創造

創造主とセルフイメージの世界

河野氏講演会

2016-02-20 20:55:51 | 歴史

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創造者の光

2016-02-13 15:36:42 | 神学と科学

パウロは、太陽よりも明るく輝く光の中で復活の主に出会いました。(使徒26・13)

被造物である太陽よりも輝いているのは創造主ご自身の光でありました。その光は人間の視覚を超えていましたので彼は三日間目がくらんだままでした。

彼はテモテに対して次のように語っています。「私たちの主イエス・キリストの現れの時まで、あなたは命令を守り、傷のない、非難されるところのない者でありなさい。その現れを、神はご自分の良しとする時に示してくださいます。神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。」(テモテ第一6・14-16)

今日、可視的世界としての宇宙に関する科学的知識は飛躍的に拡大していますが、それは被造物としての人間の視覚脳で知覚されたものですから限界があり、相対的な世界です。

それでも神は最初に光を創造されたとありますから、神と光には類似性があるのかもしれません。西欧キリスト教世界で神学とともに光学という科学が重んじられてきたのです。ニュ-トンやアインシュタインにいたるまで、被造物としての光の究明しつつも、そこには絶対的な光についての畏敬が予感されます。

優れた科学者は、科学することの限界と相対性を忘れないからこそ、その謙虚さを通して既成概念から解放されて新たな法則を発見したのではないでしょうか。

パウロは当時のパリサイ派として自負があり、宗教的には頂点を極めたエリ-トとしてのプライドがありました。ロ-マ市民権をもった選民イスラエルのベンジャミン部族に属する由緒ある家系でもありました。

しかし、その人間的誇りこそが、己を絶対化するという自己礼賛という偶像化をもたらす元凶でありました。

被造物的光栄が、絶対化されると永遠の光をみえなくさせてしまいます。キルケゴ-ルはランプの光が空の星の美しさを忘れさせると語っています。

被造物依存が砕かれたとき、パウロは真に頼るべき創造者に目が開かれました。それは自己神化という原罪以来陥った霊的死から解放されて、永遠の霊としての自己がよみがえった瞬間でもありました。

復活の主は、五感の確証を求めたトマスに対して「見ずに信じる者は幸いです。」とさとされました。(ヨハネ20・29)

主から注がれる神の御霊が私たちに届けられると、私たちの霊がよみがえって、霊Spiritである創造主と御子の実在に触れ、永遠の交わりに引き上げられます。光は光によって知られるとあるように、霊であられる創造主は霊によって認識されます。それは被造物的相対的知覚を超えた絶対的永遠の認識です。

太陽の光は植物の光合成をもたらし、生きとし生けるすべてのものを育みます。神の光は、十字架と復活の主イエスを通してすべての者に注がれています。

それは不可視的な光線ではありますが、あらゆる世界を貫いて浸透しています。私たちは自分の肉体よりも近くにきてくださった神に目覚めなければなりません。太陽と光線が本質的に一つであるように、内住される聖霊は神ご自身であります。真の光として私たちを清め、真実を照らされます。また、創造者の命そのものでもあられます。

神が人になられたのは、真の神を私たちに届けてくださるためでした。神にとっては文字通り身を裂かれる思いで、ご自身を私たちに分かち与えてくださいました。この大いなる犠牲と愛の中に私たちは生かされています。

 

 

 

 

 

 

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