創造

創造主とセルフイメージの世界

新尾道紀行・大村はま先生と共に

2010-06-29 20:54:44 | 文学

 

山陽日日新聞特集


 『宮沢賢治と大村はまを結ぶ明治の精神』

               小学館教育編集部 横山英行

                       (2004・4)



確かに大村先生は宮沢賢治がお好きであった。まず最初に世田谷区弦巻のマンションにお邪魔した時、応接室の壁一面を覆っていた書棚に、賢治の作品が多いのが目についた。

また、二度目にお伺いした時には、偶然か何か、一月に一つ送られてくるという小さな鉢植えの花が、何と珍しいオキナグサ(賢治童話ではポピュラー)であった。ちょうど、明治大学の斎藤 孝さんと賢治についての話がひとしきり弾んだ、四月初めの一日だった。

授業でも、先生は「貝の火」や「虔十公園林」を教材に使われている。「貝の火」では、これを芥川の「蜘蛛の糸」との重ね読みに使用された。カンダタの糸は二度目に切れるけれど、宝石・貝の火はウサギの子ホモイの七、八度にわたる悪戯にも、そう簡単に割れはしなかった。「こういうのを重ねて読むことで、仏の慈悲というような、言葉では簡単に説明できないことでも、中学生の胸にすとんと落とし込むようにわからせることができるのよ」と、先生はおっしゃった。感心した私は、次にお会いする時までに調べていって、「貝の火」が「蜘蛛の糸」の二年ほど後の成立であることを先生にご報告した。「ですから、あの独創的と言われる賢治でさえ、芥川の作品を踏まえて書いた可能性はあります」と申し上げると、先生は「あら、そうお?」とおっしゃって、たいへん興味を持たれたご様子であった。

「虔十公園林」は、私も好きな作品であり、中学でも習ったので、先生と何かを共有している感覚がある。「虔十公園林の中に出てくる、アメリカから帰ってきた若い博士というのは、野口英世である可能性があるんです。製作年代的にも、英世が福島に帰ってきた頃と符合しますし、いつだったか宮沢静六さんにそれをお話ししたら、そういうことがあったかも知れませんね、とおっしゃっていました。」そんなことをお話ししながら、心の中で賢治ワールドを、先生とご一緒に彷復っていたことも良い思い出である。

「先生は、金子みすゞはいかがですか?」とお尋ねしたことがある。すると先生は、「宮沢賢治がいいなあ。」とおっしゃった。「金子みすゞは、どこか答えが見えているようなところがあるでしょ。」というようなことを、その時先生は言われたと思う。多くの人が口を極めてみすゞを礼賛していたような頃であったから、私は一瞬驚いた。なるほど言われてみると、そういう面もあるのかも知れない。殊に同時代を生きた文学少女の先生であってみれば、我々の与り知らぬ何かの評価眼があるのだろう。感性が切れすぎて、ものごとが見えすぎて、自死という手段で生涯を閉じるみすゞは、確かにクリスチャンとしての先生の価値観の対極にあるのかも知れない、そんなことも考える。

「宮沢賢治がいいなあ。」そうおっしゃった先生のお気持ちの背景には、北海道で開拓の仕事をしていた母方の叔父・小川義雄氏のことや、・牧さんと呼ばれる身体は不自由だが心のとても長閑な近所の叔父さんの面影があったのではなかったか。小川義雄氏はアメリ力帰りの農学士で、拓かれたフロンティア・スピリットめ持ち主であった。けれど晩年は事業に失敗して伊豆に引き上げ、ほとんど赤貧というような状況の中で亡くなった。牧さんも、いわば風来坊か居候のような人で、大村家が北海道から横浜へ引き上げてくるのとともに、実質上交流は絶えていったのであろう。初めはコバルトグリーンに輝いているかのようなのに、終わりはグレイの哀愁に沈むような、こうした北方の人々の面影が、どこかで賢治の生涯にオーバーラップするのだろうか。

先生は、アメリカへ帰った後不幸な晩年を送ったクラーク博士のことも、何となく気にとめていらした。東京女子大での師・新渡戸稲造学長のその精神的師でもあるクラーク博士の晩年を。




さて、大村先生の所へおうかがいするようになって二年目。『22年目の返信』という波多野完治先生との往復書簡集を編集していた頃、私は、何気なく先生の全集に目を通していた。その時、先生の自伝が書かれている別巻の363ページに、こんな一節があるのに目が留まった。大村先生の青春時代についての記述である。

「そのころから父の収入が不安定で家計が苦しく、三年生の終わりには、学業をつづけることがほとんど不可能になった。このとき、アメリカの宣教師の娘で、捜真で英語や音楽の教師をしていらしたビッケル先生(後のミセス・タッピング)が、名を秘めて学資を出してくださることになった。「将来、伝道か教育かの道に進んでほしい。それから・あなたの生涯の間に、やはりそういう道に進む貧しい生徒があったら、その人を助けてあげてください。」と、この二つだけを条件に、卒業まで黙って学資を出してくださったのである。」

この文中のタッピングという名前が気になり、また何処かで聞いたようでもあったので、インターネットで検索してみた。すると意外なことに、最初に見つかったのは、東京多磨墓地の番地マップであり、そこには次のように記されていた。

「ウィラード・タッピング1899.4.5(明治32)~1959・7・16(昭和34)東京出身。父は宮沢賢治に聖書を教えたことで有名なヘンリー・タッピング。妻のエバリン・タッピング(EVELYN.BICKEL.TOPPING)1899.7.11~1983・2・19 は横浜生まれ。エバリンの父は瀬戸内海近海で福音丸に乗って伝道活動をしていたビッケル船長。」やはり予想は的中した。タッピングとは、宮沢賢治の詩『岩手公園』に出てくる、あのタッピング父子のことであり、ビッケル先生はその詩の中で「大学生のタピングは」と歌われている息子のウイラード・タッピングと結婚されていたために、(後のミセス・タッピング)という記述になったのである。

さらに、ビッケル先生についての記述が続く。

「エバリンは11歳まで瀬戸内海の福音丸船上で過ごした後、渡米して高校と音楽学校を卒業。1921(大正10)年宣教師として来日し、横浜の捜真女学校で音楽教師をしていた。


1923(大正12)年ウイラードと結婚。1931(昭和6)年から夫と共に瀬戸内の島峡部会宣教師として過ごし、1941年、日米間の関係悪化に伴い、いったんアメリカへ帰国。戦後再び来日。創生期の関東学院短大のために尽力した。アメリカのアルハンブラで没し、遺骨 は日本へ。ここにすべては 符合した。 先に紹介した大村はま先生への匿名の援助は、上記の1921年から1923年頃、まさしくビッケル先生が横浜捜真女学校にいらした頃の出来事である。

そしてその頃は、結婚を控えウイラードとの交際が続いていた時期ということもわかった。

二人の愛の語らいの中には、若き日のHama Ohmuraのことも話題に上っただろうか。・・・私は不思議の感に打たれた。 間接的な仕方であるとは言え、大村はまと宮沢賢治が確かにつながっているのだ。 ひとつのキリスト教精神が タッピングという宣教師の家族を通し、一方では宮沢賢治に影響を与えている。つまり仏教のみに執着していた若き賢治に普遍的な宗教というものへの視座を与え、それはやがて『銀河鉄道の夜』の中でカムパネルラとの別れという形に昇華されていく。 そしてもう一方では、若き大村はまに教師の道を歩ませ、さながら賢治童話の中のさそりの火や大犬の火にも似た 教育への身を焦がすような捨身へと向かわせてゆく。



                 『岩手公園』宮沢賢治


「かなた」と老いしタピングは

 杖をはるかにゆびさせど

 東はるかに散乱の

 さびしき銀は声もなし



 なみなす丘はぼうぼうと

 青きりんごの色に暮れ

 大学生のタピングは

 口笛軽く吹きにけり



 老いたるミセスタッピング

「去年〔こぞ〕なが姉はこゝにして

 中学生の一組に

 花のことばを教へしか」



弧光燈〔アークライト〕にめくるめき

羽虫の群のあつまりつ

川と銀行木のみどり

まちはしづかにたそがるゝ



この小さな発見によって、私の中では、有名なこの「岩手公園」の詩が 大村はまとの関連なしには読めなくなった。 少なくとも、賢治のいわゆる「第四次的」眺望の中では、賢治のこの若き日の心象は、若きタッピング夫妻のロマンスを経て、若き大村はまの物語にまでつながっている。そして苦学時代の大村はまの心象も、自分の前に名前さえ示さない善意と恩寵のかなた、明治のキリスト教精神を介して、はるかな東北の宮沢賢治の物語にまでつながっているのだ。

ビッケル先生の足跡を求めて

(大村先生瀬戸内の旅)

ところで、この物語は、まだこれだけでは終わらない。例のインターネットは、また同時にまったく別のタッピング情報も見つけていた。瀬戸内の向島教会というキリスト教会のホームページにも、タッピング情報が見つかったのである。そこには何と、ビッケル先生のご息子のケン・タッピング一家が、2002年9月12日、瀬戸田教会・博愛幼稚園を訪問されたことが写真付きで紹介されていた。タッピング氏は、いま京都大学客員教授として、危機管理や防災研究機構の研究をされていることもわかり、ヘンリー・タッピング以来、そしてビッケル船長以来、三代にわたる日本通、日本贔屓としての二つの家系が浮かび上がったのである。

