三高の京都誘致に、今立吐酔(いまだて・とすい)は、大きな貢献をした。
初代文部大臣の森有礼(もり・ありのり)と親しかったことが大きな要因であった。
彼らは、相互に感じるものがあったらしい。
これは、元京大総長・西島安則氏の推定である。
同氏は、「100年前の吉田山麓」という講演を洛北高校同窓会(正式には京一中洛北高校同窓会)の会長として、府立一中、三高、京都大学が吉田山麓に並んで建っていたことの大きな意義を語られた(http://yagiken.cocolog-nifty.com/yagiken_web_site/2004/01/post_4.html)。
吐酔の人力で、三高が大阪から京都に移されたことの意味を、これから、おいおい説明することにするが、その前に、今回は、京都が教育先進地であったことをまず強調しておきたい。
明治天皇は、明治元(1868)年正月に元服、16歳の9月に京都で即位、そのまま東京へ行幸、年末に一度京都に帰ったが、すぐに東京に往かれ、そして、東京に居住された(明治2年3月)。
遷都が正式に告げられたわけではなかった。当時の京都人にとってこれは大変なショックであっただろう。
それでも、京都が隆盛を取り戻したのは、町衆の力が結集して教育・研究に若者を奨励したからである。
特筆すべきは、京都で設立された小学校が全国初で、しかも民間人の手で創設されたことである。
明治2(1869)年5月21日、日本初の小学校の開校式が、上京第27番組小学校(後の柳池(りゅうち)小)で行われた。当時の京都には、上京・下京の2区しかなかった。それぞれに番組(学区)という行政区画が置かれ、番組ごとに小学校が創設されたので、番組小学校と呼ばれた。
これらは、町衆による小学校創設構想に端を発したものである。第1号は、上京第27番組で設立された。熊谷直孝(くまがい・なおたか)が柳池小に校舎や敷地を寄付した。その他、大勢の町衆が、多くの寄付や献金を行った。
こうして、64の番組小学校は、国が学制を定める3年も前に、市民の手で、開設していたのである。
柳池小は、戦後の新学制によって、柳池中となった。正門横には、「日本最初の小学校」と記された石碑がある(http://www.city.kyoto.jp/koho/konna/gaiyo/kyohatu/column.html)。
熊谷直孝については、熊谷家が経営している老舗(鳩居堂)の説明を借りよう。
この老舗の商標は、「向かい鳩」である。1180年、熊谷家の先祖である熊谷直実が、源頼朝から贈られた旗印を、図案化したものである。
熊谷直実から20代目の熊谷直心が、年25歳で京都に出て、医学や薬学を勉強し、寛文3(1663)年に、現在の鳩居堂の所在地である、京都市中京区寺町姉小路角に店舗を新設し、薬種業を始めた。
初代の熊谷直心は、当時京都で有名な学者の伊藤仁斎や、その子伊藤蘭嵎(らんぐう)等の教えを受けた。また、当時の学者、室鳩巣(むろの・きゅうそう)が、中国の古い民謡集「詩経」の召南の篇、「維鵲有巣、維鳩居之」にちなんで、鳩巣という雅号を採ったのにあやかって、やはりこの語の中から、「鳩居」という堂号をつけてもらったという。
初代の熊谷直心の志を受け継けついだ四代目の熊谷直恭は、自分も医学に興味を持ち少々は習得し、1836年京都の大飢饉の際には、自費で、数棟の小屋を作り、飢えた人々を収容して、食物を与えた。
弘化元(1844)年に、痘苗がオランダより長崎に渡米したことを聞き、長崎に人を派遣してその地の医師の下で勉強をさせ、これを京都に住む医師たちと語り合い、嘉永2(1849)年10月、楢林栄建、江馬榴園(えまりゅうえん)、小石仲蔵の三医師の賛助のもとに、京都にこの痘苗を持ち帰った。これが、日本における国種痘の最初である。国家ではなく、一市民の手で始められたところに、この試みのすごさがある。
京都の夏の風物詩として日本中に有名な大文字送り火は、その「大」の字の筆者として伝えられる弘法大師が、鳩居堂の取り扱う筆の神様とされているところから、鳩居堂はこの行事に多大の貢献をしている。天明の飢饉の後、財政難で点火が中止されたときには、直恭は費用を負担して再興を試みた。
また、熊谷直恭は、その取り扱う筆の毛に馬や鹿や、兎、狸などの体毛を用いることから、それらの動物に感謝の念をもたねばならないとして、山科、草津、比叡の山中越えなどに、道中の牛馬に、水やかいばを与える関を作った。今でもこれらの関には、熊谷直恭 (蓮心)への謝恩碑が建てられて残っている。
熊谷直恭の死後は、その長子熊谷直孝が家業を継いだ。父熊谷直恭の残した仕事のうち、御幸町の持ち家を種痘所とした有信堂が、新政府の京都府に引き継がれた。
熊谷直孝は、さらに、この有信堂に寺子屋を少し大きく組織した教育塾を設置して、当時の著名な学者であった小林卓斎に委任して、子女の教育に手を付け始めた。これが全国に小学校令の発布による小学校開設の基となった柳池小学校の母体である。直孝自らが教師として、読み書きを教え、自分の妹の熊谷かう女を女教師として、裁縫と礼儀作法を教えた( http://www.tohji.co.jp/main/incense/history.html)。
京都の底力は、こうして地元の町衆に支えられた教育の高さにある。地域ブランドを確立する必要が地方にはあるが、単に、役所がかけ声をかけてブランドができるものではない。京都ブランドのすごさは総合力の強さなのである。
そして、京都に三高を誘致したのが、福井県人の吐酔であった。
次回では、その説明に入る前に日本の近代化に決定的に重要な影響を与えたオランダ学について触れておきたい。
近代化とはすぐに英米からの学問導入を人々は想起するが、オランダ学のバランス感覚・成熟した大人の思想には、当時としては瞠目すべきものがある。
意図したのか、しなかったのかは不明であるが、鎖国時代、江戸幕府が、オランダを窓口として西洋の学問を導入したのは大正解であったと私は信じている。あえていう。オランダ学重視の姿勢を継続しておれば、20世紀の忌まわしい経験を日本はしなくて済んだであろう。