思想家ハラミッタの面白ブログ

主客合一の音楽体験をもとに世界を語ってます。

ユダヤ人がつくった現代文明

2017-11-27 13:47:41 | 思想、哲学、宇宙論
http://www.geocities.jp/yoihinare486/newpage5.html

3 ユダヤ人がつくった現代文明


現代文明は人間の思考方式を開発するという意味では、ある種の役割を果たしてきました。小学校で教えている算数とか国語は、学ばなければならない実学です。人間の能力性を発育させたという意味で、文明にも功績があったと言えるでしょう。これはユダヤ人が世界に与えた功績です。

ユダヤ人には特別にすばらしい人と、極悪非道の人もいるのです。日本人とはレベルが違うのです。ユダヤ人が考えてくれるのはいいのですが、彼等自身の主観に基づいたリーダーシップをとられることになりますと、私たちがそれに踊らされてしまうことになるのです。ここが難しいのです。

ユダヤ人が科学文明、機械文明、エレクトロニクス文明を造ってきたのは、確かに功績でしょう。だからと言って、人間の生命についてある種の観念に縛られなければならない理由はないのです。

現在の文明が最高のものだと言って押しつけられるのは困るのです。もっとよい文明があるはずです。原水爆を造らなければならないような文明は、最高の文明とは言えないのです。犯罪がだんだん増加していく文明、家庭内暴力や学校内暴力が、加速度的に増大していくような教育は、決して望ましい教育とは言えないのです。特に近代文明が強調している基本的人権、民主主義という概念は、ユダヤ人特有の概念ですが、こういう概念が日本を益する面もありますが、非常に毒している点もあるのです。利されている面はどんどん利用したらいいですし、毒されている面はどんどん否定したらいいのです。

私は現代文明がすべて悪いと言っているのではありません。文明が人間の霊魂を一つの型の中にはめこんでしまうのがいけないと言っているのです。知能を啓発するのはいいのですが、知能を啓発することだけに人間を縛ってしまうことがいけないのです。知能の啓発は、社会的な人間の向上にはなるでしょう。しかし情操面がだめになってしまうのです。ここに考えなければならない問題があるのです。

なぜそういうことになってしまったかと言いますと、ユダヤ人の神観に原因しているのです。ユダヤ人の世界観、価値観に原因があるのです。彼らは、自分たちの世界観や価値観を流しているのです。

現在、全世界でスポーツが盛んに行われていますが、これを広めたのがユダヤ人です。スポーツを愛好することはいいのですが、スポーツ至上主義になってはいけないのです。スポーツで優秀な成績を修めることが、人生の最高の目的のように考えてしまうことがいけないのです。

スポーツ、スクリーン、セックスによって、人間が現世に縛りつけられてしまうことがいけないのです。

日本人は文明によって、人間の本質が束縛されていることがよく分からないのです。今の大学教育が、日本人をどれだけ束縛しているかわからない。現代文明は、神について、命について、人間の本質について間違っています。その間違いを人類に押しつけて、地獄へひっぱっていく。これがいけないと私が言っているのです。











スピリチュアリズムの主張は、99%正しいが1%偽りがある。その1%は天地をひっくり返す偽りである

2017-11-24 19:06:10 | 思想、哲学、宇宙論

http://higurasi101.hatenablog.com/entry/2017/10/04/202229



スピリチュアリズムの主張は、99%正しいが1%偽りがある。その1%は天地をひっくり返す偽りである


 スピリチュアリズムの主張は、霊界の高級霊からの通信であるとされる。通信は検証のうえ間違いないとされている。スピリチュアリズムが提示した内容は、今までの常識を覆し、新たな霊界像と信仰観を示してきた。私は、スピリチュアリズムを学びながらその見解にほぼ真理に近いと感じてきた。しかし、私自身が経験してきたこと合わせて考えると、どうしても腑に落ちないところがあった。ある時それがなぜなのか?はっきりした。スピリチュアリズムの目的は、サタンと悪霊集団はいないという存在そのものを消し去ることにあるのだと悟った。「シルバーバーチはサタンの使いである」。

 スピリチュアリズムは、心霊現象の意味、霊界の姿、摂理を通しての神の支配、霊主肉従、利他愛の実践など、99%まで真理を語って通信内容を信用させ人々を納得させてきた。しかしそれは、残りの1%に人々を導くための伏線であったのではないか。それは、「サタンはいない」「原罪はない」「最後の審判はない」「メシアは必要ない」という見解である。サタンと日夜闘ってきた者としては、それはありえない見解である。サタンと悪の霊的集団は存在する。スピリチュアリズムの見解は、この世の君「サタン」がこの世の支配権を手放さまいとする発悪行為である。こう解釈すると、用意周到に準備された主張の一つ一つに目論見が見えてくる。



(1)既成の宗教を否定するスピリチュアリズムは、悪霊との闘いを放棄させることを目的にしている

 多くの人にとって、サタンが存在するという認識はほとんどないであろう。サタンがその姿を見せることは稀である。また、霊界の事実と霊的成長なるものを示されたうえで、今まで宗教が行ってきたことを否定されると、信仰は必要ないんだという理解に至るかもしれない。そういう結論に導こうとするサタンの目論見は、ただ一つ宗教が果たしてきた本質的な役割、悪霊との闘いを放棄させることなのである。

 スピリチュアリズムの「宗教観」は、霊界にいる霊たちが地上の宗教を見たときの見解である。その際、地上の宗教の真偽の判断基準となるのが「霊的事実」と「霊的真理(神の摂理)」と「霊的成長」であるという。こう霊界という別次元から切り出されると、人間は戸惑い平伏しかねない。そこが大きな狙いである。

 スピリチュアリズムが主張する「宗教観」は、次のようなものである。
•地上の宗教の教え(教義・ドグマ)には霊的真理の一部が含まれているが、教えの大半は地上人によってつくり出された“ニセモノ”である。その代表がキリスト教におけ る「贖罪論」や「最後の審判説」であり、悪の勢力としての「サタン存在説」である。
•地上の宗教の教えの多くは霊的事実からかけ離れており、「霊的無知」の上に宗教がつくられている。
•霊的無知の上に築かれた地上の宗教は、「神」に対する間違った認識を人々に植えつけているため、地上人類を霊的成長へと導くことはできない。それどころか、人々を霊的成長から遠ざけることになっている。地上の宗教は「人類の霊性向上を促す」という本来の使命から見ると、明らかに失格である。
•地上の間違った宗教の中でキリスト教は、最も弊害の大きな宗教である。イエスの教えとは無関係な人工的教義を土台としてつくられたのが“キリスト教会”という宗教組織である。キリスト教会は絶対的な権力を獲得し、宗教的独裁によって人々を“霊的牢獄”の中に閉じ込めてきた。
•霊的観点から見ると、キリスト教の教えの多くは間違っているが、イエスが生前に説いたシンプルな教え(神の愛・利他愛の教え)は摂理に一致しており、それは人類にとって“最高の教え”と言える。

 http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sb/sb-comm/sb-comm-11.htm

