思想家ハラミッタの面白ブログ

主客合一の音楽体験をもとに世界を語ってます。

仮想の自己

2010-02-16 13:51:07 | Weblog
自己が意識のネットワーク上に発生するという考え方を場に適用するとおもしろい。

有機的場は波動の共鳴によってネットワークを形成しているので

このネットワーク上に仮想の自己が発生しているとすると

仮想自己は、場の振る舞いをコントロールし、生命のごとく

統一的な動きを生み出しているのではないか。

意識を自己がコントロールするように、仮想自己が有機的場をコントロールしているのかもしれない。

自己の発達

2010-02-15 13:00:35 | Weblog
自己が結び付きの上に成り立ち、関係性の上に生じていると考えると

集団の中では、他者とのつながりの中に自己が存在していると言える。

茂木健一郎が言うように、人間は友人や家族など、関わる相手によって自分を変化させている。

これは、意識の中のネットワークを柔軟に変化させることで、自己を変えているのだろう。

人間は他者との繋がることで自己を発達させてきたと言える。



言語と自己

2010-02-14 14:12:41 | Weblog
意識は複合システムであり、それぞれのシステムがネットワークされ、一つに結びつくことで

自己が生み出されるとしたら、言語の発達は自己形成に大きな役割を果たしただろう。

なぜなら言語活動は、記憶や感情、理性、感覚など、意識の様々な領域を結び付ける役割を

果たしていると考えられるからだ。自己とは結びつきの上に発生しているものであり

実体のない存在といえるかもしれない。実体がないゆえに自由に形を変え、さまざまなものと

結び付き、宇宙規模まで拡大することが可能なのである。もし意識が宇宙の膨張現場と共鳴すれば

膨張現場に自己が出現するのだ。


《主観的世界》の求心的構図

2010-02-13 20:14:50 | Weblog
《主観的世界》の求心的構図
 われわれは、日常的な認知のプロセスにおいて、《自己》が世界の「中心」にあるかのようなパースペクティブを採用している。このことは、視覚的な表象において最も顕著であり、これから飲もうとしているコーヒーの入ったカップは、「自分の眼前に置かれている」という形式で表される。そのせいもあって、ともすれば、こうした「自己中心的な」世界の姿を、(近似的には3次元ユークリッド空間であるような)幾何学的空間の中心位置に自己の身体を定位するという視覚的イメージで表しがちである。しかし、数学的な考察から直ちにわかるように、境界が確定されていない空間内部に「中心位置」を定めることはできないはずである。「自分が空間の中心にいる」と感じられるのは、むしろ「自分が中心となって世界を見ている」というパースペクティブが採用されているからであって、その逆ではない。

 幾何学的空間における身体像の定位の仕方が第一義的なものではないとすれば、《自己》が世界の「中心」にあるというパースペクティブは、何に由来するのだろうか。私は、《主観的世界》の構成要素である知覚や想念が相互の連結によって作り上げる全体的な「構図」が、その原因になっていると考える。

 《主観的世界》には、中心-周辺という階層性が見られるものの、「意識内容」と「意識主体」のような対立する2項を指摘することはできない。中心的存在としての特権を主張できるような実体的な〈自我〉ないし〈魂〉があるのではなく、所与に見られる関係性の総体が、中心-周辺という階層性を生み出していると考えられる。「意識内容」から独立した実体的な〈自我〉の存在を否定する見解は、哲学の初歩を勉強した者にとっては、むしろ当たり前のことだろう。個々の知覚や想念を全て捨象してしまった暁には、もはや、〈自我〉と呼ぶべき何者も残されていないからである。とは言え、知覚や想念などの所与のみによって構成された世界について、積極的に語ろうとする哲学者は、必ずしも多くない。感覚受容器からの入力や社会性を有する言語表象と関連付けて、神経心理学や社会心理学に基づく議論へと発展させなければ、個人的な心の動きについての単なる叙述になってしまいそうだからだろう。しかし、物と心の関係を根本から解明しようとするならば、こうした初歩的な認識論に立ち返る必要がある。

 一般に、《自己》の深奥部に位置していると感じられる要素は、身体的な知覚をベースに、多数の記憶と想念が相互に強く連結されたコンプレックスを形成している。例えば、心の奥底を揺さぶる深い悲しみとは、胃が重くなったような内臓感覚を主に、涙腺からの涙の分泌や咽頭部の筋肉の緊張を伝える身体的知覚が現れ、さらに、これらとない交ぜになって、特定の様式を持つ記憶や想念が論理的思考を断ち切るかのように勃然と沸き起こって、1つの感情複合体を形成しているものである。これに対して、周辺的な出来事と見なされるのは、身体を含めて他との関係性の薄い少数の要素から構成されているものである。遠くで何かが動いているのを目にした場合、あまり気に止めていない間は、情報量の乏しい視覚的データの1つとして意識の辺縁に提示されるにすぎない。しかし、そこで動いているのが野生のトラであるとわかった瞬間、肌が粟立つような身体的恐怖感が生まれ、一気に《主観的世界》の中心部に引き寄せられるのである。

