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http://www.youtube.com/watch?v=gXOjYiwYKiw&feature=youtu.be
http://www.youtube.com/watch?v=z8Q_5OEipTc&feature=youtu.be
AT HOME WITH GOD
At home with God, no thought of loneliness,
No look behind, no touch of restlessness
lf God has built this house, and He is here,
No other place on earth could be so dear
At home with God, wherever we may be,
A foreign land across a distant sea,
A strange new world about, a people odd,
Yet Somehow even this is home with God
At home they say that everything is changed,
Old friends are gone, and some become estranged.
And in so short a time-a wink, a nod,
Someone we left at home is home... with God
No home for Him, no place in Bethlehem,
No shelter there, no cover over them,
A strange new world about, a stable odd,
Yet here the homeless find their home .. ln God
At home with God, no thought of loneliness,
No look behind, no touch of restlessness
lf God has built this house, and He is here,
No other place on earth could be so dear
[Poem by Noah S. Brannen, written
at Mukaishima, 1953]
旧約時代の祝福の特徴は、創造主との関係が、間接的であること、すなわち、被造霊である天使を仲介しての祝福であり、新約は創造主自らが人となり、直接、世に触れ、十字架の贖いと復活を通して、人の霊に住まわれる永遠の祝福(救い)である。
天使は不死であり、目に見える被造世界の創造を援助した。しかし、人の霊(至聖所)に触れることは許されなかった。肉体と環境に介入することはできても、霊の中に住むことは許されない。
霊的被造物として霊である創造主に近い次元とレベルに存在しているが、被造物ゆえに創造主とは清さにおいても本質的にも雲泥のへだたりがある。イザヤ6章で、天使セラフィムでさえ、あまりに清い創造者の前では翼で目を覆ったとある。
主イエスが十字架で贖いを成し遂げられた瞬間に、聖所と至聖所を隔てた垂れ幕が真っ二つに裂けたのは、創造主が被造物の中に、被造物である人間が創造主の中に相互内住される道が開かれたことを約束している。有限の中に永遠が入り、被造物のいのちの中に神のいのちが吹きこまれることを意味する。土の器の中に永遠の宝を持つ者にされるのである。
それゆえに内住の御霊と共に祈る祈りは永遠のいのちの呼吸であり、御霊によって書かれた聖書を御霊に依存しつつ読むことは、与えられた永遠の霊のいのちを豊かに養うことであり、生活を御霊と共に過ごすことは、神のお働きを解放することである。
主イエスは創造主なる神を父と呼ばれた。これは御霊によって創造主の遺伝子といのちが己のうちに生きておられることを言い表している。それゆえに「父が私のうちで働いておられる」と証言された。私達が復活の主にまみえるとき、私達も御霊によって至聖所に引き上げられているのである。たとえ肉眼で主を見なくても、聖霊によって触れられよみがえった私達の霊が「父よ、御子よ」と永遠のレベルでの交わりをされる。
これは天使の次元よりもはるかに高く、実に創造主のファミリーの一員の身分である。目がくらむような恵みであり、アメイジング・グレイスである。
「ヨハネ福音書の謎」(平野耕一著:プリスム社)
共観福音書と呼ばれるマタイ、マルコ、ルカとは際立った違いをみせる
ヨハネ福音書については膨大な研究と神学的歴史的解釈がなされている。
平野師はその著書において、幕屋にそった主イエスの生涯を描いているのだと
述べる。ヨハネが弟子の誰よりも長く主の生涯を、霊の目で回想し、そして
聖霊によって導かれつつ書き残したのだと述べている。
それはくすしくも、祭司が神との交わりを求めて、幕屋(神殿)に入り大庭で
小羊の捧げものによる、贖いを受け、菁銅の洗盤の水で清められ、聖所に進み
供えのパンを食し、黄金の燭台の光の中で香の壇で祈りをささげる道程と同じ
順番に主の歩みが描かれているというのである。
確かに、1:36「見よ、神の小羊」、4章は「永遠の水」について、6章は「いのちのパン」
9章は盲人の開眼の軌跡と「世の光」に言及される。
そして主の体が裂かれると同時に神殿の垂れ幕が裂け(共観福音書)、至聖所への
道が開かれた。
使徒行伝7章には、青年ステパノがその若い生涯すべてをかけて語った唯一の説教
が残されている。その中で彼は「このモーセを、神は柴の中で彼に現われた御使いの
手によって、支配者または解放者としてお遣わしになった。」(35節)
「あなたがたは御使いによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありま
せん。」(55節)と語り、栄光の主を仰ぎつつ天に召された。
これは旧約時代が垂れ幕の外側、天使の下位にあったことを示している。
天使といえども被造物である。
創造主が人となられ、罪の呪いを自ら負われたことによって、創造主なる聖霊が私たちの
霊に注がれたのである。
主イエスの生涯を通して、創造主と人間は一つに結ばれるのである。
聖霊が私達と共に「父なる神様」「御子なるイエス様」と永遠のまじわりに招いてくださる。
人間に生まれ、人間の性質と能力がなければ本当の意味で人間を理解できない。
犬が人を理解しようとしても、それは犬の遺伝子の範囲内でしかできないように、
私達が神を知ろうとしても、人間の想像の中で想定された範囲でしかとらえられない。
多くの神々は実際は天使たちであることが聖書で明らかにされている。
2010年前にこの世に来られた真の神、真の人(幕屋:ヨハネ1の14)が創造主を現わ
され、聖霊によってその永遠の交わりといのちを与えてくださる。
戸川残花 (安宅) | 詩人・牧師 江戸牛込 安政2年(1855)~大正13年(1924) |
とがわ ざんか(やすいえ) | |
安政2年(1855年)江戸牛込原町に生まれる。 異母兄安道の後を継いで、維新の際14歳で旗本戸川家備中早島食録5000石を相続。 明治7年家禄奉還の制により、以来、大学南校、慶応義塾、築地学校などに学ぶ。19歳の時にタムソン宣教師の築地新栄教会に通い、明治7年(1874)、キリスト教の洗礼を受け、16年(1883)からは伝道師として関西方面で布教。帰京後、麹町教会の牧師となる。23年(1890)「伝道師」,「童蒙賛美歌」(共編)、「新撰賛美歌のてびき」(18925)などを刊行。26年(1892)「文学界」の創刊時、客員として詩文を発表。中でも「桂川」は北村透谷から激賞される。同年毎日新聞社に入社し、小説の筆もとった。新人時代の田山花袋、島崎藤村の面倒をみたり、樋口一葉に縁談をすすめたエピソードがある。 残花の受洗は「幕末小史」(人物往来社)巻末の年譜によれば、1874年(明治7年)12月タムソン師によるとあり、新栄教会所属とある。 しかしご子孫の中村氏によれば、カロザース師によってバプテスマを受けたと伝えられているとのこと。 いづれが正しいのかどなたかに教えていただきたい。 ところで両宣教師は日本プロテスタント初期宣教において二つの潮流を代表していたことが「二つの福音は波濤を超えて」(棚村重行著・2009年教文館)で解明されている。 タムソンは米国「新カルヴァン主義者」の組織神学者E・A・パークに近く、 カロザースは長老派のC・ホッジの神学「旧カルヴァン主義」の影響下にあった。 前者はアルミニウス主義をも受容する調停神学であり、「一致(エキュメニズム)」「福音同盟」と「日本基督公会」運動を展開して、バラ宣教師よって継承された。 後者は、古典的カルヴァン主義に立ち、前者をを神学的折衷主義と批判し、合同主義に反対した。 フルベッキも後者に近い立場だった。 