『宮沢賢治と大村はまを結ぶ明治の精神』
小学館教育編集部 横山英行
(2004・4)
確かに大村先生は宮沢賢治がお好きであった。まず最初に世田谷区弦巻のマンションにお邪魔した時、応接室の壁一面を覆っていた書棚に、賢治の作品が多いのが目についた。
また、二度目にお伺いした時には、偶然か何か、一月に一つ送られてくるという小さな鉢植えの花が、何と珍しいオキナグサ(賢治童話ではポピュラー)であった。ちょうど、明治大学の斎藤 孝さんと賢治についての話がひとしきり弾んだ、四月初めの一日だった。
授業でも、先生は「貝の火」や「虔十公園林」を教材に使われている。「貝の火」では、これを芥川の「蜘蛛の糸」との重ね読みに使用された。カンダタの糸は二度目に切れるけれど、宝石・貝の火はウサギの子ホモイの七、八度にわたる悪戯にも、そう簡単に割れはしなかった。「こういうのを重ねて読むことで、仏の慈悲というような、言葉では簡単に説明できないことでも、中学生の胸にすとんと落とし込むようにわからせることができるのよ」と、先生はおっしゃった。感心した私は、次にお会いする時までに調べていって、「貝の火」が「蜘蛛の糸」の二年ほど後の成立であることを先生にご報告した。「ですから、あの独創的と言われる賢治でさえ、芥川の作品を踏まえて書いた可能性はあります」と申し上げると、先生は「あら、そうお?」とおっしゃって、たいへん興味を持たれたご様子であった。
「虔十公園林」は、私も好きな作品であり、中学でも習ったので、先生と何かを共有している感覚がある。「虔十公園林の中に出てくる、アメリカから帰ってきた若い博士というのは、野口英世である可能性があるんです。製作年代的にも、英世が福島に帰ってきた頃と符合しますし、いつだったか宮沢静六さんにそれをお話ししたら、そういうことがあったかも知れませんね、とおっしゃっていました。」そんなことをお話ししながら、心の中で賢治ワールドを、先生とご一緒に彷復っていたことも良い思い出である。
「先生は、金子みすゞはいかがですか?」とお尋ねしたことがある。すると先生は、「宮沢賢治がいいなあ。」とおっしゃった。「金子みすゞは、どこか答えが見えているようなところがあるでしょ。」というようなことを、その時先生は言われたと思う。多くの人が口を極めてみすゞを礼賛していたような頃であったから、私は一瞬驚いた。なるほど言われてみると、そういう面もあるのかも知れない。殊に同時代を生きた文学少女の先生であってみれば、我々の与り知らぬ何かの評価眼があるのだろう。感性が切れすぎて、ものごとが見えすぎて、自死という手段で生涯を閉じるみすゞは、確かにクリスチャンとしての先生の価値観の対極にあるのかも知れない、そんなことも考える。
「宮沢賢治がいいなあ。」そうおっしゃった先生のお気持ちの背景には、北海道で開拓の仕事をしていた母方の叔父・小川義雄氏のことや、・牧さんと呼ばれる身体は不自由だが心のとても長閑な近所の叔父さんの面影があったのではなかったか。小川義雄氏はアメリ力帰りの農学士で、拓かれたフロンティア・スピリットめ持ち主であった。けれど晩年は事業に失敗して伊豆に引き上げ、ほとんど赤貧というような状況の中で亡くなった。牧さんも、いわば風来坊か居候のような人で、大村家が北海道から横浜へ引き上げてくるのとともに、実質上交流は絶えていったのであろう。初めはコバルトグリーンに輝いているかのようなのに、終わりはグレイの哀愁に沈むような、こうした北方の人々の面影が、どこかで賢治の生涯にオーバーラップするのだろうか。
先生は、アメリカへ帰った後不幸な晩年を送ったクラーク博士のことも、何となく気にとめていらした。東京女子大での師・新渡戸稲造学長のその精神的師でもあるクラーク博士の晩年を。
*
さて、大村先生の所へおうかがいするようになって二年目。『22年目の返信』という波多野完治先生との往復書簡集を編集していた頃、私は、何気なく先生の全集に目を通していた。その時、先生の自伝が書かれている別巻の363ページに、こんな一節があるのに目が留まった。大村先生の青春時代についての記述である。