 《主観的世界》に見られる階層性において、最も本質的な特徴は、これが monad 的である、すなわち、複数の中心-周辺構造が並存することなく、ただ一つの中心-周辺という階層が存在するという点である。素朴な言い方をすれば、ある主観は唯一の「私」だけのものなのである。《客観的世界》に多くの人々が並存していることを考えると、これは真に驚くべき事態であり、これを説明することが、科学哲学にとって最大級の課題となる。

 精神病理学的な解離性同一性障害(いわゆる多重人格)の症例においては、自己同一性を維持するためのキュー(cue)が不分明になって、人格交代と解離性健忘が生じるが、その場合でも、ある瞬間には、特定のパーソナリティを形成するように記憶や想念が感覚データと連結されるので、中心-周辺の単称性は維持されている。てんかんの治療のために脳梁を切断したケースなどで見られる離断症候群の患者の場合、外から観察すると、複数の主体が同時に身体を制御しているように思える。だが、患者本人の主観的な報告においては、中心の唯一性は失われておらず、連絡が取れない脳部位からの指令による行動すら、《自己》の行為として説明する作話傾向があることが知られている。また、精神分裂症では、幻聴や作為思考という形で、他者性を帯びた声や思念が「私」の意識の中に入り込んでくるケースが報告されているが、これは、あくまで「私に聞かれる他者の声」ないし「私の思考をコントロールする他者の思念」というように、単称的な「私」の中の現象として生起するものであって、他者の主観が自分の世界に割り込んでくる訳ではない。

 もっとも、1つの意識の中に2つの《自己》が並存する可能性が、原理的に否定されているとまでは言い難い。例えば、脳梁を介した右脳と左脳の連絡が健常者ほど密ではないが全く途絶えている訳ではなく、左右の脳半球がそれぞれ主体的な思考を行いながらも、意識は統合されている――という状況が、想定可能だからである。ただし、こうした状況において実際にどのような意識が形成されているかを具体的に思い描くことが困難なので、この事例を立論に利用することはできない。後に仮説が提出された段階でわかることだが、こうした複称的な主観は、高次元φ空間内部における多重埋め込みの特殊例と考えられる。

 ここで、世界が monad 的であるならば、《自己》という実体的な概念を持ち出す必要はないという点に注意していただきたい。構成要素間の連結関係を考えるだけで、中心-周辺の階層性は完全に説明されてしまうのである。《自己》を実体化しなければならないのは、多数の認識主体が並存する世界の中で、「私」という存在を特別扱いするような場合である。解剖学的に類似した中枢神経組織を有し、そこで同じような電気化学的反応を繰り広げている個体の中から、相互の関係性だけをもとに「私」を抜き出すことは不可能であり、「これが私だ」という実感を議論のどこかに持ち込まなければならない。しかし、 monad 的な《主観的世界》を問題にする場合は、こうしたちぐはぐな議論をする必要はない。要素間の関係性によって形成される階層的構造において、身体的知覚とさまざまな想念が密に連結したコンプレックスが存在する中心部付近を、便宜的にと《自己》と呼んでいるにすぎないのである。


 現象学的直観によっても、《主観的世界》の中心部にあるのが、自律的な実体と見なされるような《自己》ではなく、常にある種の“拡がり”を持った複合体であることは察知されよう。内省によって「自分とは何か」を追求する試みの中で、知覚や記憶を単なる与件として排除していくと、結局のところ、自分という存在はどこかに雲散霧消してしまう。「私の悲しい思い」はあっても、「私が悲しく思う」という文の主語に相当する「私」を見いだすことはできない。心の奥底に分割不能な核としての《自己》がある訳ではなく、多数の要素が中心-周辺の差異を示しながら複雑に連結することによって、あたかも主体となる《自己》が中心にあるかのような世界が形成されているのである。

 世界そのものが、構成要素の連結によって単称的な中心-周辺という階層性を示していること――これが、 cogito の実体である。私は、この構図を「求心的」という用語で表現したい。「求心的な」世界では、全ての要素は、唯一の《自己》見られる内容として、己れの身体的知覚と結びつき己れの気分に支配されている。