 このように、スピリチュアリズムは既成の宗教をほぼ全面的に否定している。スピリチュアリズムは、宗教者の霊的知識がどうしても部分的にとどまる点をついて徹底的に攻撃する。霊界からの事実を告げているスピリチュアリズムこそ正しいものだというスタンスである。そこにはなぜ宗教が起きたか、宗教がなしてきた贖罪・カルマの清算について、その意味をほとんど認めていない。

 神が宗教を立てた理由は、一人の宗教始祖の信仰の勝利をもとにそれに連結することによって、多くの人間を救おうとされたからである。宗教始祖の信仰の勝利を信じる信者は、少ない苦労で罪を清算できるのである。もし人間が単独ではほとんど罪の清算をなさなければならないとしたら、誰もがイエスや釈迦と同じ苦難の道を歩まなければいけなくなる。そしてほぼ全員、信仰の勝利に辿り着くことは不可能であるだろう。



(2)イエスもサタンの挑戦を受けている

 スピリチュアリズムとは、イエスを中心とする地球圏霊界の高級霊が結集して、計画的に進めている「地球人類救済プロジェクト」であるという。イエスも、私たちの仲間でありリーダーであると述べている。その一方、キリスト教の教えはイエスの教えとは別であるとして、キリスト教の教えを否定するのである。聖書の記述は、イエスの利他愛の教えだけが正しいという。聖書の中で、スピリチュアリズムのリーダーの一人であるイエスがサタンと闘っていることはつくり話だというのであろうか。

 聖書の中のイエスがサタンに試される場面(「マタイによる福音書第4章1~11」の場面)、イエスのサタンとの闘いは、釈尊の悪魔との闘いのように真実であったはずである。

 さて、イエスは聖霊に満ちてヨルダン川から帰り、荒野を四十日のあいだ御霊にひきまわされて、 悪魔の試みにあわれた。そのあいだ何も食べず、その日数がつきると、空腹になられた。そこで悪魔が言った、「もしあなたが神の子であるなら、この石に、パンになれと命じてごらんなさい」。イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」。それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。 それから悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、ここから下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために、御使たちに命じてあなたを守らせるであろう』とあり、また、『あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』とも書いてあります」。 イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』と言われている」。悪魔はあらゆる試みをしつくして、一時イエスを離れた。それからイエスは御霊の力に満ちあふれてガリラヤへ帰られると、そのうわさがその地方全体にひろまった。(出典/口語訳聖書 Public Domain)

 イエスの歩みは、イエスが利他愛を説き実践するだけでなく、サタンと対決しサタンを屈服させる闘いだったのである。上記のサタンとの闘いの場面は、この世の支配権をサタンから取り戻そうとする非常に重要な場面なのである。



(3)堕落と原罪を否定するスピリチュアリズム

 スピリチュアリズムは、堕落と原罪を否定する。スピリチュアリズムの見解を見てみよう。

 スピリチュアリズムでは、霊的事実に基づいて、神とサタンに関連づけた従来の宗教の善悪観を完全に否定します。「神とサタンの対立」などというものは、霊界にも地上界にも存在しないからです。(中略)

 「霊肉の問題」「善悪の問題」「罪の問題」に対してスピリチュアリズムの霊界通信は、これまでの説とは異なる回答を示しました。キリスト教で教えてきた悪の中心的存在である“サタン”も、それから生じたとされる“悪の一大勢力”も否定します。霊界には、地上人が永い間信じてきた“サタン”は存在しません。当然、サタンによって発生したとされる“原罪”もありません。スピリチュアリズムのすべての霊界通信は、これまで地上の宗教において説かれてきた「善悪観」や「罪観」を否定します。

 シルバーバーチは、人間の内部(心)における葛藤を「罪の問題」や「善悪の問題」としてではなく、「霊的意識」と「肉体本能的意識」の対立と見なします。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sb/sb-comm/sb-comm-02.htm

 また次のようにも説明する。

 シルバーバーチは――「善と悪は、霊的成長のプロセスにおいて現れる相対的な状態にすぎない」と説いています。そして「悪とは、人間の未熟性・霊性の低さによって生み出される神の摂理への不一致行為である」としています。したがって、今は“悪”として現れているものも、霊的成長にともなって“善”に変化していくことになります。

 “善悪”という言葉を「利他性」「利己性(霊的未熟性)」という言葉に置きかえて人類に提示したのです。地上世界は“光と影”の両方を体験し、そこからより明るい世界を目指して歩み出すための訓練場なのです。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sb/sb-comm/sb-comm-08.htm



 「悪とは、人間の未熟性・霊性の低さによって生み出される神の摂理への不一致行為である」というのである。その悪に人間は悩まされ続けたことをどのように解釈するのであろうか。古来、悩まされ続けてきた罪、魂の癖は、仏教では「煩悩」と呼ばれてきた。物欲・色欲・名誉欲、そしてその背後にある自分が一番大事であるという我欲と自分中心主義、このことから脱却するために人間は苦悩してきたことを忘れてはいけない。

 スピリチュアリズムでは、「そもそも苦しみや困難は、人間が「神の摂理」から逸脱したために発生したものです。その苦難は、神が人間に幸福をもたらすために設けた摂理に合わせる生き方を通して消滅するようになっています」という。

 確かに、人類始祖の堕落という行為は、人類始祖が「神の摂理」から逸脱することによって生じたものである。サタンは、人間は自分中心に判断するから地上の支配者としてふさわしくないと主張したかったのではないか。人類始祖が、サタンの試練に敗北したのが堕落という行為であった。その結果、人間は神との授受の関係が切れてしまい、サタンと授受の関係を結び、それと一体となった。そのことによって人間は、自分中心という人類共通の意識をもつことになった。

 スピリチュアリズムが主張するように、もし堕落からの回復が人間の苦難だけによって消滅するというならば、もうとっくにこの世から苦しみは亡くなっていてもいいはずである。しかし、今なお人間の苦悩は続いている。「神の摂理から逸脱した」という単純な問題ではない。ほとんどの人は、イブが天使から誘惑されたことをつくり話と思っておられるかも知れない。

 しかし、心霊が霊界と相通じるようになると、サタンの誘惑という現象は実際に存在することがわかる。スピリチュアリズムは、「サタンはいないのだから、サタンの誘惑などあるはずがない」というが、サタンと対決してきた者としてはありえないことである。通常、サタンは姿を隠しその正体をさらすことはほとんどない。姿を現したとしても、巧妙にもっともらしく誘惑をかけてくる。しかも決して自分に責任があるような言い方はしない。責任逃れの天才であるといっていい。サタンの誘惑によって人類始祖が神の摂理から逸脱し、その結果人類が苦難の道を歩まなければならなくなったのはよく理解できるし事実である。

 堕落の結果人類は、自分中心・肉主霊従に陥り、対立抗争を繰り広げる悲惨な歴史を作り上げてきたのである。人類始祖が起した罪(堕落・原罪)は、「淫行」という子孫繁殖行為による罪であったがために、子々孫々血統を通じて引き継がれることになったのである。

 「サタンは遠くにいるのではありません。自分と共に連結されています。自分というのは、天国と地獄の境界になるというのです。自分に地獄があり、天国があります。良心は天国、地獄は肉身なのです。人間は堕落する時、愛の為に堕落したので性器が最も怖いのです」。この言葉に謙虚に耳を傾けるべきである。