偶然とは恐ろしいもので、時あたかも大村先生は、尾道への旅を計画されていた。前年、教育の世界にいろいろと不幸な事件のあった尾道市の若い先生や教育委員会が中心となって、大村はま先生をぜひ尾道にお招きし、講演会を開いていただくことで、もう一度教育の原点を見つめ直し、元気づけを図りたいとの計画が進んでいたのである。

この時、大村先生の遠出を懸念される年輩の方たちからの声が上がった。大村先生のご高齢に配慮される時、それもまた当然であろう。しかし、大村先生は、「年輩者の助言と、尾道の若い教師達からの求めの二つがある時、私はどうしても若い方々の方をとらざるを得ない」とおっしゃって、尾道行きを決断された。

講演の以前から、尾道市の対岸にある向島教会の南沢満雄師にはたいへんなお世話になった。南沢師は、大村先生の尾道訪問に際し、「瀬戸内の教会訪問の際には、ご案内しますよ。ビッケル先生やビッケル船長ゆかりの教会もございますし」と気安く引き受けてくださった。その上になお、ビッケル先生関係の資料蒐集のために、横浜西谷キリスト教会の和泉牧師を紹介してくださったのである。和泉牧師は、捜真女学校等を探し回られて、福音丸甲板上にある少女時代のビッケル先生の写真や、ウイラード・タッピングとの結婚式の写真など、貴重な数々の資料をわざわざ私の会社にまでお届けくださった。そして、大村先生の尾道出発の前日には、次のようなビッケル先生の筆跡までも見つけてくださったのである。そこには、英文で次のように書かれていた。


Into my heart  心へ、

Into my heart   心へ

Come into my heart 私の心へ来てください、

Lord Jesus     主イエスよ。

Come in today    今日来てください、

Come in to stay   そして留まってください。

Come into my heart  私の心の中に、

Lord Jesus      主イエスよ!

そこには、日本語の片仮名でエバリン・ビッケル・タッピングの署名もあり、1949年11月13日の日付があった。おそらく瀬戸内宣教50周年で来日された時に書かれたものであろう。尾道へ出発の朝、早速、新幹線の中で大村先生へお守りとしてお渡しした。



4月9日、尾道市内のしまなみ交流館(テアトロ・シェルネ)で開かれた大村先生の講演会は、大成功に終わった。先生は、国木田独歩の『画の悲しみ』という教材を使って、子どもを優劣を超えて文学鑑賞へと導く方策をお話しになった。これは、力のある子もない子も、ともに鑑賞ということの醍醐味へと連れて行く「てびき」の作成を要するため、教師にはやや労力の要る単元である。従って、大村先生の講演も、たいへんな力演となった。そのことがまた尾道の若い教師達を、強く感動させたのである。

講演翌日の4月10日、大村先生は午前中、千光寺山で観桜の後、フェリーで向島に渡られた。午後1時半より、向島教会で開かれる「賛美歌の集い」に出席されるためである。

車が教会に着くと、すでに耳にはさわやかな賛美歌の練習の声が聞こえてきた。会場に入ると、テーブルには幾つも幾つも、信者の方の手で剥かれた蜜柑の山が、透き通るように輝いていた。広島からお越し下さったプレドモア宣教師(現・捜真女学校理事)も、大村先生を迎えて親しくご挨拶された。昨日の講演会にも来られていた南沢牧師が、その報告も含めて、歓迎の挨拶をされた後、奥様のピアノで賛美歌の合唱となった。「主われを愛す」や「われは谷の百合なり」など、大村先生が幼少の頃、お母様や日曜学校の方々とともに歌った歌が披露され、先生も幼時に返ってほとんど全ての歌を歌われた。

続いて大村先生の講話となり、先生は子供の頃に読んだ旧約聖書のヨブ記やヤコブとエサウの話をなさり、特にヨブの生涯について、「どうして神様はこんな辛いことをなさるのかと、本気になって泣いた少女時代もありました。みなさんはいかがでしたか?」と問いかけられた。イエスの最後の言葉「神よ、神よ、なんぞ我を見捨て賜いしや?」にも言及された先生の心には、きっと世界の根源にある不条理と、それにも負けぬ信仰という強いメッセージがあったのであろう。うららかな瀬戸内の教会の午後に響いた、大村先生のこの静かな厳しいメッセージが今も印象に残る。

最後に大村先生作詞の「蓼科の歌」を合唱して、一行は向島教会に別れを告げ、瀬戸田教会・博愛幼稚園へと向け出発した。

行く道々、車窓からは、うららかな島々の春の入り江や純白の大橋、岡々に点在する野生の紫つつじが美しく眺められた。そして、到着した瀬戸田の教会では、累々と盛り上がるように咲く満開の桜が大村先生を迎えたのである。


ここで先生は、まずビッケル船長の遺影並びに福音丸の中にあった説教壇に対面された。

その壇上から、ビッケル船長が福音を述べ伝えた時、おそらくは少女時代のビッケル先生も、じっと聞き耳を立てたことであろう。…その時、大村先生は素速く、教会の一隅にあるオルガンに目を留められて、奏いてみたいとおっしゃられた。先生は、若き日に、お母様の後を継いで、横浜の海岸教会のオルガニストを務められたことがあるが、その手ほどきをされたのは、他ならぬビッケル先生であった。


ビッケル先生への返礼のお気持ちなのか、苅谷夏子さんの助けを得て、先生は楽譜を眺め眺め、賛美歌の幾フレーズかを奏かれたのである。「オルガンに触れるのは…戦後初めてかしら。」何気なく話されるが、そうするとすでに60年近くの時間が流れたことになる。何とも気の遠くなるほどの話だ。



最後に向かわれたのは、重井の教会付幼稚園であった。車が因島の旧い路地を切り開くように入っていくと、遠くの山の山腹には広大な墓地が見え、幾つも幾つもの先祖達の眠りがあった。島の先祖達から遥かに見守られながら、幼な子たちの今日の営みはあり、またビッケル船長以来の福音の歴史はあるのであった。休日の幼稚園の中は森閑として幼な子たちの声も聞こえない。その静まりの中央に、福音丸のマストは、この建物の大黒柱として堂々と聾えていた。少女時代のビッケル先生を見下ろしていた、これがそのマストである。車椅子の大村先生は、始め近づいて手を触れておられたが、やがて車椅子から立ち上がり、これを両腕に抱きしめられた。小さくなった腕ではあるが、中指と中指とがかすかに触れ、ひとつの環に閉じた。明治以来、日本人と外国人がいっしょになって守り伝えてきた、“教えるというこど’の環が、今静かに閉じる…そう感じた。

お助けする林原園長も感慨深げであった。何せこの柱は、正真正銘こ福音丸第一号のメインマストであり、床は福音丸のデッキ、窓も福音丸の窓だというのだから。

その時、大村先生がぽつりとおっしゃった言葉が、今も記憶に残っている。「いつまでも続いていく…」

確かにこの柱は、ここ瀬戸内の教育の歴史の、不動の座標軸そのものである。

福音丸は今もマストを立て、時空を超えて、この瀬戸内の海を航行しているのであり、ビッケル船長の遺徳は、島々の至るところにちりばめられている。そして、娘のエバリン・ビッケル・タッピングとともに、かつての少女Hama Ohmuraの肩をもやさしく抱いているように思えた。

ビッケル先生は、ちょうど大村先生が教師としての仕事を終え、自分の全集の執筆にかかり始めた頃にアメリカでお亡くなりになっていた。そして今、その遺骨の一部は、東京多磨墓地にあるタピング家の墓に眠っている。最期の言葉は、「私が日本にいた時にね…」であったというが、その途中で途絶えた思いの彼方には、はるかな日本の瀬戸内の海や、大村はまを含む日本の少女達の青春の日の姿が、思い描かれていたに違いない。


帰路、暮れゆく春の因島の風景を振り返りながら、向島の教会で、大村先生の「蓼科の歌」に続けて歌った歌のフレーズを思い出した。



暮れなずむ 尾道の海

しまなみに 夕映え燃えて

師の君の夢は 遥けく

架け渡す 希望の橋か



明けはなつ 尾道の海

灯台の 明かりも消えて

福音の船は 旅立つ

み教えの 果てなき海へ



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日英和解と友好

2010-06-29 16:12:44 | 歴史


向島捕虜収容所Mukaishima,Hirosima POW Sub-Camp,No4

捕虜運搬船『大日丸』の謎
「クワイ河収容所の奇跡(原作「クワイ河収容所」アーネスト・ゴードン斎藤和明訳:ちくま学芸文庫)」(To End All Wars)映画化完成

