思想家ハラミッタの面白ブログ

主客合一の音楽体験をもとに世界を語ってます。

ケン・ウィルバー『進化の構造』

2017-07-13 18:06:51 | 思想、哲学、宇宙論
https://sites.google.com/site/kyototekken2011/rejume/ken-u-iruba-jin-huano-gou-zao


<序論>

『何かが――あらゆることが――起こっている。これはとてつもなく不思議なことである。何も無かったところに、ビッグバンが起こり、そして今ここに私たちがいる。これは非常に奇妙なことだ。

 シェリングの切実な疑問「なぜ無ではなくて、何かがあるのか」には、二つの答え方があった。最初は「もののはずみ」の哲学とも言えるものである。宇宙の事象は単に起こるのであり、その背後には何も無く、すべては偶然であり、バラバラであって、ただ単にあり、ただ単に起こる――「おっと!」という具合に。この「もののはずみ」の哲学は、いかに洗練され、もっともらしく聞こえようと――実証主義から科学的唯物論まで、分析哲学から史的唯物論まで、自然論から経験論までその現代的な名前も数も膨大なものにのぼっている――煎じ詰めればいつも同じ答えになる。すなわち「そんなこと聞くもんじゃない」。

質問それ自体(なぜものごとは起こるのか?なぜ私はここにいるのか)が混乱しており、病理的であり、意味をなさず、幼稚であるとされる。こうしたバカげた混乱した質問をしないこと、これが宇宙での成長の証しであり、成熟の証拠なのだ、とこの哲学は主張する。

私はそうは思わない。こうした「現代的で成熟した」哲学の答え、すなわち「おっと!」というのは、人間という条件から発するものとしてはもっとも幼稚な反応であると思う。

もうひとつの答えは、宇宙には何か別のことが進行しているというものである。偶然のように見えるドラマの背後に、より深く、より高度な、より広いパターン、秩序、知性がある。

この「深層の秩序」にも、もちろん、様々な名前がある。タオ、神、ガイスト(精神)、マアト、イデア、理性、理、ブラフマン、リクパ。それぞれの深層秩序はお互いにいくつかの点で異なるが、1つの点では一致している。すなわち、宇宙は見かけとは違う。何か別のことが進行している。「もののはずみ」などというものとはまったく違う何かが・・・。』



○本書は、志向的一般化という方法論のもとに組み立てられている。

例えば、道徳性の発達段階の場合、誰もが発達心理学者コールバーグによる7つの段階に細部まで同意するわけではない。しかし、人間の道徳性が少なくとも三つの大まかな段階を経るということについては心理学者の間で十分な一般的合意がなされている。前慣習期(いかなる道徳体系にもまだ社会的に組み込まれていない誕生期の人間)、慣習期(自分が育っている社会の基本的な価値観を表すような道徳的枠組みを学ぶ時期)、後慣習期(自分の社会を客観的に考え、ある距離を保ち、批判または改革する能力を得る時期)。

つまり、発達の過程の細かい部分については真剣に議論されているけれども、大まかに3つの段階が起こること、しかも普遍的に起こるということは、誰もが合意している。こうして「大きな合意点」が得られる。これが志向的一般化の方法論である。

この方法によって、物理学、生物学、システム科学と自己組織化理論(ベルタランフィ、プリゴジン、ヴァレラ…)、心理学(フロイト、ユング、ピアジェ…)、近代哲学(デカルト、ロック、カント…)、観念論(ヘーゲル、シェリング…)、ポストモダニズム(フーコー、デリダ、テイラー、ハーバーマス…)、解釈学(ディルタイ、ハイデガー、ガダマー…)、社会システム理論(コント、マルクス、パーソンズ、ルーマン…)、瞑想的宗教や神秘主義(禅仏教、チベット金剛乗、キリスト教神秘主義、ヴェーダーンタ、スーフィズム…)などから大きな合意点を求め、それを数珠のようにつなげてゆく。知識の数珠玉はすでに受け入れられている。本書は、数珠玉に糸を通そうという試みである。



詳細はどのようにでも埋めることができるが、大まかな輪郭は、様々な知の分野から志向的一般化によって得られた、単純ながら堅固な、驚くほど多くの証拠によって裏付けられている。にもかかわらず、こうして得られる見取り図は、固定したものでも最終的なものでもない。

