創造

創造主とセルフイメージの世界

霊の贖い、至聖所の贖い

2010-07-27 22:26:27 | インスピレーション
日課の一つは聖書を10章づつ読むことである。
今日、レビ記16章33節「彼は至聖所の贖いをする。」を読みハッとした。
旧約時代の祭司が清い動物の血によって、罪を清め神の宿る至聖所を
整えることであるが、これは主イエスが人間の至聖所である霊をご自身
の聖なる血をもって清めてくださり、聖霊なる神の住まいとして下さること
を指示している。
この事実に依存する時に、われわれ自身の身に、この奇跡が起こる。
いわゆる一般的な意味でのスピリチャリズムも人間の霊性を重視する。
しかし、生まれつきのままの霊は汚染されていて、そこは悪霊の足場
になりうる。
カルトの過ちは、そのような霊を放置したままで、霊性を強調することで
ある。宗教的ではあるが、新生しない霊は、サタンの支配から脱却できない。
かつてのパウロのごとく、熱心にみえるが、内側に清さがなく建て前では
宗教的であっても本音は不安、不平、不満で満ちている。
御霊を持たないままで、宗教的であろうとすると、限りない自己義認
の追及に陥る。
ノルマや掟を果たして、義の道を自力で造りだそうとする。
十字架の贖いに頼らず、御霊をもたない宗教的カルトはやがて破壊的な
道をたどるのである。
 贖いとは神が私達の罪の代価を自ら支払われ、サタンの支配下から
聖霊のご支配のもとに引き上げてくださることである。
 神のみ子の十字架の贖いにお頼りするときに、そのことが自分の中で
実現する。
 こうして、私達のもっとも大切な霊の部屋に、主なる神をお迎えする。
また心の部屋も明け渡すとき、心は聖霊のご性質である愛と喜びと平安
に満たされる。また体に触れられるとき、病の癒しがおこなわれる。
 主の血潮の清めを全領域に、日々そそいでいただき、いつもサタンに
勝利することこそ、絶対的幸福の生活である。
 確かに世には一時的な相対的成功や幸いもある。
しかし、神は私達が永遠に幸せであることを願っておられる。
そのために尊い犠牲を支払われ、ご自身を住まわせることによって尊い
神の子という身分を私達に与えてくださった。
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なぜ西郷隆盛の写真がないのか

2010-07-24 11:34:39 | 歴史
 幕末維新史上の謎の一つは、西郷隆盛の写真らしきものが一枚も残されていないことである。
同じ薩摩藩の小松帯刀や大久保利通、長州藩の伊藤博文、桂小五郎、高杉晋作、そして佐賀藩の大隈重信、副島種臣 江藤新平
土佐藩の坂本龍馬、後藤象二郎、岩崎弥太郎、公家の岩倉具視、備後の安保清康また明治天皇でさえ、かなりの写真が残されていて今日でも自由に見ることができるにもにもかかわらず、西郷の写真だけはないという。
 そこで私なりの推理をしてみたが、その仮説とは敬天愛人をモットーにした西郷隆盛はクリスチャンではなかったかということである。
7月25日発行のクリスチャン新聞3面、「龍馬をめぐる人々」(守部喜雅氏によるシリーズ)は「西郷が秘密裏に受洗?」とある。
バラ宣教師に願い出て秘密裏に受洗した可能性があるという訳である。
 私は写真事情から想像してその可能性は高いと思う。日本人として最初の写真(銀板)の被写体になったのは漂流民の仙太郎であった。ゴーブルと共に黒船に乗り込んだが、日本で下船することを拒み、米国に戻り、バプテスマを受けた。
1860年、今から150年前に宣教師になったゴーブルと共に神奈川に上陸するのだが、その後の仙太郎の写真はほとんど見つからない。静岡でクラークと共に写っているという写真も正面からではなく、どんな容貌であったか分かりにくい。

幕末維新の時期、キリスト教はまだ禁止されていた。とくに日本人の改宗者はその身を危険にさらすことになった。おそらくそのような事情を熟知したフルベッキ師は日本人との関わりが写真などで公にされることにかなり慎重であったのではなかろうか。
 もしそうだとすれば、西郷の写真が皆無なのは、彼がキリスト教に帰依していたからであったという仮説が立証される。