棚村氏は和(合同)を重視する日本人キリスト者の性格と、真理を重視するゆえか分派をも厭わない韓国教会の特質に言及している。 愛と一致は妥協とは違う。 大学南校(東大の前身)、慶応義塾、築地学校(日本基督教会創立者バラの創立)に学んだ戸川残花は20歳でバプテスマで受けた。 その後、西宮、岸和田、津、京都などの関西地方に伝道し、帰京して麹町教会牧師となり讃美歌や信仰書の翻訳に従事した。 壮年になって「文学界」その他に精力的に詩文を寄稿した。 残花の新体詩は「宗教的思想の濃厚な点において、当時残花の上に出づる者はない。しかも宗教思想をただ概念的に吐露したのではなく、彼の場合は繊細な詩人らしい感覚で万象を感じ、豊富な想像を駆使して人心の秘奥を窺うという詩人本来の素質がいつも根底になっている」と評された。 明治31年、勝海舟などと協力して、元幕臣として「旧幕府」を編集発行した。 明治34年、成瀬仁蔵を助け、渋沢栄一、大隈重信らとともに日本女子大学の創立に参画して国文、国史を教えた。また慶応義塾大学に招かれ、江戸趣味に関する課外講義もした。 大正に入り「禅」を学び、「宗鑑」と号し、悠々自適の生活を送った。 晩年、「何事も運命、神の御心、前世の因縁、朝の花は夕に散る、波阿弥陀仏、アーメン、喝」という言葉を愛用し、大正13年12月8日、大阪天王寺の長男浜雄宅で没した。 残花の生涯を見るかぎり、カロザースよりもタムソンに近く、プロテスタント内の合同をも超えて仏教とも対話と一致を試みたといえよう。 しかし、フルベッキが危惧したように合同教会が神学的な曖昧さを残した故に挫折したのと同じように、残花の「和の精神」は妥協の道と紙一重のものとならざるをえなかった。 バルトが幼児洗礼を批判しゴーブル宣教師が浸礼にこだわったのは、聖霊による信仰告白を重視したからであった。思想の背後には霊がある。霊的4次元的なレベルから歴史と自己を見つめる必要がある。 被造物としての人間の知能と生命(プシュケ)だけによるのではなく、創造主を心に迎え、その永遠のいのち(ゾーエー)を生きること、創造主の内部、至聖所に生きること、これこそ神が与えてくださった驚くべき恵みである。そこに「普遍の和」があり、「一致」がある。 我々を惑わそうとする闇の霊にう打ち勝つため、内におられる聖霊なる神の知恵と導きを日々求め、このお方に依存しなければならない。 そこに、二つの相対する潮流を超える真の一致が見出されると思う。 |
ワイコフ、マーティン・ニーヴィアス Wycoff, Martin Nevius (1850.4.10- 1911.1.27)
アメリカのニュージャージー州ミドルブッシュ生まれ。
1872年ラトガース大学卒、7月24来日。グリフィスの後継者として
直ちに福井藩明新館の教授として就任2年間教える。
74年月新潟外語学校へ転任、ここでも2年間教え。76年東京大学予備門に転任、
任期満了に伴い翌年帰国。
81年横浜先志学校長就任のため来日。83年同校はJ.C バラの築地大学校と合併して
東京一致英和学校となり、さらに明治学院となるが、その教育に専念、物理化学、英文学
、英語学などを担当した。
福祉事業にも尽力、目黒の慰廃園、東村山のライ病院へも慰問伝道をした。
基督教書類会社、基督教教育会の理事、会計もつとめる。
東京に病没。墓は白金瑞聖寺にある。
著書『フルベッキ小伝』
戸川残花の教友でもあった。
(キリスト教人名辞典・基督教団出版・参照)
①Rev.Guido Fridolin Verbeck,D.D by Wyckoff 「wyckoff.pdf」をダウンロード
②日本語訳
Rev.Guido.Fridolin Verbeck,D.D.
M..N ワイコフ教授
BY PROF.M.N.WYCKOFF,SC.D.
親愛なる友のみなさん、このたびフルベッキ博士についてお話しすることを光栄に存じます。
彼を知っていた人々の思い出を呼び起こし、そして恐らく彼についてただ知り合いの人々の
興味にいくらか加えたいと思います。
長い間、わたし達ミッションの誇りであり先輩であった友のこと適切に語るには私自身の足りなさを覚える者です。
わたしより長く彼を知っている他の方々がいますが、それぞれにおまかせするとして、日本で半世紀近くいたわけでもない者ですが、今日、彼について語るのもふさわしいことかもしれません。
わたしは37年前にフルベッキ博士に会いました、それはわたしが日本に来て最初の数日であり彼の家のゲストとしてでありました。
彼は既に名を成しており、この国で最も影響力のある外人でありましたがその振る舞いには
そのようなことを自覚しているようなものはなにもありませんでした。
あの時から、残る25年間の中で与えられた、親交と交流の親密さによって、その友情が養われ、強められたことは喜びでした。
ギド-・フリドリン・フルベッキは1830年1月23日オランダのユトレヒト地方のザイストに生まれました。
彼の父は、ギド-の誕生の頃とその後何年もザイストの町長でした。
彼ははじめ町のモラヴィアンアカデミーで教育を受け、後にユトレヒトの工業専門学校での私的な学びをされました。
その誕生の地とフルベッキ博士の早期の生活は、主がその奉仕に用いるためための人々に、いかに準備をあたえるかということの詳細で明瞭なお手本になりました。
彼の両親はルーテル派でありましが、彼らはある理由でモラヴィアン教会に出席し、その子供をモラヴィアンの学校に送りました。
それは疑いなく宣教への召しを聞くために備えられていたことと関連していて、その召しの声はアメリカにおいて、オランダ生まれだということでやってきたのです。
わたしはしばしば、彼が昔のモラヴィアンスクールにいたときのこと、そして他の人に述べていたようにその影響について語るのを聞きました。
「真の宣教精神とは何であるかを、私は若いときに吸収しそして生涯持ち続けた。わたしは宣教師の会合で宣教報告を聞いたとき受けた深い印象を生き生きと思い起こすことができる、特に中国の使徒、ギュツラフ(Gutzlaff)からのものを。」と。
モラヴィアンスクールで受けた教育もまた、彼がやがて日本でしなけらばならない困難で多様な仕事を遂行するための適応力と能力を与える上で最善のものでありました。
その教育で大変重要な分野はドイツ語、フランス語、英語、そしてオランダ語の学びであり、それぞれの言語はその国の母国語を話す人々によって教えられていました。
このようにして少年ギドーはそれらの原語をほぼ同等に話し、書くことができるようになったのです。日本における最初の15年間の生活において、フルベッキ博士の働きの多くはこの4ヶ国語の知識に依存し、そのすべてが時として、直接彼の仕事に結びついていました。
彼の母国語(4母国語というべきであるがあえて一つの言葉というならば)オランダ語は欠かすことのできないものであり、初期、長崎の時代、オランダ語を知っている知識人やオランダ語で医療教育を受けた当時最も進歩的であった医師たちとの交際に役立ったのです。
日本政府における後期の公務では、彼の普通の働きの大部分は重要なドイツ語、フランス語、英語の本を日本語に翻訳することであり、このために、少年の時の語学訓練が必要不可欠な教育であったのです。
彼が誕生した年、1830年はヨーロッパで最初の鉄道建設で沸き、機械技術における新時代の始まりということで注目されました。
数年後、少年ギドーにとって、将来の職を決めなければならない時がきたとき、家族会が開かれ、エンジニアとなるよう訓練を受けるべきであると全員が一致しました。
学びを終えて後、間もない1852年、彼はアメリカに渡り、3年間ウィスコン州のグリーンベイで、1年間アーカンサスでその職に着きました。
けでども彼は満足できず、福音を語るという召しを感じ、1856年ニューヨークのアーバンの
神学校に入学し、1859年その学校を卒業しました。
まさにその時、わたし達の教会の外国宣教ボードが日本での宣教を計画し、要請されました。
なぜなら、オランダと日本との長い交流がわれわれダッチリフォームド(オランダ改革派)の宣教師にとって、特別な機会を開くであろうと考えられたからです。
S・R ブラウン博士は既に志願しており、受け入れられていました、宣教師のうち一人はオランダ生まれでオランダ語に堪能なものであることが重要ではないかと考えられました。
その時、われわれ自身の神学校にはそれに適する人物がいなかったので、他のところに照会
がなされ、アーバンの卒業クラスにフルベッキ氏が見出されたのであります。
彼は即座に、日本へのわが教会の宣教師になる招聘を受け入れました。
彼はカユガのプレスビテリアンによって卒業按手をうけ、翌日カユガの同期生に移されました。
「一晩でプレスビテリアン牧師」としてし知られるようになった訳です。
1859年4月、フィラデルフィアのマリアマニオン嬢と結婚し、5月7日、ニューヨークを出航
11月7日、ニューヨークを出航して、ちょうど6ヵ月後に長崎に着きました。