アガペ・恵子ホームズさん

著書

感謝報告pamphlet



Pow研究会(Pow Research Network Japan)HP

中国新聞掲載1月21日記事(POW研究会共同代表笹本妙子さん


2003年1月8日
マッシュウさん(元米国兵捕虜ハロル・ドベーカーさんのお孫さん)とフィアンセの田中さん、モニュメントへ


日英グリーン同盟春海二郎氏ご夫妻、2002年11月9日(土)日英の親善に広島県大和町での
植樹式に出席、午後は尾道、因島、向島を訪問。


タイメン鉄道については『謝罪と赦し-クワイ河にかける橋を訪れて-斉藤氏』をお読みください。



2005年3月恵子ホームズさんとアガペのみなさん
テレビ新広島:3月14日(月) 18:20~(5分程度)
広島テレビ:3月18日(金) 18:17~(5分程度)

2005年8月17日(水)アメリカ元米軍捕虜Martin L.Zapf氏と夫人 60年ぶりに向島訪問。(テレメンタリー取材「ヒロシマをはじめて見た米兵」
ドキュメンタリー工房






イギリス人元捕虜プラントンさん家族2006年6月6,7日尾道に来訪(英字新聞)

2006年10月9日(月・祝)英国よりアガペ(恵子ホームズさんと元捕虜、及び家族の方々)来訪     ご一行20名の中にタイメン鉄道での辛苦をなめつくされたデイヴィッド・ブラットさん(86)がおられ
     日本での和解を願い日本文化に接することを願われています

2007年10月15-17日アガペ恵子ホームズさん英国人元捕虜家族尾道訪問

「時の翼」(教育委員会編)










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勝海舟と新日本

2010-06-29 09:16:32 | インスピレーション
勝海舟について

「青い空」海老沢泰久著(文芸春秋)はフィクション小説という形態をとっているが、その主人公は勝海舟であるといえよう。

勝は語る。「心の中に神を持つということは大事なことだ。日本人というのは、有史以来、神というものを持ったことがないから、上の者の命令ばかりで動いている。公儀もそうだ。だから、上の者が能無しばかりになったら、このありさまさ。しかしお前さんは神と相談しながら一人で歩いている。今までの日本にはいなかった日本人なのかもしれないよ。」
(p354)

お前さんとは著者、海老沢氏が設定したキリシタンの末裔である主人公の青年であるが、おそらくこの思想は勝海舟自身のものであったであろう。

それはキェルケゴールの単独者に通じるもののようでもあるが、閉ざされた存在ではなく、創造主に対して広く開かれた思想であり、聖霊なる神を心に迎えることによってしか到達し得ない境地といえよう。

「フルベッキの生涯-明治維新とあるお雇い外国人-」大橋昭夫・平野日出男-(新人物往来社)によれば

晩年、勝は慈悲深い老人になっており1909年(明治32年)1月19日の一週間前に、子供達の一人は、勝がキリストを信じるとつぶやく信仰告白をはっきり聞いたという。

彼はオランダ語にも精通しており、オランダ出身のアメリカ宣教師フルベッキとは、心の中で深く共鳴するところがあったと思われる。

フルベッキ宣教師親子を囲む謎の写真についてその真偽のほどは判明しがたいが、すくなくとも小柄で細面の姿は、史実で伝えられている点と一致する。

 フルベッキもまた、創造主との御霊による交わりを、何よりも尊ぶモラビアンの影響下で育てられていた。

フルベッキの明治天皇への影響については、明治天皇のお孫さんの一人、小林隆利牧師が詳しい。

しかし、明治の政変を境として、日本思想界は、大隈重信や福沢諭吉などのいわゆる、英米派から離れて立憲君主を奉じるプロイセンのドイツ観念論へと傾斜してゆく。

 天皇は好むと好まずにかかわらず、絶対的存在として奉られ、やがて皇民化思想へと転移していったと思われる。

ドナルド・キーン著「明治天皇」上下(新潮社)は近代化のシンボルとしての明治天皇を描いている。

他方、山本七平著「日本の歴史-南北朝と天皇-」(ビジネス社)は思想史としての南北朝天皇論を解説している。

明治天皇は崩御の前年、正統天皇家は南朝であるとの勅裁を発せられたという。

それは、頼朝以前の前期天皇制こそ思想の上での正統性をもつものだという意味なのだろうか。

それとも、長く秘してきたご自身の南朝の末裔であることを最後に証言されたのであろうか。

いずれにしろ、封建制によって西洋に遠く立ち遅れた日本を近代化して列強に肩を並べるべく、先人達は血を流し、苦悶したということは忘れられてはならない。

そしてそれは、歴史の主でもあられる創造主ご自身の戦いであり苦悶であることも確かであろう。

 神は、この国を愛し、憐れんでおられる。


クラークと勝海舟
静岡時代のクラーク

「clark..pdf」をダウンロード

クラークの代表的著書

"Life and Adventure in Japan"1878,ニューヨーク、American Tract Society出版


「日本滞在記」E・W・クラーク著飯田宏訳(講談社)

 第3章「寺院生活」(39ページ)「わたしが忘れずに語らなければならないもう一人の家族は召使であった。まったく珍しい経験の男だった。 『サム・パッチ』(三八)という名で、私の料理人をしていた。年齢はわたしの二倍くらいで、いつも剽軽な態度と、珍しい話で皆を面白がらせた。・・・・・・」

(46ページ)「一日の任務が終わると、馬と別当が玄関にやってきて、わたしはティーに帰った。寺ではいつも、サム・パッチが焼きたてのライスケーキに蜜をつけたのや、うまい物を沢山用意して待ていた。」

第12章「日本よさようなら」(221ページ)

「かくて哀れなサムの地上の生涯は終わった。その妻は墓前で焚く香を買う金をわたしに求めた。わたしは、サムの死体の上に十字架を立てさせ、その上にサム・パッチとだけ記させた。」

訳者飯田氏は解説の中で以下のように述べている。

「彼が日本人に対して深い愛情を抱いていたことは、その著書中各所に認めることができるが、殊に勝安房に対する敬愛の念、通訳下条およびコック三八(仙太郎)に対する言動に表れている。」

Katz Awa "The Bismark of Japan "or the story of a Noble Life.1908、ニューヨーク、B.F.Buck & Company 出版


「勝安房ー日本のビスマルク、ある高貴な生涯の物語」村瀬寿代訳(未出版)

(「本道楽」大正16年1月号以下に高橋邦太郎訳で連載されたこともある)

本著第4章「勝安房の家庭生活とキリスト教入信」には勝海舟が主イエスを受け入れて永遠のいのちを得た時の感動的な様子が記されている。村瀬氏による訳を引用させていただく。

「親しい友人のジョージ・C・ニーダム師(1)が、数年前、福音伝道旅行で日本を旅した とき、勝安房のところに行き会ってきて欲しいと手紙を書いておいた。静けさの中に あるその質素な家を、勝を殺すためにせよ、救おうとするにせよ、かつては多くの著 名な人物達が訪れたものであった。私はニーダム氏に紹介状を送った。彼は日本人の 牧師を通訳として伴い、すぐに勝に会いに行った。

勝安房は紹介状を読み、信仰深い訪問者達を丁重に迎え入れた。一時間かそれ以上 も、ニーダム氏が語る福音の真理に耳を傾けた。対談は、フィリポと宦官の会話のよ うに(2)、(後出の手紙に見られるように)短くはあったが、たいへん印象的なもので あった。ニーダム氏は終わりに、少し躊躇しながら、勝安房に跪いて祈りたいかどう かを尋ねた。勝は即座に同意し、祈りのことばは日本人の牧師により一行ずつ訳され た。彼らが立ち上がると、勝は涙に濡れた目をして立っていた。ニーダム師の手を握 り締め、人生で一番すばらしい恩恵のときだと、低い、静かな声で感謝を表した。日 本人はめったに感情を見せない。ここにいるこの人物は、刺客ともなりうる者達に、 臆せず立ち向かってきた。それが、キリスト教の説教一つで討ち負かされたのだ。ひとたび真理を知ること、それは神の力がなす業であり、救いへ と導かれる。



(1)George Carter Needham

(2)使徒言行録8章26~40」


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仙太郎、改訂版

2010-06-24 21:02:15 | 本と雑誌
Sentaro, Japan's Sam Patch: Cook, Castaway, Christian Sentaro, Japan's Sam Patch: Cook, Castaway, Christian
価格:¥ 1,729(税込)
発売日:2010-02
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永遠への道

2010-06-21 17:13:43 | インスピレーション
人間は被造物であり、有限だ。
神は創造主であり、無限であり永遠だ。
 人が創造主と断絶したことにより、死が
訪れた。
 創造主がこの世に来られ、ご自身と人間を
結ぶことによって、人間は永遠を生きること
が可能になった。
そのプロセスが主イエスの生涯に現われている。
ヨハネ福音書
は幕屋に入る祭司の道程順に描かれている。
神がおられる至聖所への道である。
主イエスご自身が幕屋であり、神殿であるが
同時に永遠の祭司である。
私たちは主に信頼し、依存することによって
主と一つに結ばれる。
主とともに世に死に、サタンの呪縛を断ち切り
主と共に至聖所に生きる。
創造主のふところに生かされる。
若くして殉教したステパノただ一度の説教に
律法は『天使』からもたらされたと述べられて
いる。
それに対して福音は創造主が人となることによって
直接なされたものだと語れる。
旧約においては、何人も至聖所に入ることは許されて
いなかった。
神に近づく道はあったが、神ご自信の中に入ることは
できなかった。
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戸川残花にバプテスマを授けたのはタムソンかカロザースか?

