極めることである」。「賢かった先人の偉業を後世の暗愚者が灰にしてしまった」とも語られる。歴史がこのように理解されてしまう。これは、私たちが往々にして陥る誤りである。

 それは歴史認識だけに留まらない。現在の経済状況をも同じ感覚でバッサリと切って捨てる。

  「日本経済が駄目になったのは、自分の地位の保全しか関心のない無能な経営者に旧来の企業が率いられてきたからである」。「時代感覚に富んだ、グローバルな企業によって、無能な企業を市場から退場させないかぎり、経済は活性化しない」。「市場に適合しなくなった企業をも温存する金融組織こそ根本的に改革しなければならない」。「無能者は優秀者によって滅ぼされなければならない」。そうした強迫観念によって日本企業が切り刻まれた結果、日本経済は米資によって翻弄されることになった。

 私たちの身近なところでも、「あいつは馬鹿だ」という言葉が普通に交わされる。「上に馬鹿が居座っているから、いまの自分には目がなくなっているのだ、馬鹿は打倒されなければならない」と。

 はたしてそうであろうか。子育てに全身全霊であたってきたあなたの子供がぐれた時、「親の顔が見たい」とマスコミに叩かれたら、あなたはどう思うであろうか。口を噤んで世間からの罵倒に耐えるしかないではないか。

 企業が倒産したのは社長が無能だからと非難される時、「納入先の大手企業が契約を反故にしたからだ」と件の社長は口が裂けても真情を吐露できない。再起を期すためには、悔しくても、別の大手にすがるしかないからである

 経営者にとって致命的なことは、真相をばらすことである。秘密は墓場まで背負わなければならないのが経営者の宿命である。ここでも、黙って耐えなければならない世界がある

 江戸幕府の官僚制を非難することは容易である。しかし、幕末の世界情勢を正確に見通していたのは、宮様のバラバラの組織ではなく、幕府側であった。



  私は、明治の元勲たちの顔写真を見るたびに、俗物丸出しの顔つきに蕁麻疹が出る。お公家たちのしまりのない顔に目を背けたくなる。それに対して、批判にさらされている幕府の重鎮たちの諦観に満ちたもの悲しい顔に私などは惹かれる。これは、私が権力志向者であるからではない



   明治維新は、どう見ても、定見のない無謀な若者の集団が、外的な力を借りて、分別のある老人を葬ったとしか思われない。しかし、葬り去られた老人たちは、日本を破滅に追いやるよりも、潔く、権力を若者たちに明け渡した。

 私が言いたいのは、歴史であれ、組織であれ、個人であれ、対処しなければならないのは、圧倒的な力で(それこそコンジョンクション)迫り来る外的な力に対してであるという一点である。

 江戸幕府は列強の圧力の前に瓦解させられた。勝利したのは、アングロサクソンの走狗になっていた官軍である


 日本企業が駄目になったのは、経営者が無能だったわけではない。突然に、政治と環境が日本企業に不利に変更させられてしまったからである。

 個人が馬鹿なのではない。集団心理の暴虐に押しつぶされたのである。

 組織にしても、個人にしても、変化する環境に適合すべく懸命に抗うものである。誰も滅びたくはない。「旧い思想」が馬鹿なのではない。旧い思想を揶揄しなければ学界で認知されな学問情況に潰されたのである。

 我が子は、命に替えても守りたい。しかし、どうしょうもない複合的な力で押し流される。「親と言う字は、黙って、木の上に立って、遠くから子を見ると書く」。そもそも、子育てに泣いたことのない人は、子を潰したと言って、苦しみにのたうつ親を非難すべきではない。

 いずれにせよ、事情を知らない他人が、人を「馬鹿な奴」として非難すべきではない。

 抗っても、押しつぶされる。それを強いる外的な複合的な力の分析こそが必要なのに、勧善懲悪の新国劇のような、「正義は悪を滅ぼす」という単細胞的決めつけは、絶対にしてはならないことである。