フルベッキ博士が長崎の地に踏み出したその日以来、交通の機能においても、日本自体の情況においても偉大な変革がなされ始めていました。
当時、今と同様、新たな宣教師の仕事は言葉の学びでした、しかしそれは大変困難な情況でなされました。1883年このことについてフルベッキ博士は語っています。
「語る必要もないかもしれないが当初は、言葉の学びは現在とは全く違っていた。
それは今日の学生が与えらている多くの助けやガイドがないことから、ほとんどの働きは調査と発掘でありました。」
今もまた、直接宣教の働きをすることでその機会を見つけることは難しくないです。
真の困難は新しい宣教師がそのことで多くを費やしすぎるすこと、言葉の学びが本務を損なうことのないように守ると言うことです。
しかし、その頃は宣教師は疑われ、監視されており、最初の努力はほとんど語学研修に費やされたのでした。
1883年大阪会議ために準備されたプロテスタント宣教史において、フルベッキ博士はヘンリースタウト師あて前に書いた次の手紙を引用しています。
「われわれは、人々が宗教的な事柄には触れたがらないことに気づきました。そのような話題が日本人のいるところで提出されると、彼の手はほとんど無意識のうちにそののどにあてられてそんな話題がどんなに危険なものであるかをしめすのです。
もしそのような情況で、二人以上の日本人がその場にいれば、人々の用心深さがより顕著になるでしょう。というのはあなたが覚えているように人との間の信頼関係は,おもに、監視密告
といういまわしいシステムのためにほとんどないということです。そのことはわたし達が到着したときも、その後数年たってからも蔓延していました。
わたしたたちが適切な働きを望むむならば、その前に二つのことが成し遂げられなければならないことは明白です。それは人々の広い信頼を得ることと日本語を習熟しなければならないということです。最初の件ですが、知識人や疑い深い人々はわたし達が人々を「神の国」への忠誠から堕落させ、その道徳を腐敗させてしまうためやってきたと考えていたからです。
このようなひどい誤解を彼らの心から取り除くため、かわらない親切さと寛大さによって、日本人に役に立つことのためだけにきたということを示す努力をしなければなりませんでした。友人として、仕事上や義務上、或いは他のためのいかなる出会いのなかでもそうでした。
これがクリスチャンの誠意ある義務です。
成功的仕事のため実質的に不可欠な条件は言葉の習得でしたが、さまざまな理由で、好ましい情況ではなく、仕事ははかどりませんでした。」
1872年にいたる宣教の結果の総括で次のように書いています。
「プロテスタントの宣教師は、全体的に人々の信頼と尊敬を勝ち取った。人々の心が開放されたこと、彼らの偏見が取り去られていること、そして過度の警戒心が、外人との交流を望む心に変えられたことは非宣教的要素として加えられた実であった。
しかし人々の信頼を得たことは神の恵みのもとに、忍耐深い働きと、クリスチャンの性格と行動
そして宣教師達自身の教えの結果であった。
広範囲に、政府が人々の間で、プロテスタントの宣教師達が町や国に行ったことを評価して
後に信頼と自由の賞賛に言及したことも事実であった。」
人々や特に政府の信頼を得ることにおいて、それは彼が初期の真実な宣教師達を信じたことでもあるが、彼自身が誰よりも貢献しました。
われわれは、すべての官僚たちのなかに、彼に対する信頼がいかに深いものであったか恐らく知ることはないでしょう。彼らは彼がその代表であることを決して忘れなかった宗教にたいしてもゆるぎない信頼をももたずにおれませんでした。
彼の葬儀の日に、知的な日本のクリスチャン信徒が次のように言いました。
「今日われわれが享受している宗教的自由の恩恵は彼にのみ負っているといえます。」
クリスチャンへの迫害がやんだのは彼の影響を通してであると言うことは明らかです。
1872年までも、キリスト教に対するあからさまな敵意が存在し、「外部の野蛮人の追放が野心的な愛国者のお気に入りの主題」でありました。
このことについて彼は次のように書きました。「このような苦い感情はおもに上流もしくは官僚クラスの間にあるものであることは留意されなければなりません。町中や田舎の普通の人々はめったにこのような敵意はみせません。中流や下流の人々は嫌悪よりも恐れを持ってキリスト教をみています。」
彼を取り囲む困難性にもかかわらず、フルベッキ博士は到着後すぐに、聖句のコピー、マーチンのキリスト教白書や中国語の宗教書を配布し始めました。それは教育を受けた日本人によって読まれるためのもので長崎での10年の滞在期間に多くのものが並べられました。
老人の医師がいつもやってきて、夜のニコデモのように国の方々の友のため本を求め、話し合いました。あるとき、肥後地方から数人の僧侶やってきて、フルベッキ博士の手元にない本を求めました。4ケースの本が中国から送られてくることを知って、彼らはすべてを求める契約をしました。そこでかれはすぐに新たな注文を送らなければなりませんでした。
恐らく、これらの本の多くはおもに、キリスト教に反対するために学ばれていたのですが、購入者の動機はどのようであれ、多くの種が広く播かれたのです。
初めのころ、肥後から年老いた僧侶が彼を訪ね、自分自身はキリスト教を学ぶには年をとりすぎているが三人の生徒を教えていただけないかと求めました。
約3年間、これらの若い僧侶は学び続け、その得たところを老いた僧侶に報告しまた。
感謝を表すべく、しばしばやってくる彼に、あるとき、フルベッキ博士は言いました。
「あなたは若い方々からキリスト教について多くを聞き、よく理解しましたね。
あなたはいまやそれを受け入れるかどうか決断すべきではないでしょうか。」と。
すぐにその老人はおちつかなくなり、自分は多くの宗教を学びその長所が理解できないでいるので決心できかねます。しかし若い者達は疑いなく決断できるでしょうと言いました。
このような個人的な申し出がなされた後、彼は再び訪れることはありませんでした。
フルベッキ博士が長崎に着いて約2年後、二人の若者が英語の聖書を学ぶため訪れ、
このことは後年、日本政府との重要な関わりの小さな始まりとなりました。
約1年間の学びの後、彼らは大変うれしそうな様子でやってきて、教えに感謝して二匹の黒い子豚を持参してきました。
彼らは政府の試験で、あらゆる競争相手に勝る最優秀賞を受けたと語りました。
この成功が長崎に開校することになっていた英語学校においてフルベッキ博士の働きを役所が求めるきっかけをつくったのです。
最初、彼は辞退しましたが、強く要請されましたので外国ミッションボードの許可を条件に彼らの要望を受諾しました。
許可は降り、14年にわたり、彼は政府の公務に、ボードとの関係は結んだまま、自給の形で従事することになりました。
南日本の最初のプロテスタントのクリスチャンとして知られている村田、若狭の守を通して、フルベッキ博士は肥前地方の首都佐賀でよく知られるようになり、藩士たちの訪問をよく受けるようになりました。
維新直前の数年間、フルベッキ博士は薩摩、長州、土佐や他の地方の藩士のおびただしい訪問を受けました、かれらは絶えず、長崎を経由して旅をしており、1868年に実現する出来事についてお互いに議論していたのでした。
ほとんどのものは以前外人に出会ったことはありませんでしたが彼らの中に、小松、西郷兄弟、副島やほかの人々のようにこの重大な時期に著名になった者たちが名を連ねていました。
1866年肥前の大名が長崎に学校を開き、フルベッキ博士はここと政府の学校と両方で日替わりで教えるように任命されました。
この肥前の学校の生徒の中に現在の岩倉侯と彼の兄弟がいました。
将軍家の崩壊と帝国の力による維新もその長崎の学校をあまり混乱させなかったし、他の側への政府の変換がそのクラスを一日たりとも休ませることはありませんでした。
1869年3月、フルベッキ博士は東京に移り、4年間開成所に関係し、そこが現在の帝国大学に成長しました。
彼はその学校の外国部門の教師や教育全般の責任者であり、政府と外国人教師のすべての
関係の仲介者でした。
このすべての機構を充分に動かし続ける責任だけでなく、(それは容易なことでなく、4カ国からなる、多くの外国人がおり、ほとんどは巷から採用された専門外の教師達でした)
彼はいつも政府の高官から呼び出されたり、外交に関するすべての事柄の説明やアドバイスのために首相から出頭させられていました。
事実、フルベッキ博士の死後、二三週間してグリフィス博士は次のようにわたしに書いてきました。「彼は新たな政府に対して後に彼らが集めたアドヴァイザーの偉大な外交団と言う立場にあった。」
これら多様な要求に直面するために、彼は夕刻は、かなりの読書と学びに費やしました。
彼はわたしにかつて自分は筆不精であるがそれは、政府の仕事の年月、読書とその読んだことを他の人に口頭で伝えてあげるために非常に忙しくて、時間も書く暇もほとんどないからだと