2010-06-19 16:39:28 | 日記・エッセイ・コラム
戸川残花 (安宅) 詩人・牧師
江戸牛込
安政2年(1855)~大正13年(1924)
とがわ ざんか(やすいえ)

281

安政2年(1855年)江戸牛込原町に生まれる。

異母兄安道の後を継いで、維新の際14歳で旗本戸川家備中早島食録5000石を相続。

明治7年家禄奉還の制により、以来、大学南校、慶応義塾、築地学校などに学ぶ。19歳の時にタムソン宣教師の築地新栄教会に通い、明治7年(1874)、キリスト教の洗礼を受け、16年(1883)からは伝道師として関西方面で布教。帰京後、麹町教会の牧師となる。23年(1890)「伝道師」,「童蒙賛美歌」(共編)、「新撰賛美歌のてびき」(18925)などを刊行。26年(1892)「文学界」の創刊時、客員として詩文を発表。中でも「桂川」は北村透谷から激賞される。同年毎日新聞社に入社し、小説の筆もとった。新人時代の田山花袋、島崎藤村の面倒をみたり、樋口一葉に縁談をすすめたエピソードがある。
1897年勝海舟ら旧幕臣の賛助の元に「旧幕府」を創刊し旧幕時代の史料の収集に尽力した。明治34年(1901)、成瀬仁蔵とはかり日本女子大学の創立に参画し、国文学教授となる。晩年は紀州徳川家の南葵文庫の主任をつとめた。

残花の受洗は「幕末小史」(人物往来社)巻末の年譜によれば、1874年(明治7年)12月タムソン師によるとあり、新栄教会所属とある。

しかしご子孫の中村氏によれば、カロザース師によってバプテスマを受けたと伝えられているとのこと。

いづれが正しいのかどなたかに教えていただきたい。

ところで両宣教師は日本プロテスタント初期宣教において二つの潮流を代表していたことが「二つの福音は波濤を超えて」(棚村重行著・2009年教文館)で解明されている。

タムソンは米国「新カルヴァン主義者」の組織神学者E・A・パークに近く、

カロザースは長老派のC・ホッジの神学「旧カルヴァン主義」の影響下にあった。

前者はアルミニウス主義をも受容する調停神学であり、「一致(エキュメニズム)」「福音同盟」と「日本基督公会」運動を展開して、バラ宣教師よって継承された。

後者は、古典的カルヴァン主義に立ち、前者をを神学的折衷主義と批判し、合同主義に反対した。

フルベッキも後者に近い立場だった。

棚村氏は和(合同)を重視する日本人キリスト者の性格と、真理を重視するゆえか分派をも厭わない韓国教会の特質に言及している。

愛と一致は妥協とは違う。

大学南校(東大の前身)、慶応義塾、築地学校(日本基督教会創立者バラの創立)に学んだ戸川残花は20歳でバプテスマで受けた。

その後、西宮、岸和田、津、京都などの関西地方に伝道し、帰京して麹町教会牧師となり讃美歌や信仰書の翻訳に従事した。

壮年になって「文学界」その他に精力的に詩文を寄稿した。

残花の新体詩は「宗教的思想の濃厚な点において、当時残花の上に出づる者はない。しかも宗教思想をただ概念的に吐露したのではなく、彼の場合は繊細な詩人らしい感覚で万象を感じ、豊富な想像を駆使して人心の秘奥を窺うという詩人本来の素質がいつも根底になっている」と評された。

明治31年、勝海舟などと協力して、元幕臣として「旧幕府」を編集発行した。

明治34年、成瀬仁蔵を助け、渋沢栄一、大隈重信らとともに日本女子大学の創立に参画して国文、国史を教えた。また慶応義塾大学に招かれ、江戸趣味に関する課外講義もした。

大正に入り「禅」を学び、「宗鑑」と号し、悠々自適の生活を送った。

晩年、「何事も運命、神の御心、前世の因縁、朝の花は夕に散る、波阿弥陀仏、アーメン、喝」という言葉を愛用し、大正13年12月8日、大阪天王寺の長男浜雄宅で没した。

残花の生涯を見るかぎり、カロザースよりもタムソンに近く、プロテスタント内の合同をも超えて仏教とも対話と一致を試みたといえよう。

しかし、フルベッキが危惧したように合同教会が神学的な曖昧さを残した故に挫折したのと同じように、残花の「和の精神」は妥協の道と紙一重のものとならざるをえなかった。

バルトが幼児洗礼を批判しゴーブル宣教師が浸礼にこだわったのは、聖霊による信仰告白を重視したからであった。思想の背後には霊がある。霊的4次元的なレベルから歴史と自己を見つめる必要がある。

被造物としての人間の知能と生命(プシュケ)だけによるのではなく、創造主を心に迎え、その永遠のいのち(ゾーエー)を生きること、創造主の内部、至聖所に生きること、これこそ神が与えてくださった驚くべき恵みである。そこに「普遍の和」があり、「一致」がある。

我々を惑わそうとする闇の霊にう打ち勝つため、内におられる聖霊なる神の知恵と導きを日々求め、このお方に依存しなければならない。

そこに、二つの相対する潮流を超える真の一致が見出されると思う。

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ワイコフ、マーティン・ニーヴィアス Wycoff, Martin Nevius

2010-06-14 11:16:02 | 日記・エッセイ・コラム

ワイコフ、マーティン・ニーヴィアス Wycoff, Martin Nevius (1850.4.10- 1911.1.27)

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アメリカのニュージャージー州ミドルブッシュ生まれ。

1872年ラトガース大学卒、724来日。グリフィスの後継者として
直ちに福井藩明新館の教授として就任2年間教える。

74年月新潟外語学校へ転任、ここでも2年間教え。76年東京大学予備門に転任、
任期満了に伴い翌年帰国。

81年横浜先志学校長就任のため来日。83年同校はJ.C バラの築地大学校と合併して
東京一致英和学校となり、さらに明治学院となるが、その教育に専念、物理化学、英文学
、英語学などを担当した。

福祉事業にも尽力、目黒の慰廃園、東村山のライ病院へも慰問伝道をした。
基督教書類会社、基督教教育会の理事、会計もつとめる。
東京に病没。墓は白金瑞聖寺にある。

著書『フルベッキ小伝』
戸川残花の教友でもあった。
                                   

(キリスト教人名辞典・基督教団出版・参照)

①Rev.Guido Fridolin Verbeck,D.D by Wyckoff 「wyckoff.pdf」をダウンロード

②日本語訳

 Rev.Guido.Fridolin Verbeck,D.D.   
         M..N ワイコフ教授
         BY PROF.M.N.WYCKOFF,SC.D.
 
 親愛なる友のみなさん、このたびフルベッキ博士についてお話しすることを光栄に存じます。
彼を知っていた人々の思い出を呼び起こし、そして恐らく彼についてただ知り合いの人々の
興味にいくらか加えたいと思います。
長い間、わたし達ミッションの誇りであり先輩であった友のこと適切に語るには私自身の足りなさを覚える者です。
わたしより長く彼を知っている他の方々がいますが、それぞれにおまかせするとして、日本で半世紀近くいたわけでもない者ですが、今日、彼について語るのもふさわしいことかもしれません。 
わたしは37年前にフルベッキ博士に会いました、それはわたしが日本に来て最初の数日であり彼の家のゲストとしてでありました。
彼は既に名を成しており、この国で最も影響力のある外人でありましたがその振る舞いには
そのようなことを自覚しているようなものはなにもありませんでした。
あの時から、残る25年間の中で与えられた、親交と交流の親密さによって、その友情が養われ、強められたことは喜びでした。
ギド-・フリドリン・フルベッキは1830年1月23日オランダのユトレヒト地方のザイストに生まれました。
彼の父は、ギド-の誕生の頃とその後何年もザイストの町長でした。
彼ははじめ町のモラヴィアンアカデミーで教育を受け、後にユトレヒトの工業専門学校での私的な学びをされました。
その誕生の地とフルベッキ博士の早期の生活は、主がその奉仕に用いるためための人々に、いかに準備をあたえるかということの詳細で明瞭なお手本になりました。
彼の両親はルーテル派でありましが、彼らはある理由でモラヴィアン教会に出席し、その子供をモラヴィアンの学校に送りました。
それは疑いなく宣教への召しを聞くために備えられていたことと関連していて、その召しの声はアメリカにおいて、オランダ生まれだということでやってきたのです。

わたしはしばしば、彼が昔のモラヴィアンスクールにいたときのこと、そして他の人に述べていたようにその影響について語るのを聞きました。
「真の宣教精神とは何であるかを、私は若いときに吸収しそして生涯持ち続けた。わたしは宣教師の会合で宣教報告を聞いたとき受けた深い印象を生き生きと思い起こすことができる、特に中国の使徒、ギュツラフ(Gutzlaff)からのものを。」と。