『本書で私が試みたことを、おそらく多くの人が「形而上学」と呼びたがるだろうが、もし「形而上学」が証拠のない思考を意味しているとすれば、そうした意味での形而上的な文章は本書全体を通して一行もない』



<第一章 生命の織物>

『これは奇妙な世界だ。150億年は、まったくの無だった。そして10億分の1秒もしないうちに物質的宇宙が突然現れた。

さらに奇妙なことに、そうした生まれた物質はバラバラで混沌としたものにとどまらず、自分をさらに複雑で込み入った形態へと組織化していった。その形態は非常に複雑だったので、そのなかのある形態は何十億年も経つうちに自分を再生産する方法を見つけるほどだった。こうして物質から生命が生まれたのだ。

 さらに奇妙なことに、生命は単に自分を再生産することにのみ満足してはいなかった。それどころか長い進化の過程を歩み、やがて自分を別のもので再表現する方法を見つけた。記号、シンボル、概念を生んだのだ。こうして生命から心が生まれた。

 細かい過程はどうだったにせよ、進化は驚くべき順序で進められてきたようだ。物質―生命―心へと。

 だがさらに奇妙なことに、たかだか数百年前、あるとりにたりない星のまわりを巡るちっぽけな惑星で、進化は初めて自己を意識するようになった。

 そしてほとんど同じ頃、進化を自己を意識するまで進ませた同じ原動力が同時に進化自体を消し去ろうと計りはじめたのだ。

 これほど奇妙なことはない。』



○時間の二つの矢

初期の科学者(ケプラー、ガリレオ、ニュートン、デカルトなど)は最も複雑さの少ない領域(物質圏[1])で実験を始めた。物質圏は1つの巨大な力学的世界、厳密な因果の法則に支配された機械のように見え始めた。しかもその機械は停止に向かっていた(熱力学第二法則)。インクを一滴、コップの水にたらすと、インクは水全体に拡散する。しかしその逆は起こらない。

『問題はこうした初期の見方が間違っていることにあるのではない。物質圏はある面をとってみれば確かに決定論的であり、機械のように力学的に振る舞う。そして停止に向かっていくものもある。しかし問題なのはそうした見方が部分的であるということだ。』



一方、イオニアの哲学者からヘラクリトス、アリストテレスからヘーゲルやシェリングに至るまで、時間を通じての非可逆的な発達(進化)という考えは、古来からの長い歴史をもっている。そしてウォーレスとダーウィンの研究によって、生物圏は進化することが科学的・経験的な観察によって裏付けられた。アメーバはサルになるかもしれないが、サルはアメーバにはならない。だがここで明らかなことは、『この時間の矢の方向は、物質圏の時間の矢の方向と真正面から反対である』。この時点で物質圏と生物圏は分裂した。



 この切断を修復しようという絶望的な試みがただちになされた。すべての身体を物質と力学の組み合わせに還元しようとする物質還元主義(ホッブズ、ルメートル、ホルバッハ)。全ての物質や身体を心の現象に引き上げようとするもの(マッハあるいはバークレーの現象論)。これらの両極の間に、落ち着かない妥協案がずらりと並ぶ。デカルトの二元論(心圏を救い出すために、物質圏全体を機械論者の方へ投げ渡してしまった)。スピノザの汎神論(心と物質を神の絶対に交わらない並行した属性とみなした)、ハクスレーの付帯現象説(心は生理的現象に付随して起こる副産物であるとみなした)。



『これらの統合への試みは初めから失敗に終わる運命にあった。それは身体と心の分裂によるのではなく、もっと原初的で根源的な身体と物質の分裂によるものだった。すなわち生命と物質の問題である』



 こうして、物理学と生物学が分裂することにより、自然科学と人間科学が分離した。物質圏は「事実」の領域、心圏とは「価値」と「道徳」の領域であり、そのギャップは絶対に超えがたいものと思われたのである。



『二十世紀後半になってこの二つの正反対の時間の矢の謎が解決されるまで、物質と心、自然界と人間界のギャップ、すなわち現代西洋文明の「二つの文化」に橋を架ける試みはまったく基盤をもたなかった』



