創造

創造主とセルフイメージの世界

神の子の誕生

2023-12-25 21:35:31 | 福音

【ヨハネ福音書1章1-18機節】

 徳島県松茂町のクリニック釈羅(フランシスコ D ぺニア記念病院)庭のブルー・エンジェルス機です。2022・4・17みんなで写真をとりました。青は藍色、青石、そして日本のサッカーチームのジャパンブルーですが、また大祭司が身につける聖なる装束色であり、聖霊のシンボルです。外国人観光客が日本の青いイルミネ―ションが素晴らしいと言っていました。大谷選手や山本投手が来季プレイするドジャースの名の由来はドッチボールにも充てられたドッジ、すなわち身を「よける」にあり、、ニューヨークブルックリンで歩行者が路面馬車などをを「ひらりとよける」ところからメジャーリーグの名がつけられ、東海岸から西海岸のロスアンジェルス(ザ・エンジェルス)に移ったのだそうです。

私が夜間の神学校時代、昼間、NHKホール建築の測量の助手のアルバイトをして、クリスマスの日に寂しい思いでぼんやりしていたところ 上空にアクロバット飛行隊が現れてMerry Christmas と見事な文字を描いたのをみて感動しました。 航空自衛隊はブルー・インパルス(青の衝撃)ですが米国海軍はブルー・エンジェルスですが松茂の教会墓地がある航空霊園近くにその本物の機体があるのに驚きました。

 ところでクリスマスカラーの赤は主の血、白はその血によって清くされること、黄金は神の臨在、そしてグリーンは永遠のいのちを意味します。創世記にエデンの園の至聖所の「いのちの木」について記されています。

 人類の父祖は、その木に目を向けることもせず、「善悪を知る木」(創世記3・5)に魅せられました。その実を食べれば自分が神のような主人公になり、神は必要でなくなれるという誘惑されたのです。「食べる」とは「受け入れて一体化する」ということを意味し、霊的なことを例えで表現しています。原罪とは創造主を無視し、被造物である自分やこの世のみに頼ることです。その結果人類と全被造物は霊的な闇の支配下に陥りました。

神の御子である主が、受肉して人になられた時、その人間の高ぶりが明るみにされました。

しかし御子を受け入れて信じて頼る時、人は神から生まれ、神の子にされる奇跡が起こると⒓節にあります。「受け入れる」とは「迎え入れる」「食べる」「いただく」と同意語で、「信じて頼る」ことです。

 いのちの木のシンボルでもあるクリスマス・ツリーには博士が導かれたベツレヘムへの星が飾られます。赤や金色グリーンのオーナメントボールは満ち満ちた聖霊の実と賜物を指しています。

 やがて十字架で流される主の血には、全ての罪が洗い清める力があります。主を信じてお頼りするとき、真っ黒な心が真っ白にされ、そこに聖霊なる神が宿られて、神の永遠の命の中に迎え入れられます。

 パウロは「神が貧しくなられたのは、私たちを富ませるためです」と語り、アタナシオスは「神の御子が人になられたのは、人を神の子にするためであった」と語りました。

 神がこの世に下られ、私たちの罪を負われ、その血によって罪の赦しをなしとげ、信仰を通して聖霊を注がれて、死んだ霊をよみがえらせ、永遠の解放をもたらされました。私たちは人間の子として生まれるだけでなく創造主の子として誕生するのです。

 クリスマスの最大のプレゼントとは、神ご自身です。創造主の中にすべてが満ち溢れています。神は長い間、準備をしてプレゼントを用意されました。帰ってきた放蕩息子に父親が、喜びのあまり最善最高のものを惜しげなく与えたように、神は私たちに一番大切なものを用意されました。ごちそうを料理した者にとって、それを食べていただくことが大きな喜びなのです。

 造られたこの世界にはない宝もの、永遠の神とそのいのちを幼子のような心で受けましょう。神が私たちの中に住まわれて、重荷を負って下さり、絶えず罪を清めてくださり、その全能の力を現わしてくださいます。私たちの創造主は、私たちにご自身のいのちを与えて永遠の恵みのなかを生きてほしいと願っておられます。