モラヴィアンスクールで受けた教育もまた、彼がやがて日本でしなけらばならない困難で多様な仕事を遂行するための適応力と能力を与える上で最善のものでありました。
その教育で大変重要な分野はドイツ語、フランス語、英語、そしてオランダ語の学びであり、それぞれの言語はその国の母国語を話す人々によって教えられていました。
このようにして少年ギドーはそれらの原語をほぼ同等に話し、書くことができるようになったのです。日本における最初の15年間の生活において、フルベッキ博士の働きの多くはこの4ヶ国語の知識に依存し、そのすべてが時として、直接彼の仕事に結びついていました。
彼の母国語(4母国語というべきであるがあえて一つの言葉というならば)オランダ語は欠かすことのできないものであり、初期、長崎の時代、オランダ語を知っている知識人やオランダ語で医療教育を受けた当時最も進歩的であった医師たちとの交際に役立ったのです。

日本政府における後期の公務では、彼の普通の働きの大部分は重要なドイツ語、フランス語、英語の本を日本語に翻訳することであり、このために、少年の時の語学訓練が必要不可欠な教育であったのです。

彼が誕生した年、1830年はヨーロッパで最初の鉄道建設で沸き、機械技術における新時代の始まりということで注目されました。
数年後、少年ギドーにとって、将来の職を決めなければならない時がきたとき、家族会が開かれ、エンジニアとなるよう訓練を受けるべきであると全員が一致しました。

学びを終えて後、間もない1852年、彼はアメリカに渡り、3年間ウィスコン州のグリーンベイで、1年間アーカンサスでその職に着きました。
けでども彼は満足できず、福音を語るという召しを感じ、1856年ニューヨークのアーバンの
神学校に入学し、1859年その学校を卒業しました。
まさにその時、わたし達の教会の外国宣教ボードが日本での宣教を計画し、要請されました。
なぜなら、オランダと日本との長い交流がわれわれダッチリフォームド(オランダ改革派)の宣教師にとって、特別な機会を開くであろうと考えられたからです。
S・R ブラウン博士は既に志願しており、受け入れられていました、宣教師のうち一人はオランダ生まれでオランダ語に堪能なものであることが重要ではないかと考えられました。
その時、われわれ自身の神学校にはそれに適する人物がいなかったので、他のところに照会
がなされ、アーバンの卒業クラスにフルベッキ氏が見出されたのであります。
彼は即座に、日本へのわが教会の宣教師になる招聘を受け入れました。

彼はカユガのプレスビテリアンによって卒業按手をうけ、翌日カユガの同期生に移されました。
「一晩でプレスビテリアン牧師」としてし知られるようになった訳です。
1859年4月、フィラデルフィアのマリアマニオン嬢と結婚し、5月7日、ニューヨークを出航
11月7日、ニューヨークを出航して、ちょうど6ヵ月後に長崎に着きました。
フルベッキ博士が長崎の地に踏み出したその日以来、交通の機能においても、日本自体の情況においても偉大な変革がなされ始めていました。

当時、今と同様、新たな宣教師の仕事は言葉の学びでした、しかしそれは大変困難な情況でなされました。1883年このことについてフルベッキ博士は語っています。
「語る必要もないかもしれないが当初は、言葉の学びは現在とは全く違っていた。
それは今日の学生が与えらている多くの助けやガイドがないことから、ほとんどの働きは調査と発掘でありました。」
今もまた、直接宣教の働きをすることでその機会を見つけることは難しくないです。
真の困難は新しい宣教師がそのことで多くを費やしすぎるすこと、言葉の学びが本務を損なうことのないように守ると言うことです。
しかし、その頃は宣教師は疑われ、監視されており、最初の努力はほとんど語学研修に費やされたのでした。
1883年大阪会議ために準備されたプロテスタント宣教史において、フルベッキ博士はヘンリースタウト師あて前に書いた次の手紙を引用しています。
「われわれは、人々が宗教的な事柄には触れたがらないことに気づきました。そのような話題が日本人のいるところで提出されると、彼の手はほとんど無意識のうちにそののどにあてられてそんな話題がどんなに危険なものであるかをしめすのです。
もしそのような情況で、二人以上の日本人がその場にいれば、人々の用心深さがより顕著になるでしょう。というのはあなたが覚えているように人との間の信頼関係は,おもに、監視密告
といういまわしいシステムのためにほとんどないということです。そのことはわたし達が到着したときも、その後数年たってからも蔓延していました。
わたしたたちが適切な働きを望むむならば、その前に二つのことが成し遂げられなければならないことは明白です。それは人々の広い信頼を得ることと日本語を習熟しなければならないということです。最初の件ですが、知識人や疑い深い人々はわたし達が人々を「神の国」への忠誠から堕落させ、その道徳を腐敗させてしまうためやってきたと考えていたからです。
このようなひどい誤解を彼らの心から取り除くため、かわらない親切さと寛大さによって、日本人に役に立つことのためだけにきたということを示す努力をしなければなりませんでした。友人として、仕事上や義務上、或いは他のためのいかなる出会いのなかでもそうでした。
これがクリスチャンの誠意ある義務です。
成功的仕事のため実質的に不可欠な条件は言葉の習得でしたが、さまざまな理由で、好ましい情況ではなく、仕事ははかどりませんでした。」

1872年にいたる宣教の結果の総括で次のように書いています。
「プロテスタントの宣教師は、全体的に人々の信頼と尊敬を勝ち取った。人々の心が開放されたこと、彼らの偏見が取り去られていること、そして過度の警戒心が、外人との交流を望む心に変えられたことは非宣教的要素として加えられた実であった。
しかし人々の信頼を得たことは神の恵みのもとに、忍耐深い働きと、クリスチャンの性格と行動
そして宣教師達自身の教えの結果であった。
広範囲に、政府が人々の間で、プロテスタントの宣教師達が町や国に行ったことを評価して
後に信頼と自由の賞賛に言及したことも事実であった。」
人々や特に政府の信頼を得ることにおいて、それは彼が初期の真実な宣教師達を信じたことでもあるが、彼自身が誰よりも貢献しました。
われわれは、すべての官僚たちのなかに、彼に対する信頼がいかに深いものであったか恐らく知ることはないでしょう。彼らは彼がその代表であることを決して忘れなかった宗教にたいしてもゆるぎない信頼をももたずにおれませんでした。
彼の葬儀の日に、知的な日本のクリスチャン信徒が次のように言いました。
「今日われわれが享受している宗教的自由の恩恵は彼にのみ負っているといえます。」
クリスチャンへの迫害がやんだのは彼の影響を通してであると言うことは明らかです。
1872年までも、キリスト教に対するあからさまな敵意が存在し、「外部の野蛮人の追放が野心的な愛国者のお気に入りの主題」でありました。
このことについて彼は次のように書きました。「このような苦い感情はおもに上流もしくは官僚クラスの間にあるものであることは留意されなければなりません。町中や田舎の普通の人々はめったにこのような敵意はみせません。中流や下流の人々は嫌悪よりも恐れを持ってキリスト教をみています。」

彼を取り囲む困難性にもかかわらず、フルベッキ博士は到着後すぐに、聖句のコピー、マーチンのキリスト教白書や中国語の宗教書を配布し始めました。それは教育を受けた日本人によって読まれるためのもので長崎での10年の滞在期間に多くのものが並べられました。
老人の医師がいつもやってきて、夜のニコデモのように国の方々の友のため本を求め、話し合いました。あるとき、肥後地方から数人の僧侶やってきて、フルベッキ博士の手元にない本を求めました。4ケースの本が中国から送られてくることを知って、彼らはすべてを求める契約をしました。そこでかれはすぐに新たな注文を送らなければなりませんでした。
恐らく、これらの本の多くはおもに、キリスト教に反対するために学ばれていたのですが、購入者の動機はどのようであれ、多くの種が広く播かれたのです。
初めのころ、肥後から年老いた僧侶が彼を訪ね、自分自身はキリスト教を学ぶには年をとりすぎているが三人の生徒を教えていただけないかと求めました。
約3年間、これらの若い僧侶は学び続け、その得たところを老いた僧侶に報告しまた。
感謝を表すべく、しばしばやってくる彼に、あるとき、フルベッキ博士は言いました。
「あなたは若い方々からキリスト教について多くを聞き、よく理解しましたね。
あなたはいまやそれを受け入れるかどうか決断すべきではないでしょうか。」と。
すぐにその老人はおちつかなくなり、自分は多くの宗教を学びその長所が理解できないでいるので決心できかねます。しかし若い者達は疑いなく決断できるでしょうと言いました。
このような個人的な申し出がなされた後、彼は再び訪れることはありませんでした。

フルベッキ博士が長崎に着いて約2年後、二人の若者が英語の聖書を学ぶため訪れ、
このことは後年、日本政府との重要な関わりの小さな始まりとなりました。
約1年間の学びの後、彼らは大変うれしそうな様子でやってきて、教えに感謝して二匹の黒い子豚を持参してきました。
彼らは政府の試験で、あらゆる競争相手に勝る最優秀賞を受けたと語りました。
この成功が長崎に開校することになっていた英語学校においてフルベッキ博士の働きを役所が求めるきっかけをつくったのです。
最初、彼は辞退しましたが、強く要請されましたので外国ミッションボードの許可を条件に彼らの要望を受諾しました。
許可は降り、14年にわたり、彼は政府の公務に、ボードとの関係は結んだまま、自給の形で従事することになりました。