(4)利他愛の実践だけでは霊性の向上には限界がある

 シルバーバーチが教える霊的成長のための実践項目とは――「霊優位の生き方(物欲にとらわれない霊主肉従の生き方)」「利他愛の実践」「苦しみの甘受」の3つです。この3つの実践こそが、霊的成長を促す“善(正しい生き方)”の具体的な内容と言えます。

 それに対して“悪(間違った生き方)”の内容とは、この3つの実践に反する行為のことです。すなわち「物欲・肉欲を追求する肉主霊従の生き方」「利己的・自己中心的な生き方」「苦しみを避ける生き方」です。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sb/sb-comm/sb-comm-08.htm

 実にもっともな見解である。利他愛の実践を皆が行えば世界はよくなることは間違いない。スピリチュアリズムの主張は世界を正しい方向に導く正当な教えであると、多くの人が賛同するであろう。しかし、そこに大きな落とし穴がある。人間は自然に純粋に利他愛を実践できる存在になっていないという現実である。

 現実の世界を見ても、利他愛の行動が世界に平和と安定、人々の幸福をもたらすものとして欠かせないとわかっていても、現実の世界は対立と抗争が続き、人々の間では貧富の差が拡大して生命が脅かされている。仏教は、「人間は誰でも自分が一番大事である。それゆえ、どうしても自分中心に物事を判断してしまう。三大煩悩(物欲、性欲、食欲)及び名誉欲に翻弄され我慢できず我欲に負けてしまう。このため、仏教の修行は《無我》(私心をなくす)に至るために厳しい修行をするのです」と説いてきた。自分中心の行動を抑制できないのが実際の人間の姿である。

 このことを考えただけでもわかるように、利他愛の実践と苦難の甘受を唱えただけで人間の霊性が向上して完成に至るとは考えられないのである。人間の自我を少しつけば、サタンはすぐにでも人間を神の摂理から外れた誤った道に追い込むことができる。日蓮は、「魔を降伏しない教えは、正法ではない」といったといわれるが、どんなに利他愛の実践に努めても、サタン・悪魔を屈服していない限り、我々はサタン・悪魔の手中にあるといえるのである。



(5)地上生活は愛のリハーサルだけの場ではない。愛を完成する場であり、愛の人を繁殖する場である

 原罪は淫行であると語った。そして、原罪によって人間が引き継いだものが魂の癖である。仏教でいう自分中心という間違った自我と煩悩、これが原罪によって引き継いだ魂の癖である。原罪が淫行という人間の子孫繁殖行為によるものであったため、血統を通して引き継がれることになってしまった。

 スピリチュアリズムはこのことを認めない。地上の複雑な家族関係が血統によってもたらされているということに触れない。しかし、多くの人は仏教の教えによって、因果応報という法則が我々を支配しており、血統を通じて現れてくることを学んでいる。家族関係の背後には、先祖の問題が絡んでいることを薄々感じている。したがって、地上の人間関係、とりわけ家族関係の問題はいい加減にすべきものではない。スピリチュアリズムの家族観を紹介してみよう。

 男女愛と同様、地上における「家族愛」は往々にして排他性と利己性をおびています。常に自分たちの家族の利益を第一に求めます。親は自分の子供の幸せだけを願い、自分の子供の利益を優先して求めます。“我が子だけが大切”というのが、地上の大半の親子愛の実態です。地上の家族の結びつきは、いわゆる血のつながり(血縁)であって、どこまでも物質的つながり・物質的関係にすぎません。それは肉体本能による結びつきであって、霊的なものではありません。そのため大半の地上の家族関係は、霊界においては失われることになります。

 地上の家族関係の中には、人間として体験すべきあらゆる種類の愛が存在します。親子愛・兄弟愛・夫婦愛という、それぞれ異なった次元の愛を体験することで“人類愛”のリハーサルが可能となります。また他人に愛を与え、他人の愛を受け入れるという愛の基本的訓練が、家族関係の中でなされるようになっています。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~spbook/sp-introduction1/sp-introduction1-2_04.htm

 スピリチュアリズムは、「地上の家族の結びつきは、いわゆる血のつながり(血縁)であって、どこまでも物質的つながり・物質的関係にすぎません」と、現実の家族は排他的で利己的な部分があっても仕方ないと切り捨ててしまう。家族というものは、人類愛のリハーサルの場としか見ていないようである。そうではない。家族は、先祖から私に至るまで血縁を通して連綿とつながってきた歴史の結実体であり、おろそかにできるものではない。家族は代えられないものであって、修復して人間の生存の愛の基地にしなければならないものである。愛は対象があって初めて成立するが、家族は人間が地上で愛を訓練し完成する中核的な存在である。家族を完成することが地上生活の目的であるといっても過言ではない。この原則に立つならば、スピリチュアリズムの説く地上生活の意義はあまりにも皮相的なものである。



(6)神の摂理は、人間の選択によって大きく変わる

 スピリチュアリズムでは、善悪の基準を「神の摂理」において、神の摂理に符合するものを「善」、反するものを「悪」としている。この見解は、多くの人の神観からみると戸惑いがあるであろう。しかし、易や占いの世界を知る人にとっては、神の摂理という考え方は納得しやすいものではないだろうか。スピリチュアリズムは、こう述べる。

 シルバーバーチは、神と人間は「神→摂理→人間」という摂理を介した間接的な関係にあると主張します。神は「摂理」を造り、それを通じて宇宙や人間を支配しています。そのため人間は常に、神が造った摂理には触れることになりますが、神と直接的に接触することはできません。神は摂理によってすべての人間を機械的に支配し、完全平等・完全公平に扱います。そこには、えこひいきや特別な配慮は一切ありません。宇宙から万物・人間に至るまで、すべてが「神の摂理」によって厳格に支配されているのです。(中略)

 人間はさまざまな摂理の支配を受けながら、「霊的成長」というレール(摂理)の上を一歩ずつ上昇していくことになります。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sb/sb-comm/sb-comm-08.htm

 私たち一人一人の人間は、神の摂理の中で生きている。その通りである。そして神の摂理を人間側から見た場合、日々私たちが選択する内容が世界から個人の人生に至るまでの神の摂理の方向を決めている。ほとんどの人はまったくその意識はないが、私たちが判断する選択はどちらかが神の摂理にかなうものであり、どちらかが神の摂理に反するものである。神は摂理によって世界を支配していることに間違いない。そしてその摂理の方向は、人間の選択にかかっているのである。ほとんどの場合、人間は神の摂理に反する選択を行い、その結果、苦難な状況をもたらすものになる。人類歴史や人生が苦難に満ちたものになりやすいのは、人間の選択の基準が自己中心から生じたケースが大半であるからである。(先祖の誤った選択を子孫が受けていることも多い。)

 シルバーバーチは、“悪”(神の摂理に反する選択)とは、キリスト教で説いてきたようなサタンによるものではなく、自らの未熟さが招く結果のことだという。確かに、人間の心霊の未熟さゆえであるといえばその通りであるが、ほとんどの人間が歴史上勝利できていないという現実の背後には、サタンと悪霊の働きかけがある。摂理の重要な局面に差し掛かると、サタンは姿を現し、人間を誘惑するのである。もしスピリチュアリズムが主張するように、「そういう存在はない」というならば、はるかに多くの人が悟りの境地に至っているだろうし、人類歴史はここまで悲惨なものとなっていないであろう。度重なる人間の神の摂理選択の失敗が、人類歴史の再現現象、家系の中の因縁現象をもたらしているのである。



