竹富島には「むーやま」(六山)という6つの「うたき」(御嶽)がいる。「うたき」というのは、各村の先祖神のことをいう。
つまり、昔の竹富島には、6つの村があった。それぞれの村には長(酋長)がいた。長たちは、栽培穀物の種類、および種子蒔きの日取りの決定で争った。最終的には玻座間村の酋長、「ねーれかんどぅ」(根原金殿)が押し切って、粟を主体とし、種子蒔き日は、戊子(つちのえね)に落ち着いた。
他の酋長たちは、「アンガマ」に扮して根原の元に和を乞いに行った。
ここで、「アンガマ」というのは、諸説あるが、竹富島では「覆面をして家を訪問する人(神)」として理解されているようである。
アンガマには2系統あり、1つは石垣島の中心部で行われる、もともと士族間で実施されたアンガマ、もう1つが離島の農村で行われているもの。竹富島のアンガマは後者にあたる。石垣島のアンガマではウシュマイ(お爺さん)とンミ(お婆さん)が登場し、問答を行う。離島系のアンガマでは、ウシュマイとンミは出ない。歌詞や踊りの形式などは、離島系のものが古い形であると考えられている。
アンガマには、盆に行われる「ソーロンアンガマ」の他に、節アンガマ、家造りアンガマ、三十三年忌のアンガマがある。一般にアンガマというと、ソーロンアンガマのことを指すことが多い。
「ソーロン」とは八重山のことばで「お盆」のこと。精霊から転じて「ソーロン」になっており、盆に迎える祖先の霊を指していると思われる。
ソーロンは、旧暦7月13日~15日にあたり、日本本土の盆時期と一致している。盆行事の風習は日本から伝わったと考えられているが、八重山諸島にいつ伝承されたのかは、よく解っていない。
アンガマについても、諸説がある。1.姉という意味、2.覆面のことを指す言葉、3.踊りの種類、4.懐かしい母親の意味、5.精霊とともに出てくる無縁仏、等々。
竹富島のアンガマには、親孝行の歌が多く、覆面をする意味も「親の霊に顔向けできないが、感謝の気持ちを伝えたい」という意味があるのではないかと言われている。その点からすれば、4の説が有力である。
歌の中には、念仏や供養を示すものも多く、沖縄本島のエイサーと同じように日本から渡来した念仏踊りを起源とするものではないかと言われている。踊り、音楽については、日本からの直接的な影響は感じられないが、覆面踊りについては日本各地の盆踊り、例えば西馬音内、津和野などでも見られる。
竹富島には、昔は、西地区、東地区、中筋地区の3つの場所にアンガマがあったが、中筋のアンガマは消滅し、現在は西地区と東地区で行われている(http://www.bonodori.net/zenkoku/taketomi/taketomi_REKISHI.HTML)。
石垣島について言えば、山形の花笠踊りのような、普段は八重山で着られることのない衣装がいったいどこから渡来したものかということは明らかではないし、ウシュマイ(お爺)とウミー(お婆)のアンガマー面の由来も明らかではない。
東南アジアやメラネシアとの関係が指摘されている、川平(かびら)にある「マユンガナシ面」と同様に、このウシュマイとウミーの面も、中国雲南省などの南方モンゴル系の人たちの間や東南アジア諸国に、八重山のアンガマー面と瓜二つのものが伝わっている。
中国の雲南省などに住んでいる少数民族、ミャオ(苗)族。人口は約900万人。今は、貴州省、雲南省、四川省、広西チワン族自治区、湖南省、湖北省、広東省などに住んでいる。ミャオ族には、昔、数百人の男女が日本に渡ったという伝説があるという。彼らに伝わる仮面は、まさに石垣島のアンガマー面と瓜二つと言ってもいい。
このミャオ族のお面は、口や目の形、髪の結い方や材質、両面の表情、なにもかもアンガマ面とそっくりである(http://www.yukai.jp/~point/katteni/newpage3000angama.htm)。