これらの致命的な裂け目は、現代科学の諸成果によって統合されることになる。排水口から流れ出る水は、突然、混沌とした状態をやめて完全な漏斗の形を作り、渦巻きを形成する。物質的なプロセスが「平衡から遠い」状態となったとき、プロセスは自力でそこから脱し、より高度に構造化された秩序へカオスを変容させようとするのである。純粋に物質のシステムも、生命のシステムと同じ方向に時間の矢をもっている。つまり、『物質は生命が誕生する遥か以前から自分を「進ませる」ことができた』のである。詳細については現在も熱心な探究が続いているが、しかし大事な点は、『かつては全く克服しがたいように見えた物質と生命の間のギャップ――かつては完全に解決不能の問題を提供していたギャップ――が、今や一連のたいしたことのないギャップに見えはじめた』ということである。

例)一般システム理論(ベルタランフィ)、サイバネティクス(ウィーナー)、非平衡熱力学(プリゴジン)、セル・オートマトン理論(フォン・ノイマン)、カタストロフ理論(ルネ・トム)、オートポイエーシス理論(マトゥラーナおよびヴァレラ)、ダイナミック・システム理論(ショーとアブラハム)、
など[2]



こうして今や、3つの大きな領域(物質圏、生物圏、心圏)全てに大まかに適用できるような一定のパターンが発見され、「科学の統合」(整合性のある統一された世界観)がついに可能になったのである。

途轍もない日本語の表現力

2017-07-13 11:04:54 | 思想、哲学、宇宙論
https://ameblo.jp/texas-no-kumagusu/entry-12250387600.html



日本人てすごい 21 「てにをは」の持つ途轍もない日本語の表現力



2017-02-23 04:34:17
テーマ:日本人てすごい


今回は日本語が英語などヨーロッパ言語や中国語にない特殊な構造ゆえに日本語が他の言語と比べて途轍もない表現力を持った言語であることを、理系的な視点から論証してみます。また、時々巷で私が耳にしたことがある、



「ヨーロッパ言語の方が日本語に比べて論理的な表現に適した言語である」



との俗説の反論にもなっています。私は、物理学者として、日本語を使って科学的な表現をする努力と訓練を今までずっとやってまいりました。その経験に基づいた話です。



さて日本語の凄さは「てにをは」すなわち助詞の持っている驚くべき力にあります。言語学者の間では常識なのですが、日本語では文章の中で各言葉の役割は主に助詞が決めます。語順の場所ではありません。ですから、助詞が適切に付いているならば、その言葉が文章のどこに出てきてもその役割は変わりません。ところが、英語や中国語では、言葉の役割は主に文章の中に現れる場所で決まります。例えば、



「太郎はご飯を食べた」







「ご飯を太郎は食べた」



と書いても、あるいは、会話の中では、



「太郎は食べた、ご飯を」



と言っても、それが同じ動作を表していることに皆さん同意するでしょう。ところが、英語では、



Taro ate a meal. (太郎はご飯を食べた)







A meal Taro ate (太郎が食べたご飯)



は全く意味が違ってしまいます。多分言語学の本では、この違いがあることを指摘するだけに止まり、それ以上は、言語構造のもっと緻密で詳細な分析に興味を向けて論じて行くのでしょう。しかし、この違いからくる言語の表現力の違いを、多分言語学者が語らないような理系的な視点から分析してみます。



まず、言語は時系列的に並んだ1次元空間の列で表現されています。そして、英語や中国語はその1次元の空間の中の位置で役割が決まっている。この場合、物理学者は英語や中国語は1次元的な自由度を持つといいます。そして、この空間は例えばx軸という一つの空間軸だけで出来ていることになる。



ところが、日本語ではその1次元空間の位置で役割が決まらず、自由自在に位置を入れ替えることができる。すなわち、「てにをは」によって場所を自在に動かせるという、英語や中国語にはない自由度をもう一つ持っているのです。ですから、日本語のその側面だけを取っても、日本語はx軸だけで構成されている1次元空間の位置で表すことができない。日本語には、時系列的なx軸とは独立な「てにをは」軸、あるいはy軸とでも名付けられるもう一つの軸が存在しているのです。別な言い方をすると、日本語は少なくとも2次元的な空間構造を持っている。



このことは、話し言葉ではそうですが、それが書き言葉になるともっと多次元になっている。実際、その表現として、漢字、ひらがな、カタカナ、アルファベット、という自由度まで持っているのです。さらに、日本語では漢字に音読みと訓読みという自由度がある。だから2次元どころか、それ以上の多次元構造を持っているのです。これは、世界的にも類を見ない言語構造です。



