消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

福井日記 No.113 幕末の本草学と蘭学-1

2007-05-26 19:21:46 | 福井学(福井日記)

 長崎出島時代、オランダからきたケンペル、ツェンベリー、シーボルトが出島三学者と呼ばれている。


 ケンペル(kennperu Engelbert Kaempfer, 1651~1716)は、ドイツ北部レムゴー出身の医師、博物学者。元禄3(1690)年、オランダ商館医として、約2年間出島に滞在した。1691年と1692年に連続して、江戸参府を経験し徳川綱吉にも謁見した。在日中、オランダ語通訳今村源右衛門の協力を得て精力的に資料を収集した。1692年、離日してオランダのライデン大学で学んだ後、故郷に戻ると著述活動に取り組んだ。死後の1727年、ロンドンで出版された日本誌は、フランス語、オランダ語、ドイツ語にも訳され、ゲーテカントヴォルテールモンテスキューらも愛読した。

  著書の中で、日本には、聖職的皇帝(=天皇)と世俗的皇帝(=将軍)の「二人の支配者」がいると紹介した。 その『日本誌』の中に付録として収録された「鎖国論」は、日本の鎖国政策を肯定したもので、当時のヨーロッパのみならず、日本にも影響を与えた。また、「鎖国」という言葉は、この「鎖国論」志筑忠雄が訳した際にできた言葉である(ウィキペディアより)。


 ツェンベリー(Carl Peter Thunberg, 1743~1828)は、スウェーデンの植物学者、医学者。日本植物学の基礎を作る。ウプサラ大学のカール・リンネに師事して植物学、医学を修めた。フランス留学を経て、1771年オランダ東インド会社に入社。安永4(1775)年、オランダ商館医として出島に赴任。翌1776年4月、商館長に従って江戸参府、徳川家治に謁見した。わずかな江戸滞在期間中に、吉雄耕牛、桂川甫周、中川淳庵らの蘭学者を指導した。1776年、在日1年で帰国し、1781年、ウプサラ大学長に就任した。在日中に採集した植物800余種の標本はいまもウプサラ大学に保存されている。著書に『日本植物誌』、『ヨーロッパ、アフリカ、アジア紀行』、『ツンベルクの日本紀行』、『喜望峰植物誌』がある(ウィキペディアより)。


 シーボルト(Philipp Franz von Siebold, 1796~1866)は、ドイツの医師、博物学者。東洋研究を志し、1822年にオランダのハーグへ赴き、国王のヴィレル1世の侍医から斡旋を受け、1823年6月に来日。出島内において開業、1824年には鳴滝塾を開設し、医学教育を行う。高野長英伊東玄朴小関三英伊藤圭介らを育て上げた。

 1823年4月には162回目にあたるオランダ商館長の江戸参府に随行、商館長の一行に加わる。道中を利用して地理や植生、気候や天文などを調査する。江戸においても学者らと交友し、蝦夷や樺太など北方探査を行った最上徳内や高橋景保(作左衛門)らと交友、徳内からは北方の地図を贈られる。

  景保には、クルーゼンシュテルンによる最新の世界地図を与える見返りとして、最新の日本地図を与えられた。


  楠本滝との間に、娘、楠本イネをもうける。
 
紫陽花は学名Hydrangea otakusaと滝の名前をつけている。1828年に帰国する際、収集品の中に幕府禁制の日本地図があったことから問題になり、国外追放処分となる(シーボルト事件)。

  帰国後は日本研究をまとめ、集大成として全7巻の『日本(日本、日本とその隣国及び保護国蝦夷南千島樺太、朝鮮琉球諸島記述記録集)』を随時刊行する。

 
一方で日本の開国を促すために運動し、1844年にはオランダ国王ヴィレル2世の親書を起草し、1853年には米国東インド艦隊を率いて来日するマシュー・ペリーに日本資料を提供する。1857年にはロシア皇帝ニコライ1世に招かれ、書簡を起草するが、クリミア戦争により日露交渉は中断する。

 1845年にはドイツ貴族のヘレーネ・フォン・ガーゲルンと結婚、3男2女をもうける。1854年に日本は開国し、1858年には日蘭通商条約が結ばれ、シーボルトに対する追放令も解除される。

  1859年、オランダ貿易会社顧問として再来日し、1861年には対外交渉のための幕府顧問となる。1862年に官職を辞して帰国。1866年10月18日、ミュンヘンで死去、70歳。シーボルトの息子アレクサンダー・フォン・シーボルトは、安政6(1859)年以来、日本に滞在、英国公使館の通弁官を勤め、慶応3(1867)年、徳川昭武らのフランス派遣(パリ万博のため)に同行している。また、従兄弟の子供に当たるアガーテ・フォン・ジーボルト(1835-1909)は、ブラームスの婚約者だったことで知られる(ウィキペディアより)。

