消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

福井日記 No.102 天津国に駆け上った木村誠志

2007-05-02 01:43:35 | 彼方へ(福井日記)


 平成19年4月25日(水)午後1時半、木村誠志(きむら・せいし)氏が慌ただしく天国に旅立つた。脳内出血であった。享年(数え年表記)38歳。4月27日、福島で行われたお別れ会には100名も集まったという。氏の逝去を悼む記事がウエブ・サイトに数多く載っている。

 死は、神が我々に除けておいてくれた最大のプレゼントである。死という永遠の安らぎがあるからこそ、我々は、この忌まわしい世を生きていける。「しんどかったなァー」と大きく息をはいて永遠の眠りにつく。残された愛する人たちに、「ごめんね」と謝って。死は、本人にとっては、最後のやすらぎであるが、レフトビハインドの人たちにとっては、とてつもなく悲しいことである。でも、「休ませてあげよう」と思わざるをえない。ただし、せめて、心の準備を、残された人たち(レフトビハインド)にさせる時間的余裕が欲しかった。木村氏は、あまりにも脱兎のごとく、天津国に駆け上ってしまった。

 「良い奴だからよろしく」。松永達(まつなが・たつし)氏が、電話で頼んできたのは、数年前のことであった。彼のポスト・ドクターの指導教官になってやってくれとの依頼であった。

  ケンブリッジで一緒だったが、本当に良い奴なので、引き受けてくれとの電話であった。引き受けた。

  本当に良い奴だった。人を惹きつけてやまない笑顔。車椅子が不自然ではない、体の一部になっていた。

 
無事、学振PDに採用され、律儀にゼミ参加してくれた。神戸・六甲のカトリック教会での結婚式に招待された。件の松永氏と江頭(えがしら)氏が出席されていた。そのとき、初めて奥様を拝見した。奥様は、間もなく、京大のCOEの事務担当として、私たちのお世話をいただいた。不謹慎にも「とんでもない美人だ」と感嘆した。

 福島大学で教鞭を執ってまだ日も浅いのに、いつの間にか、多くの知己を得ていた。人が育つのは、人脈の豊富さによる。どんなに秀才でも、孤独の生活からは、大物にはならない。必ず、周囲に俊秀が集う人が大きく育つ。木村氏はそうした私の独断に沿う人であった。

 25日の11時半、妹尾裕彦(せお・やすひこ)氏から訃報を伝える電話があった。毎朝3時に起きて仕事をする習慣の私には、寝入りばなであった。寝ぼけていたので、事態の重さを瞬時には理解できなかった。翌日、大学で松永氏からのメールを受け取った。

  私の知り合いでは、妹尾、松永、  江頭、  広瀬(ひろせ)、  澤邉(さわべ)、 中島(なかしま)の各氏がお別れ会に出席されたという。

 
かくいう私は、当日、ある高校の社会科の先生方に話をしなければならなかったので、出席できなかった。前進化経済学会会長の塩沢由典(しおざわ・よしのり)氏が ホームページでお悔やみを書いた。共同通信が訃報を伝えた。

 木村氏は、小島清理論と、価値連鎖論とを結びつける努力をしていたと、千葉大学教育学部の妹尾氏が報告している。残念ながら、私は、そのことを知らなかった。

 
つい最近、尹春志(ゆん・ちゅんじ)氏の博士論文審査を終えたばかりである。氏の論文は、Japan and East Asian Integration: Myth of Flying Geese, Production Networks, and Regionalismで、小島理論と価値連鎖論を結びつけたものである。なんと、私の近くにいる人たちが、同じテーマを互いに知らないまま追っていたとは。

 木村氏の業績については、福島大学経済経営学類・大学院経営学研究科データべースで詳しい。さらに、妹尾氏が学会報告をも含めた業績一覧を作成中である。こんな短期間に、膨大な業績一覧を作成しえた妹尾氏の力量には感服する(http://home.att.ne.jp/theta/eurospace/kimura/index.html)。

 主著は、The Challenges of Late Industrialization: The Global Economy and the Japanese Commercial Aircraft Industry, Basingstoke: Palgrave Macmillan, 2007, Februaryである。

 木村氏は、勤務先のホームページで、研究テーマを次のように説明している。

 「各種産業が急速にグローバル化するなかで、後発企業はいかにして企業発展を図るのか。また、後発企業発展を実現するには、どのような経営戦略や制度、環境、産業政策が有効なのか。このような問題意識のもと、私の研究は、グローバル産業における後発企業発展モデルの構築を目的としている」。

 福島大学では、「国際経営論」を担当されていた。
 氏の人間的成熟とともに、企業のなかの「人」の研究に進まれるはずであった。企業研究だけで終わるはずのない人であった。