南日本の最初のプロテスタントのクリスチャンとして知られている村田、若狭の守を通して、フルベッキ博士は肥前地方の首都佐賀でよく知られるようになり、藩士たちの訪問をよく受けるようになりました。
維新直前の数年間、フルベッキ博士は薩摩、長州、土佐や他の地方の藩士のおびただしい訪問を受けました、かれらは絶えず、長崎を経由して旅をしており、1868年に実現する出来事についてお互いに議論していたのでした。
ほとんどのものは以前外人に出会ったことはありませんでしたが彼らの中に、小松、西郷兄弟、副島やほかの人々のようにこの重大な時期に著名になった者たちが名を連ねていました。
1866年肥前の大名が長崎に学校を開き、フルベッキ博士はここと政府の学校と両方で日替わりで教えるように任命されました。
この肥前の学校の生徒の中に現在の岩倉侯と彼の兄弟がいました。
将軍家の崩壊と帝国の力による維新もその長崎の学校をあまり混乱させなかったし、他の側への政府の変換がそのクラスを一日たりとも休ませることはありませんでした。

1869年3月、フルベッキ博士は東京に移り、4年間開成所に関係し、そこが現在の帝国大学に成長しました。
彼はその学校の外国部門の教師や教育全般の責任者であり、政府と外国人教師のすべての
関係の仲介者でした。
このすべての機構を充分に動かし続ける責任だけでなく、(それは容易なことでなく、4カ国からなる、多くの外国人がおり、ほとんどは巷から採用された専門外の教師達でした)
彼はいつも政府の高官から呼び出されたり、外交に関するすべての事柄の説明やアドバイスのために首相から出頭させられていました。
事実、フルベッキ博士の死後、二三週間してグリフィス博士は次のようにわたしに書いてきました。「彼は新たな政府に対して後に彼らが集めたアドヴァイザーの偉大な外交団と言う立場にあった。」
これら多様な要求に直面するために、彼は夕刻は、かなりの読書と学びに費やしました。
彼はわたしにかつて自分は筆不精であるがそれは、政府の仕事の年月、読書とその読んだことを他の人に口頭で伝えてあげるために非常に忙しくて、時間も書く暇もほとんどないからだと
語っていました。彼の読書習慣について、長男のウィリアム・フルベッキ大佐は「わたしの父は
読んだすべてを記憶すると言うすばらしい才能を備えた多読家でした。何年も前に読んだ本を
調べるに際し、探しているページを正確に、開き、そのページの箇所さえも知っていました。
かれは記憶術においてアイディアを関連付ける偉大な信徒であり、余白に注意深く記すやりかたが彼の多量な情報をシステム化し記憶させる助けになりました。」と述べています。

1873年、開成所との関わりから身を引き、はじめて太政官とそして上院(元老院)と貴族の学校に従事しました。太政官は、今では数局に分かれているほとんどの業務を形成しています。
そこでも上院でも彼の主な業務は翻訳でした、その時、彼の少年時代の多国語の習得が役立ったのでした。メッサース、加藤、細川、箕作とほかの人々の協力の下に翻訳されたもので
もっとも重要なものは「ナポレオン法典」、「ブルンチの国法汎論(Buntschli’sStaatsrecht)」、「森林法」、「ヨーロッパ諸国の憲法」、「ローマ法学説集・2千のローマ法格言(TowThousand Legal Maxims With comments)」です。
公務以外にも、彼は政府の要人たちに、教育、宗教の自由、その他の論題についての短い覚書(brief memorial)を送る機会がありました。この時代、彼の忠告や影響は政府によって、重要なものであると受け取られていました。

ここに彼自身、政府に対して最も価値ある業務とみなす一つの請願書(memorial)は、1872年岩倉侯のもとで使節団を送り出したことです。
この派遣(Embassy)は彼が提案した請願の結果であり、それは、はじめはためらっていたが後に、日本が飛躍する上に最も重要なものであったと考えるようになったものとして岩倉侯によって確認されたものです。
フルベッキ博士が亡くなられて、ある日、日本通信の編集者が次のように記しました。
「不思議なことに、フルベッキ博士が亡くなるその夜、現首相と大隈伯は、その方がもう数時間のいのちとは知らずに、お互いに、維新のときに彼によって勧められて書かれた提案について語り合っていた、それは日本が長い間顧みなかった、文明の学びのためのヨーロッパとアメリカへの官民の派遣、日本における自由思想の拡大に、おそらくもっとも貢献したものであった。」

彼の政府の公務の間中、フルベッ博士は、機会のあるとき、直接に宣教の働きをしました、この時期の後半時には毎日曜日、少なくとも一度、しばしば二度或いはそれ以上、説教をされていました。
政府には充分な専門家があたえられるようになったので、彼の公務は以前ほど重要ではなくなり、直接の宣教の門が開かれたと感じました、宣教の業に専心することが献身の義務であったのです。
1879年、彼のミッションの活動メンバーとして復帰しました。
この頃、ヘボン博士夫人、ブラウン、グリーン、日本人の同労者たちによって、新約聖書の翻訳がほとんど完成されつつありました、しかしフルベッキ博士は間もなく、校正委員のメンバーに選任され新約聖書の大部分の校正に関わることになり、後に旧約のすべてにも関わりました。
旧約聖書の翻訳の仕事はすべて聖書翻訳の恒久委員会の後援のもとになされました。
全体の校正のほかに、非常に喜びとするフルベッキ博士の特別な仕事は松山師と共になされた詩篇の翻訳でした。この仕事は、数年間の働きを表す一文のなかで語られたが、それは決してこれらの数年になされたすべてではありませんでした。
彼は聖書翻訳がおもな働きとみなしていたが、このほかにトラクト協会委員会の出版に関する
校正や説教と講義にも多くの時間をさいていました。
聖書翻訳完成の後、彼は明治学院神学部で約10年間、ほとんど継続して教えました、しかし彼はこの働きを喜ばず、他に代わりがない場合にのみ教えました。
彼が最も喜び、彼自身が一番ふさわしい働きと考えたのは説教と講義でした。
彼はこの種のもっとも賞賛に値する働きをした、スピーカーとしての素養とそして訓練の賜物
によって、また日本語のすばらしい習得によって。

後半期、彼は東京や各地から呼ばれました。東京では一週間平均少なくとも二度説教し、ほとんど頻繁に講義をし、国のいろんなところから、また彼のミッション以外のところから招きがないことはありませんでした、また数週間にわたるツアーも要望されました。
これは彼が特に喜んだ働きで、一日に二度三度の説教をして、来る日もあくる日も奉仕の合間に旅をしながら、ある場所から他の場所へと巡りまわるときほど幸いなことはありませんでした。

彼の日本語を話す能力については、しばしば語られているので、わたしがここの聴衆のみなさんに特に話す必要はありません。
彼のすばらしく卓越したスピーチの習熟について、彼の死の約一年前に、古い官僚の友を一緒に訪ねた時の印象があります。
その紳士は留守でしたから、短い伝言を残す必要に迫られました。
わたしはフルベッキ博士の講演も会話もよく耳にしていました、しかしあのときほど、彼の日本語とわれわれのそれとの違いを印象づけられたことはありません。
それは普通の伝言であり、その話をわたしも容易に語り、また理解し得るものでしたが、彼が
話したようにすることは、わたしにはとてもできませんでした。
数年前、その当時アメリカにいた日本人がニューヨークトリビューンに「日本語を良く話せる外国の宣教師は三人だけだ」と書きました。
わたしがそのことについて聞いたコメントでは、その三人のうちの一人はフルベッキ博士に違いないがあとの二人についてはわからないということでした。

日本政府によってフルベッキ博士の功績が評価されていたことは、1877年勲三等旭日賞を賜ったこと、1891年、特別なパスポートである、彼と家族が臣民と全く同じような方法で、帝国の
どこにでも旅をしたり、滞在、或いは居住する権利を持つ特別なパスポートを賜ったことからも
明らかなことです。
彼の死に、際してもまた、政府の公務から何年もまえに遠ざかっていたにもかかわらず、彼の遺体を墓地に運ぶとき兵士の一団が護衛につけられたこと、多くの官僚や、陛下である天皇が哀悼の意を表して500円を贈与したことからも分かります。

しかし、公の関わりから離れて、愛する兄弟についてもう少し話さなければなりません。
彼並はずれた能力やまったき信頼性は、彼が付き合わなければならなかった多くの疑い深い人々によっても信頼され、明らかに証言されたところであるが、このことと共に、謙遜さ、優しさ
や愛に満ちた友でありました。
多くは彼の名声のゆえに、知り合いになることを願うようでしたが、彼を知るすべての人は、優れた教育家であり宣教師であったよりも親切な心と気さくな人であったっと思っていることを確信します。
彼をよく知っている者にとって、彼はその名声以上に偉大でありました。
彼は非常に謙遜な人物で、それは決して甘くない自己評価からと言うのでなく、自己に関する
言及を避けられるときは、いつもまったく述べなかったということにその謙遜が現れました。
彼の仕事は過去にはなかったように忠実でよいものであったことは知っていましたが
ただそれらは彼がなさなければならなかった義務ゆえになしたのだと考えていました。
われわれは彼が自分について、その業績についてもっと多くを語ってくれたらと願いましたが、
彼はかつて、コッブ博士に、長い伝道旅行に言及して「歴史を書くよりも造ることを」と書いております、わたしたちはこの僕が偉大な歴史を造ることを許されたということを神に感謝します。