語っていました。彼の読書習慣について、長男のウィリアム・フルベッキ大佐は「わたしの父は
読んだすべてを記憶すると言うすばらしい才能を備えた多読家でした。何年も前に読んだ本を
調べるに際し、探しているページを正確に、開き、そのページの箇所さえも知っていました。
かれは記憶術においてアイディアを関連付ける偉大な信徒であり、余白に注意深く記すやりかたが彼の多量な情報をシステム化し記憶させる助けになりました。」と述べています。
1873年、開成所との関わりから身を引き、はじめて太政官とそして上院(元老院)と貴族の学校に従事しました。太政官は、今では数局に分かれているほとんどの業務を形成しています。
そこでも上院でも彼の主な業務は翻訳でした、その時、彼の少年時代の多国語の習得が役立ったのでした。メッサース、加藤、細川、箕作とほかの人々の協力の下に翻訳されたもので
もっとも重要なものは「ナポレオン法典」、「ブルンチの国法汎論(Buntschli’sStaatsrecht)」、「森林法」、「ヨーロッパ諸国の憲法」、「ローマ法学説集・2千のローマ法格言(TowThousand Legal Maxims With comments)」です。
公務以外にも、彼は政府の要人たちに、教育、宗教の自由、その他の論題についての短い覚書(brief memorial)を送る機会がありました。この時代、彼の忠告や影響は政府によって、重要なものであると受け取られていました。
ここに彼自身、政府に対して最も価値ある業務とみなす一つの請願書(memorial)は、1872年岩倉侯のもとで使節団を送り出したことです。
この派遣(Embassy)は彼が提案した請願の結果であり、それは、はじめはためらっていたが後に、日本が飛躍する上に最も重要なものであったと考えるようになったものとして岩倉侯によって確認されたものです。
フルベッキ博士が亡くなられて、ある日、日本通信の編集者が次のように記しました。
「不思議なことに、フルベッキ博士が亡くなるその夜、現首相と大隈伯は、その方がもう数時間のいのちとは知らずに、お互いに、維新のときに彼によって勧められて書かれた提案について語り合っていた、それは日本が長い間顧みなかった、文明の学びのためのヨーロッパとアメリカへの官民の派遣、日本における自由思想の拡大に、おそらくもっとも貢献したものであった。」
彼の政府の公務の間中、フルベッ博士は、機会のあるとき、直接に宣教の働きをしました、この時期の後半時には毎日曜日、少なくとも一度、しばしば二度或いはそれ以上、説教をされていました。
政府には充分な専門家があたえられるようになったので、彼の公務は以前ほど重要ではなくなり、直接の宣教の門が開かれたと感じました、宣教の業に専心することが献身の義務であったのです。
1879年、彼のミッションの活動メンバーとして復帰しました。
この頃、ヘボン博士夫人、ブラウン、グリーン、日本人の同労者たちによって、新約聖書の翻訳がほとんど完成されつつありました、しかしフルベッキ博士は間もなく、校正委員のメンバーに選任され新約聖書の大部分の校正に関わることになり、後に旧約のすべてにも関わりました。
旧約聖書の翻訳の仕事はすべて聖書翻訳の恒久委員会の後援のもとになされました。
全体の校正のほかに、非常に喜びとするフルベッキ博士の特別な仕事は松山師と共になされた詩篇の翻訳でした。この仕事は、数年間の働きを表す一文のなかで語られたが、それは決してこれらの数年になされたすべてではありませんでした。
彼は聖書翻訳がおもな働きとみなしていたが、このほかにトラクト協会委員会の出版に関する
校正や説教と講義にも多くの時間をさいていました。
聖書翻訳完成の後、彼は明治学院神学部で約10年間、ほとんど継続して教えました、しかし彼はこの働きを喜ばず、他に代わりがない場合にのみ教えました。
彼が最も喜び、彼自身が一番ふさわしい働きと考えたのは説教と講義でした。
彼はこの種のもっとも賞賛に値する働きをした、スピーカーとしての素養とそして訓練の賜物
によって、また日本語のすばらしい習得によって。
後半期、彼は東京や各地から呼ばれました。東京では一週間平均少なくとも二度説教し、ほとんど頻繁に講義をし、国のいろんなところから、また彼のミッション以外のところから招きがないことはありませんでした、また数週間にわたるツアーも要望されました。
これは彼が特に喜んだ働きで、一日に二度三度の説教をして、来る日もあくる日も奉仕の合間に旅をしながら、ある場所から他の場所へと巡りまわるときほど幸いなことはありませんでした。
彼の日本語を話す能力については、しばしば語られているので、わたしがここの聴衆のみなさんに特に話す必要はありません。
彼のすばらしく卓越したスピーチの習熟について、彼の死の約一年前に、古い官僚の友を一緒に訪ねた時の印象があります。
その紳士は留守でしたから、短い伝言を残す必要に迫られました。
わたしはフルベッキ博士の講演も会話もよく耳にしていました、しかしあのときほど、彼の日本語とわれわれのそれとの違いを印象づけられたことはありません。
それは普通の伝言であり、その話をわたしも容易に語り、また理解し得るものでしたが、彼が
話したようにすることは、わたしにはとてもできませんでした。
数年前、その当時アメリカにいた日本人がニューヨークトリビューンに「日本語を良く話せる外国の宣教師は三人だけだ」と書きました。
わたしがそのことについて聞いたコメントでは、その三人のうちの一人はフルベッキ博士に違いないがあとの二人についてはわからないということでした。
日本政府によってフルベッキ博士の功績が評価されていたことは、1877年勲三等旭日賞を賜ったこと、1891年、特別なパスポートである、彼と家族が臣民と全く同じような方法で、帝国の
どこにでも旅をしたり、滞在、或いは居住する権利を持つ特別なパスポートを賜ったことからも
明らかなことです。
彼の死に、際してもまた、政府の公務から何年もまえに遠ざかっていたにもかかわらず、彼の遺体を墓地に運ぶとき兵士の一団が護衛につけられたこと、多くの官僚や、陛下である天皇が哀悼の意を表して500円を贈与したことからも分かります。
しかし、公の関わりから離れて、愛する兄弟についてもう少し話さなければなりません。
彼並はずれた能力やまったき信頼性は、彼が付き合わなければならなかった多くの疑い深い人々によっても信頼され、明らかに証言されたところであるが、このことと共に、謙遜さ、優しさ
や愛に満ちた友でありました。
多くは彼の名声のゆえに、知り合いになることを願うようでしたが、彼を知るすべての人は、優れた教育家であり宣教師であったよりも親切な心と気さくな人であったっと思っていることを確信します。
彼をよく知っている者にとって、彼はその名声以上に偉大でありました。
彼は非常に謙遜な人物で、それは決して甘くない自己評価からと言うのでなく、自己に関する
言及を避けられるときは、いつもまったく述べなかったということにその謙遜が現れました。
彼の仕事は過去にはなかったように忠実でよいものであったことは知っていましたが
ただそれらは彼がなさなければならなかった義務ゆえになしたのだと考えていました。
われわれは彼が自分について、その業績についてもっと多くを語ってくれたらと願いましたが、
彼はかつて、コッブ博士に、長い伝道旅行に言及して「歴史を書くよりも造ることを」と書いております、わたしたちはこの僕が偉大な歴史を造ることを許されたということを神に感謝します。
1874年、ある日、横浜の由緒ある外国語の本屋にいました、そのときフルベッキ博士が、本を求めにやってきました。何かの理由で、多分良く見えなかったからだと思いますが、近くにいた一人の青年に、日本紙幣をもって、幾らであるかと尋ねました。
その青年は彼に語り、一週間か十日間の観光やショッピングで得た知識で続けてほかのことも語りました、フルベッキ博士はみるからに非常に興味深げに耳を傾けていました。
そのすぐ後、店主とわたしは、日本についてべらべらお話ししてあげたその友好的な紳士の名前を知ったその青年の驚きを心ゆくまで楽しみました。
彼は、他人の意見や感情に対する態度や与えることにおいて寛大な人物でした。
重要な真理や原則が危うくされたときは、彼は妥協しませんでした、しかし、意見の相違の余地があるときは、多数の声に喜んで譲りました。
彼の施しについては、彼は寛大な布施者であったと言うことのほかわかりません、というのは
彼は右の手でしたことを、左の手に告げなかったからです。
彼が与える者であったことは受け取られたギフトによって知られています、彼が隠すことができなかったその場にいたことがありました。
私が彼の家に立ち寄ったとき、職を失い、なにも得ることができなくなった青年と彼がドアのところで話し合っているのをみました。
寒い日で、その若者は一枚のコートを持っているだけでした。
私は家に入り、すぐにフルベッキ博士がコートなしに入ってきて、事情を説明して、「彼は薄着だったので、私の古いコートを処分する機会を与えてくれた」ということでした。