(7)宗教不要論-宗教が果たしてきた役割を軽んじてはいけない。しかし、最後には宗教組織は不要になる

 スピリチュアリズムは、宗教団体のあり方に対して全否定する。確かに、宗教団体は、宗教独自の「神」に対する認識を人々に植えつけ、自分の宗教だけが真実であるという排他的な姿勢をとることが多い。その結果、その教義に固陋することになりやすく、人々を救いに導くことができなくなることもある。しかし、宗教は神がその時代その民族に必要な教えを教祖といわれる人を通して授けたもので、多くの人を救ってきたことを忘れてはいけない。今までさまざまな宗教が誕生してきたのは、時代・地域で異なる人間の状況に対応するためのものであった。

 スピリチュアリズムは、宗教組織の不要について次のように主張する。

 宗教本来の使命を知れば、これまでのような宗教組織は不要となります。不要どころか、一刻も早く地上から駆逐しなければなりません。スピリチュアリズムは、人々の「霊的成長」を促す正しい宗教を地上に確立しようとする運動です。“正しい宗教”とは、教祖も間違った人工的な教義もない宗教です。エゴ的な宗教組織も狂信じみた布教活動もありません。それは「霊的真理」を指針とし、自己責任のもとで霊的成長の道を歩むという霊的人生のことです。正しい宗教とは、「神」と「神の摂理」だけを絶対崇拝する生き方のことであり、従来のような特定の宗教組織に属して一人の人間を神格化するものではないのです。http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sb/sb-comm/sb-comm-11.htm

 真理は一つなので、最終的には宗教は一つになり、宗教組織は不要になるものではある。しかし、そこに至るには順序があって、段階ごとに人間の霊性向上をもたらす必要な教えと救いが必要である。人間は、宗教組織の教えに従うことによって霊性の向上を図ってきた。宗教者は、救いは一人ではなしえないということに気づいた。パウロが、「わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、私の肢体には別の律法があって、私の心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、私をとりこにしているのを見る。私は、なんというみじめな人間なのだろう。(ローマ人への手紙第7章22~23)」と慨嘆しているように、救いは独力では無理だと感じていたのである。

 特に原罪の清算は、人間の努力だけでは難しいというのが宗教上(特にキリスト教)の見解である。原罪の清算が済むまでは、宗教組織と教祖の恩恵なくしては困難なのである。このことを感じるがゆえに、メシア待望論が起こり、メシアに連結されることによって贖罪(救い)を受けたいと多くの宗教者は願ってきたのである。

 原罪(罪の根)を清算して唯一の真理の道を悟ったのちは、スピリチュアリズムが主張するように自らの責任で霊的成長過程を歩むことになる。(スピリチュアリズムは、この段階だけのことを述べている。)霊的成長の最期の段階は、人間は神によって神の分身としてこの世を主管するように定められているため、主人になる資格を自らの手によって誰もが独力で勝利しなければならない。旧約聖書で、ヤコブがハランの地からカナンの地に帰る途中、ヤボク河のほとりで天使と組打ちをするが、これはサタンがカナンの地に入らせまいとする妨害であるというだけでなく、ヤコブがカナンの地の主管者として認定されるための儀式でもあったのである。



(8)スピリチュアリズムが普及した世界は野蛮化する

 スピリチュアリズムは、宗教とサタンの存在を否定する。この思想が広まると、人間は宗教および宗教の教えをないがしろにすることになるだろう。今まで人類の霊性向上に貢献してきた宗教は捨てられるのである。サタンと悪霊集団は存在しないことになるため、サタンと悪霊に対する人間の闘いは止むになるだろう。

 そうすると、実在しているサタンは隠れたところから容易に人間を支配しあやつり続けることができるであろう。この世の君「サタン」は、引き続きこの世を支配し続けることができるのである。人間は、サタンの誘惑に翻弄されて堕落と罪の繁殖を繰り返すであろう。人間の霊性は後退し、人間社会は野蛮化するであろう。一見先見的と思われるスピリチュアリズムの普及は、人間の平等と繁栄をもたらすと期待されて主張された共産主義が辿った末路と同じように、人間を霊的退廃の世界に導くことになるのである。



 最後に、このブログを書こうとした瞬間から、強烈な霊的な攻撃がかかってきたことを付け加えておく。



ハロウィンとイルミナティ

2017-11-21 14:42:00 | 思想、哲学、宇宙論

ハロウィンとイルミナティ



Henrymakow.comのリチャード・エヴァンズによると、

ハロウィンは、ドルイド教の人身御供(つまり、多くの人を神への生贄としてささげる儀式)に由来する。



歴史家が一般に認めるところによると、ハロウィンは、古代ドルイド教の祝日の代替として行われるようになった。
http://www.cbn.com/spirituallife/onlinediscipleship/halloween/halloween_origins_ankerberg.aspx


この儀式の起源は、フェニキア人のモロク礼拝にまでさかのぼる。

つまり、ハロウィンは、旧約聖書において預言者が非難したカナン人の生贄の儀式と霊的に同じものである。

20世紀後半、とくに米国におけるハロウィンの習慣を作り出したのは、アリスター・クロウリーやアントン・ラヴェイなどの悪魔崇拝者である。

アリスター・クロウリーは、ロック音楽に多大な影響を与えたイギリスのオカルティスト、儀式魔術師である。 (*)

クロウリーは、東方聖堂騎士団(OTO)のメンバーであり、後に「団の外なる首領」を務めた。

東方聖堂騎士団は、フリーメイソンに類似した秘密結社であり、東洋のテンプル騎士団または東方の神殿の修道会という意味のラテン語を名称とする、20世紀初めに創設された国際的な友愛結社にして宗教団体である。(Wikipedia―東方聖堂騎士団)

クロウリーは、OTOの儀式を戯曲化した。イニシエーションにおいて、演者は、神や女神、魔術師が呼び出す悪魔の役を演じる。

役を演じることによって、その演者と役は一体化する。クロウリーが秘密結社入会の儀式を戯曲化した狙いは、仮装を通じて、悪魔をカバラー的に呼び出すことにあった。

この呼び出しの文句は、戯曲の台本や歌の歌詞の中に織り込まれた。

自分が憑依されることになるということに演者自身が気付いているかどうかは、重要ではない。彼らは、ただ自分の役を忠実に演じ、その文句を聞くことを求められた。

このような「芝居を通じての憑依」は、今日のハリウッド映画やTV番組、音楽に適用されてきた。視聴者は、映画やTV番組のセリフや文句、音楽の歌詞を聞くだけで悪霊に憑依される。

ハロウィンは、数十億ドル産業に成長した。われわれが知っている大衆化したハロウィンは、1950年代には存在しなかった。

1966年、マジソン・アヴェニュー(米国の広告業界の代名詞)は、マーケティング・キャンペーン『モンスターの年』を通じて、ハロウィンを魅力的なものに見せ、その地位を「アメリカ人の生活様式の一つ」にまで高めた。