 2000年7月、スイスのローザンヌでユースウィズアミッション・創立者カニングハム師の特別講義を受けた。

 聖霊の神学者と呼ばれたカルヴィンによって、ジュネーブが改革され、その影響は教育や文化そして現代世界の政治経済の変革に寄与していることは広く知られているが、そのような霊的基盤なしに先進国になったのは日本だけだとカニングハム師が語られた。
 なぜ、そうなのか知りたいとも言われた。
それは私たち日本人にとっても疑問であった。
 しかし幕末から維新そして明治初期にかけて、プロテスタント宣教師と欧米のインパクトがいかに強かったかは、明治の文豪たちのほとんどが聖書に真剣に対峙していることからもうかがえる。
今週のNHKの龍馬伝は長崎のグラバーに焦点をあてていた。しかし思想的面から志士たちに大きな影響を与えたのはフルベッキ師であった。また土佐藩に雇われて、岩崎や後藤と接触したのはゴーブル師である。坂本龍馬も当然、いずれかの局面でゴーブルに接触しただろう。新大陸アメリカ開拓者の末裔で一匹オオカミとも異端児とも言われたゴーブルと幕末の風雲児龍馬は、どこか似通ったところがある。
 一方仙太郎は、ジョン万次郎やジョセフ・ヒコのように際立った業績は残さず、忠実なコックとして仕えたのであるが、リバイバルの嵐の中で誕生した米国バプテストの信仰を身に付けたという点では、アメリカをもっとも深く理解した人物であったともいえる。
 江戸時代の仏教もしくわ儒教史観、明治以降の皇国史観、戦後の唯物史観は、日本を底流で動かす聖霊の働きを覆い隠してきた。
それはもっとも日本人らしい日本人、勝海舟が涙と共に主イエスを受け入れ、永遠のいのちと喜びを体験したという事実を圧倒的多くの日本人がまだ知らないということからも言える。
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新創造New Creation

2010-07-22 10:16:26 | 創世
創造主によって宇宙と人間は造られた。
では何故、完全なお方が不完全な世界を造られたのか。
その答えは創世記3章に記されている。
かつては完全であった天使の堕落とその誘惑による、
人間と自然界の混乱と死である。
第一の天地創造には神々(物質以前に造られた天使)
の介入があったと詩篇に記されている。
現在の宇宙は間接的に創造されていて、遺伝子や
その生態の分野に、完全といは言えない部分がある。
それは天使と堕落天使の力のバランスから構成され
ているということもできる。
万有引力の法則やメンデルの遺伝の法則はそのような
次元を反映しているといえよう。
 しかし、第二の創造としての創造主の直接的介入が
起こるとき、主がガリラヤ湖の上を歩かれて引力の法則
を超え、処女降誕によって遺伝子の法則を超えられたよう
に、創造主の直接的4次元的法則のエネルギーが働くので
ある。
 無から有を造られる創造霊が人間の霊に触れ内住され
るとき、霊は直接的な創造のもとにおかれる。
これは根源的霊的新創造(再創造)であり、神から生まれ
る新生の奇跡である。
そのいのちは新生した人の内側から泉が湧き出て、心を
洗い、やがては復活の体へと成長する。
間接的被造物である自然界に法則があるように、直接的
被造物には超自然の御霊の法則が働く。
 そこは完全な創造主の直接的創造であるから、完全なの
である。新生した霊は不滅であり、復活の体は完全なので
ある。
 今日、創造主は外側から天使と共に働かれるだけでなく
内側から聖霊と共に永遠の創造をなしておられる。
 それは御子の十字架の贖いとそれへの依存(信仰)
から始まる偉大な再創造である。
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生命科学・創造論と進化論

