創造

創造主とセルフイメージの世界

「我とそれ」関係から「我と汝」関係へ

2011-10-30 19:46:41 | ゴスペル

http://homepage2.nifty.com/ichikawakita/library/evangelical.html

にプロテスタント教会の説教についての優れた洞察が述べられています。

説教とは対話であり、神に聴く事によって話されるメッセージなのだと教えられました。

ベート―ヴェンは聖霊の語りかけを聞いた時に、思わず指揮を中断したことがあったそうです。

彼をモデルに書かれたロマン・ローランの大河小説「ジャン・クリフトフ」の一節に「偉大な音楽とは人間が作り出すものではなく、自然の中から聞き取り、発見するものだ」とありました。

正確には被造物としての自然から創造主の語りかけを聞き取ってそれを編曲することが真の音楽家だという意味なのでしょうか。

究極の祈りは主の声を聴くことだといわれます。確かに聖書には多くの祈りと願望が語られていますが、最も大切なのは神御自身の言葉であり、旧約の人々にとって語る祈りよりも聴く祈りのほうがむづかしかったようです。ダビデは多くの祈りをささげていますが、その答えは祭司ナタンを通して与えられたということからもうかがわれます。

中でも印象深いのはエリヤが神の声を聞いた時です。それは静かな細い声だったとあります。遠くで叫ぶには大声が必要ですが近かったらささやくような声で十分です。

現在、神はいとちかくからささやかれます。聖霊は私たちの身体よりも心よりももっと近い霊の中から語られますから、やはり心を静めて耳を澄ますことが求められます。

ということは自分の自我(魂・プシュケ)を主とする限り、私たちは聖霊の神との交わりを軽んじることになるのです。サタンがアダムを誘惑した時も「神から独立して自給自存の道を歩ませる」ことでした。霊による創造主への依存と交わりの道でなく、自我を神として魂のモノローグの世界に誘導したのです。それは「我とあなたの関係」ではなく「我とそれ」の関係です。神のいのち(ゾーエー)からそのようにして人間は切り離されました。

神との人格的な関係を失った結果人間同士のそして自然界との関係も破綻します。それは自然の一部でもある人間の人体との調和も危険にさらすことになった訳です。

お互いの対話を失い、目的として関わるのでなく手段としてしか、つきあえなくなりました。

パスカルを戦慄させた「宇宙の沈黙」の世界です。ピカートが指摘したように「私たち自身が魂を主人公にした小独裁者」になりうるのです。

しかし感謝すべきことに、創造主の側からなおも、交わりを求め対話を試みてくださり、主ご自身が私たちのもとに近付いてくださって、壊された関係を十字架によって修復してくださいました。そうして復活された主は、共に歩んで下さり、私たちの内に聖霊を住まわせ、永遠の交わりの中に生かして下さっておられます。

主イエスの地上における生涯は、私たちへの語りかけであり、それは現実に活きて共に歩んでおられる復活主ご自身との対話を呼び起こすものでもあります。

聖霊によって書かれた聖書を聖霊に頼りつつ読むときに、時の中に生きる者でありつつ、永遠を生きる奇跡を味わうのです。

 

 

 

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ニコデモとの対話

2011-10-27 10:36:24 | 福音

聖書には数々の対話が語られています。

そもそも信仰とは「対話」そのものかもしれません。ヨハネの手紙には永遠のいのちとは父及び御子との交わりである」とありますから。

それは創造主ご自身が複数形で表現され、永遠から父と御子と御霊の交わりの中に存在され、神の形に創造された人間を考えれば必然のあり方ののでしょう。

ところで、ヨハネ福音書に記された主イエスとニコデモとの対話は興味深くまたユーモラスでもあります。

確かにお互いに語り合っているのですが、内容的にかみ合わず、平行線のままで真の意味での対話が成立しません。

主は霊の視点から語るのですが、宗教家でありながらニコデモは魂のレベルで応答します。パリサイ派として修業し、人間の五感をみがきあげたに違いありませんが新生(神生)ということを理解できません。

そこで主イエスは予言的な言葉を語ります。荒野であげられたヘビのことです。罪のため毒ヘビに噛まれて瀕死の状況にあるイスラエルの民のために神はモーセに命じて青銅のヘビを竿のうえにかかげさせました。

