https://sites.google.com/site/kyototekken2011/rejume/ken-u-iruba-jin-huano-gou-zao
<序論>
『何かが――あらゆることが――起こっている。これはとてつもなく不思議なことである。何も無かったところに、ビッグバンが起こり、そして今ここに私たちがいる。これは非常に奇妙なことだ。
シェリングの切実な疑問「なぜ無ではなくて、何かがあるのか」には、二つの答え方があった。最初は「もののはずみ」の哲学とも言えるものである。宇宙の事象は単に起こるのであり、その背後には何も無く、すべては偶然であり、バラバラであって、ただ単にあり、ただ単に起こる――「おっと!」という具合に。この「もののはずみ」の哲学は、いかに洗練され、もっともらしく聞こえようと――実証主義から科学的唯物論まで、分析哲学から史的唯物論まで、自然論から経験論までその現代的な名前も数も膨大なものにのぼっている――煎じ詰めればいつも同じ答えになる。すなわち「そんなこと聞くもんじゃない」。
質問それ自体(なぜものごとは起こるのか?なぜ私はここにいるのか)が混乱しており、病理的であり、意味をなさず、幼稚であるとされる。こうしたバカげた混乱した質問をしないこと、これが宇宙での成長の証しであり、成熟の証拠なのだ、とこの哲学は主張する。
私はそうは思わない。こうした「現代的で成熟した」哲学の答え、すなわち「おっと!」というのは、人間という条件から発するものとしてはもっとも幼稚な反応であると思う。
もうひとつの答えは、宇宙には何か別のことが進行しているというものである。偶然のように見えるドラマの背後に、より深く、より高度な、より広いパターン、秩序、知性がある。
この「深層の秩序」にも、もちろん、様々な名前がある。タオ、神、ガイスト(精神)、マアト、イデア、理性、理、ブラフマン、リクパ。それぞれの深層秩序はお互いにいくつかの点で異なるが、1つの点では一致している。すなわち、宇宙は見かけとは違う。何か別のことが進行している。「もののはずみ」などというものとはまったく違う何かが・・・。』
○本書は、志向的一般化という方法論のもとに組み立てられている。
例えば、道徳性の発達段階の場合、誰もが発達心理学者コールバーグによる7つの段階に細部まで同意するわけではない。しかし、人間の道徳性が少なくとも三つの大まかな段階を経るということについては心理学者の間で十分な一般的合意がなされている。前慣習期(いかなる道徳体系にもまだ社会的に組み込まれていない誕生期の人間)、慣習期(自分が育っている社会の基本的な価値観を表すような道徳的枠組みを学ぶ時期)、後慣習期(自分の社会を客観的に考え、ある距離を保ち、批判または改革する能力を得る時期)。
つまり、発達の過程の細かい部分については真剣に議論されているけれども、大まかに3つの段階が起こること、しかも普遍的に起こるということは、誰もが合意している。こうして「大きな合意点」が得られる。これが志向的一般化の方法論である。
この方法によって、物理学、生物学、システム科学と自己組織化理論(ベルタランフィ、プリゴジン、ヴァレラ…)、心理学(フロイト、ユング、ピアジェ…)、近代哲学(デカルト、ロック、カント…)、観念論(ヘーゲル、シェリング…)、ポストモダニズム(フーコー、デリダ、テイラー、ハーバーマス…)、解釈学(ディルタイ、ハイデガー、ガダマー…)、社会システム理論(コント、マルクス、パーソンズ、ルーマン…)、瞑想的宗教や神秘主義(禅仏教、チベット金剛乗、キリスト教神秘主義、ヴェーダーンタ、スーフィズム…)などから大きな合意点を求め、それを数珠のようにつなげてゆく。知識の数珠玉はすでに受け入れられている。本書は、数珠玉に糸を通そうという試みである。
詳細はどのようにでも埋めることができるが、大まかな輪郭は、様々な知の分野から志向的一般化によって得られた、単純ながら堅固な、驚くほど多くの証拠によって裏付けられている。にもかかわらず、こうして得られる見取り図は、固定したものでも最終的なものでもない。
『本書で私が試みたことを、おそらく多くの人が「形而上学」と呼びたがるだろうが、もし「形而上学」が証拠のない思考を意味しているとすれば、そうした意味での形而上的な文章は本書全体を通して一行もない』
<第一章 生命の織物>
『これは奇妙な世界だ。150億年は、まったくの無だった。そして10億分の1秒もしないうちに物質的宇宙が突然現れた。
さらに奇妙なことに、そうした生まれた物質はバラバラで混沌としたものにとどまらず、自分をさらに複雑で込み入った形態へと組織化していった。その形態は非常に複雑だったので、そのなかのある形態は何十億年も経つうちに自分を再生産する方法を見つけるほどだった。こうして物質から生命が生まれたのだ。