 さて、嘉永6(1853)年、ペリー(Matthew Calbraith Perry, 1794~ 1858)の艦隊が浦和沖に停泊した。外交辞令など完全に無視した行為である。米国政府は、日本の唯一の窓口がオランダであり、出島であったことは百も承知だったはずである。

  出島でなく浦賀にきての威嚇は、単に日本国を虚仮にしただけでなく、オランダに対する威嚇でもあっただろう。



 ところが、シーボルトはペリーに日本情報を渡していたらしい
。ペリーが西欧諸国との摺り合わせなしに、いきなり浦賀に現れたのなら、シーボルトがその情報を掴んでいたということをどう解釈すればよいのだろうか。シーボルトは、ロシア皇帝にまで、日本開国の要請を行っている。

 日本の鎖国下で、オランダが唯一の貿易相手国であったことのオランダにとっての利益は図り知れないものがあったはずである。日本貿易を独占していたことからする膨大な利益は、スタンフォード・ラッフルズ(Stamford Raffles 1781∼1826)が、"Report on Japan"
(Report on Japan to the Secret Committee of the English East IndiaCompany by Sir S. Raffles 1812-1816. With Preface by M. Paske-Smith. xv,252pp., 15 plates. Kobe: J.L. Thompson, 1929)で詳細に分析していた通りである。

 オランダ船は、しばらくは、インドネシアのバタビアから来航していた。本国が、ルイ・ナポレオンによってフランスに併合されていたからである。

 1795年、連合州共和国(オランダ)はフランス革命軍によって侵略支配され、バタビア共和国と名前を変更されて属国となった。

 
1806年に、ナポレオンは弟のルイ・ナポレオンを、当時ではホラント国と呼ばれる国の国王に就任させた。

 
その4年後、フランスは再びオランダ全土を併合して、ルイ・ナポレオンはアムステルダムを首都にすることを布告した。1813年、フランス帝政が崩壊し、低い国は再び独立を取り戻した。

 ラッフルズが、日本に強い関心をもって板敷きは、オランダがフランスの支配下にはいっていた時期である。この事実を、江戸幕府にばらすぞとラッフルズは、オランダ船長を脅して、何食わぬ顔で、オランダ船長になりすまして出島に上陸している。

 
この時のラッフルズの衝撃は大きかった。ラッフルズは、将来、アジアの国で英国の繁栄に迫りうるのは、日本だけだと言い切っている。この種の発言は、ペリーも行っている。当時の、日本がすでに、高度な文明を築いていたことをこのエピソードは示すものである。

 日本が開国してしまえば、オランダは巨大な対日利権を失う。にもかかわらず、シーボルトは日本の開国に向けて西欧での根回しを行っている。そこにどのような事情があったのだろうか。

 なぜ、下級武士であった博文が、アヘン商人、ジャーディン・マセソンのカネで、私費留学生としてロンドンのカレッジに行けたのであろうか。

 グラバー邸はなぜ、三菱造船所の敷地にあるのか。



 
グラーバー(Thomas Blake Glover, 1838~1911)が売り出した麒麟麦酒(1888年)が、なぜ、三菱資本に売却されたのか(1907年)。

 脱藩していた素浪人の坂本龍馬が、重要人物としてなぜ各藩を渡り歩けたのだろうか。



 工作費用はどこから出ていたのであろうか。長崎で日本最初の商社(亀山社中、1863年)を作るという考え方は、本当に坂本龍馬だけのものだったのだろうか。

 私は、永年、京都で務めていたが、祇園で遊んだことはない。遊ぶ金がなかったからである。

 日本一格式が高く、したがってカネが要る祇園で、幕末の志士たちは、どうして湯水のごとく、カネをばら撒けたのであろうか。しかも、家臣に給料も払えないほどの貧乏な毛利藩の下級武士たちが。