裁きの象徴でである青銅のヘビを仰ぎ見たものは、毒が消え奇跡的にいやされてゆきました。

ニコデモが次に登場するのはヨハネ福音書19章39節、「没薬とアロエ」を持参して、十字架上にあげられて人類の罪を負われた主を葬る時のことです。

彼は青銅のヘビとなられた主を仰ぎました。その時自らの罪が吸い取られるように消え去り

清められた心の底に聖霊が触れられました。聖霊はアダム以来、死んだ霊を呼び覚まし、神のいのちの中によみがえらせます。

すなわち、死の力を持つサタンから解放し永遠のいのちと交わりに招き入れられます。

天地が創造される以前からの父と御子との対話の中に招かれ、神のファミリーの一員に迎えられるのです。聖霊が私たちの内でそのような奇跡を可能にされます。

ニコデモは主の予言の通りに、十字架と復活のもとで真の対話を回復したに違いありません。神のいのちに生まれることによって、神のレベルの事を理解できるのです。

エマオ途上の弟子と共に歩まれたように、復活の主はいつでもどこにも共におられ、語りかけてくださる永遠の同伴者であることが明らかにされました。

私たちも、御霊に依存する時、霊の目が開かれて、栄光の主と父なる神の御臨在を仰ぐことができます。

 

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ギリシャ問題とヘレニズム

2011-10-21 21:13:54 | 政治と信仰

ギリシャの債務問題はユーロ圏の経済をゆるがし、スペイン、ポルトガル、イタリアにまで

波及しています。いわゆるキリスト教圏内に属する国々ですが、東方正教のギリシャを別にすればいづれもカトリック圏であることが分かります。

これをマックス・ウェーバーの仮説に倣って霊的信仰的視点から理解しようとすれば、ヘレニズムの問題が浮上します。ヨーロッパ世界はキリスト教とヘレニズムの相克の歴史でもありますから。

前者をヘヴライ的一元論思潮とすれば後者は霊魂と体の二元論から成っているといえます。

西方神学を代表するアウグスチヌスはプラトンの霊魂不滅説の影響を受けているといわれます。ということはプロテスタントによる宗教改革はそのヘレニズム的混合からの脱却と解放を意図した一面を持つ訳です。

魂の永遠化と絶対化を脱して、創造主なる聖霊による人間の霊の新生を強調したのです。

本当はカトリック世界よりもナチスのゲルマン魂の謳歌や我が国の戦前の大和魂の賛歌により極端な形の二元論が出現しましたが。

ここでの問題は魂の肥大化とも言える現象です。物質より精神を優先するのですが、その精神自体が神格化されると、もはや真の絶対者である創造主に依存し、交わり、従うことを無視し、自らが主体となり、いつしか神のごとくふるまうようになります。

永遠の供給者、創造の根源者との結びつきを失うと、結果的に精神的にも経済的にも枯渇し始めるのです。

旧約時代の各王の治世の初めに「高いところ」が取り除かれたか否かでその時代の盛衰が決定されたと聖書は語ります。高いところにでの偶像礼拝を続けることは、創造主との交わりをおろそかにし、それを通して治政の中に悪霊を招き入れて国を危うくするということが起こったのです。

そういう面から考えるとギリシャの問題は我が国と無関係ではないことが分かります。

日本における偶像礼拝の一つは祖先崇拝であると明治初期に福井と東大で教鞭をとったグリフィスは著書「ミカド」で指摘しました。マックス・ピカートは「われわれ自身の中のヒトラー」という本を書きました。

憲法第一条では、日本国民の象徴は天皇であると述べております。アマテラスと言う祖先神を持つゆえに、かつての天皇は現人神であり、そのために殉じた戦死者は軍神として靖国神社の祀られました。しかし、今日でも依然として、ご先祖の位牌は仏壇に置かれて拝まれます。日本で御霊とは創造主のことではなく、まさしく死者の霊のことです。そして時にはアナウンサーでさえ、人々はその御霊に祈ったと表現します。

日本政府の国債はギリシャのそれをはるかに凌ぐ額です。ヘレニズムはまさに我が国においても絶大な影響を保持しているのでしょうか。

私たちは現在、この根源的課題に直面していると思います。

ウォッチマン・ニーは前書「根本的問題-人間の魂」の中で以下のように語ります。(256頁)

「私たちは神から離れて行動し、考え、決定し、力を持つように仕向けられました。今日の私たちキリスト者の多くは、発育過剰の魂(プシュケ)の持主なのです。私たち自身において、あまりにも巨大に育ち過ぎ、『魂の肥大症』となったのです。私たちがこのような状態にあるとき、私たちの内における神の子のいのち(ゾーエー)は、制限され、行為の面からほとんど押し出されているのです。」

私たちは造られた魂と自我に依存するのでなく、もっと深くに内住される創造主なる聖霊にもっとお頼りすべきではないでしょういか。

私たちは目に見える財や自分自身に対しては常に意識している者ですが、目に見えない宝を自覚することはむずかしいものです。

造られたものは有限ですが、創造主は無限の尽きざる資源とエネルギーをお持ちです。

創造主は御自身の永遠のいのちをお与えになるために、独り子を送って下さいました。

その神的いのちこそ真の宝であり、あらゆる必要を満たして余りある源泉であります。

 