さらに奇妙なことに、生命は単に自分を再生産することにのみ満足してはいなかった。それどころか長い進化の過程を歩み、やがて自分を別のもので再表現する方法を見つけた。記号、シンボル、概念を生んだのだ。こうして生命から心が生まれた。
細かい過程はどうだったにせよ、進化は驚くべき順序で進められてきたようだ。物質―生命―心へと。
だがさらに奇妙なことに、たかだか数百年前、あるとりにたりない星のまわりを巡るちっぽけな惑星で、進化は初めて自己を意識するようになった。
そしてほとんど同じ頃、進化を自己を意識するまで進ませた同じ原動力が同時に進化自体を消し去ろうと計りはじめたのだ。
これほど奇妙なことはない。』
○時間の二つの矢
初期の科学者(ケプラー、ガリレオ、ニュートン、デカルトなど)は最も複雑さの少ない領域(物質圏[1])で実験を始めた。物質圏は1つの巨大な力学的世界、厳密な因果の法則に支配された機械のように見え始めた。しかもその機械は停止に向かっていた(熱力学第二法則)。インクを一滴、コップの水にたらすと、インクは水全体に拡散する。しかしその逆は起こらない。
『問題はこうした初期の見方が間違っていることにあるのではない。物質圏はある面をとってみれば確かに決定論的であり、機械のように力学的に振る舞う。そして停止に向かっていくものもある。しかし問題なのはそうした見方が部分的であるということだ。』
一方、イオニアの哲学者からヘラクリトス、アリストテレスからヘーゲルやシェリングに至るまで、時間を通じての非可逆的な発達(進化)という考えは、古来からの長い歴史をもっている。そしてウォーレスとダーウィンの研究によって、生物圏は進化することが科学的・経験的な観察によって裏付けられた。アメーバはサルになるかもしれないが、サルはアメーバにはならない。だがここで明らかなことは、『この時間の矢の方向は、物質圏の時間の矢の方向と真正面から反対である』。この時点で物質圏と生物圏は分裂した。
この切断を修復しようという絶望的な試みがただちになされた。すべての身体を物質と力学の組み合わせに還元しようとする物質還元主義(ホッブズ、ルメートル、ホルバッハ)。全ての物質や身体を心の現象に引き上げようとするもの(マッハあるいはバークレーの現象論)。これらの両極の間に、落ち着かない妥協案がずらりと並ぶ。デカルトの二元論(心圏を救い出すために、物質圏全体を機械論者の方へ投げ渡してしまった)。スピノザの汎神論(心と物質を神の絶対に交わらない並行した属性とみなした)、ハクスレーの付帯現象説(心は生理的現象に付随して起こる副産物であるとみなした)。
『これらの統合への試みは初めから失敗に終わる運命にあった。それは身体と心の分裂によるのではなく、もっと原初的で根源的な身体と物質の分裂によるものだった。すなわち生命と物質の問題である』
こうして、物理学と生物学が分裂することにより、自然科学と人間科学が分離した。物質圏は「事実」の領域、心圏とは「価値」と「道徳」の領域であり、そのギャップは絶対に超えがたいものと思われたのである。
『二十世紀後半になってこの二つの正反対の時間の矢の謎が解決されるまで、物質と心、自然界と人間界のギャップ、すなわち現代西洋文明の「二つの文化」に橋を架ける試みはまったく基盤をもたなかった』
これらの致命的な裂け目は、現代科学の諸成果によって統合されることになる。排水口から流れ出る水は、突然、混沌とした状態をやめて完全な漏斗の形を作り、渦巻きを形成する。物質的なプロセスが「平衡から遠い」状態となったとき、プロセスは自力でそこから脱し、より高度に構造化された秩序へカオスを変容させようとするのである。純粋に物質のシステムも、生命のシステムと同じ方向に時間の矢をもっている。つまり、『物質は生命が誕生する遥か以前から自分を「進ませる」ことができた』のである。詳細については現在も熱心な探究が続いているが、しかし大事な点は、『かつては全く克服しがたいように見えた物質と生命の間のギャップ――かつては完全に解決不能の問題を提供していたギャップ――が、今や一連のたいしたことのないギャップに見えはじめた』ということである。
例)一般システム理論(ベルタランフィ)、サイバネティクス(ウィーナー)、非平衡熱力学(プリゴジン)、セル・オートマトン理論(フォン・ノイマン)、カタストロフ理論(ルネ・トム)、オートポイエーシス理論(マトゥラーナおよびヴァレラ)、ダイナミック・システム理論(ショーとアブラハム)、
など[2]
こうして今や、3つの大きな領域(物質圏、生物圏、心圏)全てに大まかに適用できるような一定のパターンが発見され、「科学の統合」(整合性のある統一された世界観)がついに可能になったのである。