例えば、私たちが日本語を書くときに、漢字とかなの出方のバランスを無意識に考えながら書いています。ちょっと漢字が多すぎたと思ったら、ある部分を意識的にひらがなで書いてみるなんてことをしばしばやっている。そのことに関して、ある日本の文学者が米国の詩人に次のような質問をしたと、ある本に書いてありました。すなわち、英語のアルファベットの中にも、hやtやkのように頭の高い文字があり、gやjやyのように尻尾が下に出ている文字があるが、その文字の並びのバランスを考えながら書いたりすることがあるかと。その詩人は「そんなことはない」とびっくりして答えたとのことでした。普通の日本人でも、それを別に訓練をされているわけでもないのに、そんなバランス感覚の表現は日常茶飯事のこととしてやっているのですね。そんな芸当は、日本語が多次元的言語であり、日本人はそんな多次元の世界に生きているから出来るのです。



実は理系の人間なら誰にでもわかることなのですが、次元が1次元多くなると、その少なかった次元の世界よりも無限大倍の可能性があるのです。例えば、数学にはこんな面白い定理があります。曰く



「どんな小さな領域の2次元平面の面積でも、それを1次元の曲線で覆うことができない。」



すなわち、どんなに稠密に1次元曲線を描いても、2次元平面の中の無限に多くの点を取り残してしまうことが証明できるのです。このことを日本語に敷衍すると、



「日本語は2次元構造を持つので、英語や中国語などの1次元構造を持った言語と比べて、無限大倍の表現能力がある」



ということができます。その能力の根源が「てにをは」なのです。日本語ってすごいでしょう。



これで話が終われば、めでたしめでたしなのですが、その日本語の自由度のゆえに、困ったことも起こり得るのです。逆に、自由度が多すぎるゆえに、それを使いこなしきれない人も時々いるのです。そのことが原因で一番最初に述べたような、ヨーロッパ言語の方が日本語に比べて論理的な表現に適した言語であるとの誤解をする人が出てきてしまうのです。



上に述べたように、日本語はヨーロッパ言語よりも自由度が多い。ですから、もちろん、ヨーロッパ語と同じ語順で表現することも可能なのです。ですから、ヨーロッパ語と同レベルの論理的表現は常に可能なのです。ところが、一般の日本人や、あるいは文学部出の国語の先生は、普段から日本語の持っている自由度を無意識のうちにフルに使いながら会話をし文章を書いている。そして、それでもちろん日本人には通じるのです。ところがそんな国語の先生は、自由度の制限されたヨーロッパ言語特有な表現には慣れていない。そして、そんな日本語的表現をそのまま外国人に打つけてしまうので、外国人から見ると何を言ってるのか支離滅裂に受け取られてしまう。そんな痛い経験を繰り返して行くうちに、知識走った外国かぶれな日本人の中に、「日本語はヨーロッパ言語と比べて論理的な表現には不適切な言語である」なんて妄想が出てきてしまうのでしょう。



私の持論なのですが、常々、



「理系で博士論文を書く訓練を受けた日本人には、少なくとも現代文の書き方や読み方を教える高校の国語の先生の免許を与えるべきである。その方が、余程文学部出の国語の先生よりも、しっかりした現代文を教えることができる」



