明治39(1896)年、「日本中央運河計画」が検討されていた。
敦賀―塩津間に「第一水路」(愛発村=あらち・むら、現在の敦賀市疋田、経由で18.6 km)、大津―伏見間に「第二水路」(山科経由で13.1 km)を開削して、敦賀湾―琵琶湖―宇治川を大型運河で結ぼうというものである。
とてつもなく壮大な計画であった。明治21(1888)年に当時としては日本最大の「利根川運河」が開削された。これを十数倍上回る規模が日本中央運河計画であった(「北淡海・丸子船の館」(〒629-0721滋賀県伊香郡西浅井町大浦582; http://www.koti.jp/marco/)。
利根川について閑話休題。
江戸に幕府を開いた徳川家康は、政策の第一歩として大利根の大改修を命じた。関東郡代・伊奈忠次(いな・ただつぐ)に直命が下り、以来、伊奈一族は三代に亘って、この大事業に取り組む。江戸川の前身は太日川(ふとひ・がわ)という渡良瀬川(わたらせ・がわ)の下流であった。これを改修して、関宿(せき・やど。せきじゅくと発意音してしまえば、三重県の亀山になる)で利根川と結合させたのである。この大事業が完成すると、太日川は利根川水系となり、その名も江戸川と改められた。この新しい水系は、この地方に大きな繁栄をもたらした(流山観光協会、http://www2.tbb.t-com.ne.jp/nagareyama-s.a./page/02-4_1histry.htm)。
利根川の流れを変えて、江戸川という人口の河を作ったことで、東北地方からの米や魚の干物などは、銚子から利根川を上り、関宿から江戸川へ。北関東からの米、落花生、茶などは利根川・鬼怒川から江戸川に入り、江戸へ運ばれていた。大型の高瀬舟には、一度に米 1,300 俵近くの米を積むことができた。
1,300 俵といえば、1 俵= 60kg だから、78,000 ㎏、つまり、78トン。現在の大型トラックは 10トン積めるから、高瀬舟は、大型トラック 8台分の荷物を、たった1隻で運んでしまうことになる。最大の高瀬舟は長さが 30m 近くもあった。
高瀬舟というのは、もともとは、京都の高瀬川などの浅瀬を、人力に曳かれて行き交う小船だったが、一度に大量の荷物を積めるように、江戸時代に利根川や江戸川で使われたものだけが大型化した。
波の荒い房総半島沖や浅瀬が多い江戸湾入り口を通って江戸に行くのは、危険を伴っていた。江戸川の開削によって、航行が安全になりかつ時間短縮できた。
利根川と江戸川が分かれる個所には、関宿藩の城があった。野田市関宿三軒家の資料館には、高瀬舟の実物大模型や再現された河岸問屋が再現されている(江戸川河川事務所、「EDOGAWAこどもニュース」、http://www.ktr.mlit.go.jp/edogawa/publication/panf/childnews/200601/01.htm)。
しかし、江戸末期になると、関宿回りの航路に問題が起きた。利根川上流に中州ができたためである。したがって、柏(かしわ)~流山(ながれやま)問は陸路をとるしかない。運河開削の気運はこの頃に始まる。
明治14(1881)年春、茨城県議会議員の広瀬誠一郎(ひろせ・せいいちろう。翌年北相馬(きたそうま)郡長となる)らは、茨城県令(明治20年以降は県知事)の人見寧(ひとみ・やすし。京都出身の幕臣、蝦夷共和国樹立、しかし、新政府に帰順、元の名は勝太郎(かつたろう)、サッポロビール設立にも関与)に、茨城~東京を直結する要路の必要性を説き、人見県令もいつしか運河の虜となる。この案は直ちに国の内務省に進達され、基本調査が何回か行われた。
明治16年の調査では、オランダ人技師ムルデルが起用され、2年後の明治18年2月、流山深井新田から柏船戸までの8.5km余りの問を適地とした「利根運河計画書」をムルデルは内務省に提出した。
しかし、内務省の計画は遅々として進まず、このような中、明治18年、人見は県令を退き、後任の県令は鉄道論者で運河建設には消極的であったことなどがあって、翌19年8月広瀬は北相馬郡長の公職をやめ、運河に全精力を注ぎ込むことになった(前掲、流山観光協会)。
さらに横道に逸れよう。人見寧が県令を辞任するきっかけとなった「加波山(かばやま)事件」について、当時の茨城県の自由民権運動を担う栄光の歴史について説明しておきたい。
茨城県内には、農民の困窮に怒りをもつ多数の政治結社が生まれていた。明治9年には、地租改正に反対した小瀬一揆や真壁一揆が起きた。これらが、自由民権運動に火をつけた。自由民権運動の圧力で、明23年に国会を開設すべきの詔勅が出され、この運動の中から自由党(総理 板垣退助)が誕生した。
福島県令・三島通庸(みしま・みちつね)は、自由党を弾圧すると共に、不況下の農民に労役を課して道路を建設しようとした。これに反抗する数千人の農民が弾正が原に終結し、約2000人が検挙された。自由党員・河野広中(こうの・ひろなか)らは政府転覆の陰謀があったとして、連座入獄させられた。これが、有名な「福島事件」である。これが、後の加波山事件を誘発した。
栃木県令を兼ねることになった三島通庸は、栃木県でも福島県と同様に自由党を弾圧すし、不況下の農民に労役を課して道路を建設しようとした。
そして、自由党左派16名(茨城県人3名、福島県人11名、栃木県人1名、愛知県人1名、平均年齢 約24歳)は、 宇都宮の新県庁舎落成式の日に三島通庸らの暗殺を企てた。