Holy Night

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悔い砕かれた心の者へ

2023-12-05 11:28:42 | 福音

【イザヤ書57章14₋21節】

主を迎える準備、主の通られる道を用意する、それがアドベント(待降節)の時です。

旧約時代はメシアを待望しました。現代はその主を心に迎え、体も贖われる再臨の主を待望する時代です。

主と出会うには、その前ぶれがあります。わたしも学生の時、キリスト研究会という十人ぐらいのサークルに参加し、ワディングトン宣教師の指導を受けました。主催者は山口県出身の角谷先輩でした。

休日には少年刑務所を訪ねて劇をしたり、義援活動をしたり、山村友の会と言って、教会のない地域のために

学校の教室を借りてそこで寝泊まりして、紙芝居や民家で交わりの時を持ちました。

 ジンギスカン料理を食べて、寒さに抵抗力をつけました。夜は足首や要所に新聞紙を巻き付けて用心して寝たりしました。そんな中で主への備えがなされたのだと思います。いわば先輩クリスチャンの中のイエス様、聖霊様に出会っていた訳です。そして直接、主に祈るように導かれました。「永遠いのちとは御子及び父なる神との交わりです」とありますように。

 ヨブは絶望と失意の中でエリフという若者を通して主と出会い、パウロはステパノの説教を聞き、怒って迫害しましたが、やがて復活の主に出会ったパウロも同じです。

 

心砕かれた者とは、打ち倒され絶望した者という意味ですが、信仰の決心が出来たみ言葉の一つは十字架上での「わが神わが神、何故私を見捨てられたのですか」という主の祈りでした。

 イエス様にとって、神はいつでも親しい父でありましたが、この時はどこかよそよそしく遠くのお方に叫ばれているようです。見捨てられるとは全くの絶望状態です。神がいない世界と言えるかもしれません。

 ですが、ここに深い恵みを感じました。自分のように神とは縁のないような世界に生きる者、その所に主が来ておられる。14節の預言のように「いと高く」「永遠の命を持たれ」「聖なる」神が「心砕かれてへりくだった人」、闇の中に下られたのです。

 それは「霊」を活かし、魂を活かすためであったとあります。 

 イザヤはこのように救い主キリストの到来を正確に語りました。

旧約時代、エレミヤやイザヤが嘆いているのは、民の二心であり高ぶりであり、その結果、砕かれるためにイスラエルは呪いと悲惨の中に置かれました。罪と弱さを自覚するために。

主がこの世に来られる時に「人々の心が現れる」とあります。本来、人間の心は主を迎える準備はないということです。聖家族を宿す余地はなかったのです。

自ら幼子のように無力な者であることを示されて、神のみ前にへりくだること、その心の小道を主が入ってくださるのです。

岸田総理が夏季休暇に読まれたという本の一冊「アマテラスの暗号」を電子書籍で読んでみました。神道が旧約聖書と関連していると言ことをかなり詳しく述べていました。しかし「あとがき」に日本人は自虐史観によって自分を卑しめると教育や国力を弱めてしまうので、もっと誇りを取り戻さなければならないとありました。

旧約の預言者たちは自分と民の神への不信と二心の罪を悲しみ、警告していることを見逃しているように思えました。かつて自らを一等民族と誇り、韓国やアジアの人々を二等三等民族として神社崇拝を強要したのでした。

へりくだる心に聖霊なる神が宿られます。

クリスマスとは、神がその分身であるご自身を私たちにプレゼントされる驚きの出来事です。

その永遠のいのちである宝をご自分のものにして、真の誇りに生きてほしいと主は切に願っておられます。

 主の前に自分の弱さを誇り、ゆだねる時に、宮から活ける川が流れたように神ご自身が私たちの生活に現れてくださるのです。

入れまつる家あらず

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