「そのころから父の収入が不安定で家計が苦しく、三年生の終わりには、学業をつづけることがほとんど不可能になった。このとき、アメリカの宣教師の娘で、捜真で英語や音楽の教師をしていらしたビッケル先生(後のミセス・タッピング)が、名を秘めて学資を出してくださることになった。「将来、伝道か教育かの道に進んでほしい。それから・あなたの生涯の間に、やはりそういう道に進む貧しい生徒があったら、その人を助けてあげてください。」と、この二つだけを条件に、卒業まで黙って学資を出してくださったのである。」
この文中のタッピングという名前が気になり、また何処かで聞いたようでもあったので、インターネットで検索してみた。すると意外なことに、最初に見つかったのは、東京多磨墓地の番地マップであり、そこには次のように記されていた。
「ウィラード・タッピング1899.4.5(明治32)~1959・7・16(昭和34)東京出身。父は宮沢賢治に聖書を教えたことで有名なヘンリー・タッピング。妻のエバリン・タッピング(EVELYN.BICKEL.TOPPING)1899.7.11~1983・2・19 は横浜生まれ。エバリンの父は瀬戸内海近海で福音丸に乗って伝道活動をしていたビッケル船長。」やはり予想は的中した。タッピングとは、宮沢賢治の詩『岩手公園』に出てくる、あのタッピング父子のことであり、ビッケル先生はその詩の中で「大学生のタピングは」と歌われている息子のウイラード・タッピングと結婚されていたために、(後のミセス・タッピング)という記述になったのである。
さらに、ビッケル先生についての記述が続く。
「エバリンは11歳まで瀬戸内海の福音丸船上で過ごした後、渡米して高校と音楽学校を卒業。1921(大正10)年宣教師として来日し、横浜の捜真女学校で音楽教師をしていた。
1923(大正12)年ウイラードと結婚。1931(昭和6)年から夫と共に瀬戸内の島峡部会宣教師として過ごし、1941年、日米間の関係悪化に伴い、いったんアメリカへ帰国。戦後再び来日。創生期の関東学院短大のために尽力した。アメリカのアルハンブラで没し、遺骨 は日本へ。ここにすべては 符合した。 先に紹介した大村はま先生への匿名の援助は、上記の1921年から1923年頃、まさしくビッケル先生が横浜捜真女学校にいらした頃の出来事である。
そしてその頃は、結婚を控えウイラードとの交際が続いていた時期ということもわかった。
二人の愛の語らいの中には、若き日のHama Ohmuraのことも話題に上っただろうか。・・・私は不思議の感に打たれた。 間接的な仕方であるとは言え、大村はまと宮沢賢治が確かにつながっているのだ。 ひとつのキリスト教精神が タッピングという宣教師の家族を通し、一方では宮沢賢治に影響を与えている。つまり仏教のみに執着していた若き賢治に普遍的な宗教というものへの視座を与え、それはやがて『銀河鉄道の夜』の中でカムパネルラとの別れという形に昇華されていく。 そしてもう一方では、若き大村はまに教師の道を歩ませ、さながら賢治童話の中のさそりの火や大犬の火にも似た 教育への身を焦がすような捨身へと向かわせてゆく。
『岩手公園』宮沢賢治
「かなた」と老いしタピングは
杖をはるかにゆびさせど
東はるかに散乱の
さびしき銀は声もなし
なみなす丘はぼうぼうと
青きりんごの色に暮れ
大学生のタピングは
口笛軽く吹きにけり
老いたるミセスタッピング
「去年〔こぞ〕なが姉はこゝにして
中学生の一組に
花のことばを教へしか」
弧光燈〔アークライト〕にめくるめき
羽虫の群のあつまりつ
川と銀行木のみどり
まちはしづかにたそがるゝ
この小さな発見によって、私の中では、有名なこの「岩手公園」の詩が 大村はまとの関連なしには読めなくなった。 少なくとも、賢治のいわゆる「第四次的」眺望の中では、賢治のこの若き日の心象は、若きタッピング夫妻のロマンスを経て、若き大村はまの物語にまでつながっている。そして苦学時代の大村はまの心象も、自分の前に名前さえ示さない善意と恩寵のかなた、明治のキリスト教精神を介して、はるかな東北の宮沢賢治の物語にまでつながっているのだ。
ビッケル先生の足跡を求めて
(大村先生瀬戸内の旅)