 

 

 

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神的超越的生命と自然的被造的生命

2011-10-20 22:33:38 | 福音

ウォッチマン・ニーはいのちの質について分かりやすく説きます。

「キリスト者の標準」120頁以下で善悪の木と生命の木の違いについて「神性という点において、復活以来、永遠の将来にわたって彼は長子となり、その時以来、彼のいのち(ゾーエー)は多くの兄弟のうちに発見されるようになったのです。なぜなら御霊によって生まれた私たちは、『神の性質にあずかる者』(第二ペテロ1・4)とされたからです。もちろんこれは、自分の力によってではなく、もうすぐ学ぶように、神への信頼と『キリストにある』ことによってのみ可能であることを忘れてはなりません。」

アタナシオスは「私たちが聖霊を受け取るために、み言葉は身体のかたちをとられた。人間が霊をもつ者となるために、神は身体をもつ方となられた。」と語りました。 (「いのちの御霊」J・モルトマン著蓮見和男・沖野政弘訳・新教出版社344頁)

アタナシオスはさらに古代教会の決定的命題として「神は人間となられた、それは人間が神とされるためであった。」と表現しました。(上著436頁)

モルトマンは東西分裂以前のニカイア信条においては、聖霊による神の永遠の生命の贈与が十分に確認されていたと語ります。

これは西方の神学から一定の距離をおいた東洋の使徒ウォッチマン・ニーによって平易に語られたのではないでしょうか。

もう一度「キリスト者の標準」に帰りますと「アダムが直面した選択」というテーマで以下のように述べられます。

「この二本の木は、二つの深遠な原理を代表します。それらは生命の二面、すなわち神の面と人の面を意味します。『いのちの木』とは神御自身です。なぜなら、神は命(ゾーエー)であられるからです。神は最高の意味における命であり、また同時に、命の源でもあります。それから『実』という言葉。これはなんでしょうか。私たちの主イエス・キリストです。木は食べられなくても、実は食べられます。人は神を神であられるまま受け取ることはできませんが、主イエスを受け入れることはできます。実は食べることのできる部分であり、受け取ることのできる部分です。従って、敬虔な思いで言わせていただきたいのですが、主イエスこそ、私たちが受け入れられるかたちの神であられるのです。キリストにある神は、私たちが迎え入れることができるのです。

もしアダムが命の木を食べたとすれば、彼は神の命にあずかる者となり、神より受けた命を自己の内にもつという意味において、神の『子供』となったのです。そうすれば園には人と結合された神の命が存在したことでしょう。すなわち、自らの内に神の命を持ち、その命を継続するために、絶えず神に依存して生きる人類が出現したことでしょう。ところが、アダムが別の道を選んで、善悪を知る木の実を食べれば、彼は神から独立して、自然の過程によって成長するのです。ところが、このような自給自足的な存在として頂点をきわめても、そのような人は自分で判断する力を持つでしょうが、神よりの命は持たないのです。」(123頁)

アダムに代表される人間の自己偶像化(被造物絶対化)という原罪をウォッチマン・ニーは鋭く指摘します。偶像はアイドルとも訳されますが、私たちが何らかの被造物を憧憬しこれに依存するとき、実は真により頼むべき創造主との交わりを忘却します。ここにサタンのワナがあります。イスラエルはいつもその誘惑にさらされ、永遠の地下水であられる創造主への依存を忘れてさまざまな溜まり水に根をおろして祝福を失いました。

ヨブ個人の生活においても同様の危険があったのでしょう。それゆえに神は敢えてヨブの幸せを奪ったかのようでした。彼は愛する家族、財産を失い、自分を支えてきた健康さえも奪われました。そして友人にもうとまれ深い孤独と絶望の淵に追いやられました。しかしその中で創造主ご自身と対面し、主への絶対的信頼を呼び覚まされました。神と結ばれてまことのいのちがよみがえった時、二倍の祝福が注がれてきました。

これは未曽有の災害に見舞われた私たちへのメッセージではないでしょうか。

 

 

 

 

 

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ウォッチマン・ニー、証し人の生涯

2011-10-19 19:21:10 | 福音

ウォッチマン・ニーの永遠の励ましという証です。

http://111.68.212.30/Encourage/encourageinf.html

彼は殉教者のようにこの世を去りましたが、「キリスト者の標準」

のなかで、あたかも自分の将来を予言したかのように語っている

文があります。

「神は私たちを、深い暗黒な経験を通して、私たちの生来の力が

触れられ、根本的に弱められて、もはや自分にあえて頼ることが

出来ないという点まで連れてこられねばなりません。

それがどのようしてなされるか、私には言えません。

しかし、とにかく神はそれをなさるのです。

神は私たちのうちのある者を大変乱暴に取り扱われ、その人を

そこに連れてゆくために、困難で苦しい道を通らせなければなりません

でした。そして私たちが、キリスト者の働きをするのが「好き」ではなくなり

、主の名によって事をなすのが恐ろしくさえなる時が来るのです。しかし

その時はじめて、神は私たちをお用いになることができるのです。」

(296頁)