この世界についての仮説 より

《実体化》作用と存在認識

2010-02-13 15:40:38 | Weblog
《実体化》作用と存在認識
 幼少の頃を思い起こせば、誰しも自分が徹底した“実在論者”として振舞っていた記憶があるだろう。すなわち、幼児にとっては、玩具にせよ母親にせよ、その基本的な現れ方が変化することは予想されておらず、玩具は常に喜びをもたらし、母親は常に慈しんでくれる存在であり続けると感じられるのである。このように「認識対象は、自分との関係における基本的な性質を不変に保つ」とする見解が、おそらく最も素朴な《実在論》だろう。もちろん、日常経験を積み重ねていくうちに、素朴な実在論は、現実によって手厳しく裏切られることになる。実際、玩具はしばしば壊れて思い通りに動かなくなるし、母親が時に激しく叱責して体罰を科す場合もある。こうした体験を通じて、人は、不変な性質を備えているのが、外界の対象ではなく心の中の《観念》の方だと、いやでも気づかされるのである。しかし、不変的な《観念》を通じて対象を把握するという思考法それ自体が、成長と共にそう簡単に失われる訳ではあるまい。ここでは、外界からの複雑な知覚情報を状況に応じて分節し、その中で安定な部分を適当な《観念》によって統括する認知の方略を、《客体化》と呼ぶことにし、幼稚な実在論的世界観を脱したかに見える成人においても、存在認識が成立するための鍵として《客体化》の作用が機能していることを示したい。



 《客体化》の方略とは、簡単に言えば、全体の中から部分としての「もの」を抽出していく手法である。例えば、網膜に映じる光学的な像が、2次元方向にべったりと拡がっているのに対して、認知された視知覚においては、「机」や「椅子」などが個別的な存在として浮き上がるように把握できるが、これは、《客体化》を通じて、それぞれの対象物を背景から抜き出す操作が無意識のうちに行われるからである。少し内省すれば簡単に納得できるように、《客体化》とは、用意されたテンプレートと照合する単純なバターン認識に還元できるものではなく、無数の細かな判定規則の組み合わせから成る総合的な作業である。個々の規則としては、「同一の形態が時間とともに僅かに異なった位置に提示される場合は、同じ物体の移動として統括できる」というごく基本的なルールから、破損を免れた手がかりをもとに残骸から元の物体を再構築するための経験的な推定法に到るまで、さまざまなものがある。しかも、このような膨大な数のルールは、状況に応じてストラテジックに――すなわち、それぞれの適用法をあらかじめ定めておくのではなく、(「このケースではまず輪郭線の分析を」、「このケースでは運動の変化に着目して」というように)各時点で最適な手順を考案しながら――適用されている。このような作業を通じてはじめて、対象を個別的な「もの」として把握する《客体化》が実行されるのである。

 上に述べたような《客体化》が対象を認識する過程で実際に行われている証拠は、常に対象を名指しできるという人間の基本的能力のうちに見いだされる。もちろん、単に「名指し」と言っても、「犬」や「レストラン」のように抽象性の高い名辞を用いる場合から、「(わが家の)ポチ」とか「(3丁目の)来々軒」といった具体的な固有名詞を使う場合までさまざまであるが、これらの用法を峻別する必要性はない。なぜなら、たとえ固有名詞を用いようとも、そもそも名指しを行う時点で対象にかかわる情報をかなりの程度まで捨象している――「わき腹に泥をつけて裏の土手を歩いていた3時14分のポチ」を名指しする固有名詞は存在しない――以上、抽象性/具象性の差異は、単なる程度問題にすぎないからである。このように考えると、「名指し」とは、対象を(多かれ少なかれ)抽象化された「もの」として観念的に取り扱う操作であることがわかり、その背後に、全体の情報の中から適当な規則によって部分を抜き出す《客体化》の作用を指摘できる。逆に言えば、《客体化》の基本的な特徴は、音韻記号として表わされる名辞の存在を別にすれば、「名指し」の中に集約されている。したがって、《客体化》を説明するのに、「あらわに名辞を用いない名指し」という発想をなぞって、「(必ずしも言語化されていない)《観念》によって知覚情報の特定部分を統括する過程」と表現することが許されよう。


この世界についての仮説より  

心の量子場

2010-02-10 12:18:16 | Weblog
意識は複数のシステムによって成り立っており、心はその一つである。

心とは、意識の一部が大自然の場と相互作用することで、独自の構造に進化したものではないか。

キタロウの天界の中の、アストラルトリップという曲では大自然の場と意識の場と

の相互作用によって、心の量子場が自己組織化していく過程が表現されている。

意識の拡大

2010-02-09 13:20:23 | Weblog
自分というものが意識のネットワークによって生じているとすると

意識の拡大は一歩間違えると自我の崩壊に繋がるのではないか。

宇宙の危険な領域、例えば時空の裂け目などと意識を共鳴させ

自己のネットワークを拡大させると、狂気に至る危険があるかもしれない。

キングクリムゾンのアルバム、レッドはかなり危険な領域とネットワークを

作り出している。特にプロビデンスという曲は宇宙の裂け目に飲み込まれそうな

きわどい曲だ。

自分とはなにか

2010-02-09 00:07:13 | Weblog
自分とは何か。自我意識はいかにして生み出されるのだろうか。

おそらく自分というのは意識のネットワーク活動によって生み出されているのだと思われる。

意識システムのネットワーク活動が、私という意識を発生させているのだ。

自分というのはネットワークそのものかもしれない。

もしそうだとすれば意識が宇宙と共鳴し一時的にネットワークを拡大した時

自分という意識も宇宙に拡大できるだろう。

それが宇宙意識ではないだろうか。