ところで、この物語は、まだこれだけでは終わらない。例のインターネットは、また同時にまったく別のタッピング情報も見つけていた。瀬戸内の向島教会というキリスト教会のホームページにも、タッピング情報が見つかったのである。そこには何と、ビッケル先生のご息子のケン・タッピング一家が、2002年9月12日、瀬戸田教会・博愛幼稚園を訪問されたことが写真付きで紹介されていた。タッピング氏は、いま京都大学客員教授として、危機管理や防災研究機構の研究をされていることもわかり、ヘンリー・タッピング以来、そしてビッケル船長以来、三代にわたる日本通、日本贔屓としての二つの家系が浮かび上がったのである。
偶然とは恐ろしいもので、時あたかも大村先生は、尾道への旅を計画されていた。前年、教育の世界にいろいろと不幸な事件のあった尾道市の若い先生や教育委員会が中心となって、大村はま先生をぜひ尾道にお招きし、講演会を開いていただくことで、もう一度教育の原点を見つめ直し、元気づけを図りたいとの計画が進んでいたのである。
この時、大村先生の遠出を懸念される年輩の方たちからの声が上がった。大村先生のご高齢に配慮される時、それもまた当然であろう。しかし、大村先生は、「年輩者の助言と、尾道の若い教師達からの求めの二つがある時、私はどうしても若い方々の方をとらざるを得ない」とおっしゃって、尾道行きを決断された。
講演の以前から、尾道市の対岸にある向島教会の南沢満雄師にはたいへんなお世話になった。南沢師は、大村先生の尾道訪問に際し、「瀬戸内の教会訪問の際には、ご案内しますよ。ビッケル先生やビッケル船長ゆかりの教会もございますし」と気安く引き受けてくださった。その上になお、ビッケル先生関係の資料蒐集のために、横浜西谷キリスト教会の和泉牧師を紹介してくださったのである。和泉牧師は、捜真女学校等を探し回られて、福音丸甲板上にある少女時代のビッケル先生の写真や、ウイラード・タッピングとの結婚式の写真など、貴重な数々の資料をわざわざ私の会社にまでお届けくださった。そして、大村先生の尾道出発の前日には、次のようなビッケル先生の筆跡までも見つけてくださったのである。そこには、英文で次のように書かれていた。
Into my heart 心へ、
Into my heart 心へ
Come into my heart 私の心へ来てください、
Lord Jesus 主イエスよ。
Come in today 今日来てください、
Come in to stay そして留まってください。
Come into my heart 私の心の中に、
Lord Jesus 主イエスよ!
そこには、日本語の片仮名でエバリン・ビッケル・タッピングの署名もあり、1949年11月13日の日付があった。おそらく瀬戸内宣教50周年で来日された時に書かれたものであろう。尾道へ出発の朝、早速、新幹線の中で大村先生へお守りとしてお渡しした。
*
4月9日、尾道市内のしまなみ交流館(テアトロ・シェルネ)で開かれた大村先生の講演会は、大成功に終わった。先生は、国木田独歩の『画の悲しみ』という教材を使って、子どもを優劣を超えて文学鑑賞へと導く方策をお話しになった。これは、力のある子もない子も、ともに鑑賞ということの醍醐味へと連れて行く「てびき」の作成を要するため、教師にはやや労力の要る単元である。従って、大村先生の講演も、たいへんな力演となった。そのことがまた尾道の若い教師達を、強く感動させたのである。
講演翌日の4月10日、大村先生は午前中、千光寺山で観桜の後、フェリーで向島に渡られた。午後1時半より、向島教会で開かれる「賛美歌の集い」に出席されるためである。
車が教会に着くと、すでに耳にはさわやかな賛美歌の練習の声が聞こえてきた。会場に入ると、テーブルには幾つも幾つも、信者の方の手で剥かれた蜜柑の山が、透き通るように輝いていた。広島からお越し下さったプレドモア宣教師(現・捜真女学校理事)も、大村先生を迎えて親しくご挨拶された。昨日の講演会にも来られていた南沢牧師が、その報告も含めて、歓迎の挨拶をされた後、奥様のピアノで賛美歌の合唱となった。「主われを愛す」や「われは谷の百合なり」など、大村先生が幼少の頃、お母様や日曜学校の方々とともに歌った歌が披露され、先生も幼時に返ってほとんど全ての歌を歌われた。