 彼ら「出島の三学者」のいずれも、本草学に造詣が深かった。本草学というのは、薬草などの植物学、薬物学、博物学といった、薬と関連するいろいろな分野を総合する学問である。江戸時代の日本の本草学の水準の高さは、すでに世界レベルであった。当時、蘭学者になろうとして蘭学塾に入門するには、本草学の知識をもっていることが条件になっていたほどである。

福井日記 No.113 幕末の本草学と蘭学-2

2007-05-26 19:19:02 | 福井学(福井日記)

 シーボルトが、短期間に、あれほど優秀な日本人の取り巻きを形成できたのは、もちろん、シーボルトの力量にもよるが、門人たちの高い本草学の知識によることが大きい。シーボルトが門弟に最高の知識を授け、自身も門弟から高度の知識を摂取できる、そうした学問共同体が存在していたからに他ならない。1999年の「長崎大学薬学史研究プロジェクト」はそうした事情を明らかにしてくれている力作である。

 教師とは、自分にないものを学生に見出し、学生もまた自分の優れた点を教師に発見してもらった喜びでさらに勉学に励むという環境を作る役目をもつものである。お題目の並んだテキストを無感動に伝える自称教師が多くなったが、そんなところに学問共同体などできるはずもない。

 
互いに学ぶことを自覚し、さらには、時代の嗅覚において若者が教師よりも数段優れたものをもっていることを甘受する人しか教師を名乗ってはならない。それ以外は教育の美名の下で人間の発育の芽を摘んでしまう犯罪である。

 シーボルトが、来日して書いた最初の論文は、「日本における本草学の状態について」である。

 
シーボルトの手紙には、日本の本草学の水準の高さに対する激賞が数多く記されている。シーボルトが無名の日本人の学生の鋭さを見抜き、学生もまたシーボルトのすごさを認識して、世界最高レベルの学問を打ち立てるべく、マグマが彼らの共同体の中で噴出していたのである。日本における蘭学とはそういうものであった。

 
無知蒙昧な日本人に、最高水準の知識をもつお雇い外国人たちが、新しい学問を教えるという次元のものでは断じてなかった。私は、この点をとくに強調しておきたい。つくづく、オランダという当時としてはもっともマルチチュード社会であったヨーロッパの小国に学んだのは、日本の幸福であったと思う。

 ケンペルは、出島に薬草園を作った。そして、日本の薬草の調査を行った。日本の「お灸」をヨーロッパに紹介したのはケンペルである。

 わずか1年しか滞在しなかったツェンベリーも、長崎の植物300種、箱根の植物62種、江戸の植物43種など、合計812種の標本を作り、帰国後、上述のように、『日本植物誌』を著した。ヨーロッパ人が知らない日本の薬草、トリカブト、カワラヨモギ、オケラ、スイカズラ、ゲンオショウの薬効を知らせたのは、ツェンベリーである。

 シーボルトは、ケンペルとツェンベリーが、日本人との本草学を発展させた功績を讃えて、1823年から1年をかけて、出島の敷地の1/4を占める面積の植物園を作った。その中央に、ケンペルとツェンベリーの記念碑を建て、つぎのような文を刻んだ。

 「E.ケンペル、C.P.ツェンベリーよ、見られよ!君たちの植物がここにくるごとに緑に繁り、咲き乱れ、植えてくれた主を偲び、めでたい花鬘になっている!V.シーボルト」

 1825年のシーボルトの書簡には、この植物園に日本の1,000以上の種類を植えたことが書かれ、約370種のリストが記されている。なかには、セリ、ナズナ、コギョウ(ハハコグサ)、タビラコ(現在のホトケノザではない)、ハコベラ、スズナ、スズシロといった春の七草まで記されている。

 長崎出島のすごさを示すものとして、当時の通詞(通訳者)のことも説明しておかねばならない。当時の通詞は、いまでいう単なる通訳者ではない。通詞自体が、相当の見識をもった科学者だったのである。 通詞の多くは教育者でもあった。



 例えば、ツェンベリーの側にいた通詞の吉雄耕牛(よしお・こうぎゅう、享保9(1724)年~寛政12(1800)年)は、自身が洋薬を使いうる医者であった。

  吉雄家は代々オランダ通詞を勤めた家系。幼い頃からオランダ語を学び、元文2(1737)年、14歳のとき稽古通詞、寛保2(1742)年に、小通詞に進み、寛延元(1748)年、25歳の若さで大通詞となった。年番通詞、江戸番通詞(毎年のカピタン(オランダ商館長)の江戸参府に随行)をたびたび勤めた。

 通詞の仕事のかたわら、商館付の医師やオランダ語訳の外科書から外科医術を学ぶ。

 
とくに、バウエル(G.R.Bauer)やツェンベリー(上記)と親交を結び、当時日本で流行していた梅毒の治療法として水銀水療法を伝授され、実際の診療に応用した。

 オランダ語、医術の他に天文学、地理学、本草学なども修め、また蘭学を志す者にそれを教授した。

  家塾である成秀館には、全国からの入門者が相次ぎ、彼が創始した吉雄流紅毛外科は楢林鎮山の楢林流と双璧を為す紅毛外科(西洋医学)として広まった。

 
吉雄邸の2階にはオランダから輸入された家具が配され「阿蘭陀坐敷」などと呼ばれたという。庭園にもオランダ渡りの動植物にあふれ、長崎の名所となった。同邸では西洋暦の正月に行われる、いわゆる「オランダ正月」の宴も催された。