<序論>
『何かが――あらゆることが――起こっている。これはとてつもなく不思議なことである。何も無かったところに、ビッグバンが起こり、そして今ここに私たちがいる。これは非常に奇妙なことだ。
シェリングの切実な疑問「なぜ無ではなくて、何かがあるのか」には、二つの答え方があった。最初は「もののはずみ」の哲学とも言えるものである。宇宙の事象は単に起こるのであり、その背後には何も無く、すべては偶然であり、バラバラであって、ただ単にあり、ただ単に起こる――「おっと!」という具合に。この「もののはずみ」の哲学は、いかに洗練され、もっともらしく聞こえようと――実証主義から科学的唯物論まで、分析哲学から史的唯物論まで、自然論から経験論までその現代的な名前も数も膨大なものにのぼっている――煎じ詰めればいつも同じ答えになる。すなわち「そんなこと聞くもんじゃない」。
質問それ自体(なぜものごとは起こるのか?なぜ私はここにいるのか)が混乱しており、病理的であり、意味をなさず、幼稚であるとされる。こうしたバカげた混乱した質問をしないこと、これが宇宙での成長の証しであり、成熟の証拠なのだ、とこの哲学は主張する。
私はそうは思わない。こうした「現代的で成熟した」哲学の答え、すなわち「おっと!」というのは、人間という条件から発するものとしてはもっとも幼稚な反応であると思う。
もうひとつの答えは、宇宙には何か別のことが進行しているというものである。偶然のように見えるドラマの背後に、より深く、より高度な、より広いパターン、秩序、知性がある。
この「深層の秩序」にも、もちろん、様々な名前がある。タオ、神、ガイスト(精神)、マアト、イデア、理性、理、ブラフマン、リクパ。それぞれの深層秩序はお互いにいくつかの点で異なるが、1つの点では一致している。すなわち、宇宙は見かけとは違う。何か別のことが進行している。「もののはずみ」などというものとはまったく違う何かが・・・。』
○本書は、志向的一般化という方法論のもとに組み立てられている。
例えば、道徳性の発達段階の場合、誰もが発達心理学者コールバーグによる7つの段階に細部まで同意するわけではない。しかし、人間の道徳性が少なくとも三つの大まかな段階を経るということについては心理学者の間で十分な一般的合意がなされている。前慣習期(いかなる道徳体系にもまだ社会的に組み込まれていない誕生期の人間)、慣習期(自分が育っている社会の基本的な価値観を表すような道徳的枠組みを学ぶ時期)、後慣習期(自分の社会を客観的に考え、ある距離を保ち、批判または改革する能力を得る時期)。
つまり、発達の過程の細かい部分については真剣に議論されているけれども、大まかに3つの段階が起こること、しかも普遍的に起こるということは、誰もが合意している。こうして「大きな合意点」が得られる。これが志向的一般化の方法論である。
この方法によって、物理学、生物学、システム科学と自己組織化理論(ベルタランフィ、プリゴジン、ヴァレラ…)、心理学(フロイト、ユング、ピアジェ…)、近代哲学(デカルト、ロック、カント…)、観念論(ヘーゲル、シェリング…)、ポストモダニズム(フーコー、デリダ、テイラー、ハーバーマス…)、解釈学(ディルタイ、ハイデガー、ガダマー…)、社会システム理論(コント、マルクス、パーソンズ、ルーマン…)、瞑想的宗教や神秘主義(禅仏教、チベット金剛乗、キリスト教神秘主義、ヴェーダーンタ、スーフィズム…)などから大きな合意点を求め、それを数珠のようにつなげてゆく。知識の数珠玉はすでに受け入れられている。本書は、数珠玉に糸を通そうという試みである。
詳細はどのようにでも埋めることができるが、大まかな輪郭は、様々な知の分野から志向的一般化によって得られた、単純ながら堅固な、驚くほど多くの証拠によって裏付けられている。にもかかわらず、こうして得られる見取り図は、固定したものでも最終的なものでもない。
『本書で私が試みたことを、おそらく多くの人が「形而上学」と呼びたがるだろうが、もし「形而上学」が証拠のない思考を意味しているとすれば、そうした意味での形而上的な文章は本書全体を通して一行もない』
<第一章 生命の織物>
『これは奇妙な世界だ。150億年は、まったくの無だった。そして10億分の1秒もしないうちに物質的宇宙が突然現れた。
さらに奇妙なことに、そうした生まれた物質はバラバラで混沌としたものにとどまらず、自分をさらに複雑で込み入った形態へと組織化していった。その形態は非常に複雑だったので、そのなかのある形態は何十億年も経つうちに自分を再生産する方法を見つけるほどだった。こうして物質から生命が生まれたのだ。