2010-07-20 17:44:13 | 神学と科学

 最近、NHKのテレビ科学番組で「進化」という言葉が頻繁に使用されている。
生命科学の分野では一つの仮説であるが、あたかも自明の法則のごとくに扱われている。
現代物理学ではアインシュタイン以来、従来のニュートン力学が克服され、生命科学の分野でも遺伝子やDNAの研究が飛躍的に進歩して新たなレベルに達しているにも関わらず、その発想は旧態依然ではないか。
 唯物史観にたつルイセンコ学派が、その仮説を絶対化した結果、農業政策を誤らせ数千万の餓死者を生み出したことを思い起こさなければならない。
 客体認識は主体である観察者に影響されるとアインシュタインが説いたように、どのレベル、あるいは次元から歴史と自然を把握するかということを吟味しなければならない。
 創造主を見る霊的な目をもって、被造物の歴史と自然を考察するのが創造論的聖書的歴史観である。
 この視点で見るとき、「全被造物」のうめき(ロマ8章)を聞き取るであろう。
 つまり、創造主から引き離され、死におびえ、弱肉強食と自然淘汰を繰り返す生命の悲哀である。
 確かに、そこには非情な法則があって、すべての生命は容赦のない闘争に巻き込まれている。
 しかし、この現実には、「サタンに支配された」世界であるという(ヨハネの手紙)一つの前提がある。
 聖霊によって、世界と歴史を認識するとき、創造主との関係が断たれた被造物の姿を見るのである。
 新生し、清められた理性には全く違った世界が映ることになる。
 唯物史観の絶対化は、人を霊的飢餓状態に陥れる危険がある。
 おりしも大韓航空爆破事件の犯人であり、キリスト教徒に改宗したキムヒョンヒ姉が今日初めて日本を訪れ、拉致被害者家族の方々と面会される。
 かつて、マスコミやいわゆる知識人たちは唯物史観に立つかの国をほめたたえ、十分な検証もせずにその思想が正しいかのように伝えた。そしてその宣伝に踊らされて多くの方々が海を越えて帰還した。
 日本でも権威があるといわれるNHKが不用意に、それに類する思想や言葉を乱用するならば、その精神的被害は甚大であろう。
仮説は実証されることによって法則と認められる。仮説を取り上げることは問題ではないが、、創造論など違った立場の見方を無視した番組は慎重でなければならない。
 ヨブ記40章には、ベヘモットと呼ばれる恐竜に近い生物が描かれている。恐竜の存在が知られる前はカバと訳されていたが、今日では訂正を迫られている。聖書は霊の視点から、歴史を観察する。非科学的ではなく超科学的である。創造主の目から、被造物を考察するときに、初めてその深層が解明されるだろう。
 アインシュタインが、問題は一つ上のレベルから解決されると説いたように、造られたいのち(プシュケ)を超えた創造者のいのち(ゾーエー)とその霊的目をもって見るときに全被造物を死から解放しようとしておられる復活の主を見ることができる。
社会科学上、フォイエルバッハやマルクスに代表される「意識は生活によって規定される」という仮説がある。これに対してマックス・ウェーバーは信仰の形態による社会の構造の変化を解明した。意識こそ人間特有の能力であり、意識改革に伴う社会改革の可能性が説かれる。これはいわば、内側からの創造と変革である。この視点は霊の科学、つまり神学と交差する次元。かつて豊かであった北朝鮮が何故今日貧しく、かつて後進国であった韓国がなぜ先進国に発展したのか。
精神的指導者の一人、チョウヨンギ師は夢と幻が人生と社会を変えると説く。つまり、内側に宿られた聖霊なる神の無限の可能性と能力に依存するとき、人は変えられるという霊的根源的法則の発見がそこに見られるのである。

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科学としての神学の基礎The ground and grammer of theology

2010-07-19 15:51:33 | 本と雑誌

Theology_3

科学としての神学の基礎
価格:¥ 2,243(税込)
発売日:1990-01

http://www.amazon.com/Ground-Grammar-Theology-Consonance-Between/dp/0567043312

現代英国神学書の紹介

『科学としての神学の基礎』The Ground and Grammer of Theology by Thomas Forsyth Torrance Published by University of Virginia in 1980

著者は1913年中国成都生まれ.父は宣教師。

エディンバラ、オクスフォード、バーゼルの大学でカール・バルトのもとで神学を学ぶ。
1904年スコットランド教会の牧師、エディンバラ大学教授、1976-1977スコットランド教会総会議長,WCC信仰と職制委員会などでエキュメニカルな対話の貢献。

日本語訳された著書「カルヴィンの人間論」(泉田栄訳)「バルト初期神学の展開」(吉田信夫訳) 「空間・時間・復活」(小坂宣雄訳)

(紹介の動機・序言)

 和解の旅で向島を202年3月に訪問された元英国軍捕虜カーター氏からの手紙で、この地で召された仲間のためモニュメントを建てた日本人に対しての謝意とともに、広島長崎を破壊した原爆投下に謝罪したいとのことばを頂いた。

 原爆については、投下後米国内のキリスト教関係者も抗議したがトルーマン大統領は、「日本は予告なしにパールハーバーで我々を攻撃した。米人捕虜を殴打し、餓死させ、処刑した。日本の戦争遂行能力を完全に破壊するまで原爆を使用せざるを得なかった。」と答えたと言う。(「京浜地区の捕虜収容所・中間報告:笹本妙子著3ページ」)

 因島収容所捕虜であった英国人元捕虜ジョン・フレッチャ-・クック氏が「天皇のお客さん」-書かれざる戦史-日本捕虜収容所<江藤訳・徳間書店>のなかで以下のように述べている。「自己の体験に照らしてみても、前記の諸事件に照らしてみても、もし原爆が広島と長崎に投下されなかったら、おそらく捕虜は、誰一人として生きて日本から帰れなかったであろう。私はこれを二つの理由から言いたい。まず、この脅威的な原爆の投下が、日本人の心を覚醒させたこと、またとくにわれわれ捕虜の監視兵の心に、つねづね漠然と感じられていた不安がはっきりしたことである。…さらに重大な事がある。原爆の投下と、それがなお続くのではないかという恐怖、これこそ日本人をして降状条件を受け入れしむるに至った決定的要因であったのだ。長崎に第二弾の投下される前に、日本人がもはや広島の再現に耐えられぬことを、何故天皇は自ら口にしなかったのか?国土を荒廃させた爆弾であったが、爆弾は連合軍をして、日本への上陸を無抵抗裡にさせる結果となった。今仮に、連合軍が上陸にあたって抵抗を受け、戦闘を強いられたとしよう。日本人がわれわれ捕虜を“絶滅する”ことは論をまたない。ほかでもなく、神聖なる日本国土を汚す外敵を迎え撃つには、捕虜を養い、監視する暇などありえなかったからである。二個の原爆がその数万の犠牲者にもまして、より多くの人命を救った事はもはや疑う余地のない事実である。それは数万の捕虜の命はもちろん、数十万の連合軍将兵の命、おそらく数百万に及んだと思われる日本人の命を救ったのだーつまり、天皇とその内閣が戦争の続行を決定したなら間違いなく日本人全員、文字通り最後の一兵まで戦ったはずである。…」