 吉雄邸を訪れ、あるいは成秀館に学んだ蘭学者・医師は数多く、青木昆陽野呂元丈大槻玄沢三浦梅園平賀源内林子平司馬江漢など当時一流の蘭学者は軒並み耕牛と交わり、多くの知識を学んでいる。大槻玄沢によれば門人は600余を数えたという。



   中でも前野良沢杉田玄白らとの交流は深く、2人が携わった『解体新書』に耕牛は序文を寄せ、両者の功労を賞賛している。また江戸に戻った玄沢は、自らの私塾芝蘭堂で江戸オランダ正月を開催した。

 寛政2(1790)年、樟脳の輸出に関わる誤訳事件に連座し、蘭語通詞目付の役職を召し上げられ、5年間の蟄居処分を申し渡されたが、復帰後は同8(1796)年、蛮学指南役を命じられた。寛政12(1800)年、平戸の自邸で病没。享年77。法名は閑田耕牛。

 訳書には『和蘭(紅毛)流膏薬方』、『正骨要訣』、『布斂吉黴瘡篇』、『因液発備』(耕牛の口述を没後に刊行。のちに江馬蘭斎が『五液診方』として別に訳出)など。

 通訳・医術の分野でともに優れた耕牛であったが、子息のうち医術は永久が、通詞は権之助(六二郎)がそれぞれ受け継いだ。権之助の門人に高野長英らがいる(ウィキペディアより)。

 シーボルトの後、オランダから出島に送られてきたオランダ商館医のほとんどは、ユトレヒト陸軍医学校出身者であった。その面々が日本の近代科学に巨大な足跡を残したのである。



 シーボルトの研究協力者であったビュルガー(Heinrich Burger, 1806~1858)は、シーボルトの薬剤師として派遣されてきたが、日本に初めて科学的実験方法を持ち込んだ人である。医薬分業論の持ち主でもあった。



 近代西洋医学導入者として著名なポンペ(Johannes Lijdius Catharinus Pompe van Meerdervoort, 1829~1908年)は、長崎大学医学部の創設者であった。



 ボードウィン(Anthonius Franciscus Bauduin, 1820~1885)は、日本に初めて生理学を導入した。



 最終的に三高設立に辿り着くハラタマ(Koenrad Wolter Gratama, 1831~1888)は、理化学を日本に導入した。彼らが、新政府における教育制度の根幹を形成したのである。

 彼らの共同体的研究組織から多くの日本人の俊秀たちが育った。

 日本薬学会の創始者となった長井長義(ながい・ながよし、弘化2(1845)~昭和4(1929)年)は、22歳のときに、蜂須賀藩の命令で長崎に留学した。

 タカジアスターゼ発見者の高峰譲吉(たかみね・じょうきち、嘉永7(1854)年~大正11(1922)年)は、慶応元年、12歳のときに加賀藩の命令で長崎にきた。両者ともに、長崎医学校(現在の長崎大学薬学部の前身)に設置されていた「分析究理所」のハラタマを頼ってきたのである。



 写真の元祖、上野彦馬(うえの・ひこま、天保9(1838)年~明治37(1904)年)は、医学校のポンペに師事して化学を学んだ。



 日本で最初の無機分析化学書『舎密便覧』(1895年)を著した河野禎造(こうの・ていぞう、文化14(1817)年 ~明治4(1871)年)は、筑前藩から長崎に留学した人である。



 ポンペの世話をしていたのは、松本良順(まつもと・りょうじゅん、天保3(1832)年~明治40(1907)年)である。彼は、下総佐倉出身であり、彼の父、佐藤泰然(さとう・たいぜん、文化元(1804)年~明治5(1872)年)は、佐倉藩医で、順天堂医院の創設者である。松本良順は、幕府医官・松本良輔の養子となって、長崎に留学していたのである。彼は、明治6(1873)年、初代の陸軍軍医総監になっている。

  オランダ語でポンペから講義を受けていた生徒たちの中で、この良順と司馬凌海(しば・りょうかい、天保10(1839)年~明治12(1879)年、佐藤尚中(さとう・たかなか、文政11(1828)年~明治15(1882)年)といったオランダ語堪能者たちが、夜、改めて日本人に教えたという。

 ポンペの死体解剖の講義には、シーボルトの娘、楠本いね(くすもと・いね、文政10(1827)年~明治36(1903)年)も受講していた。

 明治における教育制度は、日本の優れた本草学者とユトレヒト陸軍医学校との共同作業のたまものであったと言ってよい。

 以上の叙述は、上記、http://www.ph.nagasaki-cory/history1/history1.htmに大きく依存している。ただし、いかに自由百科とはいえ、今回はウィキペディアに依存しすぎた。