このキャンペーンには、血だらけのおもちゃが大量に投入された。

TV番組や映画を通じて、ハロウィンの魅力が強調された。TV番組の中には、ゴールデンタイムに放映されていた2つのコメディ『アダムズ・ファミリー』や『ザ・マンスターズ』が含まれていた。

米国の広告業界へのイルミナティの影響は大きい。

「80年代のある調査では大手広告代理店の役員のうち40%がユダヤ人であ」る。
http://abababab.exblog.jp/d2009-03-05

フロイト心理学及び大衆心理学を広告に応用した、「広告の父」として知られる広告活動とプロパガンダの専門家エドワード・バーネイズは、ジークムント・フロイトの甥であり、ユダヤ人である。

つまり、1966年にハロウィンを大衆化し、米国の生活様式の一つに格上げした張本人は、広告とメディアを支配するイルミナティ・ユダヤ人だった。

リチャード曰く、「アメリカの子供たちは、かつて今では存在しない法律によって保護されていた。彼らは家族と社会によって保護されていた。テレビが普及する以前、魔女を自認する人々が彼らの思考の中に入ることはそう簡単ではなかった。イルミナティは、ハロウィンをそれを行う好機と見なしていた。」

米国悪魔教会司祭長アントン・ラヴェイが、悪魔教会を創始したのも1966年である。

これは、偶然の一致ではない。ラヴェイの活動は、主要な雑誌を通じて拡散された。

ラヴェイも、ハロウィンを米国における生活様式の一つに格上げした張本人である。


彼を通じて、ハロウィンは、穏健な収穫祭から「セックスと死」のフェスティバルに変わった。

リチャードが目撃したハロウィンの衣装に、ゾンビとSMが含まれていた。

今日、サタニストにとってハロウィンとは、「ルシファーを呼び出す祝祭」であり、人々を悪魔に憑依させるためにイルミナティが1966年に仕組んだ罠である。

http://www.henrymakow.com/halloween_is_christmas_for_satani.html#sthash.PCPuHwmt.dpuf




(*)
信奉者には、レッド・ツェッペリンのギタリスト、ジミー・ペイジやデヴィッド・ボウイ、オジー・オズボーン、ミック・ジャガーらがいる。ジミー・ペイジは、クロウリーが住んでいた幽霊屋敷のような家を買い取り一時住んでいた。ローリング・ストーンズの『ジャンピング・ジャック・フラッシュ』は、ミック・ジャガーがアリスター・クロウリーの思想に基づいて作った曲である。ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のアルバムジャケットにもその姿が見られる。(Wikipedia―アレイスター・クロウリー)


 

 


文化マルクス主義がアメリカを破壊しつつある

2017-11-19 19:44:28 | 思想、哲学、宇宙論
https://ameblo.jp/greatchain/entry-12275604628.html

またしても、アメリカのある都市が黒人暴動によって引き裂かれつつある。我々の見るシャーロットでの暴力の映像は、我々の知っている国には似ていない。と同時に、高校のフットボール選手やチアリーダー、それに米軍人までが、コリン・キャパニック(フットボール選手)のリードに従って、 国歌の演奏される間、しゃがんで起立を拒否している。多くのアメリカ人は戸惑っている。



オバマが、差別撤廃のアメリカを約束して8年になり、市民権法案が通過して52年になるというのに、アメリカでの人種による分裂が、前よりひどくなっているというのはどうしたことか?



これは、この問題に対する対策がなされていないということでは全くない。アメリカの大学には黒人研究の学部があり、企業は、多様性を教える講師や、黒人雇用割り当て制を取り入れており、主流メディアは人種差別問題をたえず扱っている。にもかかわらず、分裂はますます進んでいる。



この傾向は、白人の偏見によって起こっているのではない。それはイデオロギーによって起こっている。アメリカで人種間の関係が、悪化し続けている理由は、文化マルクス主義哲学が、全国の学校や大学で、容赦なく教え続けられていることにある。



多くのアメリカ人は、“ポリティカル・コレクトネス”ということは知っているが、それが文化マルクス主義理論から来ていることは、知らないかもしれない。古典的なマルクシズムは、資本主義や、それが作り出す階級闘争のこと、労働者を抑圧するその制度を倒さねばならないということを主張したが、文化マルクシズムは、抑圧をつくり出すのは経済ではなく、むしろ家庭単位制であり、伝統的な道徳や、人種、ジェンダー、性的アイデンティティの概念だと論ずる。そうしたものは、革命によって断ち切るべき暴政の鎖なのだ、と。



現代女性よ、あなたは結婚によって幸福か? 母親であることの責任や、仕事の重荷が、あなたを苦しめているか? それは家父長制(男性中心)のせいだ! 黒人よ、あなたは苛酷に扱われていると感ずるか? いつも悪いめぐり合わせで、そこから抜け出せないように思えるか? それは人種差別のせいだ! ゲイの男性よ、あなたは正常な男性の意識的・無意識的嘲笑に、うんざりしているか? 彼らも、自分の性的な引け目を怖れているのだ。だから彼らはあなたたちを憎むのだ! 



こうしたことは、我々の教育方針で、止めどもなく並べ立てられる物語である。これは自然に、また偶然にそうなったのではない。これらは、知識人や大学の学者によって構成されたもので、彼らは国家を変革する急進的な計画をもっており、その過程で利益を得ている。



正常な白人男性による抑圧という教義を信じている人たちは、今日、自分のことをリベラルと呼んでいる。これは戦後にでっちあげられた考えで、彼らの革命的アジェンダについて一般的なアメリカ人を騙そうと企んだものである。彼らはリベラルではない、マルクス主義者である。



文化マルクシズムとは、マルクス主義弁証法がフロイト理論と一つになったもので、それはアイデンティティ(抑圧者、被抑圧者など)や文化に当てはめられる。すべてのマルクシズムの形態と同じく、それは、人々を抽象的なグループに類別し、その間に歴史的な抑圧の物語をつくり出すことに基づいている。マルクス主義者の戦略は、常に、被害者をつくり出し、その上で、そのメンバーに、抑圧者に対して団結することが必要だと納得させる。これは恨みと憎しみを創り出し、それは、マルクス主義イデオロギーが、彼らの目標である革命を達成する手段となる。我々の社会にはびこっている文化マルクス主義は、特に西洋の現象である。1917年のロシア革命の後で、ヨーロッパのマルクス主義者たちは、プロレタリアートの独裁がすぐにもやってくると信じた。彼らは間違っていた。この革命は広がらなかった。絶望の中で、ムッソリーニの監獄の中にいた一人の若いイタリア人、社会主義者のアントニオ・グラムシが、問題は、西ヨーロッパ諸文化の根元にあるキリスト教なのだと書いた。彼はマルクス主義者たちに、これらの国々の内部に第五列(隠れ反対派閥)を育てて、西欧文化の土台を破壊することを奨励した。そうしてこそ、初めて国際的社会主義が実現するだろう、と。