1874年、ある日、横浜の由緒ある外国語の本屋にいました、そのときフルベッキ博士が、本を求めにやってきました。何かの理由で、多分良く見えなかったからだと思いますが、近くにいた一人の青年に、日本紙幣をもって、幾らであるかと尋ねました。
その青年は彼に語り、一週間か十日間の観光やショッピングで得た知識で続けてほかのことも語りました、フルベッキ博士はみるからに非常に興味深げに耳を傾けていました。
そのすぐ後、店主とわたしは、日本についてべらべらお話ししてあげたその友好的な紳士の名前を知ったその青年の驚きを心ゆくまで楽しみました。

彼は、他人の意見や感情に対する態度や与えることにおいて寛大な人物でした。
重要な真理や原則が危うくされたときは、彼は妥協しませんでした、しかし、意見の相違の余地があるときは、多数の声に喜んで譲りました。
彼の施しについては、彼は寛大な布施者であったと言うことのほかわかりません、というのは
彼は右の手でしたことを、左の手に告げなかったからです。
彼が与える者であったことは受け取られたギフトによって知られています、彼が隠すことができなかったその場にいたことがありました。
私が彼の家に立ち寄ったとき、職を失い、なにも得ることができなくなった青年と彼がドアのところで話し合っているのをみました。
寒い日で、その若者は一枚のコートを持っているだけでした。
私は家に入り、すぐにフルベッキ博士がコートなしに入ってきて、事情を説明して、「彼は薄着だったので、私の古いコートを処分する機会を与えてくれた」ということでした。
彼は愛すべき人でした。
そのことはすべての友が知っていました、しかし彼の深い愛の心を良く知っていたのは家族でした。
彼が子供たちと共にいた当時、私たちは近い隣人でした、そしてあの家庭の暖かい家族生活に感銘しました。
それでも愛すべき父は、多くの人よりも彼の家族にとってそうであるが、十年以上にわたって
長女を除いては、家族から離れて過ごしながらも、喜んでその責務を果たし続けました。
しかし、彼はいつも心にある不在の者達のことを話すことを喜びましたが不平を聞いたことは誰もありませんでした。私たちにも興味深く聞いていましたが。
私は父の死後一二週間して、書いた息子のフルベッキ大佐の言葉によって、彼らの楽しかった家族生活の様子を知らせることができます。
「それらは私には幸福な日々でした。愛する父は私の幼年時代、少年時代をより幸福で美しい
思い出でさいわいにしました。彼は父であり大きな兄であり、そして親友でした。
この国の子供たちとの交流や娯楽から閉ざされて、私たちの父は想像される以上の存在でした。
彼は理想的な遊び相手でした。競技者のように、私たちを走りまわせたり、飛び回らせたりしました。彼は物語の上手な語り手でした、オランダのおとぎ話やドイツの黒い森の盗賊の話
をもちあわせていました。あなたがたが良く覚えているように、彼は美しいバリトンの声を持っていました。
彼は共感的な声(sympathetic voice)でしたので、彼の歌を容易には忘れることができません。
長崎にいた当時、私たちのため歌ってくれた子守唄のことも覚えています。
彼はチェスやチェッカーズも私たちとしでくれました、そしてすべてが楽しく興味深いものとなり、彼との遊びのなかでいつも何かを学びました。彼は科学的なおもちゃに大変興味があって
いつもたくさん私たちに与え続けました。遊び友達としての彼と共に過ごす時間は学校であり、彼の保護の下での学校は自由な教育でした。
これらのことを知って、そのような父を失ったことで、私たちが喪失したもの理解していただけるでしょう。」
盗賊の物語のことに関して、彼の死の数ヶ月前のある日にフルベッキ博士が私に言ったことが浮かんできます、東京の第一国立銀行の建物を通り過ぎようとしていたときでした。
あなた方のうちご存知の方も入ると思いますが、それは東京の古い外国様式の建物で屋根に塔といくつかの先端のとがったものがあって、この市にあって、他の建物とは著しいコントラストをみせていました。彼は「子供たちと私はあれを”盗賊の城”と呼んでそれを見にこの道を通るのが彼らの楽しみの一つです。」と語りました。彼は心優しい人でした。
彼の多忙な生活は、社交上のことについてほとんど時間を残しませんでしたが、彼はいつも好んで友人達と会い、交際を楽しみました。このようにして出会った人たちは彼の賜物の広さに
驚かされました。

彼はほとんどの人とその母国語で会話ができただけでなく、優れた音楽家で、頼まれればいつでも、みんなを楽しませるため演奏したり、歌うようにしていました。
彼はユーモアのセンスを持ち、冗談やしゃれがうまいということはありませんでしたが
面白いことや滑稽なことに、非常に関心を持ち、彼の経験と印象を関連付けて一緒にいる人をたのしませる不思議な雰囲気を持っていました。
彼の霊的生活と体験について、彼は多く語りませんでした、彼の率直でシンプルな祈り日々の生活から、彼を導いておられる御霊が大変リアルにいつも臨在していることが分かりました。
彼の逝去に際して、彼の日本のためのまったき偉大な生涯の思い出において、一遍の影もなく、また力の衰えや精神的弱さもなく「現役の中で」取り去られたことを感謝に思います。
彼の旧友であるJ..H バラ牧師は「彼の死は、その生涯のようにシンプルで美しかった。」と書きました。外国宣教ボードのコッブ博士から頂いた手紙には「思えば思うほど、失ったものが大きいことが分かります。しかし彼をいつまでもとどめおく事はできませんでした、このような逝去は衰弱と苦痛が長引くことよりはよいのです。これはこの世界が知っている「携挙」(translation)であります。」と。
この言葉を読んで、すぐにこの「携挙」ということに関するみ言葉が私の心に浮かびました、そしてそれは愛するフルベッキ博士にもっともふさわしいものと思います。
「彼は神と共に歩んだ。そして去った。神が彼を取られたから。」
                   
               (1909年講演)

                                       (2006・2・.16南沢私訳)

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フランスで発見されたフルベッキ写真

2010-06-11 13:46:15 | 写真

Franceverb

キャプション(説明文)はフランス語で

Le fils du Taikoun entoure de Yakouniness

(Japoan)

「お役人にかこまれた大君(将軍)の子供たち」

と肉筆で記されている。

戸川残花が使用した写真も維新前とあるように

ミカドでなく将軍とあるのは、1865年撮影説を

裏付けている。

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フルベッキ写真資料(戸川残花追加)

2010-06-11 10:21:10 | 旅行記

Verphoto

戸川残花『太陽』投稿原文1895(明治28)「togawaverbeck.pdf」をダウンロード

戸川は写真に写るのは30年前(1865年)の武士と述べキャプションには

『維新前の長崎の洋学生Students of Foreign Langwages At Nagasaki Before Restoration』(秀英舎印刷・小川一真写真彫刻銅板)とある。

以下は現代文訳

「フルベッキ博士とヘボン先生」

戸川残花

(雑誌「太陽」第一巻第7号明治28年:1895より

)

フルベッキもヘボンも日本人の言いなれた名である。英語ではRev.G.F..Verbeck,D.,D

Dr,I.C.Hepburn,M.D.LL,Dである。

世の中のことは一朝にして成るのでなく、ある人の説によれば歴史上現れた偉人の功績を遠くさかのぼって考えると、少なくても150年前にその起因が発せられるとのことである。

そのとおりだと思う。

明治元年より152年前の享保に徳川吉宗は七代将軍家の職を受け継ぎ、中興の英主と仰がれた。

この英主、吉宗は150年後の明治の聖代とどのような因縁をもつのか、享保の政治はその優作という面で数多くあるが、特に注目すべきは,キリスト教書を除いて、禁を解いて洋書を購読することを許可し、儒学家臣、青木敦に蘭学(オランダ学)を学ばせたことである。

蘭書が西洋の開花を導き、医学、法律、兵学などの導入をわが国にもたらしたのは、改めて言うに及ばないことである。

その蘭学はフルベッキ氏とどのような関係があろうか。

フルベッキ氏は米国人か英国人か、フランスか、イタリアか、オーストラリア人か 西方人か。

誰かが、もし氏と半日過ごしたなら、上手な日本語を用い、特に少し長崎の訛りを交えて語るだろう。

客がもし、うつむいて聞くならば、少しも外国人に対面している感じはしない。もしフランス語を知っている者が、試みに、フランス語で法学のことを質問すれば、氏は了解し、必要であれば流暢なフランス語で答えられる。もしドイツ語に堪能なものが、科学のことを問うならば、豪壮な発音で、たちまちドイツ人のごとくに話されるであろう。もし白髪の老人で少しオランダ語を理解するならば、記憶した「グランマチカ」によってオランダ語で話し、和気あいあいとして、オランダ語で答えられる。米国の宣教師と聞いていても、誰もが心のうちで、どの国で生まれたのかと問わずにおれない気にさせられるに違いない。