 
こうした問題を分析せずに、志士たちを時代の維新者として、なぜ、私たちは持ち上げてきたのか。勝者の歴史には捏造がつきものであるという、単純なことすら私たちは忘れているのではないだろうか。

後半「No.114 咸臨丸-2」につづく。


福井日記 No.114 咸臨丸-2

2007-05-31 02:20:20 | 福井学(福井日記)

 幕末・明治維新を取り巻く外的環境は、暗愚の幕府対時代を終わらせた、賢明な官軍の勝利という、単純な図式で理解できるものではなかったのである。江戸幕府を「馬鹿呼ばわり」した瞬間に、突き止めなければならない最重要の問題領域が視野からずり落ちてしまう。

 幕府も、オランダ政府も、手を拱いて事態の推移を傍観し、行動において萎縮していたわけではなかった。

 ペリー・ショックに対応すべく、オランダ国王は幕府に「スームビング」(日本名、観光丸)を寄贈した。



 「スームビング号」に乗って、第一次海軍伝習の教官たちが長崎に到着した。ペリー来航の2年後(安政(1855)年)である。そして、オランダは、長崎に「海軍伝習所」を開設し、日本人相手に「海軍伝習」を開始する。各藩から受講者が派遣されてきた。



  その中には勝海舟(かつ・かいしゅう、文政6(1823)年~明治32(1899)年)
もいた。第一次海軍伝習は、2年間続いた。

 そして、第一次海軍伝習の一行が帰国するや、入れ替わりで、同年、つまり、安政4(1857)年第二次海軍伝習の一陣が長崎に赴任してくる。派遣教官数は37名という大人数の陣容であった。

 第二次伝習隊は、「ヤパン号」で来航した。このヤパン号こそ、日本名の、あの「咸臨丸」だったのである。

 咸臨丸は、木造で3本のマストを持つ蒸気船。洋式の軍艦としては、観光丸(外輪船)に次ぐ2番艦であるが、洋式のスクリューを装備する船としては初の軍艦である。1860年、日米修好通商条約の批准書を交換するために、遣米使節団一行が米軍艦ポーハタン号にて太平洋を横断した



 ポーハタン号の万一の事故に備えて、咸臨丸も同行した。艦長は勝海舟であった。しかし、勝海舟は船酔いがひどく、咸臨丸を操舵したのは米国人であった。

 太平洋横断後、幕府の練習艦として用いられた後、戊辰戦争に参加するものの、軍艦としての機能は他艦に劣り、すでに運送船の役割に甘んじていた咸臨丸は新政府軍によって拿捕される。明治政府に接収された後、北海道開拓使の輸送船となった。「咸臨」とは『易経』より取られた言葉で、君臣が互いに親しみ合うことを意味する(ウィキペディアより)。この軍艦は、幕府が金を出してオランダに建造してもらったものである。

 幕末維新が論じられる時、なぜか、日本ともっとも友好関係にあったオランダの動向が欠落させられてしまっている。蘭学が打倒幕府の志士たちを育てたというだけのシナリオで語られるのがおちである。

  蘭学の背後にいた肝心のオランダ政府の動向は論議の対象にもならない。これは、日本の学問が、枠を守って、他の領域には首をつっ込まないという「美風」によるのだろう。総じて、日本社会史の分析には、古代から現代まで、シリアスな国際関係との関連性が脱落させられている。

 オランダの動向の分析については、別の機会に譲る。いまは、このような緊迫時ですら、オランダから派遣されてきた人たちは、軍事よりも科学的智識の伝授を主たる任務として自己に課していたことを強調しておきたい。

  そして、なによりも特記されるべきは、彼らが、グリフィスのようには、キリスト教の伝道について熱心でなかったということである。

 
オランダ市民は、けっして無宗教ではない。しかし、オランダ人は、他の文明諸国に、露骨にキリスト教への改宗を強制することを潔しよしとしなかった。オランダは、希に見るマルチチュード社会だったのである。