河野広体(広中の甥)らは、資金調達のために質屋を襲ったが失敗し、警察から追跡されることになった。また、暗殺用の爆弾を製造中に爆発を起こして大怪我をした。警察は警戒を強め、落成式は延期となった。
彼らは、加波山山頂の加波山神社を本陣として、檄文を発した。さらに、真壁町の町屋分署を爆発弾で襲う計画を立てたが、警察の包囲が厳しくすべて捕らえられた。これを契機に茨城県下の自由民権運動は終わりを告げたつげた(http://www.sunshine.ne.jp/~jupiter/reki2.htmからの引用)。
茨城県令であった伊奈忠次は、茨城県人が起こした事件の責任をとって、明治19年に県令職を辞したのである。
話を利根川運河に戻す。
明治20年になると、内務省から財政上の理由によって政府事業は断念したという通知が届く。そこで、広瀬らは、もはや運河は民間人の手でなければできないと判断し、利根運河会社を設立したのであった。
当時、広瀬と人見、それに後から加わった色川誠一(いろかわ・せいいち)は「利根運河の三狂生」と言われた。
工事は、明治21年7月14日に起工式を行い、およそ2年の歳月の後、利根運河は明治23年2月25日、全線通水となり、5月10日すべての工事が完成した。完成した運河は、水面幅18m、深さ平均低水位1.6mとし、渇水期でも1.1mの水位を保たせた。曳沿道の幅も1.8mであった。6月18日には、栄光の竣工式が行われ、山縣総理大臣、西郷内務大臣、芳川文部大臣、石田千葉県知事、蜂須賀束京府知事、安田茨城県知事、内村大阪府知事などが出席した大式典であった。いかにこの事業が当時の政治、経折、社会に与える影響が大きかったかをここに覗い知ることができる(前掲、流山観光協会)。
投入された労働者数、延べ220万人、1日平均3,000人が働いた計算になる。工事にかかった費用は57万円であった。当時、公務員の初任給が1月当たり50円であった。距離8.3km。
この運河を利用すれば、関宿を通っていた時に比して、距離で 40 キロ以上、日程で2日ほど短くなった。多くの船が利根運河を利用するようになった。多い時には1日に100隻もの船が通るようになっていた(前掲、「EDOGAWAこどもニュース」)。
話を日本中央運河にまで戻す。
このように、利根川運河は、日本初の巨大工事であったが、明治28年に提案された日本中央運河は、それをはるかに上回る巨大な規模であった。
予算700万円、距離も敦賀側、伏見側を合わせて31.7kmもあった。地図を見れば直ちに分かるように、開削予定地域は非常に険しい山岳地帯である。発電設備をも設置する計画であった。第一水路には6,500馬力、第二水路には6,000馬力の規模の水力発電を行う計画であった。
日本中央運河の「目論見書」によれば、運河の主たる目的は3つあった。敦賀港の重点開発、京阪地域への電力供給、琵琶湖の増水による洪水回避がそれである。
この運河計画を「今立吐酔」(いまだて・とすい)が主導していたとされている。定かではない。しかし、今立吐酔の曾孫にあたる西浅井町の沢田信氏に宛てた今立吐酔の3通の手紙から、今立が主たる計画者であったことが推測できる。3通の手紙の日付は、明治29年6月21日、同月25日、同年7月13日である。これらの手紙を保存している「北淡海・丸子船の館」(〒629-0721滋賀県伊香郡西浅井町大浦582; http://www.koti.jp/marco/)による紹介によれば、琵琶湖の洪水が、運河開削によって地元を襲うのではないかとの不安を抱く敦賀住民、とくに、塩津地域の人々を説得して欲しいと、今立吐酔は手紙で沢田信に依頼している。
運河の安全性を訴えた上で、今立吐酔は、経済的効果の大きさを数値をもって説明している。
運河が開通すれば、物資は塩津港に集積するであろう。年間324万石あると推定されるこの物資を100石船で運ぶとすれば、延べ2,400隻が必要になる。それは、1日平均90隻となる。100石船1隻につき3人の水夫が必要であると仮定すれば、毎日270人の水夫が塩津港に立ち寄ることになる。これだけの人数が、この地で飲食をしてくれ、さらに悪天候の時には宿泊してくれる。こうして、塩津沿岸地域は、「熱鬧(ねっとう=騒がしい、賑わい)繁盛の場と化す」。
軍事的効果をも今立吐酔は指摘する。日本海の有事の際には、海軍の船が下関、津軽を経由しなくても、琵琶湖を北上して敦賀に直行できる。これが日本海への最短距離であるとする。この計画が作成された明治28年には、吐酔は日清戦争後の遼東半島占領軍(日本による)司令官の下に勤務している文官であった。つまり、経済的効果とともに、大陸支配のための軍事的効果をもこの運河計画は狙っていたのである。
吐酔は、琵琶湖疎水が完成した1890(明治23)年に、京都府中学(洛北高校の前身)の初代校長を辞任して外務省に転勤、翻訳者として勤務、1889(明治23)年には北京公使館書紀になっている。
琵琶湖疎水は、知らない人がいないほど有名な疎水で、京都人が等しく誇りに思う疎水(運河)であるが、若干、20歳台の東大新卒者の田辺朔郎が、時の京都府知事・北垣国道(きたがき・くにみち)の懇請によって開削を指導して完成させた驚異の運河である。
吐酔は、鳴り物入りで遂行されていた琵琶湖疎水の工事を現場で見ていたはずである。
吐酔と日本中央運河については、上記、http://www.koti.jp/marco/chuouunga.htmに依拠した。