いろいろな地域から渡来人がこの島に住み着き、穀物の栽培地の確保を巡って争ったのであろう。その名残が、種子取り祭りなのだろう。
ここで、いわゆる「えと」について説明しておこう。
「えと」は、「干支」と表記する。「え」の「干」は「十干」(じっかん)のことである。「支」は「十二支」(じゅうにし)のことである。「十干」は、木(き)、火(ひ)、土(つち)、金(か)、水(みず)という五行を兄(え)と弟(と)に区分けしたものである。「木の兄」が「きのえ」。「木の弟」が「きのと」となる。以下、「ひのえ」(火の兄)、「ひのと」(火の弟)、「つちのえ」(土の兄)、「つちのと」(土の弟)、「かのえ」(金の兄)、「かのと」(金の弟)、「みずのえ」(水の兄)、「みずのと」(水の弟)ある。この五行については、惑星を言い表す、水・金・地・火・木(すい・きん・ち・か・もく)の「地」を「土」に置き換えて(水・金・土・火・木)、それを反対から読めばいい(木・火・土・金・水)。五行の兄と弟で十個ある。従って、これを「十干」(「じゅっかん」ではなく、「じっかん」)という。さらに、「木のえ」を「甲」、「木のと」を「乙」という字で置き換える。以下、丙(ひのえ)、「丁」(ひのと)、戊(つちのえ)、「己」(つちのと)、「庚」(かのえ)、「辛」(かのと)、「壬」(みずのえ)、「癸」(みずのと)となる。こうして置き換えた漢字には別の読みもする。「甲」(こう)、「乙」(おつ)、「丙」(へい)、「丁」(てい)、「戊」(ぼ)、「己」(き)、「庚」(こう)、「辛」(しん)、「壬」(じん)、「癸」(き)である。
甲乙丙丁(こう・おつ・へい・てい)は成績や序列を表すものとして戦前は多用されたものである。
十二支も古く、殷の甲骨文に出てくる。戦国時代以降、年だけでなく、月・日・時刻・方位の記述にも利用されるようになる。
戦国時代の中国天文学において天球の分割方法の1つであった十二辰は、天球を天の赤道帯に沿って東から西に十二等分したもので、この名称に十二支が当てられた。
古代中国で考えられ、日本に伝えられた。十二支は古く殷の甲骨文では十干と組み合わされて日付を記録するのに利用されている。
十二支の各文字は、一説に草木の成長における各相を象徴したものとされる(『漢書』律暦志)。
また、動物名が配置される十二支を十二生肖と呼ぶ。日本では十二支という言葉自体で十二生肖を指す。元々の十二支は順序を表す記号であって動物とは関係がない。なぜ動物と組み合わせられたかについては、人々が暦を覚えやすくするために、身近な動物を割り当てたという説(後漢の王充『論衡』)やバビロニア天文学の十二宮の伝播といった説がある(ウィキペディアより)。
動物名の十二支は、「子」(ね)、「丑」(うし)、「寅」(とら)、「卯」(う)、「辰」(たつ)、巳(み)、「午」(うま)、「未」(ひつじ)、「申」(さる)、「酉」(とり)、「戌」(いぬ)、「亥」(い)である。このことについては、ほとんどの人が経験的に知っているものである。それぞれ、音読みすれば、「子」(し)、「丑」(ちゅう)、「寅」(いん)、「卯」(ぼう)、「辰」(しん)、「巳」(し)、「午」(ご)、「未」(び)、「申」(しん)、「酉」(ゆう)、「戌」(じゅつ)、「亥」(がい)となる。
さて、十干の1番目の「甲」と、十二支の1番目がまず組み合わせる。つまり、「甲子」から出発する。阪神タイガースのホーム球場の「甲子園」は「甲子」(きのえ・ね)の年に創設されたからこの名が付けられた。この時の「甲子」の年は西暦1924年であった。