  ここにも、さすが、スピノザ(Baruch De Spinoza, 1632~1677)を生んだオランダの知識人たちの矜恃がある。

 第一次海軍伝習にの教官であったオランダ軍医・ブルック(Jan Karel van den Broek, 1814~1865))は、長崎の通詞たちに化学と物理学の講義を行った。その中から、前回紹介した河野禎造が出てきたのである(『舎密便覧』、1895年の著者)。

 第二陣に、日本の西洋医学に巨大な貢献を残したポンペ(Johannes Lijdius Catharinus Pompe van Meerdervoort, 1829~1908)がいた。



  彼は、安政4(1857)年11月12日、出島の前の長崎奉行所西役所の医学伝習書(現在の県庁所在地)で医学教育(伝習)を始めた。若干28歳であった。現在の長崎大学医学部は、この日を学部創立記念日にしている。

 この年の暮れに長崎で天然痘が流行した。ポンペはすぐさま公開で種痘を紹介した。

 
第二次海軍伝習隊が帰国(万延元(1860)年)しても、ポンペは長崎に留まり、日本最初の洋式病院・養生所の設置に尽力した。養生所が完成したのは、1861年である。この養生所のベッド数は124もあった。そこで、彼は臨床医師としての実技と心構えを日本人に教えた。その隣にポンペの医学伝習所が移転した(小島郷)。

 ポンペは、自身が学んだユトレヒト陸軍医学校のカリキュラムを伝習所に導入した。

 
物理学、化学、解剖学、生理学、病理学、さらには、採鉱学まで、一人で講じたのである。大変なことであったろうことは、教師経験のあるものにはただちに分かるであろう。しかも、受講生は当時の日本の最高レベルの頭脳だったのである。

 安政6年8月(1859年9月)、日本発の死体解剖実習も、彼は、行っている。西坂の丘にあった刑場においてである。実習は3日間に亘った。彼は、5年間日本に滞在し、近代西洋医学教育の父と称されるようになった。

 ポンペは、文久2(1862)年に帰国したが、その後継者として長崎に赴任してきたのが、ユトレヒト陸軍軍医学校の生理学教授として、ポンペを教えたこともあるボードウィン(Antonius Franciscus Bauduin, 1820~1885)であった。



 
このボードウィンはとてつもなく豊かな学識を備えた人であった。彼が、医学教育と物理、化学教育とを分離すべきであると幕府に進言し、その結果、幕府は「分析究理所」を養生所内に設置した(元治元(1864)年)。

  「分析」は化学を、「究理」は物理を意味する。1865年にこれは完成する。その完成と同時に養生所は「精得館」と名称変更された。

  その翌年、ボードウィンの紹介で、この研究所の理化学専門講師としてハラタマ(Koenrad Wolter Gratama, 1831~1888)が着任する。ハラタマもまたユトレヒト陸軍軍医学校の理化学教師であった(1853年就任)。

 オランダは、じつに、軍医学校の2人の現役教師を長崎に派遣したのである。幕末の動乱時にである。新たに設立された分析究理所の運営はハラタマに任された。

  彼の教え子たちの中には、池田謙斎(いけだ・けんさい、明治10(1877).年~明治(1881)年、東京大学医学部初代総理)、戸塚静伯、松本圭太郎、今井厳、等々、錚々たる人物がいた。



 研究所の実験器具の整備ぶりは、大阪の適塾や江戸の開成所とは比較にならぬほど充実し、オランダのユトレヒト大学の水準がそのまま移植された。繰り返し言うが、幕府の命運が風前の灯火にある時、長崎では、水準の高い理化学・医学教育が実施されていたのである。

 研究所を江戸に移すべきであるとのボードウィンの進言を受けて、江戸幕府は、1867年、ハラマタを江戸に呼び寄せた。1867年は、その11月に大政奉還があった年である。