彼は愛すべき人でした。
そのことはすべての友が知っていました、しかし彼の深い愛の心を良く知っていたのは家族でした。
彼が子供たちと共にいた当時、私たちは近い隣人でした、そしてあの家庭の暖かい家族生活に感銘しました。
それでも愛すべき父は、多くの人よりも彼の家族にとってそうであるが、十年以上にわたって
長女を除いては、家族から離れて過ごしながらも、喜んでその責務を果たし続けました。
しかし、彼はいつも心にある不在の者達のことを話すことを喜びましたが不平を聞いたことは誰もありませんでした。私たちにも興味深く聞いていましたが。
私は父の死後一二週間して、書いた息子のフルベッキ大佐の言葉によって、彼らの楽しかった家族生活の様子を知らせることができます。
「それらは私には幸福な日々でした。愛する父は私の幼年時代、少年時代をより幸福で美しい
思い出でさいわいにしました。彼は父であり大きな兄であり、そして親友でした。
この国の子供たちとの交流や娯楽から閉ざされて、私たちの父は想像される以上の存在でした。
彼は理想的な遊び相手でした。競技者のように、私たちを走りまわせたり、飛び回らせたりしました。彼は物語の上手な語り手でした、オランダのおとぎ話やドイツの黒い森の盗賊の話
をもちあわせていました。あなたがたが良く覚えているように、彼は美しいバリトンの声を持っていました。
彼は共感的な声(sympathetic voice)でしたので、彼の歌を容易には忘れることができません。
長崎にいた当時、私たちのため歌ってくれた子守唄のことも覚えています。
彼はチェスやチェッカーズも私たちとしでくれました、そしてすべてが楽しく興味深いものとなり、彼との遊びのなかでいつも何かを学びました。彼は科学的なおもちゃに大変興味があって
いつもたくさん私たちに与え続けました。遊び友達としての彼と共に過ごす時間は学校であり、彼の保護の下での学校は自由な教育でした。
これらのことを知って、そのような父を失ったことで、私たちが喪失したもの理解していただけるでしょう。」
盗賊の物語のことに関して、彼の死の数ヶ月前のある日にフルベッキ博士が私に言ったことが浮かんできます、東京の第一国立銀行の建物を通り過ぎようとしていたときでした。
あなた方のうちご存知の方も入ると思いますが、それは東京の古い外国様式の建物で屋根に塔といくつかの先端のとがったものがあって、この市にあって、他の建物とは著しいコントラストをみせていました。彼は「子供たちと私はあれを”盗賊の城”と呼んでそれを見にこの道を通るのが彼らの楽しみの一つです。」と語りました。彼は心優しい人でした。
彼の多忙な生活は、社交上のことについてほとんど時間を残しませんでしたが、彼はいつも好んで友人達と会い、交際を楽しみました。このようにして出会った人たちは彼の賜物の広さに
驚かされました。
彼はほとんどの人とその母国語で会話ができただけでなく、優れた音楽家で、頼まれればいつでも、みんなを楽しませるため演奏したり、歌うようにしていました。
彼はユーモアのセンスを持ち、冗談やしゃれがうまいということはありませんでしたが
面白いことや滑稽なことに、非常に関心を持ち、彼の経験と印象を関連付けて一緒にいる人をたのしませる不思議な雰囲気を持っていました。
彼の霊的生活と体験について、彼は多く語りませんでした、彼の率直でシンプルな祈り日々の生活から、彼を導いておられる御霊が大変リアルにいつも臨在していることが分かりました。
彼の逝去に際して、彼の日本のためのまったき偉大な生涯の思い出において、一遍の影もなく、また力の衰えや精神的弱さもなく「現役の中で」取り去られたことを感謝に思います。
彼の旧友であるJ..H バラ牧師は「彼の死は、その生涯のようにシンプルで美しかった。」と書きました。外国宣教ボードのコッブ博士から頂いた手紙には「思えば思うほど、失ったものが大きいことが分かります。しかし彼をいつまでもとどめおく事はできませんでした、このような逝去は衰弱と苦痛が長引くことよりはよいのです。これはこの世界が知っている「携挙」(translation)であります。」と。
この言葉を読んで、すぐにこの「携挙」ということに関するみ言葉が私の心に浮かびました、そしてそれは愛するフルベッキ博士にもっともふさわしいものと思います。
「彼は神と共に歩んだ。そして去った。神が彼を取られたから。」
(1909年講演)
(2006・2・.16南沢私訳)
Samuel Wells Williams(1812-1884)アメリカン・ボード宣教師。
1833年中国広東に渡り、出版事業のかたわら中国研究。
後に日本人漂流民から日本語を学び、創世記、マタイ伝他の和訳
をなした。1837年(天保8)の夏、モリソン号に乗り、ギュツラフ、
パーカー、キング夫妻と共に日本人漂流民7名(力松、音吉その他)
をともなって江戸湾にきた。この両名は日本人最初のプロテスタント
になったとウィリアムズは述べている。
またウェルズはペリー艦隊が1853 年日本に来航したとき、
通訳をつとめた。
ウェルズは1854年随行日記(「清末・幕末に於けるS・ウェルズ・ウィ
リアムズ生涯と書簡」フレデリック・ウェルズ・ウィリアムズ著宮沢眞一訳
(高城書房2008)261ページ)に以下のように記している。
「下検分の目的でモーリー氏が、上陸しようとすると、一群の島民たちが、
海岸近くで待ち構えていた。彼らは武器を手にして、彼らの上陸を阻止しよ
うとした。火縄銃を持っている者がいたり、先頭の指揮者らしい男は、一本刀
を差している。他の連中の手にしているものは、石、棒、槍の類である。すぐに
サム・パッチ(仙太郎)は、僕たちの目的の性格を告げて、彼らの誤解を解いた。
まもなくして、僕たちの大半が、上陸をすませると、島民たちは、水際まで食料品
を運んできた。・・」
「信仰の敵」
信仰は聖霊によって与えられる。それはイエスを
神の御子と信じることから始まる。
サタンはこれを妨げる。つまり、不信仰は
悪の霊の結果である。
信仰は主との交わりに進ませる。新生した
神の子を成長させるために。
サタンはこの交わり(祈り)を妨害する。
つまり祈れないことも悪霊の結果である。
だから聖霊により頼むことによって、敵の
力が打ち砕かれてゆく。
人生の問題は表に現れた表徴(結果)であり
その根(原因)は霊的超越的次元にある。
主イエスはこの深層の霊を取り扱われる
ことによって問題を解決された。
聖霊の導きのもとに、聖霊と共に祈り
語り、行うことによって人々に根本的解放を
もたらされた。
表層世界は変化しているが、霊の世界は
現代も変わっていない。
目に見える被造世界 は目に見えない霊
(4次元)にコントロールされている。
創造霊を心に迎え、偽りの被造霊(真の敵)
を見分け、これを打ち破っていただくこと
こそ、永遠的勝利の歩みである。
(月刊「ハーザー誌」11月号-特集「よみがえりといのち
のカンファランス:人生の問題を解決する・
ジョセファット・カジマ」参照)
(09・10・20)
「神の資産」
最近、Gメールも使用して「クラウド」を
体験している。ソフトが自身のパソコンでなく
あちらがわにあるので、故障しても他の機種でも
使用できる。
雲の上に資源があって、そこから引き出す感覚
である。
ところで、創造主ご自身が永遠の尽きざる資源で
あられ、こちらがわの事情の如何によって、失われる
ようなことはない。
祈りによってアクセスして、知恵や愛や平安やすべての
問題解決を引き出せるのである。
しかも神は聖霊として私たちの中に住まわれている。
このお方と共に祈る祈りは創造主の内部(至聖所)での
交わりであり、それ自体が力であり、資産の発掘となる。
(09・10・8)
「思考のあがない」
信仰は信仰の霊によって与えられる。
思考(考え)は潜在意識(霊)によって
影響され支配される。
生まれつきの魂(思考)はサタンの支配下にある
と聖書は語る。したがって思いはいつも否定的に
なりがちである。
十字架の血のあがないは我々の霊と魂と体の全領域に
及ぶ。主の血によって洗われた霊は聖霊の御支配に移され
永遠のいのちによみがえっている。
しかし心と体は絶えず世のさらされ、また自身の自我によって
汚され、サタンの攻撃の標的にされる。
思いを新鮮に保つために、日々主の血によるきよめと聖霊の
満たしを祈り求めたい。
思いが悪霊からあがなわれ、聖霊のご支配に移されると
喜びや平安、希望と可能思考湧き出て、インスピレーション
やよいアイデアが生み出される。
真の文化や文明は、あがなわれた心がもたした
ものといえよう。
時間もまたあがなわれなければならない。
むなしく失われた時間に、永遠を招き入れるとき
時は意味を回復する。
主を私たちの全領域に招きれる時、主は私たちと
共に働いてくださって、不滅の仕事を成し遂げて
くださる。
(09・9・17)
「知解と信仰」
信仰とは事実の知解なのか、超越者
なる神への人格的信頼なのか?