カーター氏の和解と謝罪のおことばとクック氏の偽りのない心情と、この両面を日本人として私は謙虚に受け入れなければならない。

その意味では被爆者達、アジア諸国の2千万人とも言われる侵略戦争による犠牲者、また戦地でその多くは餓死したといわれる2百万人の日本軍戦死者、そして虐待と飢餓のなかで死んでいった連合軍の捕虜達の血の上に、今日の新しい日本の民主主義と平和とがもたらされたともいえるのだ。

2002年、日英同盟百周年のこの年、モニュメント建設の協力に関わることになって太平洋戦争とはなんだったのか改めて考えさせられた。

また、瀬戸内海宣教が約100年前「福音丸」とビッケル船長によって開始されて今日に至っているのだが、この伝道船はスコットランド・グラスゴーのアラン夫人の献金によって建造されたのであった。

人間の過ちと神の摂理の中で、歴史は終末と主の再臨に向かって動いているのだろう。

(アウトライン)

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仙太郎

2010-07-17 19:08:49 | 歴史
Sentaro, Japan's Sam Patch: Cook, Castaway, Christian
F. Calvin Parker
Iuniverse Inc
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主はあなたの中におられます

2010-07-16 18:04:28 | 福音
7月14日深夜、日本福音学校の責任者になられた東京信愛教会の鈴木牧師より、広島県下での開校のすすめのお電話をいただく。
1時間半にも及ぶお話になった。
自分としてはインターネットの可能性について語らせていただいた。日本一千万救霊の夢をもたれた韓国のチョー・ヨンギ師がテレビ伝道からも身を引かれ、一見夢は挫折したかに思われるが、今ではインターネットで毎週その説教が聴ける。
 チョー師の信仰は韓国だけのリバイバルではアジアの総福音化は困難で、全日本の10パーセントが救われることによって、日本が再臨前のイスラエルを含む全アジアの福音化の鍵を握るとのことであった。
 また、中国の地下教会は1億人に迫っているといわれる。優れたリーダーであり、殉教者であるウォッチマン・ニーの影響もあるといわれている。
この二人の著書を読むとき驚くべき一致があることが分かる。同時にルッター以来のプロテスタントの真髄が語られていることに気づかされる。ここでは3冊の著作を引用してその共通点を確認したい。
①エーリッヒ・ザウアー著「世界の救いの黎明」(聖書図書刊行会)59ページより

人格としての人間

 

救済史という観点からすれば、神と世界は人間とは、すべて存在するものの三つの本質的な実在である。これらを認識することが、われわれの理性の任務である。それゆえに三つの意識が人間に賦与されている。すなわち神意識と世界意識と自我意識とである。そしてこれらに相応して創造者は人間に、この三つの意識を可能にする器官を与えている。

 

〈世界〉を人は感覚によって認識する(触覚、臭覚、味覚、聴覚、視覚)。これらは肉体の器官(神経、鼻、舌、耳、目)によって行われる。肉体によってわれわれは〈世界〉意識、あるいは感性意識に達する。

 

〈自我〉をわれわれはたましいによって認識する。 なぜなら人間は外的自然のうちでただ知覚のある一員であるよりはるかにすぐれたものだからである。人間は意思と個性的な人格をもった自己である。これは彼自身の内的存在によって直接彼に啓示され、こうして人間はたましいによって〈自己〉意識、あるいは〈自我〉意識に達するのである。

 

それから人間がついには〈創造者〉のところまで昇れるようにと、神は霊を与えた。この霊によって人間は〈神〉意識に達する。

 このように人は単一の中の三位一体であって、彼の不可視的な内的存在は、はっきり区別される二つの実体から成立している。なぜなら神の言は「精神()と霊魂(たましい)とを切り離す」ほど鋭く透すことができるからである(へブル4・12)。そしておなじ使徒はさらに証言して「どうか平和の神ご自身が、あなたがを全くきよめてくださるように。また、あなた方の霊と〈心〉〈からだ〉とを完全に守って主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように」と言っている。(テサロニケⅠ5・23)。霊(spirit精神)と霊魂(soulたましい)とは、性質は一つである(〈二分法〉dichotomy

