創造

創造主とセルフイメージの世界

横井時雄がフルベッキ写真に?

2013-11-23 11:23:50 | 歴史

今治教会と横井時雄牧師については以下のサイトでかなり詳細に知ることができます。

http://www.rci.ehime-u.ac.jp/nenpo/7/6.pdf#search='%E6%A8%AA%E4%BA%95%E6%99%82%E9%9B%84+%E4%BB%8A%E6%B2%BB%E6%95%99%E4%BC%9A'

ところで井上浩郷氏によれば、フルベッキ写真で日下部太郎と推定される被写体は実は横井時雄であるとのことです。

http://www.natural-cma.com/rekishi.html

グリフィスがこの写真を見た時に、ラトガ-ス大学で親しかった日下部太郎に全く言及していないことが明治撮影説の一つの根拠にもなっていた訳ですが、井上氏によれば、暗殺の難を避けるために、米国留学中の八木八十八に松平春嶽藩主が日下部(くさかべ)を名乗るように襲名したとのことです。

八木八十八(日下部)には鼻の横にほくろがありますが、被写体の少年横井時雄(?)にはありません。

グリフィスは、被写体で判別できたのは、岩倉兄弟、大隈重信、副島種臣、柳谷謙太郎はじめ岩倉使節団の中の多くと述べています。(「日本のフルベッキ120ペ-ジ)

井上氏によれば、横井時雄と再婚した妻(柳瀬家の13歳年下の五女で末娘トヨ)の間に生まれた五女の横井悦子は実は九條節子であり、大正天皇の妻、貞明皇后とのことで、昭和天皇の遺伝子を持つ井上氏自身横井家の子孫でもあるとのこと、御自身は正妻から誕生しなかったヨセフやソロモンのような存在だとお電話で語っておられました。

私は真偽を確認するすべをもちあわしておりませんが、日本の歴史があまりに美化されたり脚色されすぎて旧約聖書のようにダビデ王のスキャンダルをそのまま記しているような真実性が欠けていたことは確かであると考えます。相対的な存在がいつしか絶対化され神格化された結果、どのような結末を迎えたかという史実を太平洋戦争やオ-ム真理教事件によって知らされたのではなかったでしょうか。真に絶対である創造主を忘れた唯物主義は疑似絶対者または独裁政権を生みだし、厳しい情報コントロ-ルシステムで統制しております。

勝海舟は「氷川清話」(講談社311ペ-ジ)で次のように語りました。

「おれはいつもつらつら思うのだ。おそよ世の中に歴史というものほどむつかしいことはない。元来人間の知恵は未来のことまで見透かすことができないから、過去のことを書いた歴史というものに鑑みて将来を推測しようというのだが、しかるところこの肝腎の歴史が容易に信用せられないとは、困った次第ではないか。見なさい。幕府が倒れてから僅かに30年しか経たないのに、この幕府の歴史すら完全に伝える者一人もないではないか。」

その意を受けた戸川残花が「幕末小史」を執筆しました。

ハ-バ-ト・ビックスは「昭和天皇」(吉田裕監修・講談社2002)において日本の軍国化と天皇の神格化へのプロセスをかなり克明に描いています。

首相の原敬は当時皇太子であった昭和天皇を右翼の反対を押し切ってヨ-ロッパ旅行を促しました。20歳の皇太子が感銘を受けたのは政治改革の嵐とヨ-ロッパ君主制の倒壊とを巧みに乗り切った英国王ジョ-ジ五世であったといわれます。それ以来英国流の立憲君主制を尊重するに至りました。

しかし、ピュ-リタン革命を経た王政復古と違って維新以来の王政復古は自ずから限界がありました。

1921年11月4日、原首相は東京駅で暗殺されす。犯行の動機は海相臨時代理を兼ねたこと、皇太子の婚約問題で山県を支持したこと、そして彼の政友会内閣が皇太子をヨ-ロッパに送り出したことだと言われます。

 (井上浩郷氏によれば養父井上朝良は大正天皇の4男であったが、原敬暗殺に際し、かつて横井小楠が暗殺された時、息子の時雄の名を変えたように、苗字を変えたとのことです。)

やがて天皇神権説が立憲君主説に近い天皇機関説を排除し、大東亜共栄圏思想へと傾斜してゆきます。

ヨ-ロッパ王室は創造主のもとに相対化され、同じ被造物としての市民との連帯と自由が保障されますが、神格化された皇室は人間として人民と断絶されます。1928年天照大神の神話に基づく即位の礼は天照の霊と一体化するという大嘗祭による、現人神へと転生儀式を伴いました。

 元来、元首天皇をかしらとする国体思想は、キリストの体を模倣した者と言われます。

しかし決定的違いは、創造主の霊は、すべての人に与えられもので、それは人となられた御子の十字架の罪の贖いを通して降臨されることです。神は聖い方ですから、罪の清めなしには一体にはなりえません。内住の聖霊は創造主であり、絶対的超越者であります。私たちは被造物であってこのお方を宿す器です。その永遠者に結ばれることによって神的いのちに預かります。土の器そのものは神ではありえないのです。

そのような訳で私たちは霊を見分けなければなりません。敵であるサタンが吠えたける獅子のように食いつくすべきものを探し求めて歩き回っているからです。(ペテロ第一・5・8)人間的な知識や能力によってこの4次元の力に太刀打ちすることは困難です。オ-ムの虜になったのは多くがエリ-トたちであり、真理を求めた真面目な青年たちでした。

からだと心の健康は大切ですがそれ以上に霊的健康が重要です。バクテリアやウィルスの侵入によって病むように、霊が悪霊に付着されますと滅びに至る不治の病を患います。

毒ヘビに咬まれて瀕死の状況にあった荒野の民を思い起こします。彼らがモ-セによってかかげられた青銅のヘビを見上げた時、毒が消滅しいやされました。私たちの罪を負われて呪われたヘビのごとくに十字架につけられた主を見上げる時、私たちの罪は取り除かれます。そして罪を告発するサタンの支配下から解放されます。心に聖霊が住んで下さり、神の子とされ天使やサタンよりはるかに高く尊い身分をいただきます。

空中戦はより高いポジションを占める者が勝利します。私たちは人生の重荷をどう処理するでしょうか。自分自身の中の悪しき思いにどう向き合うでしょうか。やがて直面しなければならない病や死に対してどう闘ったらよいでしょうか。これらの問題は自分自身の限界をこえたものではないでしょうか。

そうであればこそ、全知全能の創造主を心に迎えて、このお方に立ち向かっていただく必要があります。十字架を通して注がれている聖霊の流れが霊と心と体そして生活や環境や政治すべてに豊かな祝福をもたらされます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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