英語本の題は”The Normal Christian Life (by Watchman Nee)”

です。以下で無料で読めます。

http://www.ccel.org/ccel/nee/normal.toc.html

中国の数千万人の地下教会リーダーの一人であったウォッチマン・ニー

と韓国のヨイド純福音教会名誉牧師チョウ・ヨンギ師のメッセージには

多くの共通点があります。共にアジアを代表する霊的指導者です。

敢えてその違いを見るなら、前者は聖霊の実を強調するのに対して

後者は聖霊の賜物(力)も積極的に評価することにあると思います。

師のメッセージは毎週、日本語で聞くことができます。

http://japanese.fgtv.com/

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「キリスト者の標準The Normal Christian Life」ウォッチマン・ニー

2011-10-19 16:10:22 | 本と雑誌

http://www.ccel.org/ccel/nee/normal.toc.html

The Normal Christian Life by Watchman Nee

ウォッチマン・ニーの「キリスト者の標準」(いのちのことば社)は現在絶版で

古書価格では48,000円となっていました。

しかし英文では無料で、本文と多くの関連記事を読めます。

現在中国には地下教会を含む一億人以上のクリスチャンがおりますが

多くがウォッチマン・ニ―の影響を受けているとも言われます。

著作を読むと霊的深さに驚かされます。

日本語訳の一部を紹介します。

「私たちが赦されるために、神の子は私たちの身代わりとして十字架で死なれ、そして私たちが罪の力から解放されるために、私たちに代わっていきておられるのです。このように二面の身代わり、すなわちわたしたちの赦しを獲得するための十字架にかかられた身代わり、および私たちの勝利を獲得する内住の身代わりが存在するのです。」(2頁)

 

「神との交わりを保つためは、私たちは最も新しい感覚で(主の)血の価値を知らなければなりません。神は毎日、毎時、毎分、そのたびごとに、私たちが血によって罪を清算されることを要求されます。この事実をしっかり把握していれば、決して血は神の近づく土台としての効力を失いません。至聖所に入る時、血以外の根拠がありうるでしょうか」(13頁)

 

「神の子らの悩みや心配事は、もし彼らの目が、彼らの心の内にかくされている宝の偉大さに向かって開かれるなら、すべて消え去ってしまうでしょう。あなたは、あなたが直面し得るあらゆる環境の要求を満たす十分な資源があなたの心の中にあることを知っているでしょうか。あなたは、心の中に、あなたが住んでいる都市をも動かすに十分な力のあることを知っているでしょうか。あなたは宇宙をゆするに足る力のあることを、知っているでしょうか。もう一度、心の底からの敬虔をもって、言わせていただきたいのです。神の御霊によって生まれたあなたは、心の中に神を宿しているのです。」(153頁)

 

「旧約時代には神は石で造られた宮に住まわれましたが、現在では、生きたキリスト者によって構成された宮に住まわれるのです。神が私たちの心(霊)をご自身の宿られる場所とされたことを真に知る時に、深い敬虔の念が、私たちの生涯ににじみでるでしょう。自分は神の宮であり、神の御霊が自分の内に宿っておられるということを知る時に、すべての軽率さ、くだらない言動、および自己を楽しませる態度などが消えてなくなるでしょう。行く先行く先に、あなたは神の御霊を一緒にお運びしているということがほんとうにおわかりでしょうか。あなたは聖書とか神のよき教えとか持ち運ぶのでなく、神御自身を運んでいるのです。」(155頁)

 

「あるキリスト者は勝利の生活を営んでいるのに、あるキリスト者は絶えず敗北の生活を送っているのはなぜでしょうか。その違いは、聖霊が臨在されるか否かにかかっているのでなく、(なぜなら、聖霊はすべての神の子らの心に住んでおられるから)ある者は聖霊の内住を認めるけれども、ある者は認めないというということにあるのです。聖霊の内住の事実に関して真の啓示が与えられたなら、いかなるキリスト者の生活も改革されるでしょう。」(155頁)

 

「御霊にあって生きるとは、自分自身ではなし得ないことを、私の内において御霊がなして下さるために、御霊により頼むことです。」(194頁)

 