と言っております。











生命エネルギーと意味

2017-07-12 18:45:42 | 思想、哲学、宇宙論
生命エネルギーとはこの宇宙の秩序と創造と進化を根底で支える存在であり

音のように微細な振動と倍音で構成されているエネルギーである。

あらゆる意味や価値はこの生命エネルギーから生まれ、

このエネルギーが存在しなければ、すべてが無意味に帰すだろう。

現代科学は生命エネルギーを認識できないため意味や価値から遠ざかってしまい

音楽は生命エネルギーを中心に据えたため、意味や価値で満たされているのである。

場とは何か

2017-07-10 15:33:41 | 思想、哲学、宇宙論


日本大百科全書(ニッポニカ)の解説







空間座標の関数である物理量、すなわち空間の至る所に分布している物理量を場という。場の概念の始まりには、弾性体の理論と流体力学が大きく寄与しており、その展開には18世紀前半のダニエル・ベルヌーイ、オイラー、ガウス、リーマンなどがかかわっている。これらは液体などある物体の上の場であるが、現在では、真空に広がる場が基本的であって、それによって物体もつくられると考えられている。そのような考えは電磁場によってもたらされたもので、その導入はファラデーに始まる。ファラデーは、電気的作用と磁気的作用の一つの物体から他の物体への伝達の研究から、電気あるいは磁気を帯びた物体の周りの空間に電磁気の場が存在するという考えに導かれた(1837)。電磁場の基本法則はイギリスのマクスウェルによって確立され、それらは「マクスウェルの方程式」として数学的に表現された(1864)。この方程式によれば、電磁場の変化は空間を有限の速さで伝わり、空間には、物体が存在していないところにも、場のエネルギーが蓄えられる。また、空間における電磁場の変化は波動として伝わり、その速度は光速度に等しいこともマクスウェルの方程式から導かれる。このことから、光は電磁波の一種であることが知られる。電磁波の存在、したがって電磁場の物理的な実在性は、マクスウェルの理論が発表されてから20年後に、ドイツのH・R・ヘルツによって実験的に確かめられた(1888)。[町田 茂]

物体(粒子)と場

こうして、自然は、粒子(原子、分子など)からなり空間の一定の部分だけを占める物体と、空間の至る所に広がる場とからなると考えられるようになった。物体あるいは粒子と場との基本的な違いは、空間に局在するか遍在するかのほかに、不可浸透性の有無がある。すなわち、物体あるいは粒子は空間のある領域を占めて一定の広がりをもち、その中に他の物体を入れない(不可浸透性)のに対し、場は空間の至る所にあり、このような不可浸透性をもたず、互いに浸透可能である。すなわち、場は、自然全体を満たしている媒質であるかのように考えられる。[町田 茂]

場の源と自由場

二つの荷電物体は互いに引力あるいは斥力を及ぼすが、これは、それらの物体の周りに電場ができるためである。このとき荷電物体をその場の源という。電場の強さを決めるのは荷電の大きさである。同じように、重力も物体の周りの重力場によるものであり、その強さは源である物体の質量に比例する。このように源に結び付いた場のほかに、空間を自由に進行する波動としての場がある。これを自由場という。[町田 茂]

場の種類

場は空間あるいは時間・空間座標の変換に関して一定の性質をもっている。たとえば、空間の各点で、その点の関数であるベクトルを考えると、これはベクトル場であって、座標変換に対して、各点の座標だけでなく、関数の形もベクトルとして変換する。座標の連続変換に対してはベクトルと同じ変換をするが、座標軸の反転に対して符号だけ逆のものを擬ベクトル場という。また、関数形がまったく変わらない場合、反転に対して変化しない場と符号だけ変わる場合とがあり、それぞれスカラー場および擬スカラー場という。たとえば光子の場はベクトル場であり、π(パイ)中間子の場は擬スカラー場である。一般的には、n個のベクトルの積と同じ変換をする場をn階テンソル場という。スカラー場とベクトル場は、それぞれ零階および1階のテンソル場である。電磁場の強さは2階テンソル場で表される。テンソル場のほかにスピノル場が存在する。物理学に最初に現れたスピノル場は、イギリスのディラックが1928年に、相対性理論の要請を満たす電子の波動方程式の解として導入したもので、スピンが2分の1の粒子を記述する。一般に、スピノル場はスピン半整数の粒子の場を記述し、n階テンソル場はスピンが整数nの粒子の場を表す。テンソルはスピノルによって表せるが、逆はできない。
 自然に存在する素粒子を記述する場は、これらの場のどれかに属する。その理由は次のようである。特殊相対性理論によれば、互いに等速直線運動をしている二つの観測者にとって、自然法則はまったく同じはずであるから、四次元時空における座標変換であるローレンツ変換をするとき、粒子の質量もスピンの大きさも不変でなくてはならない。このことから、素粒子の場は一定の階数のスピノル場またはテンソル場に限られることがわかる。[町田 茂]

場の量子論

場の量子論quantum theory of fieldsは、物理量としての場が量子力学の法則に従うとするものであって、1928年にドイツのハイゼンベルクと、スイスのパウリによって一般論が建設された。場は空間の各点ごとに定義され、それぞれ独立な自由度をもつから、場の量子論は、量子力学を連続無限個の独立変数の系に適用したものとみることもできる。場の量子論は、ハイゼンベルクとパウリの一般論の前に、ディラックによって電磁場に対してつくられ、これによって、電磁場が単に古典論的な場でなく、電磁場の量子として光子が現れて粒子性と波動性とを示し、光子が発生したり消滅したりするようすがみごとに記述されていた。このように、場を量子化すると、その場に伴う量子が現れ、それらは発生したり消滅したりする。実際、場の量子論でもっとも基本的なのは、場の量子の発生および消滅を表す演算であって、場の量子の存在ではない。現在、素粒子を取り扱うもっとも高度な理論は、この場の量子論であって、したがって、すべての素粒子は発生したり消滅したりするものとして扱われている。このことは、また、実験ともよく一致している。場の量子論では、場の量子は、他の場と相互作用をし、それによって反作用を受けて質量や荷電などが変化する。これを計算すると無限大の答えが出るが、ある種の理論では、それを観測する質量や荷電の値にくりこんでしまうと、それ以外に無限大は現れず、他のすべての観測量を詳細に計算できるようになる。これがくりこみ理論で、朝永(ともなが)振一郎によって始められ、ますますその重要性がはっきりしつつある。[町田 茂]