、しかし実体は異なる(〈三分法〉trichotomy(デリッチ)

それで「霊」はわれわれの人格の中で、より高い意識として神的なものおよび超感覚的なものに向けられている部分であり、一方、「霊魂」はわれわれの内的人間の比較的低い構成部分であり、地的なものおよび造られたものに関係をもつ。霊魂はただ自己意識にのみ達するだけであるが、霊は神意識に達する。

[]このことは特に「霊魂的プシュキコン」および「霊的プニュマティコン」という形容詞の使用の際に見られる。psychical〈霊魂的〉という新約聖書に6回出てくる、そして常に「霊的spiritual」に対して劣っている。コリントⅠ15・44(二回)、46。2・14.ユダ19。ヤコブ3・15natural、改訳ではsensual)。

霊魂はただ自己意識に達するだけであり、それさえも霊の助けよってのみである。しかし霊は神意識に達する。

霊魂は霊と肉体とを結ぶものである。霊魂の媒介によってのみ霊は肉体に働くことができる。なぜなら、霊は霊魂にとっては、「内からおよび上から織り込まれている実体」であり、肉体の方は「外からおよび下から霊魂に織り込まれている実休」であるからである。それゆえに霊魂はこれら両者の間をむすびつけるものである。霊魂がその物質的な構造としての肉体に内臓されているように、霊魂は霊に対しては、いわばその「肉体」である(テルトリアヌスを参照)

 

聖書にしたがえば、肉体は

聖霊の宮(コリントⅠ 6・19)

神への生きたる供え物(ローマ12・1)

義の武器(ローマ6・13)

神の栄光をあらわす道(コリントⅠ6・20)

栄光ある霊のからだのための種粒(コリントⅠ15・43-47)であるはずである。

贖われなくては、肉体は

敵の侵入する門〔創世3・6、マタイ5、28-30)

罪のからだ(ローマ6・6)

卑しいからだ(ピリピ3・21)、

こわれつつある地上の墓屋(コリントⅡ5・4)

サタンに滅ぼさるべき復活のからだの種粒(ダニエル12・2、ヨハネ5・29)である。

 

モーセの幕屋は人間の人格のこの三一性の一つの比喩である。「同じ形態においてキリスト信者は模写されている。その霊は光のない暗い闇の中の信仰におけるsanctum sanctorumであり、至聖所であり、神の住居である。なぜなら彼は見もせず、感じもせず、つかみもしないものを信じるからである。霊魂はsanctumである、聖所である。ここに七つの燭台がある、すべての種類の悟性、見えるものの判別、知識および認識である。その体は前庭atriumである。これはだれにも現われており、彼が何をなすか、どう生きるかを、見ることができる」(ルター)

このように人間の性質の中では次のものが対応している。

世界意識、自我意識、神の意識

肉体、霊魂、霊、

前庭、聖所、至聖所。

神は至聖所から、霊から、霊魂と肉体を支配する。そこで神の不変の律法は、良心のなかに、いわば契約の箱の中におかれたように保蔵されている。神が幕屋の中でケルビムの上に住みたもうたように、ここが至上者がわれわれのうちに実際に現われる場所である。そしてその当時、栄光の雲shekinahが恵みの御座のうえにただよったように、われわれの霊の中に神の霊が住むことは、われわれが再生した信者に平和と歓喜との意識をもたらす(ローマ8・16)。なぜならわれわれの内なる神の御座は審判の法廷ではなく、恩恵の御座であり、その主権の王権こそ救いであるからである。こうして今やわれわれは、あの幕屋と同じように、神の移動テントとしてこの世の荒野のなかを歩み、ついに永遠に、天のカナンに達することを許されるのである〔コリントⅡ:5・14を参照〕。

このような使命をもった人間として今、われわれはなぜ、被造物の冠としての人間の創造の記事になって初めて、神の言が歓喜の歌になったかを理解できる。ヘブルの詩形は思想の韻を踏んでおり、章句と節との並行であって音韻の並行ではない、それであるから聖書は、三位一体の神のこの驚くべき業績である三一性の人間の創造を、三重のリズム、三重の「神は創造された」で讃美している。

神は自分のかたちに人を創造された。

すなわち神のかたちに創造し、

男と女とに創造された(創世1・27)

 

②パウロ・チョー・ヨンギ著「第四次元」(信仰と世界社)286p

「兄弟たち、姉妹たちよ。」わたしは、声を大にして兄弟姉妹に訴えました。「金銀はわたしにありません。・・・・しかしわたしのもっているものを、あなたがたにあげましょう。・・・・イエスを信じ、うけいれない。そうすれば、万物を御手のうちに収めておらる天地の造り主、あらゆる資源を有しておられる全能の神が、あなたの心の中に住んでくださるのです。神はあなたの必要としているものを、ことごとく満たしてくださるでしょう。」