フルベッキ氏は、オランダ人であり、1830年生まれで「モラヴィアン」派の学校で教育を受け、別けても、優秀なのは語学であった。当時、すでにドイツ、フランス、イギリス、オランダの国語を習得していた。氏もこれらの学習がやがて日本のために役立ち、東洋の文明開化の導きとなるとは夢にも思わなかったであろう。

他の人は天機というだろうし、私は神の御心という。氏のように広い語学者には、母国語というものはなく、語学の上にはほとんど、自国の別はないようではあるが、日本のためにその生来の土音国語、即ちオランダ語が長崎に来たはじめには最も必要な語学であった。氏が生まれた年は今から65年前で、初めて鉄道というものが世に現われた時であり、ヨーロッパの世運も一大動機を発した頃で、人々は皆、機会土木の業に心を傾けていた。氏の親戚もその職業を選ばせるにあたり、工学関係がよいと考えて工学を学ばせた。

学業を終え、職を求めてアメリカ合衆国に渡り、ウィスコンシン、アルカンサスなどで4年を送ったが、氏の性格上工業に従事することだけでは満足できず、ついにキリスト教の教師になることを決意して1856年ニューヨーク州アウブルンの長老派神学校に26歳で入学した。

わが国は安政元年にあたり、アメリカの使節ペリーが浦賀に来航し、国内の人心は恐々とした時であった。

1857年に、米国艦船ポウハタン号が長崎に来て、そのときのチャプレン(艦つきキリスト教教師)はウード氏であり、ウィリアム博士などが企画して日本に新教(プロテスタント)を布教せんと願い、書簡を合衆国の監督、長老、「ダッチリフォムド」(オランダ改革派の意)の諸教派に送り、宣教師派遣を要請した。

実に37年前のことである。

当時は長崎ですら通訳語というオランダ語のみで、武士は髷を結い、大小の刀を腰に差し、300の諸藩は土地を分割し、江戸では大名が行列をなして、大道狭しとばかりに通行していた時代である。

このようなとき、諸派の教師は宣教師を日本に送る審議をし、よく知られている「ダッチリフォムド」派から送ることを望んだ、なぜならばオランダは歴史的に日本と深い関わりがあったからである。

諸教師は神の御心も「リフォムド」派から遣わされることと信じ、ついに、オランダ生まれでオランダ語に堪能な三人を派遣することを決議した。

ニューブランズイクの神学校には三人のオランダ人がいたが、入学して間もない者たちで、宣教師とみなすことはできなかった。やむを得ず広く全国から募集すると、アウブルン校を卒業することになっている青年ギドー・フルベッキという名の者が、日本に派遣するのに適すというホール、ホーレン両博士の推薦があった。

フルベッキ博士はこのようにして日本にきたのである。

蘭学、オランダ人を歓迎するように天は150年前の享保年間に蘭学を習う端を開き、他の外国人とは待遇の異なる、友愛の情趣のある国民としてみられたオランダ人によって、わが国を近世の開花に導き、その宗教を宣教するというのは偶然のことなのだろうか。

個人の業績を詳細に観察すれば、世界観にも通じることができる。

歴史眼は伝記を見ることによって成熟するのである。

フルベッキ博士は、ただちに任職式を受け、宣教師となり行李をまとめてらんを解き帆を開いて宣教の道にのぼったのは18595月であり、氏と共に宣教のために日本に向かったのはSK ブラウン博士,医学士シモンズ氏であった。明治前後に京浜地方に遊学あるいは医学の志あるものでブラウンとシモンズの名を知らないものはないであろう。

三氏は、海路で同年117日長崎に到着した。わが国の万延元年で井伊大老が暗殺された年である。

監督派のウィリアム氏も中国から病気療養のため長崎に来た。

宣教の第一歩は国語を学習することで、幸い中国語訳の聖書とマルチン氏著書天道潮源があり、氏はまず中国訳の本によって宣教を手がけることになった。ああ、欧米の人が中国の文字を借りて、わが国に宗教、学芸の道を開いたのである。

同じ文のわが国は、中国を文明に導くことは容易であり、法律家,医師,工芸家、詩人、文人は縁大な筆で

28年間養った近世の知識を四百余州十八省に伝えるのがわが国の天職ではあるまいか。

今や,武力でおごり高ぶりの愚を懲らし、漢文を利用して知徳を彼らに伝え共に東洋全体の利害を企画するべきである、慶応、明治の初めにマルチン、ゴウソン、イリアム諸氏の口で訳し、漢文に写させて、医学書、

博物、地理、史伝はわれわれの開明に大きな役割を果たした。

既に開国の機会は熟していたので、氏が長崎にいるとき、夜ひそかに訪問して道を問う医師、遠く肥後(佐賀)

より来た僧もあり、みな漢訳の本を受け取って愛読し、おしまいには氏が持参した書物は一部も与えるものがなくなった。しかし、このように中国語訳本の頒布はキリスト教を慕うのみでなく、訳書によって、他の意思

を窺い、邪宗門である耶蘇教はどのようなものか知るために来たものも多かったという。

鎖港の説や攘夷論は弊害であり、愚かであるとはいえ、中国朝鮮にまごころ国のため歯噛みをして政論を戦わす者がいるだろうか、宗教の真偽を知ろうとして夜間、外客のところに来て道を問うものがいるだろうか。

ある老僧は、その徒弟に氏に就いて三年の長い期間,倦まずに教えを聴き、氏がその僧に伝道をしてみなさい

と言うほどなったが再びこなくなったとのことである。これらは深く教理を探り、キリスト教を排斥するため

だったらしい、今、その老僧の名を知ることはできないがその教えのために尽くしたといえよう。

日本人はまだ天主教(カトリック)と新教(プロテスタント)との区別を知らず、混同して批難する者も少なくなく「長崎話」「邪宗門の話」(?)などの小冊子は世に公にされていた、みな仏教家の手によりできたと言う、刊行は1868年というから明治元年のことである。

以上は氏が直接伝道を始めた当時の情況であるが、伝道のほかに(氏は同一の目的を達したのであえるが)わが国の開明に益する道は英学を教えることから開かれた。長崎に来て2年後、二人の青年が英文で聖書を学ぶことを求め、数ヶ月の通学し、ある日得意顔で、二頭の黒豚を謝礼として送り、氏の教授により試験成績も大変よく、政府から賞与をうけたとのことである。このことから氏の名が日本人に知れ渡ることになり、ついに

長崎の公立学校に招かれることになる、当時はまだ徳川家が政権を奉還される前で慶応元年西暦1864年で

この学校とよばれたものがいかなる人によって支配されていたか、今は知ることができないが、この伝記を読んで官庁か、ちまたに「私も当時の書生であった」と微笑する人もあるだろう。

氏はこの時から身は宣教師であったが派遣された「リフォムド・ミッション」からの支給を謝し、14年間は全く日本政府に招かれいわゆるお雇い外国教師の名で、その語学と博識により、顧問の地位にたって、官吏の職の勤めに尽力した。

前述のように二三の青年が英語を学ぶため聖書を読み、或いは謝礼金を受けなかったので黒豚をもって、その懇情に報い、或いは学生から紹介されて学校に招聘されるなど、維新前後の世の私塾、学校、学生の様子が

しのばれる。当時の学生はどのような生活風習であったか、もとより士人であるからいかめしく袴をはき、紋付の服を着用し,その素質は仙台、呉仙、羽二重、亀綾の貴品ではないが、小倉の袴折り目正しく、黒木綿の紋付いやみなく、両刀は金銀で飾ってあるが、多くは南蛮鉄の装飾で官吏武人であることを現わしている。

髪は固く結び、少しまなじりをつるようで、特に九州武士はこのような様相であった。

氏が佐賀の学生と共に撮影した写真を見ると、30年前の武士が眼前に出てくるような感じがする。

Verbecktogawa

氏は特に佐賀の藩士に知人が多く、村田若狭(鍋島家の重役)が教えを聞いて受洗しキリスト教徒になったのは今から29年前のことであり、わが国におけるキリスト教徒の先駆けである。

(当時は日本全国にキリスト新教信者は二人だけであった)

長崎の学校に招聘された後、佐賀藩士を教育するため、鍋島家が長崎に学校を開き、隔日に教授することになった。

この学校の生徒の中に、今は岩倉公爵とその令弟(具経朝臣か)もおられたと言う、江藤新平氏もまた中野賢明氏もおられたとか。両校は実に俊才を輩出させたところで、今日誰かを明らかにしがたいが、朝廷に立ち、また民間にいて明治の大業に貢献した人々もある。

慶応の末から明治の初めは,海内は騒然として人身は恐々としていた。しかし両校は一日も課業を休むことなく京畿の戦いも東北の内戦も終わり、硝煙弾雨が晴れて、氏は招聘されて東京に上り開成所の教授となり、すべての外国語と外国語教師の監督を任じられた、氏が長崎を離れたのは1869

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