「主に罪のゆるしを求め、かつ自分の内に来て下さることを求めた時に、彼の心は生きた神の住居となることを、絶えず私たちは新しい信徒に対して明確にするように努力します。神の聖霊は今や彼の内にあって、彼が聖書においてキリストを発見するために聖書を開き、祈りを導き、彼の生活を支配し、彼の内に主の性質を再現させれるのです。」(222頁)

 

「私たちの内に実在する神のいのち(ゾーエー)のゆえに、主は讃美すべきかな。しかし、なぜその主のいのちの表われが、あまりにも少ししかないのでしょうか。なぜそれは、自分の内にだけ留まっていて、溢れ出て他の者にいのちを与えないのでしょうか。なぜそれは、私たち自身の生活においてさえ表われることが少ないのでしょうか。なぜいのちがあるのに、そのいのちの印が非常に薄いのでしょうか。それは、わたしたちの内にある魂(プシュケ)が、そのいのちを包み、かつ閉じ込めてしまうために(ちょうどもみが麦の粒を包むように)いのちは出口を見出すことができないからです。私たちは魂によって、生きており自分自身の生来の力によって働き、かつ奉仕しています。私たちは神から力を引き出していません。いのちが溢れ出る道に立って妨害しているのは、魂なのです。その魂を失ってください。そうしてこそ満たしがあるのです。」(294頁)

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ウォッチマン・ニー「キリスト者の標準」を再読して

2011-10-18 09:16:29 | 福音

愛読書の一冊ですがアマゾンの古書価格で48,000円とありました。私のものは1990年新装4刷版いのちのことば社出版で定価2200円でした。再版が望まれます。

聖書の解説書としても信仰の手引きとしても大変教えられました。心の残った文をあげてみます。

「私たちが赦されるために、神の子は私たちの身代わりとして十字架で死なれ、そして私たちが罪の力から解放されるために、私たちに代わっていきておられるのです。このように二面の身代わり、すなわちわたしたちの赦しを獲得するための十字架にかかられた身代わり、および私たちの勝利を獲得する内住の身代わりが存在するのです。」(2頁)

「神との交わりを保つためは、私たちは最も新しい感覚で(主の)血の価値を知らなければなりません。神は毎日、毎時、毎分、そのたびごとに、私たちが血によって罪を清算されることを要求されます。この事実をしっかり把握していれば、決して血は神の近づく土台としての効力を失いません。至聖所に入る時、血以外の根拠がありうるでしょうか」(13頁)

「神の子らの悩みや心配事は、もし彼らの目が、彼らの心の内にかくされている宝の偉大さに向かって開かれるなら、すべて消え去ってしまうでしょう。あなたは、あなたが直面し得るあらゆる環境の要求を満たす十分な資源があなたの心の中にあることを知っているでしょうか。あなたは、心の中に、あなたが住んでいる都市をも動かすに十分な力のあることを知っているでしょうか。あなたは宇宙をゆするに足る力のあることを、知っているでしょうか。もう一度、心の底からの敬虔をもって、言わせていただきたいのです。神の御霊によって生まれたあなたは、心の中に神を宿しているのです。」(153頁)

「旧約時代には神は石で造られた宮に住まわれましたが、現在では、生きたキリスト者によって構成された宮に住まわれるのです。神が私たちの心(霊)をご自身の宿られる場所とされたことを真に知る時に、深い敬虔の念が、私たちの生涯ににじみでるでしょう。自分は神の宮であり、神の御霊が自分の内に宿っておられるということを知る時に、すべての軽率さ、くだらない言動、および自己を楽しませる態度などが消えてなくなるでしょう。行く先行く先に、あなたは神の御霊を一緒にお運びしているということがほんとうにおわかりでしょうか。あなたは聖書とか神のよき教えとか持ち運ぶのでなく、神御自身を運んでいるのです。」(155頁)

「あるキリスト者は勝利の生活を営んでいるのに、あるキリスト者は絶えず敗北の生活を送っているのはなぜでしょうか。その違いは、聖霊が臨在されるか否かにかかっているのでなく、(なぜなら、聖霊はすべての神の子らの心に住んでおられるから)ある者は聖霊の内住を認めるけれども、ある者は認めないというということにあるのです。聖霊の内住の事実に関して真の啓示が与えられたなら、いかなるキリスト者の生活も改革されるでしょう。」(155頁)

「御霊にあって生きるとは、自分自身ではなし得ないことを、私の内において御霊がなして下さるために、御霊により頼むことです。」(194頁)

「主に罪のゆるしを求め、かつ自分の内に来て下さることを求めた時に、彼の心は生きた神の住居となることを、絶えず私たちは新しい信徒に対して明確にするように努力します。神の聖霊は今や彼の内にあって、彼が聖書においてキリストを発見するために聖書を開き、祈りを導き、彼の生活を支配し、彼の内に主の性質を再現させれるのです。」(222頁)