この政権転覆への呼びかけは、ドイツのフランクフルトの「社会研究院」を根城とする、マルクス主義学者たちによって取り上げられた。ワイマール・ドイツの混乱した環境の中で、マックス・ホルクハイマー、ヘルベルト・マルクーゼ、エーリッヒ・フロム、テオドール・アドルノ、それにジェルジ・ルカーチのような理論家たちが、ジークムント・フロイトと古典的マルクス主義の理論を統合して、批評理論、解体理論、ポスト構造主義、それにポストモダニズムの基礎を発展させた。フランクフルト派と呼ばれた、これらの多くの知識人は、ヒトラーのドイツを逃れてアメリカへ行き、“進歩派”や社会主義知識人に迎えられた。フランクフルト派の理論は、(19)60年代の反文化運動の先駆者を結び付け、それ以来、我々の大学や学校のあらゆる学問分野へと広がった。植民地化、隷属、抑圧といったことを問題にするこれらの理論は、現実に西洋の高等教育を植民地化してしまった。



マルクシズムは常に、高尚に響く理想世界のレトリックの衣をまとっている。これは計略である。文化マルクス主義者が求めているものは、真の多様性、社会的調和、また普遍的な寛容といったものに何の関係もない。彼らは、人種同士が仲良くやっていくことを望んでいない。彼らは権力を求めている。文化マルクス主義者が作り出した、身に感ずる諸々の不正に対する“解決”は、ラディカルな社会的操作である。この社会的操作を行う権力は、もちろん、イデオロギーに沿って社会を作り直す決意をもった、政治的に正しいエリートに与えられねばならない。



これが、文化マルクス主義者が常に、政府、大学、あるいはメディアなどの、影響力をもつ地位につこうとする理由である。社会を改造するという過程で、これら文化マルクス主義者が、大きな富や地位や権力を手に入れるのは、驚くに当たらない。これこそ、出世や蓄財が、“嘆き苦しみ(grievance)産業”によって可能になる仕掛けである。それはまた、マルクシズムが、野心的で良心をもたない人々にとって魅力をもつ理由でもある。



文化マルクス主義者が被害者と呼んできたグループの人々が、現在、前より悲惨な境遇にあるのは、驚くことではない。過去50年間の黒いアメリカの凋落は、現代の悲劇である。どんな尺度によっても、黒人の共同体は悪化の一途をたどっている。文化マルクス主義日和見主義者によって大声で求められている解決は、同じことの繰り返しで、これらの共同体の没落を加速化している。



マルクス主義は20世紀を通じて、地球上で最も恐ろしく、最も破壊的な信仰体系であることが判明した。それは莫大な死者を出し、それが根付いた所ではどこでも、一連の崩壊、苦しみ、荒廃を後に残した。マルクス主義イデオロギーは、1990年代についに放棄されるまで、ヨーロッパとアジアの伝統的文明を崩壊させた。それが他との交配種の形で、我々の社会の基盤を食い滅ぼしながら生き残ったのは、西洋においてである。その基盤はいつまでも持つものではない。片足が失われ、火炎瓶が投げられ、犠牲者を作るあらゆることが起こるごとに、国家の統一にまた一つひびが入る。そして統一なくして合衆国はありえない。




「LGBT」は文化破壊に戦略利用されている

2017-11-19 16:47:04 | 思想、哲学、宇宙論
https://ameblo.jp/hot-coffee-break/entry-12108010884.html


「LGBT」は文化破壊に戦略利用されている


2015-12-19 18:00:00

テーマ: ブログ


人権を声高に叫ぶ発信元を手繰り寄せると、共産党か左翼思想に辿り着くと言っても過言ではない。


「目的のためには手段を選ばない」のが共産主義の常套手段と言われるが、冷戦後に暴力革命は捨てた。新たな革命の手段は文化破壊であり、目的は既存の家族制度を否定・破壊することにある。


家族から結婚と性を分離させれば家族としての機能を失うが、家族文化は宗教的伝統によって支えられている。


共産党や左翼が個人の人権や決定権を主張しているのは、文化破壊から家庭破壊という明確な狙いがある。







沖縄問題も「自己決定権や人権を蔑にされた」と翁長雄志知事が国連演説までして訴えた。


また来夏の参院選から18歳投票が可能となったが、これも日教組が「子供の権利」を主張して広がった経緯がある。果たして有権者になった高校生と毎日顔を合わせる左翼教師が生徒に思想的影響を一切与えずにいられるのか。


さらに、安保法案にしても、個別であろうと、集団であろうと、「自国の安全を守るのが自衛権であり、国民の命を守る責任」を強調するのは至極当然なはずだが朝日新聞などの左翼メディアに掛ると「戦争できる国」「立憲主義の破壊」だと穿った解釈をして、「群れる側」の民意を捉える。


合計1億人とも言われている大量殺戮を実行した共産党が人権と安全を叫ぶとは、度胸は据わっているがまったく感心もしない。







そして、渋谷区から始まった同性パートナーシップ条例も今後の地方公共団体の動きに注視しなければならない。


渋谷区に早々と追随したのが、都内では中学時代から学生運動で事件を起こした極左の保坂展人区長の世田谷区。また近ごろ保坂区長と同じ「土井チルドレン」と呼ばれた中川智子市長の兵庫県宝塚市が条例制定した。さらに、林文子区長の神奈川県横浜市なども着々と条例化に向けた草分け運動を展開している。


この条例は中々取り扱いが難しく、これに少しでも異を唱えようものなら性的少数者に対する差別、古い価値観に縛られた権威主義者などと雨霰の猛攻撃を受けるため、保守系の政治家たちも慎重にならざるを得ないのが実情だ。







冷戦の敗北により、レーニン・スターリンの主導した暴力革命は共産主義社会実現のための手段としては間違いだったと認め、外面(そとづら)はソフト路線に変え、長期戦略としての文化破壊を目標とする文化共産主義へと戦略を変えた。







その文化破壊は上から押し付けて実現できるものではないので、文化を支えている様々な制度を転換させる必要がある。そのためには、芸術、演劇、教育、新聞や雑誌などの媒介を用いることを基本戦略にせよと主張したのはイタリアの思想主義者アントニオ・グラムシだ。







また、家族制度の破壊こそ文化破壊の手段であり、その推進には性欲望が組織的暴力やテロ以上の力を発揮すると着目し、既存の家族倫理や一夫一婦制からの解放を繰り返し主張したのがハンガリーのジェルジ・ルカーチだ。


このルカーチが基点となってドイツ共産党員らがフランクフルトに「マルクス思想研究所」を創設し、後に「フランクフルト学派」と呼ばれる思想グループとなり、彼らの研究が土台となって1960年代の米国「性革命」に決定的な影響を与えることになる。


彼らは、西洋人がキリスト教精神を捨てるためには、「忍耐強く文化を支配すれば、国家は労せず崩壊する」と主張した。さらに、徹底してキリスト教を基礎に形成された西洋文化体制を批判した。


彼らは、こうして人種差別、性差別、同性愛嫌い、そして反ユダヤやファシズムの容認はすべて西洋文化にあると断罪したのである。


実際、当初キリスト教国家は同性婚に強く異を唱えた。しかし、その同性愛者への非寛容さが仇となり過激な権利獲得運動を生むことになった。


その運動を取りまとめ「憲法」体制の変化まで戦略的に持続させたのが、他ならない文化共産主義だ。


結局キリスト教国家は贖罪のような形で、2000年以降今日までオランダから始まり、21ヶ国のキリスト教国家ばかりが同性婚合法化を決定した。







文化革命の「被害者」はもちろん労働者ではない。性的少数者やフェミニスト等こそ新たな「プロレタリアート」であり、この性的少数者の人権を声高に連呼し、人心の同調を獲得している。このように長期戦略で文化革命、既存の家族制度の解体が、進められようとしている。