③ウォチマンマンニー「キリスト者の標準」(いのちのことば社)152p-
「ああ、わが友よ、わたしは何百回でも私の内にいます神の御霊は人格を持つお方である!といいましょう。」


 

キリスト者の標準 (1961年)
ウオッチマン・ニー
いのちのことば社

 

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主の再臨へのカウントダウン

2010-07-16 18:01:55 | インスピレーション
異常気候が続き、昨夜も尾道は断続的な大雨だった。

水曜日祈祷会の前に、新任のクップ先生ご夫妻と短い会話をかわした。

向島教会先輩で埼玉在住の安松兄より、頂いたDVD「日本古代史とイスラエル」を見て頂いたが驚いたことに、みのもんたさんが司会の録画場番組の中の失われた10部族のミャンマー人とはクップ先生の属するチン族に属しているとのお話であった。

主の再臨の直前にイスラエルが復興するという預言があるが、現在調査は日本にも及び、古代イスラエル人の日本への渡来の可能性について調査されているという。

主の再臨に備えて、全民族への宣教が期待される。
アジアの東端イスラエルの福音化が最終的な宣教であろう。

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借金と罪

2010-07-13 12:28:34 | 政治と信仰

日本は世界一の債務(借金)を抱えている。
聖書では、目に見える問題の背後に、根源的な問題が
隠されていることを教えている。
借金を負うという苦しみは、罪を負うことに類似している。
借金ゆえにサラ金業者に追われるように、罪を持つと
、日々、訴えているサタンに追い回される結果を招く。

自分の罪を自分で償うには、罪が大きすぎる。
神の目から見ると、人を憎むことは殺人罪である。
十戒では、殺人罪は石打の刑によって償われなければ
ならない。
ところが、神のみ子が極刑である十字架上で、すべての
罪を負ってくださった。
だから、主をお頼りするなら、罪が許され取り除かれる。
それだけではなく、心に聖霊という永遠の資産をいただく
のだ。これが根源的な解決であり、祝福である。
日本のリーダーたちが、そして全国民がこの恵みにあづ
かり、罪の清算をしていただき、永遠の富をもち、その中
から債務を清算する知恵を生み出し、国が祝福されるよう
に祈ります。

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霊的新約的祝福と地上的旧約的祝福

2010-07-12 14:08:37 | 日記・エッセイ・コラム

Newrinzai

旧約時代の祝福の特徴は、創造主との関係が、間接的であること、すなわち、被造霊である天使を仲介しての祝福であり、新約は創造主自らが人となり、直接、世に触れ、十字架の贖いと復活を通して、人の霊に住まわれる永遠の祝福(救い)である。

天使は不死であり、目に見える被造世界の創造を援助した。しかし、人の霊(至聖所)に触れることは許されなかった。肉体と環境に介入することはできても、霊の中に住むことは許されない。

霊的被造物として霊である創造主に近い次元とレベルに存在しているが、被造物ゆえに創造主とは清さにおいても本質的にも雲泥のへだたりがある。イザヤ6章で、天使セラフィムでさえ、あまりに清い創造者の前では翼で目を覆ったとある。

主イエスが十字架で贖いを成し遂げられた瞬間に、聖所と至聖所を隔てた垂れ幕が真っ二つに裂けたのは、創造主が被造物の中に、被造物である人間が創造主の中に相互内住される道が開かれたことを約束している。有限の中に永遠が入り、被造物のいのちの中に神のいのちが吹きこまれることを意味する。土の器の中に永遠の宝を持つ者にされるのである。

それゆえに内住の御霊と共に祈る祈りは永遠のいのちの呼吸であり、御霊によって書かれた聖書を御霊に依存しつつ読むことは、与えられた永遠の霊のいのちを豊かに養うことであり、生活を御霊と共に過ごすことは、神のお働きを解放することである。

主イエスは創造主なる神を父と呼ばれた。これは御霊によって創造主の遺伝子といのちが己のうちに生きておられることを言い表している。それゆえに「父が私のうちで働いておられる」と証言された。私達が復活の主にまみえるとき、私達も御霊によって至聖所に引き上げられているのである。たとえ肉眼で主を見なくても、聖霊によって触れられよみがえった私達の霊が「父よ、御子よ」と永遠のレベルでの交わりをされる。

これは天使の次元よりもはるかに高く、実に創造主のファミリーの一員の身分である。目がくらむような恵みであり、アメイジング・グレイスである。

 

 

 

 

 

 

 

 