「甲子」の次は、十干の2番目の「乙」と十二支の2番目、「丑」が組み合わされる。10番目の「癸」と「酉」とを組み合わせた「癸酉」(みずのと・とり)の次は、十干では11番目がないので、1番目の「甲」と十二支の11番目の「戌」が組み合わさった「甲戌」
きのえ・いぬ」、その次は十干の2番目の「乙」と十二支の12番目の「亥」が組まれた「乙亥」(きのと・い)、次は、十干の3番目の「丙」と十二支の1番目の「子」が組み合わされた「丙子」となる。こうした組み合わせでは、10と12の最小公倍数、つまり、60年で同じ組み合わせの年が巡ってくることになる。甲子が次ぎに来るのは60年後である。
還暦というのも、自分の生まれた年の干支がつぎに回ってくるのが60年後であるという意味である。おそらくは、歴史的に見たとき、10進法を取る民族と、12進法を取る民族が遭遇し、その折衷が60進法になったのであろうと推測される。
戊辰戦争、壬申の乱、辛亥革命、等々は干支でその年を表現したものである。例えば辛亥革命は1911年であった。
竹富島の種子取りに話を戻そう。
「戊子」(つちのえ・ね)に種子蒔き日に合わせることにした、他の村の酋長たちがその旨を根原金殿に伝えたのが、「ユークイの巻き歌」である(狩俣恵一『種子取祭』、竹富島文庫Ⅰ、遺産管理型NPO法人・たきどぅん、2004年、11~13ページ)。
6人の村長(酋長)が神として祀られている所が、「うたき」(御嶽)である。竹富島ではこの6つの「うたき」を総称して「むーやま」(むーやま)と呼んでいる。
種子を蒔くことを竹富島では、「種子取」(たんとぅい)という。その祭りが「種子取祭」である。祭りは9日間開かれる。新暦10~11月に回ってくる「甲申」(きのえ・さる)から「壬辰」(みずのえ・たつ)までの9日間である。
まず、初日の「甲申」(きのえ・さる)は、奉納芸能の練習開始の日である。この日、祭りの関係者は、「ホンジャー」宅に集まり、配役や担当を決め、神に祈る(「ホンジャー」については、末尾に説明する)。祈る場所は、「ゆーむちうたき」(世持御嶽、末尾で解説する)である。
2日目の「乙酉」(きのと・とり)、3日目の「丙戌」(ひのと・いぬ)、4日目の「丁亥」(ひのと・い)は、奉納芸能の練習と料理の仕込みを行う日である。
5日目の「戊子」(つちのえ・ね)が種子蒔きの日である。半間の広さ(畳半分のこと)の畑に種子を蒔く。「いいやち」(飯初)という餅を作る。これは、粟、糯米(もちごめ)、小豆を混ぜた餅である。 6日目の「己丑」(つちのと・うし)の日は、「んがそうじ」(大精進)の日である。「おなり神」(後述する)として、「姉妹」や「おばさん」が招待され、「いいやちかみ」(飯初食)の儀式が行われる。つまり、「いいやち」餅が「おなり」様にふるまわれるのである。
7日目の「庚寅」(かのえ・とら)の日は、玻座間村を中心とした奉納芸能が演じられる。夜には、すべての村で各戸を訪問する「ゆーくい」(世乞い)(後述する)が行われる。
8日目の「辛卯」(かのと・う)の日は中筋村を中心とした奉納芸能が演じられる。
そして、最終日の「壬辰」(みずのえ・たつ)の日は、後片づけと種子取祭の決算を行う日である。
7日目と8日目が奉納芸能が演じられるもっとも華やかな日である。
http://www.napcoti.com/tanedori/hounou08.htm
http://www.napcoti.com/tanedori/hounou08.htm
(吉村史彦「冥界への招待」、http://www2s.biglobe.ne.jp/~hiroba/ikai0107.html)。
(http://www.mikan.gr.jp/report/kigen/page7.html)
(http://www.napcoti.com/tanedori/hounou08.htm)。