イエスが神の御子である事実を理解あるいは
納得した故に救われるのか、復活して生きておられる
主に出会い交わりにあずかった故に救われるのか。
私たちがある事実を受け入れ承認するのは、理性
或いは感性が納得した時である。
しかし復活の歴史的事実は、被造物を超えた創造主
の世界の出来事であるゆえに、被造物である脳と悟性
は納得しないのである。創造主なる聖霊が我々の霊のもと
に来られ、創造主の次元に引き上げて下さる時、そこに
み父と共におられる復活の主にお会いできるのである。
復活の事実は生まれつきの悟性によって認識されるのでなく
御霊によって新生した霊によって霊的に納得される。
その意味で神と御子への信仰も信頼も人間が生み出したものでなく
神から、聖霊から与えられた恵みである。
過去の出来事、あるいは未来のことを確認することは不可能であるが
現在、永遠を生きる者は、永遠的出来事があった事実を追認し、
永遠が実現することを確信できるのである。
人間の知解を超えた霊的知解(啓示)によって、神が私たちを愛して
共に歩んでおられることを知るのである。
悟性は否定されるのでなく、聖霊に触れられて飛躍的な神化を体験する。
被造物でありながら、それをはるかに超えた創造主のもとに迎えられて
主と交わり、永遠の相のもとに、働き、この世界を認識することを許される。
(09・9・16新政権誕生を記念して)
民主党のリーダーの論文が米国で問題視されたという。
イラク戦争批判が一つの原因らしい。
マニフェストディスティニーは米国の西進を正当化するための方便のように
思われがちがちであるが、本来、与えられた使命(天命)を明確化してそれに従う
という標語、公約のような意味を持ち、したがって民主主義国家の政党は「マニフェスト」
を掲げて選挙にのぞむことになった。
ここで民の声が天の声なのか、ヒューマニズムがイコール、デスティニーなのかという
課題がおこる。預言者を通して語られる神の声は必ずしも民の思いと一致しなかった
ことは旧約聖書で明らかだ。
福音宣教がイスラエルから西回りでにヨーロッパへ、そして新大陸アメリカを通してアジアに
帰ってきたこと、中国1億人近い福音派のクリスチャンに「バック・トウ・ザ・エルサレ
ム」(シルクロードを西進して最終的救いを受けるイスラエルへ福音を届ける)の思いが
与えられていることから、歴史は主の再臨という完結に向けて進んでいることが分かる。
いずれにせよ、歴史も個々の人生も完結に向けたプロセスの中にある。
ヨハネ福音書が3共観福音書にある黙示的表現を割愛したのは、「現在のプロセス」に
おいて共に歩まれる主と御霊の臨在と働きを再確認させるためであったという説を読ん
だことがある。
確かに人は何をなしたかを見て評価するが、心を見られる神は、そのプロセスにおいて
へりくだって、主を仰ぎ、その助けと知恵を求め、主に依存しつつ歩む一歩一歩のプロセ
スをご覧になる。
一瞬、一瞬を主により頼んで生きる、それこそが主の再臨に備える幸いな生活である。
(09・9・3)
「霊的混沌からの脱出」
創造主としての御霊と人間の霊との混同は、
霊的死あるいは霊的病に起因している。
霊(プニュウマSpirit)と魂(プシュケmind)との
混同でもある。
霊が死んでいる状況では、霊である神、霊の国
天国、霊的闇地獄のリアリティがない。
失われ、縛られた霊は、神の霊、聖霊に触れられた
時に生き返る。神の御子の十字架の血の贖いに依存
し頼る時に霊のよみがえりの奇跡が起こる。
新しく神から生まれるのである。
羊の血の贖いの力は霊にまで及ばなかった。
これが旧約の限界であった。
霊のよみがえりという永遠の視点に立って
創造霊と被造霊の違いを見分けることができる。
永遠の救いと一時的救いの違いが分かる。
天国の実在も確認できるのである。
霊が死んでいる者にとって、霊的なことは
愚かに見えるのである。
あるいは諸霊を創造霊と取り違えるのである。
(09・8・27)
「復活の主」
自分の任務は復活して生きておられる主イエス様を伝え、証しすることである。
このお方は聖書で証言され、そして現在も共におられるので、対話を喜んで下さり、
賛美と礼拝を受けて受けて下さる。聖霊は、今おられるこのお方に心を向けて、天の
交わりに導いて下さる。
私の肉は地上ものもに魅かれるが、御霊は私の霊と共に主を仰がせ主を喜ぶ者に
変えて下さる。バルトは「聖霊とキリスト教生活:救済者としての聖霊」で
「霊感を受けた者(エンテモス:ギリシャ語で神の中にという意味)
とは神によって、神と共に、神の中で祈り行動する者」だという意味のことを語っている。
(09・8・18)
「ブルーム・ハルト」
ヨハン・クリストフ・ブルームハルト(Johann Christoph Blumhardt 、1805年-1880年)
1843年1月24日ー28日
ドイツ、メットリンゲンで少女ゴットリービンの背後にある闇の力とブルームハルトの戦いが終焉を迎えた。
「・・・すると娘の喉から、何度か、おそらく15分ぐらい続いたであろうが、絶望の叫びが発せられた。それは、そのために家が壊れると思われるほど震撼的な強さを持つ声であった。私はそれ以上に恐ろしいものを考えることができない。・・・やがて遂に、最も感動的な瞬間が来た。…朝の2時に、娘は頭と上半身を椅子の背にのけぞらせていたが、『サタンとなった天使』と称する者が、人間の喉から出るとは思えない声で『イエスは勝利者だ。イエスは勝利者だ』と、吼えるように叫んだ。・・・・やがて悪霊の威力と力は、一瞬ごとに奪われてゆくように見えた。悪霊は次第に静かになり、おとなしくなり、次第にその運動が鈍くなり、つには全く認めることができないほどに消滅してしまった。・・・・それは朝の8時ころであった。」
(神の国の証人ブルームハルト父子・井上良雄著:1982新教出版85ページ)
この出来事はやがてカールバルトやトゥルナイゼンの信仰と神学に大きな影響を与えることになった。
2009年7月22日日本で皆既日食が見られる。月が400倍の大きさをもち400倍の距離にある太陽の前面に出てその光を遮るのである。我々の自我が創造主の前にしゃしゃり出る時、主の光を遮るであろう。自我とは生まれつきの魂(プシュケ)であり、時には「良心」という仮面をつけることもある。私は絶対正しいという自己偶像化、魂至上主義のもとに悪霊が働いてきた。
ブルームハルトの魂が砕かれ、彼の内なる霊(プニューマ)に宿る創造霊が働かれた時に、
闇の力が粉砕された。
バルトはカトリック、プロテスタント双方が『西方の父』アウグスチヌスに忠実すぎて、福音の持つ素晴らしい力の次元を軽視してきたのではないかと自戒している。
(7・21)
「依存と結合」
ラテン語で宗教とは「結び」を意味する。
人は依存する対象と結ばれる。
プラスイオンとマイナスイオンの化学反応
を考えると分かりやすい。
人は創造主と結ばれ、このお方に依存するように
造られた。
しかし、私たちの心は絶えず、被造物に依存しよう
とする。これが偶像礼拝である。
世と結合することによって、創造主との結合を忘れる。
永遠の地下水から飲むのでなく、一時的たまり水から
汲もうとする。そして渇く。
主イエスこそ、創造主なる父と結ばれ、一体となられた
まことの人である。創造主なる神がまことの人のあり方を
身を持って示されるために人となられたのである。
主の十字架を見上げるとき、主と一つとされ、主と共に
この世依存に死ぬことができる。サタンが誘う偶像礼拝
から解放されるのである。そうして、復活の主と共に
心に住まわれる御霊によって創造主に結合されるのである。
自分の心を自分で統御して、神と結合しようとしても挫折する。
人間の宗教心だけでは神に到達し得ないのである。
十字架を頼るときに、不可能が可能になり、創造主との
永遠の結合が成就するのである。
永遠者が私たちの内に生きて下さるので、私たちは
復活のいのちを生き、死を克服する者に化せられる。
