【箴言3章1ー20】
現代の日本社会においても政治においても今、一番求められているのは「信頼回復」と言われます。
朝日新聞の記事で星野智幸さんという作家が次のように述べていました。
「日本社会がカルト化してゆく傾向を変えるためには、強権的な政権への批判だけでは不十分で、一人ひとりが自分の中にある依存性を見つめる必要がある。・・・私が期待した、個々人が自分は何に依存しているのかを探るという作業は、あまり進まなかった。その実例がほかならぬ自分自身だった」と。
カルトとか依存症という意味は、真に頼るべき創造主でなく、被造物を絶対化してそれに頼ってしまう傾向であると言えます。私自身について言えば、しばしば、「自分の悟り」(3章5)に依存することです。
結果は、聖霊様を忘れて独善に走り、他者を傷つけたり、自己嫌悪に陥るのです。
ですから4章23節に「力の限り、見張って心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く」とあります。
心を尽くして主に信頼し崇める時に、御霊が私たちに自分の悟りや理解力をはるかに超えた神の知恵を与えてくださるのです。ペテロも自分に自信を持った時、主を裏切り、自己を嘆きました。
しかし、主の十字架の血潮によって罪を赦され、御霊を宿して、そのお方に第一にした時、本当に信頼に足る者に変えられました。
パリサイ人パウロも自分の宗教的悟りによっては、主の愛を理解できませんでした。それどころか闇の霊が内側で激しく反発しました。復活の主が彼の霊の目を開かれた時に、人の知恵によってでなく聖霊の知恵によって生きる神の子に変えられました。
箴言8章には知恵の呼びかけがあり、「知恵は真珠にまさり、どんな喜びも、これにくらべられない」(11節)とあり、24節「深淵もまだなく、水のみなぎる源もなかったとき私は既に生まれていた。」20節「わたしはかみのかたわらで、これを組み立てる者であった。」と続きます。
「キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また義と聖めと贖いとなられました。」(Ⅰコリント・1章30)とありますように、知恵の根源は主ご自身なのです。
知恵は現在進行形で進められている神の創造と救いの力でもあります。
人間の自然的脳力を超えた創造主の霊的知恵です。それは、全ての人が救われて真理を知るようにという神の永遠の思いでもあります。
神の願望は御子の贖いと御霊の私たちへの内住によって明らかにされます。
「神の御心のことは、神の御霊のほかには誰も知りません」(Ⅰコリント2・11)
主が私たちの心の中でいのちの泉となって湧き上がり、川となって流れ出てくださるのです。
ですから自我に頼るのでなく、信頼の的を主に向けるようにしましょう。
モーツアルトは時間を空間のように把握したそうです。時間的に流れるメロディを一枚の絵として鮮やかに思い描いたと言われます。この世界の次元を超えた霊的次元に立てば預言者のように時間を超えた知恵が与えられるのでしょう。
聖霊は時間と空間を創造された神であり、私たちの内にあって常に新たな創造をされておられます。
地上での天使的間接的創造だけでなく、直接的永遠的救いの新しい創造の業をなさっておられます。
御子の贖いによって至聖所の神のいのちと交わりへと引き上げてくださり、創造の完成へと働いておられます。
「神にも人にも喜ばれ、物事を正しく判断できるようになりたければ、 徹底的に神様に頼ることです。
絶対に自分を頼ってはいけません。何をするにも神様を第一にしなさい。 神様がどうすればよいか教えてくださり、 それを成功させてくださいます。」(箴言3・4-6, リビングバイブル)