そしてこの新たな「プロレタリアート」の武器はハンマーと鎌ではない。ピルとコンドーム、セックスとドラッグなのだという快楽原理を主張したのがフランクフルト学派の中心的人物であるドイツのヘルベルト・マルクーゼだ。彼は家族制度の崩壊こそが性差別と社会不正の温床であるとし、「戦争よりもセックスを」と呼びかけた。







性差別を無くしたい、誰もが平等という主張は、共産主義の本音ではない。共産主義社会実現の目的のために「LGBT」は利用されているに過ぎない。


冷戦時にソ連・共産党は、アメリカ・キリスト教国家に敗北したが、キリスト教国家陣営に共産主義が浸透しなかった背景には、家族文化があったからだ。その家族文化には、キリスト教精神が根差していた。だから戦略として家族制度を変えなければいけないこととなった。







このように「LGBT」は文化革命に欠かせない武器として利用されている。







既存の家庭制度を現代に合わないとして否定し、夫婦別姓、事実婚、同性婚、多様性、第三の性などを周囲が温かく手を差し伸べるという価値観が既に「文化」へと変わり始めているのだ。


それは、元NHKアナウンサー下重暁子が自身の家族に対する怨恨感情(ルサンチマン)を延々と述べて、家族解体論を披歴するという文学作品とは到底言えない「家族という病」がベストセラーになったことからも窺い知れる。今や下重氏は「おひとりさま」思想の広告塔のような存在だ。







世界人権宣言第16条3項には「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位であって、社会及び国家の保護を受ける権利を有する」とある。







同性婚家族の存在を否定しないが、「LGBT」や同性婚家族を利用する共産主義の存在は否定する。


多様性の容認や、優しい社会を作ろうなどと言ったスローガンの裏にある「文化革命」に頑として手を貸してはいけない。







また、それと同時並行に、普遍的価値観、倫理・道徳、家庭の見直しと再建に手を加えるべきだ。同性婚家族を「自然且つ基礎的単位」と位置付けることにも無理があるにも拘らず、そこを強引にこじ開けて性差別だ、不平等だと無理を通すことは、既存の「自然且つ基礎的単位」の思想信条をもっている者への自由が脅かされるという「逆差別」が起きている事も決して忘れてはいけない。







文化革命推進派は既存の家族制度は独裁制の根源、性差別と社会不正の温床だという。彼らの策動を阻止し、克服するためにも、家庭の価値を再認識し、再構築する啓蒙と努力がより一層肝要だ。




人権屋は国家を衰亡させる隠れマルクス主義(フランクフルト学派)

2017-11-19 12:38:43 | 思想、哲学、宇宙論
http://blog.livedoor.jp/wildhorse38/archives/28512620.html



2005年07月20日


◎ジェンダー・フリー、人権屋は国家を衰亡させる隠れマルクス主義(フランクフルト学派)者


親子
皆さんは男女機会均等法、男女共同参画、過激な性教育、ジェンダー・フリー、国旗・国歌の否定、靖国神社問題、新しい教科書問題、さらに人権擁護法案等日本の歴史・伝統文化を貶める動きが次から次へと出てきて、住みにくい世の中になってきたなあと感じておりませんか?私も周りにいるヒトも「オカシな世の中になってきたぞ!」と感じております。これ関しては20年前からいやもっと前から日本の軸がずれているのではないかと考えておりました。この原因がどうしても掴めなかったのですが、東北大学大学院 田中英道教授の論文を読んで「なるほどこれが原因だったか!」とひざを打ったものです。

今日は日本を揺るがせている「国家衰亡の理論 フランクフルト学派」について紹介します。



○ フランクフルト学派は、政党政治家たちや労働組合のマルクス主義ではなく、知識人のマルクス主義である点で、一般にあまり知られていない。

国家というものを内部から破壊しなければ文化革命が出来ないと考え、文化そのものがマルキストの戦いの中心だと考えているのである。

つまり彼らマルキストの狙いは何千年も培ってきたその民族の伝統文化の破壊にあるのです。



 この脅威を警告しているのは、最近、「西洋の死」土井のばあさん(2002年1月刊行)という衝撃的な書を出してアメリカでベスト・セラー作家となったアメリカの評論家で政治家のトリック・J・ブキャナンである。



その内容は、西洋先進諸国の没落が子供の減少にあり、それが貧困な周辺の移民によって代置され、二〇〇〇年代の後半には、アメリカも西洋もそれで崩壊すると語っている。その中でこのフランクフルト学派の影響が大きいとしているのである。まさに人口減少で「悩むアメリカ、滅びゆく西洋」を作り出しているのがこの学派の危険な思想だ、というのだ。



現にヨーロッパではすでに始まっている。

つい数日前のロンドン連続同時爆破事件、オランダのイスラム批判のゴッホ殺人事件、ドイツのトルコ人問題等、異民族の受け入れに寛容さを誇っている国ほどイスラム教徒とのトラブルを抱えている

この書はフランクフルト学派を信奉するアメリカ民主党の左派や、それを支持する少数のジャーナリズムヘの批判は激烈である。

 日本でも『病むアメリカ、滅びゆく西洋』(宮崎哲弥監訳・成甲書房)という邦題で去年末出された。



●フランクフルト学派とは何か

日本にとってもこの学派の影響は大きい。とくに60年代から70年代に学生であった世代は、この学派の影響下にあったといってよい。全共闘世代とか団塊の世代といわれる人々である。



ルカーチやグラムシといった名前でおわかりの方々もいるだろう。彼らの革命思想が、別の形をとって資本主義社会に潜行している。今日の反戦運動、差別撤回、フェミニズム、ジェンダーなどのこともすべてこの学派から出た理論によっているのである。



そして共産党、社会党といった政党下の勢力以外の左翼の大部分はこの学派の影響にあったといってよい。これらの政党が衰微するに反比例して、学界ではこの勢力は根をつよく張っていった。まともな労働者の闘争を叫ばず、学生、インテリをターゲットにした運動だったのである。



スターリン●マルクス主義者ルカーチの理論(過激な性教育の元祖)

 この学派の誕生は、一九二三年にドイツのフランクフルト大学で、マルクス主義者ルカーチ(一八八五~一九七一)らが設立したマルクス研究所から始まる。この学派から出た社会学者、歴史学者はユダヤ人であったためナチ批判の流れにのって戦後、ドイツの大学ばかりでなく、アメリカにまで及んでいることも知られている。



ルカーチは著書『歴史と階級意識』で、近代資本主義下の人間の「自己疎外」を説き、労働者階級だけの問題から、人間全体の物象化という事態を重視している。彼は共産党のコミンテルンの主導者になった。