さらに奇妙なことに、生命は単に自分を再生産することにのみ満足してはいなかった。それどころか長い進化の過程を歩み、やがて自分を別のもので再表現する方法を見つけた。記号、シンボル、概念を生んだのだ。こうして生命から心が生まれた。
細かい過程はどうだったにせよ、進化は驚くべき順序で進められてきたようだ。物質―生命―心へと。
だがさらに奇妙なことに、たかだか数百年前、あるとりにたりない星のまわりを巡るちっぽけな惑星で、進化は初めて自己を意識するようになった。
そしてほとんど同じ頃、進化を自己を意識するまで進ませた同じ原動力が同時に進化自体を消し去ろうと計りはじめたのだ。
これほど奇妙なことはない。』
○時間の二つの矢
初期の科学者(ケプラー、ガリレオ、ニュートン、デカルトなど)は最も複雑さの少ない領域(物質圏[1])で実験を始めた。物質圏は1つの巨大な力学的世界、厳密な因果の法則に支配された機械のように見え始めた。しかもその機械は停止に向かっていた(熱力学第二法則)。インクを一滴、コップの水にたらすと、インクは水全体に拡散する。しかしその逆は起こらない。
『問題はこうした初期の見方が間違っていることにあるのではない。物質圏はある面をとってみれば確かに決定論的であり、機械のように力学的に振る舞う。そして停止に向かっていくものもある。しかし問題なのはそうした見方が部分的であるということだ。』
一方、イオニアの哲学者からヘラクリトス、アリストテレスからヘーゲルやシェリングに至るまで、時間を通じての非可逆的な発達(進化)という考えは、古来からの長い歴史をもっている。そしてウォーレスとダーウィンの研究によって、生物圏は進化することが科学的・経験的な観察によって裏付けられた。アメーバはサルになるかもしれないが、サルはアメーバにはならない。だがここで明らかなことは、『この時間の矢の方向は、物質圏の時間の矢の方向と真正面から反対である』。この時点で物質圏と生物圏は分裂した。
この切断を修復しようという絶望的な試みがただちになされた。すべての身体を物質と力学の組み合わせに還元しようとする物質還元主義(ホッブズ、ルメートル、ホルバッハ)。全ての物質や身体を心の現象に引き上げようとするもの(マッハあるいはバークレーの現象論)。これらの両極の間に、落ち着かない妥協案がずらりと並ぶ。デカルトの二元論(心圏を救い出すために、物質圏全体を機械論者の方へ投げ渡してしまった)。スピノザの汎神論(心と物質を神の絶対に交わらない並行した属性とみなした)、ハクスレーの付帯現象説(心は生理的現象に付随して起こる副産物であるとみなした)。
『これらの統合への試みは初めから失敗に終わる運命にあった。それは身体と心の分裂によるのではなく、もっと原初的で根源的な身体と物質の分裂によるものだった。すなわち生命と物質の問題である』
こうして、物理学と生物学が分裂することにより、自然科学と人間科学が分離した。物質圏は「事実」の領域、心圏とは「価値」と「道徳」の領域であり、そのギャップは絶対に超えがたいものと思われたのである。
『二十世紀後半になってこの二つの正反対の時間の矢の謎が解決されるまで、物質と心、自然界と人間界のギャップ、すなわち現代西洋文明の「二つの文化」に橋を架ける試みはまったく基盤をもたなかった』
これらの致命的な裂け目は、現代科学の諸成果によって統合されることになる。排水口から流れ出る水は、突然、混沌とした状態をやめて完全な漏斗の形を作り、渦巻きを形成する。物質的なプロセスが「平衡から遠い」状態となったとき、プロセスは自力でそこから脱し、より高度に構造化された秩序へカオスを変容させようとするのである。純粋に物質のシステムも、生命のシステムと同じ方向に時間の矢をもっている。つまり、『物質は生命が誕生する遥か以前から自分を「進ませる」ことができた』のである。詳細については現在も熱心な探究が続いているが、しかし大事な点は、『かつては全く克服しがたいように見えた物質と生命の間のギャップ――かつては完全に解決不能の問題を提供していたギャップ――が、今や一連のたいしたことのないギャップに見えはじめた』ということである。
例)一般システム理論(ベルタランフィ)、サイバネティクス(ウィーナー)、非平衡熱力学(プリゴジン)、セル・オートマトン理論(フォン・ノイマン)、カタストロフ理論(ルネ・トム)、オートポイエーシス理論(マトゥラーナおよびヴァレラ)、ダイナミック・システム理論(ショーとアブラハム)、
など[2]
こうして今や、3つの大きな領域(物質圏、生物圏、心圏)全てに大まかに適用できるような一定のパターンが発見され、「科学の統合」(整合性のある統一された世界観)がついに可能になったのである。