まことの宗教とは創造主と結ばせるもので、それは
神からの贈り物である。
(7・7)
「心の世界と霊性の次元」
聖書では魂と霊の違いを識別
している。ほとんどの小説は
心象の世界を描くけれども
霊の次元まで掘り下げられた
ものは非常にまれである。
それは作家自体の体験に左右
されるからであろう。自分が単なる
心理体験のなかで生活しているなら
ばおそらくそれ以上の世界を認識
することは不可能であろう。
また人の心理が外的環境だけでなく
霊的実在の力に支配されていることも
気づくことができな.いだろう。
カルトの温床はこの霊的盲目とあいまいさ
にある。ナチズムの蔓延は形骸化したドイツ的
キリスト教世界で生じたといわれる。
spiritよりもmindあるいはsoulが重んじられ
心象のみにとらわれるとき、悪しきspirit
に無防備にされる。
ドイツ魂も大和魂も平和でなく破壊への
道をたどった。
心はそれを超えた霊の次元に左右される。
そして創造霊によってのみ、諸霊(被造霊)の
識別が可能になる。
したがって己の心的能力に依存するのでは
なく、創造主の霊に依存することが不可欠で
ある。つまり、祈りを通して主は真実を明らか
にされるのである。創造主の内なる至聖所に
生きること、physical lifeだけでなくmenntal life
だけでもなくspiritual life に心がけ、誰よりも
Spiritなるお方を重んじることこそ幸いである。
このお方はかつては外の次元から天使を通して
人間に近付かれたが、御子の血と御霊によって
今は私たちの内側に至聖所を備えられ、最も
近いところにおられるのである。
被造物への依存をやめて、この創造主に信頼を
置くときに、この方が全能の力を発揮されて奇跡
を行われる。そして最大の奇跡とは一時的な肉体や
環境への奇跡のみではなく、霊に触れ霊を生かす
永遠の奇跡である。水をワインに変えたように魂的罪人を
霊的神の子に変えるeternal miracle である。
人は奇跡を求めるが神は奇跡をおこなう
神御自身(聖霊)を与えたいと願われる。
(6・26)
「創造主を思う」
教育のほとんどは、被造物について
の学びである。それは有益ではあるが
しばしば疲労感をもたらす。現代教育の
一つの問題は生徒が学習意欲を失って
いる点にあるといわれる。
これは社会全体の閉塞感を反映している
と思われる。子供たちは親や大人の鏡なのだ。
創造主に対して閉ざされた状態が閉塞感の原因である。
永遠の創造者、歴史の主、創造霊として偏在者(有って
在るお方)天使もまともに見れないほどの清さ、人
となられて罪を負われ復活していつでも共におられる
お方、聖霊として霊に住まわれ、語り、教え、導き
慰め、ともに生きて下さる創造霊。なんと偉大で
すばらしい存在か。被造物の世界だけに埋没する
ことなく、造り主であるお方についてもっと考え
祈り、学んでゆくときに、天の息吹に触れ、新たな
活気を与えられ、天のリフレッシュに浴する。
宇宙と自然を観察してその創造主を思い
歴史を学んで、そこに主の足あとを見る
とき、このお方は今、私たちと共におられて
ともに歩んでおられることを知らされる。
十字架を通して主と結ばれたいのちには
無限の可能性が約束されている。
(6・25)
「黒船に乗っていた仙太郎」について
これまでの日本史は、黒船を迎えるこちら側から
描かれることが多かったが「サム・パッチ(仙太郎伝)」
は米国人とともに日本を見つめるあちら側からの
視点が織り交ぜられている。クリスチャンになって
ゴーブルと共に再び来日することによって彼は
かなり、米国人的思考の中で幕末の日本を認識
し始めたようである。
米国人的というより、人種を超えたキリスト教徒として
というべきであるかもしれない。それは聖霊論的にいうと
創造主なる神と共に、被造物としての日本を見直した
ということである。歴史はHis Story であるという前提
にたてば、自分を超えた創造主、すなわち「あちら側」
から洞察されることによって、「こちら側」の自己および自
国の真実が明らかにされるのだと思わされる。
(6.22)
「神の宮」
人間の偉大さは創造主なる神を宿すこと
である。あまりにも素晴らしいので天使
は感嘆し、サタンは ねたんだ。
父なる神は 私たちの中で働かれる。
その力が現されるための条件は、まず
その主の臨在の事実を自分のうちに認め
ること、そして心ゆくばかり、神との愛の交わ
りをもたせていただくことである。
週の初めが主を賛美し、主との交わりをささ
げる主日であるのは、先ず主との交わりがあ
って、そして働きがあるということだ。
つまり、主によく祈り、よきコミニケーション
を持つ者の中でより力強く主は働いてくださる。
力の油注ぎは主の血潮と御霊による交わりの
油注ぎの後に与えられる。
(6・20)
「永遠の現役プレイアー」
主がこの世を去られる時、はたして引退
ということを考えたのだろうか。弟子に後を
託して。もし、普通の死を迎え、そこですべて
が終わるとしたら、あるいはそう思われたに
違いない。しかし、主は復活することを確信して
おられた。働きはさらに拡大され、徹底された。
時間と空間の中で活動された主は
復活の体によって、これを超えた活動を開始
されたのである。
主と共に聖霊なる神は、弟子たちの中に住まわれ
全能の力を持って働かれた。
死とサタンとを相手に、絶望的な戦いを強いられ
敗北的な生活をしていた者たちの中に今や、万軍の
主が住まわれ、戦われるのである。
傷つき敗れたわたしたちの中にも
主は来て下さる。
永遠の勝利の栄冠を共に受けて
下さるために。
(6・5)
「クリスマス・イースター・ペンテコステ」
クリスマスの前のアドベント(待降節)
からクリスマスと主のバプテスマまでの降誕節
40に日の四旬節(受難節)、受難週、そして
イースター(復活日)と40日間弟子の現れた
復活節と昇天、祈りの後の10日後のペンテコステ
(栄光の主からの聖霊の注ぎ)と教会カレンダー
は約7カ月かけて主の歩みをたどる。
これは神のこの世へのいわば、ソフトランディング
をふりかえることだ。
もし、神がその栄光のまま、いきなりこの世界に
おいでになったら、巨大隕石の衝突をはるかにしのぐ
激震で世界は危機に瀕したであろう。
神はそのような形ではなく、一人の幼子として
小さなベツレヘムの馬小屋にきてくださった。
「恐れることはありません」と。
それはわたしたちへのソフトタッチング
でもあった。そして、徐々にその全貌を
現わしてゆかれた。もし、神が神であるだけなら、
本当の意味での人との接点は生まれなかった
だろう。我々は人として、バプテスマを受けそして
聖霊を宿し、油注がれた者としての主を見る。
そしてわ.たしたちの罪を負われて、十字架で血を流され
死と地獄を体験された主を仰ぐ。
また、復活して弟子たちと親しく過ごされた主と出会い
永遠の交わりを体験する。さらに父なる神の栄光の
御座に着かれて、力の油注ぎを日々与え、やがて
再臨される完全な救いを成就される主を待ち望む。
この一連の出来事は創造主がその永遠のいのち
にわたしたちを招くためにご自身を低くされ、その
身を投じて下さった愛と犠牲の業である。
神学者は経綸的帰納的(時間歴史的)三位一体の働きという。
この永遠のいのちと交わりを与えられて、神の
内側に入り、いわば4次元の中でその交わり
を体験する、これは本質的内在的(空間的)三位一体
と表現される。
アタナシウスは「神が人になられたのは、人
を神にする(神の子)にするためであった。」
と語ったが、主が父なる神の御許からこの世に
下り、聖霊を受けられることによって、まことの
人の姿を回復され、十字架と復活を通してその
聖霊なる神をわたしたちに住まわせてくださる
ことによって、創造主なる神の救いのプロジェクト
は完成したのである。
(6・1三位一体主日を前に)
「ペンテコステ(聖霊降臨日)はどのように
して起こったのか?