続いて大村先生の講話となり、先生は子供の頃に読んだ旧約聖書のヨブ記やヤコブとエサウの話をなさり、特にヨブの生涯について、「どうして神様はこんな辛いことをなさるのかと、本気になって泣いた少女時代もありました。みなさんはいかがでしたか?」と問いかけられた。イエスの最後の言葉「神よ、神よ、なんぞ我を見捨て賜いしや?」にも言及された先生の心には、きっと世界の根源にある不条理と、それにも負けぬ信仰という強いメッセージがあったのであろう。うららかな瀬戸内の教会の午後に響いた、大村先生のこの静かな厳しいメッセージが今も印象に残る。
最後に大村先生作詞の「蓼科の歌」を合唱して、一行は向島教会に別れを告げ、瀬戸田教会・博愛幼稚園へと向け出発した。
行く道々、車窓からは、うららかな島々の春の入り江や純白の大橋、岡々に点在する野生の紫つつじが美しく眺められた。そして、到着した瀬戸田の教会では、累々と盛り上がるように咲く満開の桜が大村先生を迎えたのである。
ここで先生は、まずビッケル船長の遺影並びに福音丸の中にあった説教壇に対面された。
その壇上から、ビッケル船長が福音を述べ伝えた時、おそらくは少女時代のビッケル先生も、じっと聞き耳を立てたことであろう。…その時、大村先生は素速く、教会の一隅にあるオルガンに目を留められて、奏いてみたいとおっしゃられた。先生は、若き日に、お母様の後を継いで、横浜の海岸教会のオルガニストを務められたことがあるが、その手ほどきをされたのは、他ならぬビッケル先生であった。
ビッケル先生への返礼のお気持ちなのか、苅谷夏子さんの助けを得て、先生は楽譜を眺め眺め、賛美歌の幾フレーズかを奏かれたのである。「オルガンに触れるのは…戦後初めてかしら。」何気なく話されるが、そうするとすでに60年近くの時間が流れたことになる。何とも気の遠くなるほどの話だ。
最後に向かわれたのは、重井の教会付幼稚園であった。車が因島の旧い路地を切り開くように入っていくと、遠くの山の山腹には広大な墓地が見え、幾つも幾つもの先祖達の眠りがあった。島の先祖達から遥かに見守られながら、幼な子たちの今日の営みはあり、またビッケル船長以来の福音の歴史はあるのであった。休日の幼稚園の中は森閑として幼な子たちの声も聞こえない。その静まりの中央に、福音丸のマストは、この建物の大黒柱として堂々と聾えていた。少女時代のビッケル先生を見下ろしていた、これがそのマストである。車椅子の大村先生は、始め近づいて手を触れておられたが、やがて車椅子から立ち上がり、これを両腕に抱きしめられた。小さくなった腕ではあるが、中指と中指とがかすかに触れ、ひとつの環に閉じた。明治以来、日本人と外国人がいっしょになって守り伝えてきた、“教えるというこど’の環が、今静かに閉じる…そう感じた。
お助けする林原園長も感慨深げであった。何せこの柱は、正真正銘こ福音丸第一号のメインマストであり、床は福音丸のデッキ、窓も福音丸の窓だというのだから。
その時、大村先生がぽつりとおっしゃった言葉が、今も記憶に残っている。「いつまでも続いていく…」
確かにこの柱は、ここ瀬戸内の教育の歴史の、不動の座標軸そのものである。
福音丸は今もマストを立て、時空を超えて、この瀬戸内の海を航行しているのであり、ビッケル船長の遺徳は、島々の至るところにちりばめられている。そして、娘のエバリン・ビッケル・タッピングとともに、かつての少女Hama Ohmuraの肩をもやさしく抱いているように思えた。
ビッケル先生は、ちょうど大村先生が教師としての仕事を終え、自分の全集の執筆にかかり始めた頃にアメリカでお亡くなりになっていた。そして今、その遺骨の一部は、東京多磨墓地にあるタピング家の墓に眠っている。最期の言葉は、「私が日本にいた時にね…」であったというが、その途中で途絶えた思いの彼方には、はるかな日本の瀬戸内の海や、大村はまを含む日本の少女達の青春の日の姿が、思い描かれていたに違いない。
帰路、暮れゆく春の因島の風景を振り返りながら、向島の教会で、大村先生の「蓼科の歌」に続けて歌った歌のフレーズを思い出した。
暮れなずむ 尾道の海
しまなみに 夕映え燃えて
師の君の夢は 遥けく
架け渡す 希望の橋か
明けはなつ 尾道の海
灯台の 明かりも消えて
福音の船は 旅立つ
み教えの 果てなき海へ