「私たちの内に実在する神のいのち(ゾーエー)のゆえに、主は讃美すべきかな。しかし、なぜその主のいのちの表われが、あまりにも少ししかないのでしょうか。なぜそれは、自分の内にだけ留まっていて、溢れ出て他の者にいのちを与えないのでしょうか。なぜそれは、私たち自身の生活においてさえ表われることが少ないのでしょうか。なぜいのちがあるのに、そのいのちの印が非常に薄いのでしょうか。それは、わたしたちの内にある魂(プシュケ)が、そのいのちを包み、かつ閉じ込めてしまうために(ちょうどもみが麦の粒を包むように)いのちは出口を見出すことができないからです。私たちは魂によって、生きており自分自身の生来の力によって働き、かつ奉仕しています。私たちは神から力を引き出していません。いのちが溢れ出る道に立って妨害しているのは、魂なのです。その魂を失ってください。そうしてこそ満たしがあるのです。」(294頁)

 

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敬天愛人

2011-10-15 15:52:59 | 国際・政治

http://blogs.yahoo.co.jp/sjy0323jp/52552406.html

紹介のサイトは西郷隆盛クリスチャン説根拠の一つです。

勝海舟は西郷と横井小楠を絶賛しましたが小楠の子息横井時雄は

同志社の総長もされ、日本基督教団今治教会の創立者です。

http://www.dokidoki.ne.jp/home2/doinaka/hyakka/meiji/0098.html

横井家はフルベッキ師と親交がありました。

敬天愛人とは創造主なる神を敬い、隣人を愛しなさいという聖書の

基本的な教えです。これは御子の十字架と復活によって、垂直的に

神に結ばれ、水平的に隣人を愛しなさいという意味です。

これは人の力で出来ることでなく、聖霊の能力によって可能なのです。

主への信頼と依存(信仰)と愛はひとつのものであり、その愛とはこの世

だけのものでなく永遠のものです。

永遠の愛は、死を克服した復活の主との出会いと交わりによって実現し始まります。

勝、横井、西郷の人格とその働きの大きさはそのような神の愛に触れたことに

依るのだと思います。

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大塚史学とマックス・ウェーバー

2011-10-15 10:49:06 | 神学

元東京大学経済学部長の大塚久雄氏はクリスチャンでマックス・ウェーバー研究の

第一人者です。

代表的訳本が「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(岩波文庫)です。

氏の学説は大塚史学と呼ばれていますが、カルヴィン派のプロテスタントが

近代世界に及ぼした影響について考察しています。

日本における初期の代表的な宣教師、フルベッキ、ブラウンがオランダ改革派であり、

ヘボンが長老派でいづれもカルヴィンの影響下にあったことを思えば日本近代化と

プロテスタント主義の関係についても考える必要があるでしょう。

バプテストにもゼネラルバプテストと本流のパテキュラ―バプテストがありますが後者は

再洗礼派とカルヴィンの影響下に生まれたとも言われます。

カトリック的な信仰が客観的恩寵を重んじるのに対してプロテスタントは主体的な恩寵

と体験を重んじるというのが私の理解です。

ごちそうが備えられてもそれを食べて消化しなければ、自分の役にたたないように

神を外側から知るだけでなく、内側に体験することです。

主キリストについて、学ぶだけでなく、今も生きておられる復活の主に出会い、交わること

によって、全生活が対話となり祈りとなるようにして知ってゆくことです。

対人関係においても、その人について聞いたり調べたりするだけでなく、本人と直接

対面して共に語り、共に過ごすことによってより深く理解しあえるのと同じです。

主は旧約聖書はご自身について書かれていると証言されました。いわば設計書のような

もので本体はご自分であると語られました。そして普通の歴史上の偉人や宗教者と決定的

に違うのは、十字架での罪の贖いを完成された後、復活されて今も生きて活動されておら

れることです。パウロは太陽の光よりも明るい神の光の中でこの復活の主に出会いました。

被造物の光でなく創造主ご自身の光の中です。ユダヤ教徒サウロから神の子パウロへの

飛躍です。被造物としてはもっとも清い聖所の世界から、創造主の住まわれる至聖所に引き

上げられたのです。それは人間の側からではなく、降下された聖霊によって起こった啓示の

出来事であり、もっとも高い次元の奇跡でありました。その出来事は十字架における罪の贖

いという客観的恩恵に基づいて、今パウロの中で主体的な恩恵としてもたらされました。

主体と言っても、人間が主体なのでなく創造主なる聖霊が主体となられて私たちの中で

実現された復活主との出会いと交わりであります。それは創造主の内部での永遠の交わり

である父なる神との真の出会いであり交わりでもあります。

このように人間を深みから変える働きこそが宗教改革の原点でありました。

今日、復活の主は70億人すべての人々をいつくしみ、共におられます。

しかしかつてのパウロのように、まだ宗教のヴェールや諸霊の惑わしそして自我の高ぶりな

どが覆いとなって、このお方との出会いと交わりを妨げているのです。

カルバリの丘で流された神の血潮によって罪を洗っていただき、御霊によって至聖所に引き

上げてもらいましょう。そこには朽ちることのないいのちと愛と喜びがあります。

その恵みは全生活、全分野に及んでゆきます。

 