主が栄光の御座に着かれてすぐに
起こった出来事でなく、10日後のこと
である。その間、弟子たちは祈りに
専念したと書かれている。
専念の祈りとは依存と信頼を全面的に
創造主に向けることである。
彼らが一切の被造物と己の自我への
依存をやめた時栄光の主は聖霊なる
神とともに本格な活動を開始されたの
である。
(2009・5・30)
「重荷を主に」
日常迫ってくる問題とプレッシャーに多くの
人が傷つき心の病に苦しんでいる。
もし、自分が自分に依存するならば
頼られた自分は遂にはつぶされてしまう。
聖書は「人間を信頼す者は呪われる」
(エレミア17章)と語る。
自分を頼るということは実は自分を神の
座において自分を偶像化することである。
だから無理がきて破綻する。
「神に信頼する者は祝福される」と
約束されている。(同17章)
創造主なる聖霊を心に迎え入れて
このお方に依存するなら、このお方が
問題を処理して下さる。
つまり、知性の次元を超えた霊の次元に
生きることが真の問題解決となる。
具体的には永遠から永遠に、父と子と
聖霊の交わりをしておられる創造主の愛の
交わりの中に聖霊によって参入させていただく
のである。これこそが至聖所での祈りであり、
御子イエスがその血の代価をもって
備えて下さった栄光の会見である。
旧約時代のいかなる偉大な預言者であっても
この特権はまだ与えられていなかった。
三位一体は知性の産物ではなく、創造主の
自己啓示として与えられた真理であり
いのちである。
(2009・5・29)
「創造主が共にいてくださる人生」(その2)
ある人には主が御一緒してくださるが、他の人に一緒におられないと
いうことがあるだろうか。
神はそのような不公平なお方ではない。親にとってすべての
子供が大切なように、創造主にとって、大事でない人間は
いない。
主がおられるのに、目が開かれていないのだ。
正確に表現するなら、霊であられる神を見る霊の目が
ふさがれているのである。
人間は4次元的存在なのに、3次元でしか生きていないのである。
鷲は翼が生えた雛鳥を巣から突き落とすことがあるという。
彼は落下してゆく恐怖の中でに、とっさに翼を広げ、眠っていた
能力に目覚めて空高く舞い上がることを学ぶ。
神の霊に触れられる時わたしたち
の霊は無限の可能性を帯びる。
創造霊に結ばれることによって、想像を超えた
いのちと力が流れてくる。
パウロはかつては、被造物としての己に頼り、
その己を高めようとしていた。
しかし己は創造主に結ばれるときにこそ、
自分を超えた新たな己を見出すことを知らされる。
「創造主が共にいてくださる人生」
わたしたちは普通の凡人である。
しかし主が共にいて下さることによって特別な人にされている。
ダビデは人里離れた野で働く羊飼いの少年であった。
しかし、主が共にいて下さることによって、彼は獅子や熊を
倒し、その仕事を見事に成し遂げた。
巨人ゴリアテとの戦いにおいても、主が勝利してくださった。
主がともにいて下さることは特別な恵みである。
これに勝る栄誉はない。この事実自体が、偉大な奇跡である。
(2009・5・27)
「創造主の内側と外側」
創造主は永遠、スピリット(霊)、絶対であり、力の源泉である。
被造物の悲劇は人類の離反とともに、創造主のアウトサイダー
に陥ったことである。こうして人間は霊的に死に、永遠を失った。
創造主は、被造物を憐れまれ、外側の世界に歩みだされた。
もう一度、我々を内側に迎え入れるために。
創造主が被造物となられることによってそれは実現した。
4次元が3次元に入られたのである。
このお方は十字架によって、我々の罪を負われた。
十字架の主を見上げるときに、罪は除去され、創造主の
内側へ入れられ、創造主なる聖霊が私たちの霊に入られる。
そこで復活の主と、父なる神との交わりへ導かれる。
永遠から永遠にある父と御子と聖霊の交わりの中に入れられ
るのである。
栄光の主を仰いで、霊における至聖所での交わりをするとき
創造主なる聖霊がその臨在を現わして、力ある働きを見せてく
ださる。
創造主の内側に生きることは永遠を生きることである。
(2009・5・25)
(続)
永遠を生きるという表現より、私たちに内におられる
永遠者に生きていただくというべきと思う。
「私が」でなく「創造主が」という生き方が本来のあり方で
ある。私はいつも何事かをなさんとする。
しかし、その前に、私のうちに来て住んでくださって
いる聖なる創造主に感謝し、そのプレゼンス(臨在)の
恵みをもっと喜ぶべきだ。
一人でいる時も、人々の中にいる時も。
そうしてこのお方がどのように働いて
おられるか、体験させていただきたい。
「メーカーのもとへ」
人生に挫折し絶望したある人物が
時を定めて、定刻になったら、自ら
の生命を絶とうと考えた。
とこらが時計の針が動かず、予定の
時刻がこない。彼はふと考えた。
「この時計は自分のように壊れてしまって
何の役にもたたたない。だがメーカーに
もっていったら、新品のようにされ修繕さ
れて動き出すだろう」
ところで「一体自分のメーカーは誰なの
だろう?」と。
その時、彼の心にひらめいたのは真
のメーカーでありクリエイターである
創造主のことであった。
そうだこのお方のもとに、立ち返る
なら、すべてを御存じの方はすべ
てを新しくしてくださる。」
彼は祈った「主よあなたから離れた
私を十字架の血で赦してください。
私は自分をあなたのもとへゆだねます」と。
創造主は答えられた、「あなたは自分を
わたしに捧げてくれた。だからわたしも
自分をあなたに捧げよう」と。
この瞬間、彼は至高の富を手に入れた。
彼は創造主をもつ者とされ、最上の
栄誉に浴する者にされたのである。
神はあなたにもご自分を与えたいと
願っておられる。そして最も幸せな人に
なってほしいと願っておられる。
(2009・5・26)
静岡時代のクラーク
クラークの代表的著書
①"Life and Adventure in Japan"1878,ニューヨーク、American Tract Society出版
http://www.archive.org/details/lifeandadventur00clargoog
「日本滞在記」E・W・クラーク著飯田宏訳(講談社)
第3章「寺院生活」(39ページ)「わたしが忘れずに語らなければならないもう一人の家族は召使であった。まったく珍しい経験の男だった。 『サム・パッチ』(三八)という名で、私の料理人をしていた。年齢はわたしの二倍くらいで、いつも剽軽な態度と、珍しい話で皆を面白がらせた。・・・・・・」
(46ページ)「一日の任務が終わると、馬と別当が玄関にやってきて、わたしはティーに帰った。寺ではいつも、サム・パッチが焼きたてのライスケーキに蜜をつけたのや、うまい物を沢山用意して待ていた。」
第12章「日本よさようなら」(221ページ)
「かくて哀れなサムの地上の生涯は終わった。その妻は墓前で焚く香を買う金をわたしに求めた。わたしは、サムの死体の上に十字架を立てさせ、その上にサム・パッチとだけ記させた。」
訳者飯田氏は解説の中で以下のように述べている。
「彼が日本人に対して深い愛情を抱いていたことは、その著書中各所に認めることができるが、殊に勝安房に対する敬愛の念、通訳下条およびコック三八(仙太郎)に対する言動に表れている。」
②Katz Awa "The Bismark of Japan "or the story of a Noble Life.1908、ニューヨーク、B.F.Buck & Company 出版
http://www.archive.org/details/katyawabismarck00clargoog
「勝安房ー日本のビスマルク、ある高貴な生涯の物語」村瀬寿代訳(未出版)
(「本道楽」大正16年1月号以下に高橋邦太郎訳で連載されたこともある)
本著第4章「勝安房の家庭生活とキリスト教入信」には勝海舟が主イエスを受け入れて永遠のいのちを得た時の感動的な様子が記されている。村瀬氏による訳を引用させていただく。
「親しい友人のジョージ・C・ニーダム師(1)が、数年前、福音伝道旅行で日本を旅した とき、勝安房のところに行き会ってきて欲しいと手紙を書いておいた。静けさの中に あるその質素な家を、勝を殺すためにせよ、救おうとするにせよ、かつては多くの著 名な人物達が訪れたものであった。私はニーダム氏に紹介状を送った。彼は日本人の 牧師を通訳として伴い、すぐに勝に会いに行った。
勝安房は紹介状を読み、信仰深い訪問者達を丁重に迎え入れた。一時間かそれ以上 も、ニーダム氏が語る福音の真理に耳を傾けた。対談は、フィリポと宦官の会話のよ うに(2)、(後出の手紙に見られるように)短くはあったが、たいへん印象的なもので あった。ニーダム氏は終わりに、少し躊躇しながら、勝安房に跪いて祈りたいかどう かを尋ねた。勝は即座に同意し、祈りのことばは日本人の牧師により一行ずつ訳され た。彼らが立ち上がると、勝は涙に濡れた目をして立っていた。ニーダム師の手を握 り締め、人生で一番すばらしい恩恵のときだと、低い、静かな声で感謝を表した。日 本人はめったに感情を見せない。ここにいるこの人物は、刺客ともなりうる者達に、 臆せず立ち向かってきた。それが、キリスト教の説教一つで討
ち負かされたのだ。ひとたび真理を知ること、それは神の力がなす業であり、救いへ と導かれる。
(1)George Carter Needham
(2)使徒言行録8章26~40」