 行き詰まる緊張感の中、ボードウィンは、日本とオランダ間をせわしく往復する。当時の在日オランダ人たちは、幕府崩壊が不可避であることを察知していたのであろう。



 ボードウィンは、まず教え子の緒方惟準(おがた・これよし、天保14(1843年~明治38(1909)年)を連れて帰国し、ユトレヒト陸軍軍事学校に入学させる手続きをする。緒方惟準は名からも想像されるように、緒方洪庵(おがた・こうあん、文化7(1810)年~文久3(1863)年)の次男である。

 惟準を無事入学させるや、ボードウィンは、日本に引き返し、幕府と研究所移転の交渉を継続する。江戸幕府はやっと認可したが、時すでに遅し、幕府崩壊とともに、ボードウィンの身分は宙に浮いてしまった。

 ただし、新政府は、 幕府がボードウィンと交わした契約を引き継ぐ形で、ボードウィンとハラタマを大阪に招聘する方針を決めた。新政府は、首都を大阪にもってこようという意図もあったらしい。

  いずれにせよ、1869年4月オランダから帰朝した緒方惟準を院長とする大阪府仮病院(医学校)が設置された。これが大阪大学医学部の前身である。医学校教頭がボードウィンであった。

 同年6月に舎密局も開校し、これも大阪府管轄になった。



  大阪の舎密局からは、高峰譲吉、村橋次郎(むらはし・じろう、嘉永元(1848)年~大正元(1912〕年)が巣立っている。村橋はハラタマの助手であった。



  村橋は大坂衛生試験所の初代所長になった。その教え子の池田菊苗(いけだ・きくなえ、元治元(1864年)~昭和11(1936)年)が、東京大学理学部教授となり、昆布の旨味のグルタミン酸ナトリウムの分離に成功した人である。



 この大阪舎密局が、後の三高に引き継がれたのである。

 最後に寄り道しよう。大阪について。

  「大阪」は、歴史的には「大坂」と表記されていた。「大坂」という地名は、もともとは現在の大阪市域のうちの、大和川と淀川(現在の大川)に間に南北に横たわる上町台地の北端辺りを指し、古くは摂津国東成郡に属した。

 この漢字の地名に関する最古の記録は、1496年、浄土真宗中興の祖である蓮如によって書かれた御文の中に見られる「摂州東成郡生玉乃庄内大坂」との記載である。もともと、蓮如が大坂と呼んだ一帯は、古くは難波(浪華・浪花・浪速)などが地域の名称として用いられていたが、蓮如が現在の大阪城域に大坂御坊(いわゆる石山本願寺)を建立し、その勢力を周辺に伸ばすに及んで、大坂という呼称が定着した。

 その語源は、大きな坂があったために大坂という字が当てられたという説があるが、蓮如以前の大坂は「オホサカ」ではなく「オサカ」と発音されており、諸資料にも「小坂(おさか)」と表記された例が見られる。このためにこの説は信憑性に乏しい。

 蓮如以後、大坂は「おおざか」と読んだとされる。しかし、従来「おさか」と読んでいたのを大阪駅の駅員が「おーさか」と延ばして言うようになったのが広まり、「おおさか」と呼ばれる様になったという説もある。

 漢字の表記は当初「大坂」が一般的であったが、大坂の「坂」の字を分解すると「土に返る」と読めてしまい縁起が悪いということから、江戸時代のころから「大阪」とも書くようになり、明治時代には大阪の字が定着する。

 
一説に「坂」から「阪」への変更は、明治新政府が「坂」が「士が反する」、すなわち武士が叛くと読めることから「坂」の字を嫌ったとも、単に、役人の書き間違えの言い訳から定着したともいう。本来は「阪」と「坂」は異体字の関係にあり、どちらが正しいという性質のものではない。唐代の干禄字書では「阪」を正字、「坂」を俗字とする(ウィキペディアより)。

 今回も長崎大学薬学部の歴史かに依存している。http://www.ph.nagasaki-u.ac.jp/history/history5/history5.html