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仙太郎コレクション

2010-07-10 21:14:47 | 黒船絵巻
黒船絵巻(Black Ship Scroll)
に通詞マトウという人物が描かれている。
「sentaro」の著者カルヴィン・パーカー氏は仙太郎本人ではないかと推測し、その他にジャック・カヌー(カマタ・ノージュ)あるいは岩吉の可能性も示唆している。
春名徹(アキラ)氏は「音吉」と推測した。
私は容貌から、仙太郎よりも沖縄、那覇港でベッテルハイムの尋問を受けて、ペリーから乗船をゆるされたカマタ・ノージュKamata Nojuという人物の可能性が高いと思う。
英語の発音、Kという有気音は日本人は聞き逃すことが多い、また英語の母音の発音は複雑で聞き取りにい、黒船絵巻を描いた日本人絵師が「カマタ」を「マトウ」と聞いたのではなかろうか。
ちなみに、もう一人名前が特定されたのは望遠鏡を覗いているゴーブルであるが、彼は「ゲベル」と書かれている。
キャサリン・プルンナーKatherine Plummerは「将軍の不本意な使節・海の漂流者たちThe Shogun's Reluctant Ambassadors:Sea Dorifters」(Lotus Press Ltd.)252ページで、ペリー艦隊のエドワード・ヨーク・マコーリーEdward Yorke McCauleyによる、1854年2月28日の日記を引用している。

”I do not know if I have mentioned it and it is too much trouble to look & see but the Commodore when he came on board brought a Lee Chooan [Okinawan],who took refuge on board the Susquehanna,at Napa Kiang [Naha],from some threate ned punishment,and one of the Japanese sailors who were rescured from a Junk,and who refused to trust himself to the tender meecies of his countrymen, but has been regularly shipped in the service, wears Govermment
slops and lets his hair grow all over his head like a christian. The first has been christened John Canoe, and
the latter, Sam Patch."


カヌーで漕ぎ着いたことからカヌーと呼ばれたが、christenedという意味が文字通り洗礼名ジョンなのか、単にあだ名がジョンなのか私にはわからない。
もし、前者だとすればカマタ・ノージュは仙太郎以前にベッテルハイムによってバプテスマを受けた日本人ということになる。
しかし現段階では、この人物の事は謎である。その正確な漢字名も分からない。
黒船絵巻は私達にどんな真実を語りかけているのだろうか。



 
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大いなる主の愛1

2010-07-06 20:46:30 | ゴスペル

no greater love
復活とは?。死を克服することが可能でしょうか。
パウロとともに、復活こそが聖書の根本であることを確信します。
全世界の22億人にも及ぶキリスト教徒がどうして主の復活を信じ
られるのでしょう。
理由はいくつもありますが、第一に主は生きておられて日々、我々
の祈りに答えてくださっていることです。
 偉大といわれる宗教家は歴史の中に、多数存在し、その教えも
信奉されています。
しかし、復活して生きておられ、祈りにこたえられるのは、主イエス
のほかに存在しません。
 第二の理由は、死という現象は死の霊という根本原因から生じた
ものですから、闇の霊に勝利する創造霊が働かれると、死が復活に
飲み込まれることが理論的にも証明されるからです。
主イエスは問題を表面的に処理されたのでなく、問題の根源をとりあつ
かわれました。ガリラヤ湖の嵐に悩む船の改修をする以前に、嵐その
ものを静められました。
死という現象の根源に、死をもたらす諸霊(堕落した天使)の支配が
あります。
旧約時代、なぜ死を克服できなかったのか、それは天使レベル以上の
力がなかったからです。
宗教は確かに霊の問題を取り扱いますが、すべて垂れ幕のこちらがわ
の次元です。永遠なる創造主は至聖所におられるのですから、そこ
に入れない旧約および諸宗教には永遠はないのです。
復活のいのちは、まだ実現されておりません。
 人の側からいえば、創造主なる聖霊は、人の霊に内住されていない
のです。唯一、罪のない御子イエスのみが、その内側に御霊を迎え
真の人間性を回復されました。
 御霊は創造霊である故に、死の力をもつ被造霊(サタン)の力を凌駕し
復活の体を再創造されます。
 私達は本来、御霊を住まわせるほど清くはなく、その資格も無いもので
すが、十字架で流された血潮のゆえに、そのおかげのゆえに罪を清められ
て御霊を己の霊のうちにお迎えする光栄にあずかるのです。
 そして、根源的な自己に目覚めるのです。
祈りとはこの永遠的いのちの呼吸なのですが、そのなかで霊の目をもって
根源的世界の諸相を見るのです。
 このいのちを知らない、サドカイ人たちは表層の世界だけに生きたゆえに
「天使や霊や復活」という次元には目が閉ざされました。
 本当の意味で祈りの世界を全く体験しませんでした。
だから奇跡の頂点にある復活を否定し、復活を説く使徒たちを嘲笑い、憤慨
しました。
 他方、もっとも宗教的であったパリサイ人たちは、諸霊の存在を認め、復活
を観念的に認めましたが、御霊を持たず、復活のいのちを知らず、創造霊
と被造霊の区別もできませんでした。
 彼らはかつてのパウロのように多くの宗教同様に結局被造物の世界を超える
ことはできませんでした。
 偉大な神の愛は、ご自身を私達に与えることによって、朽ち行く被造物の限界
を超えさせること、被造霊に勝利させる永遠のいのちの中を歩ませることです。
 そのことが過去において主の復活に現わされ、将来において私達の体の復活
(霊はすでによみがえっているのですから)となって現われます。
 創造主から離れることによって、滅びの霊にとらわれていた被造物は、もう一度
創造主に立ち返り、結ばれ、その中に生きることによって永遠を回復するのです。