 

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横井時雄と今治市タオル産業

2011-10-11 17:04:30 | 歴史

http://www.dokidoki.ne.jp/home2/doinaka/hyakka/meiji/0098.html

http://www.kikukawa-dent.jp/article/13928623.html

日本近代史の経済発展と聖霊の油注ぎの関係が今治市のタオル産業に見られます。

尾道と今治を結ぶのがしまなみ海道です。

横井時雄牧師はフルベッキと親交があった横井小楠の子息です。

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横井時雄と日下部太郎

2011-10-09 21:52:32 | 歴史

フルベッキやアーネストサトウについての洞察に富んだ対談

を読みました。

http://2006530.blog69.fc2.com/blog-entry-494.html

フルベッキ写真についてテレビ朝日も取材されるらしいとの

情報も聞きました。

一つの疑問がありますが、日下部太郎と親しかったグリフィスが

写真の中に本人を特定できなかったのはなぜかということです。

ところが横井小楠、横井時雄のご子孫の井上浩郷氏がサイトにおいて

驚くべき証言をされております。

http://www.natural-cma.com/rekishi.html

写真の被写体は若き横井時雄氏とのことです。

だとすればグリフィスがかつての友日下部(別人)

を見出せなかった理由が分かりますが

横井時雄の年齢に疑問も残ります。

 

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フルベッキ山脈についての対談

2011-10-09 21:44:48 | 本と雑誌

http://2006530.blog69.fc2.com/blog-entry-494.html

小島氏と藤原氏によるフルベッキ師についての対談が

紹介されているサイトです。

アーネスト・サトウについても言及されています。

尚、幕末長崎のC・M・ウィリアムズ(立教大学創立者)

はアメリカ・ヴァージニア出身の聖公会の宣教師で

1860(安政6)年6月長崎に到着しました。

改革派のフルベッキは同年11月7日長崎入りしました。

教派は違っても30歳のウィリアムズと29歳のフルベッキは

深い友情で結ばれ、フルベッキは長崎生まれの男子に

ウィリアムズの名をとってチャニング・M・フルベッキと名づけました。

(「長崎聖公会略史」長崎三一教会・50ページ)

細川藩士で横井小楠派に属した荘村助右衛門(後に省三と改名)

は慶応2(1866)年2月、表門と裏門に見張りをおき、外人ひとりを

立会人としてウィリアムズから洗礼を受けました。

1861(文久元年)長崎で「連邦史略」(合衆国史)を読んだ前島密は

ウィリアムズを訪ねて教えを願いました。

ウィリアムズは答えました。「そもそも通信は国家にとって、人体における

血液のようなものです。・・・・政治経済を始め百般の事物に関し、血液たる

通信がとどこうりなく全国にゆきわたるため、アメリカも今日のように活発

な大国になったのです。」

これを契機に前島は明治政府のもとで郵便事業を創設しました。

また元東京市長の後藤新平は荘村助右衛門(後に省三と改名)に仕えていましたが

その時西郷隆盛に会ったことが記されています。

荘村と西郷は親交があったことが知られます。

聖公会は別名イギリス国教会(アングリカンチャーチ)で沖縄最初の宣教師

ベッテルハイムもその宣教師です。日野原重明氏が理事長をされている

聖ルカ国際病院も同系列です。

英国皇室も所属しております。

http://wind.ap.teacup.com/prayer/296.html

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結婚式説教

2011-10-07 21:22:01 | 福音

http://wind.ap.teacup.com/prayer/296.html

明日の結婚式の司式のためにサイトを見ました。

5月のウィリアム王子の結婚式が目にとまりました。

特に牧師のメッセ―ジを改めて日本語訳で読んで

簡潔な中にある質の高さに感銘しました。

御霊の流れという表現がありますが、自由でなごやかな

式そのものに伝統を重んじつつも常に神によって

リニューアルされている人々の姿を覚えました。

 