その一環として彼は過激な性教育制度を実施したりした。

当時のハンガリーの子供たちは学校で自由恋愛思想やセックスの仕方、中産階級の家族倫理や一夫一婦婚の古臭さ、人間の快楽のすべて奪おうとする宗教理念の浅はかさについて教わった。現在、日本の学校教育で行われているのがこれで、まさに共産主義教育の実践といってよい。



 また女性を当時の性道徳に反抗するように呼び掛けた。こうした女性と子供の放縦路線は西洋文化の核である家族の崩壊を目的としていたのである。

 

ドイツのナチの勃興とともにアメリカに亡命したユダヤ人学者たちが、コロンビア大学の援助を受け、アメリカでフランクフルト学派を設立したのである。



○彼らの批判の対象は

その批判対象は《キリスト教、資本主義、権威、家族、家父長制、階級制、道徳、伝統、性的節度、忠誠心、愛国心、国家主義、相続、自民族中心主義、因習、保守主義、何から何まですべて》という。



これをやさしくいえば、「批判理論」は、社会のすべての現象を批判することになる。よく考えると、日本人がキリスト教を除くと、戦後批判してきた、すべてがここに含まれている。



また教師からの指導・強制をすべて暴力ととらえることによりこれを否定し、自由放任、登校拒否も自由ということになり、学級崩壊も当然のこととなる。そのために「ゆとり」教育も生まれることになり、教科書のレベルを下げなければ生徒たちはついてこない。



 《フェミニズムもマルクスの『ドイツ・イデオロギー』の中で、家父長制家族は、まず妻子を財産と考えると述べているところから始まる。物質的所有と同じと見る。エンゲルスは『家族、私有財産及び国家の起源』で、女性差別の根源は家父長制にあると論じ、これが基礎となった。



●エーリッヒ・フロム(フェミニズムの始祖)は

中年のおばさん性差(ジェンダー)は固有なものではなく、西欧文化によってもたらされる、と主張し、彼は家族から父親を追放するために、母親が父親と役割を交換させることを提唱した。女性が男の役割を演じることができる、ということもソ連で早くも実現していたが、ソ連の入口の停滞を招いたことはその影響である。子供を生まない、という女性が多くなったのは、まさに男性と性の役割は相対的だ、とする考え方にたっており、上記、フランクフルト学派の考え方がもとになっている。



戦後の憲法もアメリカによってつくられた憲法や教育基本法から、近ごろの男女共同参画法案やジェンダー・フリー教育まで、ひそかにフランクフルト学派の影響がしのびこんでいる、と見ることができる。



●イタリア共産党書記長グラムシの思想

 イタリアのアントニオ・グラムシ(一八九一~一九三七)がいる。最近のフランクフルト学派もしきりに彼を引用する。グラムシは一九二二年ムッソリーニのローマ進軍により、イタリアから一時ロシアに亡命した共産主義者である。



彼は帰国後イタリア共産党書記長となり、ムッソリーニによって投獄され、獄中膨大な『獄中ノート』を著し、それが後に出版されて新しいマルクス主義の教典のひとつとなった。そこで西洋における社会主義革命の成功の青写真を詳細に記している。肺結核を患ったグラムシは釈放された一九三七年、四十六歳で死んだこともそのカリスマ性を高めている。



●すべて社会に責任転嫁する風潮をつくった

彼は革命の新兵として、「歴史的に反主流派とされる層、経済的に虐げられた人々だけでなく、男性に対する女性、多数民族に対する少数民族、犯罪者まで」すべてが含まれると考えた。犯罪者が悪いのではなく、犯罪をおこさせた社会が悪いのだ、と。加害者が逆に保護される。



 ふつう左翼は「闘争至上主義」にはしり、権力を奪取し、上から文化革命を押しつけようとする。

 そのために、文化変革には種々の制度--芸術、映画、演劇、教育、新聞、雑誌、さらにラジオという新媒体――転換のための「長い長い行程」を要する。それらを一つひとつ慎重に攻め落とし革命に組み込んで行く必要がある。そうすればやがて人々は徐々に革命を理解し、歓迎さえするようになる、と。



結局レーニン・スターリン主義は、本来の目的 絶対的権力掌握-‐をごまかすためにマルクス思想を政治的に利用するという当初の考えから抜けだすことが出来なかった。レーニン方式は疎んじられ、誰にも嘆かれることなく死を迎えた。が、グラムシの革命は脈々と受け継がれ、今なお多くの賛同者を獲得し続けている》



●伝統的文化の否定 

彼の「全面的歴史主義」、つまり、道徳、価値観、真実、規範、人間の在り方はみな歴史的に異なる時代の産物であるということ。《歴史を飛び越え、人類普遍の真実とされるような絶対的規範は存在しない。道徳観は一社会によって構築される》と謳っているからである。この歴史において、普遍的な価値を否定する考え方は、まさにイタリア人のイタリア文化否定である。キリスト教文化だけでなく、ギリシャの古典文化も、イタリア・ルネッサンス文化も何も価値がないことになる。日本の祖先がつくりだした文化・芸術も意味がない、という考え方を導くのだ。



●結論

このように彼らの説く理論の全てはわれわれが日頃何か変だと思いつつ、「お上は常に正しいことをするものだ」、「お上の決めることだから従わなければならない」という日本人特有の従順性が今日本という国家を衰亡させる危機にあることを認識させていないのである。



いまや政治家も、官僚も、教育者も、マスコミ界も、いわゆる世の指導的立場にあるものの言動を盲目的に信じてはいけない、自分で目で見て確認をし、オカシイと思えば声を上げなければならない。



彼ら隠れマルキストは「在日外国人に参政権を!」「男女共同参画(ジェンダー・フリー)」「人権擁護法案」「新しい歴史教科書採択妨害」「靖国神社問題」「在日・の差別問題」等を問題視し、日本の健全な家族制度の破壊と伝統文化の否定を狙っている。

心あるものは敢然と戦わなければ、われわれの子供たちに日本の伝統的文化遺産を申し送ることが出来なくなります。

「お前たち隠れマルキストの言うことに賛成できない!」とはっきりと意思表示をしよう!









宗教における破壊神

2017-11-15 11:37:35 | 思想、哲学、宇宙論
宗教における破壊神

まれに軍神や戦神などと混同される場合もあるが、破壊神に分類される存在がもたらす“破壊”とは単なる殺戮や物理的な消滅以上に、既存の秩序・世界や人類全体の消滅など各神話世界を大きく変異させる効果をもたらすもので、破壊の先には大いなる変化・創造がある(戦争の神は大体豊穣神を兼業する)。
ヒンドゥー教の宗教的観念では宇宙は生成と消滅を繰り返すとされる。再生と消滅の循環において“死、破壊”こそが万物の支配者であり、消滅を経て宇宙は清らかで秩序ある姿に帰り、新たな創造が始まるのだ。破壊無くして創造はなく、破壊と共に再生を願う性格と機能を備えた存在こそが「破壊神」なのである。
以上の概念を前提にして破壊神は存在している為、本来はインド神話のシヴァ、もしくはカルキ(ヴィシュヌ)にしか当てはまらない分類といえる。




破壊と死を象徴するシヴァは一方で根源の力を司る神でもある。生あるものが滅び、また再生するといった輪廻転生のプロセスはシヴァとその神妃たちとの交合から生み出される。よってシヴァはこの世のエネルギーを象徴する神でもある。