第三の理由は歴史にみられます。
いかなる権力者や文明の暦も消滅しましたが、世界で唯一、主の年は続いてゆき
ます。歴史はまさにHis Story、主の物語であり、主人公は主であります。
日曜日が祝日なのは、この日、主が復活されて2度に渡ってご自身を弟子たちに
現わされたことを記念しております。
モーセの蛇がエジプトの霊能者たちの蛇を飲み込みました。
2000年の歴史の中でキリスト教が諸宗教を飲み込みつつあるのは、創造霊こそが
人を死から解放し、絶対的勝利と復活のいのちを与えるからです。
 主との交わりを喜び、根源的な生活を大切にしましょう。そこに不可能が可能に
なる世界が開かれます。


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捕虜・日米の対話サイト

2010-07-06 11:45:17 | 捕虜レクイエム
捕虜・日米の対話
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創造主とセルフイメージの世界

2010-07-05 11:37:57 | 日記・エッセイ・コラム

創造

「ヨハネ福音書の謎」(平野耕一著:プリスム社)

共観福音書と呼ばれるマタイ、マルコ、ルカとは際立った違いをみせる

ヨハネ福音書については膨大な研究と神学的歴史的解釈がなされている。

平野師はその著書において、幕屋にそった主イエスの生涯を描いているのだと

述べる。ヨハネが弟子の誰よりも長く主の生涯を、霊の目で回想し、そして

聖霊によって導かれつつ書き残したのだと述べている。

それはくすしくも、祭司が神との交わりを求めて、幕屋(神殿)に入り大庭で

小羊の捧げものによる、贖いを受け、菁銅の洗盤の水で清められ、聖所に進み

供えのパンを食し、黄金の燭台の光の中で香の壇で祈りをささげる道程と同じ

順番に主の歩みが描かれているというのである。

確かに、1:36「見よ、神の小羊」、4章は「永遠の水」について、6章は「いのちのパン」

9章は盲人の開眼の軌跡と「世の光」に言及される。

そして主の体が裂かれると同時に神殿の垂れ幕が裂け(共観福音書)、至聖所への

道が開かれた。

使徒行伝7章には、青年ステパノがその若い生涯すべてをかけて語った唯一の説教

が残されている。その中で彼は「このモーセを、神は柴の中で彼に現われた御使いの

手によって、支配者または解放者としてお遣わしになった。」(35節)

「あなたがたは御使いによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありま

せん。」(55節)と語り、栄光の主を仰ぎつつ天に召された。

 これは旧約時代が垂れ幕の外側、天使の下位にあったことを示している。

天使といえども被造物である。

創造主が人となられ、罪の呪いを自ら負われたことによって、創造主なる聖霊が私たちの

霊に注がれたのである。

主イエスの生涯を通して、創造主と人間は一つに結ばれるのである。

聖霊が私達と共に「父なる神様」「御子なるイエス様」と永遠のまじわりに招いてくださる。

人間に生まれ、人間の性質と能力がなければ本当の意味で人間を理解できない。

犬が人を理解しようとしても、それは犬の遺伝子の範囲内でしかできないように、

私達が神を知ろうとしても、人間の想像の中で想定された範囲でしかとらえられない。

多くの神々は実際は天使たちであることが聖書で明らかにされている。

2010年前にこの世に来られた真の神、真の人(幕屋:ヨハネ1の14)が創造主を現わ

され、聖霊によってその永遠の交わりといのちを与えてくださる。

(幕屋講義ベニ・ヒン)

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セルイメージと幕屋tabernacle

2010-07-03 21:04:01 | 創世
人間の霊的構造は創造主によって設計されている。

それは庭と聖所と至聖所の3レベルから構成された

幕屋tabernacleに明らかだ。

人が被造物の頭であるのは、己の至聖所である「霊」

に創造主である神の霊を迎えることにある。

それは創造主が人となられ、罪を贖われ、信仰によっ

て聖霊を住まわせることによって実現される。

聖霊なる神は、人の心が砕かれるときに、至聖所から

聖所へと歩み出てくださり、思いを変え、さらに庭である

体の一部である舌に触れて奇跡やいやしの言葉を与えられる。

また、その生活を明け渡すときに、環境も祝福される。

永遠者が有限な者の中で生きてくださる時、その者は

無限の輝きといのちを生きる。





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