すべての自然の基礎としての場
現在知られている限り、宇宙のすべての物質は素粒子あるいはそれと類似と考えられるものでつくられており、それらの基本的な性質は場の量子論で表されると考えられているが、これは、場の量子論以前の自然観と比べると非常に違っている。
 場の量子論以前には、物体を構成する粒子、たとえば電子は、光子と違って、消滅したり発生したりすることはなく、不生不滅で、ただその運動状態が変わるだけと考えられていた。これはギリシア時代の原子論の流れをくむものである。これに対して、量子化された場に伴う粒子は発生したり消滅したりすることが、むしろ本性である。このため、場の量子論は、現実の素粒子が絶えず発生したり消滅したりし、そのほとんどが非常に短い寿命で自然に他の素粒子に転化するようすを記述することができる。一面からみれば、場の量子論は、発生したり消滅したりする粒子を記述するための理論ということもできる。したがって、場の量子論に基づく現代の自然観では、物質は基本的には、すべて空間に広がった場からなり、それに伴う量子として素粒子が存在するのであって、日常的にみられるすべての物体も、そのような場の励起の集合体であると考えられる。ギリシア時代の原子論が、空虚のなかの不生不滅の粒子という自然観であったのに対し、現在の場の量子論に基づく自然観では、自然のもっとも基礎にあるのは、空間全体に広がる場である。一般相対性理論まで考慮すれば、時空の性質も本質的に場の分布によって規定される。[町田 茂]

統一理論

素粒子は数百種類もあり、そのすべてが基本的な場であるとは考えられない。現在では、陽子・中性子など物体をつくる素粒子(ハドロン)を構成するクォークと、電子・ニュートリノなどのレプトンと、それらの間の力を媒介する光子・重力子などが基本的とされる。
 素粒子の間には電磁・弱・強・重力の4種類の相互作用があるが、1970年代後半から電磁および弱い相互作用を統一する(電弱)統一理論と強い相互作用を記述する量子色(いろ)力学(QCD)とが、重力を除いて、自然現象をよく記述することが明らかになった。これを標準模型とよんでいる。(電弱)統一理論と量子色力学とをさらに統一しようとする理論は大統一理論とよばれる。[町田 茂]

超ひも理論

さらに重力をも含めて、すべての相互作用を統一することを目ざして、1984年以降、超ひも理論が活発に研究されている。
 重力をも含めると、場の理論特有の困難が、先に述べたくりこみ理論では避けられなくなる。これは空間の各点における点状の場(局所場)を基礎にしているためであって、その困難を乗り越えるためには一点上に限られない場を基礎にする必要があると考えられる。これを非局所場といい、1950年代に湯川秀樹(ひでき)がその重要性を強調した。
 そのもっとも簡単な形態である一次元のひも(弦)を基礎とする理論は、1970年代に、強い相互作用をする素粒子(ハドロン)の理論として始められたが、84年以降、超対称性という特殊な対称性をもつプランク長さ(約10-33センチメートル)程度の非常に短いひもがすべての自然のもとであるとして、重力を含め、すべての相互作用を統一する可能性をもつ理論として盛んに研究されるようになった。これが超ひも理論である。とくに90年代の後半以降、宇宙論との結び付きもみいだされ、新しい宇宙像を示すようになった。しかし、超ひも理論特有の理論的予言が実験的に確かめられているわけではなく、未解決の理論的な問題も多い。この理論ではわれわれが住む時空は、いままで信じられていた四次元ではなく、実は十次元であって、そのうちの余分な六次元はプランク長さの程度に縮まっているため、普通の観測にはかからないと考えられる。しかし、この余分な次元の効果の現れをみいだす研究もされている。[町田 茂]