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アーネスト・サトウ「一外交官の見た明治維新」原書

2011-10-04 11:46:51 | 歴史

http://www.archive.org/details/adiplomatinjapa00satogoog

桂小五郎や勝海舟の写真もあります。

西郷隆盛については以下のように述べています。

1865年11月

「数日して、この汽船が再び戻ってきとき私はまた出かけていって、最も面白い人と知り合った。
小さいが炯々
(けいけい・きらきら)とした黒い目玉のたくましい大男が寝台の上に横になっていた。
この男の名前は島津左仲というのだと教えられた。私は、その男の片腕に刀傷があるのに気がついた。
それから幾日もたってから、私は再びこの男に会ったが,その時には本名の西郷吉之助を名乗っていた。」

        (アーネスト・サトウ「一外交官の見た 明治維新上」185ページ)

1867(慶応3年)

「私たちが食事の席につくやいなや、西郷が到着したとの知らせがあったので、急いで飯をかっこみ、すぐに薩摩人の別の定宿へかけつけた。前から、もしやと疑っていたのだが、西郷は186511月に島津左仲と称して私に紹介された男と同一人物である事が分かった。そこで私が偽名の事をいうと、西郷は大笑いをした。型のごとく挨拶を交わした後も、この人物は甚だ感じが鈍そうで、一向に話をしようとせず、私もいささかもてあました。しかし、黒ダイヤのように光る大きな目玉をしているが、しゃべるときの

微笑には何とも言い知れぬ親しみがあった。」

(アーネスト・サトウ「一外交官の見た 明治維新上」226ページ)


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神のいのちの流れ

2011-10-01 21:21:20 | 福音

先日、一中学生が悪霊追い出しと称して水を顔に浴びせられ死亡するとい痛ましい事件が

起こりました。ある評論家は悪霊はこの世に存在しないのに、このような行為に及んだ

僧侶と父親の行為は迷信的な犯罪行為だと警告していました。

確かにオーム真理教のリンチ事件やカルト化した宗教にはいつでもこのような過ちへの

危険性が潜んでいます。

しかし霊的現象をすべて否定してとりあわないということでは解決にはならないと思います。

霊という目に見えない世界について正しく学んでいないと、これからもこのような問題は起こ

りうるからです。

聖書では、神は霊Spiritであると述べています。つまりこの見える世界は見えない創造主に

よって造られているのです。

さらに見えない被造物としての霊spiritsについても教えられています。

これらは私たちの三次元を越えた存在なので、常識を超えた影響力を及ぼすことができます。

それは単なるエネルギーではなく、人格性を備えております。

ですから聖書は、自然災害を物理的自然現象ととらえるだけでなく、その根本原因が目に

見えないところの一種の人格関係にあると語ります。

ヨブに災いが降りかかった時も、エリアの時代に異常な乾期が続いたのも、ソドムとゴモラが

硫黄の火にみまわれたのも理由があったと書かれています。

人間の側における、創造主なる神との霊的人格的交わりの破れをとらえた、破壊の霊であ

るサタンが神に訴えて、その暴挙を許された結果であるとされるのです。

事実、やがては死の力をもつサタンに敗北して人間とすべての被造物が死滅する運命に陥

りました。この罪と死とサタンに勝利させて下さるために、神は人になられ十字架の血の贖

いを成し遂げられ復活されました。

つまり、サタンが私たちの罪を訴えても主の血が、免罪を保証し訴えを却下されます。

この贖いの事実に依存することによって私たちは永遠の血による罪の清めに与かり

サタンの訴えをまぬがれるのです。

悪霊追い出しと言う奇跡は共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)には記されていますがヨハネ

福音書にはありません。普通エクソシズムは肉体や精神の分野における障害をもたらす

根本原因としての悪霊追い出しの事を指すようです。これらは医学の分野とも重複します。

ヨハネ福音書はさらに深い永遠の次元、私たちの霊における救済に焦点を合わせておりま

すのでそれを省いたのではないかと私は思います。

いずれのせよ、私たちを越えた力に立ち向かうには、創造主からの直接的働きかけに頼ら

なければ、本当に解決することはできないと思います。

宗教家はこのことを知らなければならないでしょう。

サドカイ主義者でない限り、何らかの霊的事象は認めるわけですから、今日の混沌(カオ

ス)の背後にある見えない次元に目を開かれるよう願います。

ヨハネ福音書は被造性を越えた永遠のいのち、神のDNAについて証言します。

それは人間の霊に住まわれる創造霊によってもたらされるもので、いわば私たちを器とされ

てそこから働かれる神のいのちと力です。死をも凌駕する復活力です。

私たちは電線、あるいは水道管や血管に似たパイプのような存在です。

そこを電流が流れ、いのちの水が湧きだすのです。

私たち自身の能力や優劣には関係ありません。働かれるのは神ご自身だからです。

日々、主の血潮に依存しサタンの訴えに勝利させていただき、霊と心と体を清めていただい

て主との交わりを大切にして電流がよく流れる超伝導体に少しでも近づきたいと願っており

ます。

 

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