《主観的世界》の求心的構図
われわれは、日常的な認知のプロセスにおいて、《自己》が世界の「中心」にあるかのようなパースペクティブを採用している。このことは、視覚的な表象において最も顕著であり、これから飲もうとしているコーヒーの入ったカップは、「自分の眼前に置かれている」という形式で表される。そのせいもあって、ともすれば、こうした「自己中心的な」世界の姿を、(近似的には3次元ユークリッド空間であるような)幾何学的空間の中心位置に自己の身体を定位するという視覚的イメージで表しがちである。しかし、数学的な考察から直ちにわかるように、境界が確定されていない空間内部に「中心位置」を定めることはできないはずである。「自分が空間の中心にいる」と感じられるのは、むしろ「自分が中心となって世界を見ている」というパースペクティブが採用されているからであって、その逆ではない。
幾何学的空間における身体像の定位の仕方が第一義的なものではないとすれば、《自己》が世界の「中心」にあるというパースペクティブは、何に由来するのだろうか。私は、《主観的世界》の構成要素である知覚や想念が相互の連結によって作り上げる全体的な「構図」が、その原因になっていると考える。
《主観的世界》には、中心-周辺という階層性が見られるものの、「意識内容」と「意識主体」のような対立する2項を指摘することはできない。中心的存在としての特権を主張できるような実体的な〈自我〉ないし〈魂〉があるのではなく、所与に見られる関係性の総体が、中心-周辺という階層性を生み出していると考えられる。「意識内容」から独立した実体的な〈自我〉の存在を否定する見解は、哲学の初歩を勉強した者にとっては、むしろ当たり前のことだろう。個々の知覚や想念を全て捨象してしまった暁には、もはや、〈自我〉と呼ぶべき何者も残されていないからである。とは言え、知覚や想念などの所与のみによって構成された世界について、積極的に語ろうとする哲学者は、必ずしも多くない。感覚受容器からの入力や社会性を有する言語表象と関連付けて、神経心理学や社会心理学に基づく議論へと発展させなければ、個人的な心の動きについての単なる叙述になってしまいそうだからだろう。しかし、物と心の関係を根本から解明しようとするならば、こうした初歩的な認識論に立ち返る必要がある。
一般に、《自己》の深奥部に位置していると感じられる要素は、身体的な知覚をベースに、多数の記憶と想念が相互に強く連結されたコンプレックスを形成している。例えば、心の奥底を揺さぶる深い悲しみとは、胃が重くなったような内臓感覚を主に、涙腺からの涙の分泌や咽頭部の筋肉の緊張を伝える身体的知覚が現れ、さらに、これらとない交ぜになって、特定の様式を持つ記憶や想念が論理的思考を断ち切るかのように勃然と沸き起こって、1つの感情複合体を形成しているものである。これに対して、周辺的な出来事と見なされるのは、身体を含めて他との関係性の薄い少数の要素から構成されているものである。遠くで何かが動いているのを目にした場合、あまり気に止めていない間は、情報量の乏しい視覚的データの1つとして意識の辺縁に提示されるにすぎない。しかし、そこで動いているのが野生のトラであるとわかった瞬間、肌が粟立つような身体的恐怖感が生まれ、一気に《主観的世界》の中心部に引き寄せられるのである。
《主観的世界》に見られる階層性において、最も本質的な特徴は、これが monad 的である、すなわち、複数の中心-周辺構造が並存することなく、ただ一つの中心-周辺という階層が存在するという点である。素朴な言い方をすれば、ある主観は唯一の「私」だけのものなのである。《客観的世界》に多くの人々が並存していることを考えると、これは真に驚くべき事態であり、これを説明することが、科学哲学にとって最大級の課題となる。
精神病理学的な解離性同一性障害(いわゆる多重人格)の症例においては、自己同一性を維持するためのキュー(cue)が不分明になって、人格交代と解離性健忘が生じるが、その場合でも、ある瞬間には、特定のパーソナリティを形成するように記憶や想念が感覚データと連結されるので、中心-周辺の単称性は維持されている。てんかんの治療のために脳梁を切断したケースなどで見られる離断症候群の患者の場合、外から観察すると、複数の主体が同時に身体を制御しているように思える。だが、患者本人の主観的な報告においては、中心の唯一性は失われておらず、連絡が取れない脳部位からの指令による行動すら、《自己》の行為として説明する作話傾向があることが知られている。また、精神分裂症では、幻聴や作為思考という形で、他者性を帯びた声や思念が「私」の意識の中に入り込んでくるケースが報告されているが、これは、あくまで「私に聞かれる他者の声」ないし「私の思考をコントロールする他者の思念」というように、単称的な「私」の中の現象として生起するものであって、他者の主観が自分の世界に割り込んでくる訳ではない。
もっとも、1つの意識の中に2つの《自己》が並存する可能性が、原理的に否定されているとまでは言い難い。例えば、脳梁を介した右脳と左脳の連絡が健常者ほど密ではないが全く途絶えている訳ではなく、左右の脳半球がそれぞれ主体的な思考を行いながらも、意識は統合されている――という状況が、想定可能だからである。ただし、こうした状況において実際にどのような意識が形成されているかを具体的に思い描くことが困難なので、この事例を立論に利用することはできない。後に仮説が提出された段階でわかることだが、こうした複称的な主観は、高次元φ空間内部における多重埋め込みの特殊例と考えられる。
ここで、世界が monad 的であるならば、《自己》という実体的な概念を持ち出す必要はないという点に注意していただきたい。構成要素間の連結関係を考えるだけで、中心-周辺の階層性は完全に説明されてしまうのである。《自己》を実体化しなければならないのは、多数の認識主体が並存する世界の中で、「私」という存在を特別扱いするような場合である。解剖学的に類似した中枢神経組織を有し、そこで同じような電気化学的反応を繰り広げている個体の中から、相互の関係性だけをもとに「私」を抜き出すことは不可能であり、「これが私だ」という実感を議論のどこかに持ち込まなければならない。しかし、 monad 的な《主観的世界》を問題にする場合は、こうしたちぐはぐな議論をする必要はない。要素間の関係性によって形成される階層的構造において、身体的知覚とさまざまな想念が密に連結したコンプレックスが存在する中心部付近を、便宜的にと《自己》と呼んでいるにすぎないのである。
現象学的直観によっても、《主観的世界》の中心部にあるのが、自律的な実体と見なされるような《自己》ではなく、常にある種の“拡がり”を持った複合体であることは察知されよう。内省によって「自分とは何か」を追求する試みの中で、知覚や記憶を単なる与件として排除していくと、結局のところ、自分という存在はどこかに雲散霧消してしまう。「私の悲しい思い」はあっても、「私が悲しく思う」という文の主語に相当する「私」を見いだすことはできない。心の奥底に分割不能な核としての《自己》がある訳ではなく、多数の要素が中心-周辺の差異を示しながら複雑に連結することによって、あたかも主体となる《自己》が中心にあるかのような世界が形成されているのである。
世界そのものが、構成要素の連結によって単称的な中心-周辺という階層性を示していること――これが、 cogito の実体である。私は、この構図を「求心的」という用語で表現したい。「求心的な」世界では、全ての要素は、唯一の《自己》見られる内容として、己れの身体的知覚と結びつき己れの気分に支配されている。
この世界についての仮説 より