創造

創造主とセルフイメージの世界

戦場のメリー・クリスマス

2012-05-30 07:34:17 | 捕虜レクエム

 

http://www.youtube.com/watch?v=JWx8o5FI-Us

http://nihon.eigajiten.com/senjyou.htm

向島捕虜収容所跡を見学された岡山大学の中尾准教授から、ビートたけしが初めて出演した「戦場のメリー・クリスマス」映画会を開催してみてはとのご意見を伺いました。

当地で捕虜として過ごされた英国空軍兵士たちは、太平洋戦争ジャワ宣戦でとらえられた方々だったからです。

他方、タイメン鉄道建設のため強制労働に従事した捕虜を描いた「戦場にかける橋」があります。

アーネスト・ゴードン著「クワイ河収容所」も映画化されましたが、日本人通訳者永瀬隆氏を描いた映画の製作が進められているとのことです。

 

 

 

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鳴門市ドイツ館

2012-05-26 10:59:37 | 歴史

http://www.youtube.com/watch?v=qL8J4J-pnGE

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英国総領事サイモン・フィッシャー氏は第一回大阪マラソン優勝者

2012-05-25 16:33:57 | 旅行

24日尾道市を訪問されたサイモン・フィッシャー氏

http://ukinjapan.fco.gov.uk/ja/news/?view=News&id=684340282

写真はレンガ(英国製?)を視察されるサイモン氏(右から山白氏、本人、島田師、小林氏)

 

 

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イギリス領事、向島捕虜収容所跡のレンガ壁とメモリアル・プレート視察

2012-05-23 22:06:39 | 歴史

5月24日(木)12:45~13:15 尾道市役所 で市長と面談の後、

13:30から14:00頃まで駐大阪総領事のSimon Fisher サイモン・フィッシャー氏
が元捕虜収容所のレンガ壁とメモリアル・プレートを視察されます。

(写真は現在の道路側からのプレートと内部の裏側のプレート:シャッター部分

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オリバー・クロムウェルと平清盛

2012-05-21 16:58:40 | 歴史

英国と日本はいづれも王政復古restrationを経験しました。1642年、チャールズ1世専制政治に反対したクロムウェルらのピューリタンを中心とする議会派が、49年に国王を処刑して共和国を樹立しまし、のち、クロムウェルは急進派を弾圧して議会を解散、独裁を行いましたが、58年、その死とともに共和国は崩壊、60年には王政復古となりました。

1156年保元元年の保元の乱で平清盛は義母・池禅尼崇徳上皇の子・重仁親王の乳母だったため立場は難しいものであったが、一門の結束につとめ後白河天皇側について勝利をもたらした。1159年平治の乱で政権を握った藤原信頼・藤原経宗藤原惟方などの反信西派を一掃することで、急速にその政治的地位を高めた清盛は武士の第一人者として朝廷の軍事力・警察力を掌握し、武家政権樹立の礎を築きました。やがて源氏の頼朝によって武家が実権を掌握することになります。以来700年後の1968年維新によって王政復古がなされます。この変革は政治形態上、類似しております。しかし実質において異なる点は英国においては、王は絶対者にはなり得ませんでした。チャールズもクロムウェルも創造主を崇め、自らが被造物であることを自覚しました。

日本においては権力を握った者が絶対者となり神格化されるという問題がおこります。人間は確かに神のかたちに創造されましたが、アダム以来その霊的いのちを失い、以来永遠性を喪失しました。生まれつきの自然的生命(聖書では魂の人)は死滅の運命をたどるしかありません。それゆえに神は御子を遣わされ十字架によって人類の罪を自ら負われ、聖霊を与えてくださって永遠の生命を回復されました。つまり、最高権力者であっても、信仰による新生が必要なのです。それによってアダム以来の罪から解放されて創造主に結ばれ、神のかたちをとりもどします。幕末維新において勝海舟やおそらく西郷隆盛はじめフルベッキ師の指導を受けた武士や公家たちの中にかなりの者がこの真理に開眼していたことが最近明らかにされています。

(写真は英国国会議事堂敷地内のオリバー・クロムウェルのモニュメント)

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神の言葉

2012-05-16 12:46:57 | 福音

聖書は、単なる歴史文献でなくそこに書かれているのは創造主の語りかけであります。

旧約聖書の時代は、聖なる神は人間の外におられましたから、選ばれた祭司や預言者に接近され、時には天使を介在させてご自身の思いを語られました。従って旧約聖書の特徴は「主なる神はこう言われる」という表現に現われています。預言者や祭司が超越者なる主のみ声を聞き取って、それを伝え編纂したのです。

新約聖書になると「私は言う」という主の語りかけが神の言葉として記されていることです。創造主なる聖霊が主の内に住まわれて主と共にお語りになるので外側からでなくひとりの人物の内面から神がみ声を発せられます。主イエスの心の動きは、まさしく内住の御霊の思いと一体であります。かれは時には叫び、悲しみ、涙され、喜ばれ、感動され、そして烈火のごとく怒ることもありました。その瞬時の心の表出がそれ自体、神の言葉として福音書に記されました。

しかしこの時点でもマタイやマルコ、ルカなどの共観福音書記者にとっては、依然としてかの人、主が語られた耳から聴き取った神の声でありました。

ところが同じ福音書でもヨハネの福音書はかなり、趣を異にします。書かれた対象の事情の違いや最も後に書かれたという理由によるものでしょうが、ヨハネは自らの内に住まわれた聖霊なる神の御声に聴きつつ、追体験的に主の言葉を反芻し理解したうえで生涯に光をあてたのだと思います。

パウロ書簡やペテロ書簡では「主が語られた」という形態ではなく、直接その思いが語れてきます。

しかもそれらが同じく神の言葉なのです。つまり旧約時代、神殿の至聖所に住まわれそこから語られた神が、時至って、主イエスの中に住まわれ、そのみ口を通して語り、使徒以降、彼らの霊に住まわれ彼らの言葉とと共に語られたということです。

2000年を経て、神は現在私たちと共に私たちの内面から日々語りかけておられるということは驚くべき真理であります。客観的なロゴスとしての聖書の言葉と、内住の御霊が語られるレーマとしての神の言葉が火花を散らすように交叉する時に活ける神を生活の中で実感します。

それは超越者なる創造主が、被造物としての日常性のなかに内住されて、外面的自然的科学法則を内側から超えられる瞬間でもあります。すなわち時間と空間の中に永遠が入り込んで有限の中に閉じ込められた被造物を無限のかなたに解放されるのです。

絶望の闇を照らし出す永遠の光との邂逅は、神の言葉を読む時、あるいはそのメッセージに耳を傾けるとき、あるいは自らの非力を思い知らされて全能者の助けを求めた時、かならずや与えられるものです。

ペンテコステ(聖霊降臨日)を待つ復活節の中で、5月12日(土)福山のリーデンローズにおいて第19回備後イースターフェスティバルが開催されました。賛美はハンナ・ゴスペルとシンガーソングライターの福原タカヨシ氏、講演は「確かな希望に生かされて-尼僧からクリスチャンへ-」と言う題で藤井圭子氏、ゴスペルフラダンスはアロハ・エンジェルス(伊予キリスト教会他)が出演されました。

小児科の医師でもある藤井先生は出家をこころざして尼僧校および仏教大学専攻科で学ばれたの後も、自らの闇を脱却できずにいましたが、遂に復活の主と出会い、永遠のいのちを与えられるにいたった体験をお話しされました。

初心者の方々も多く参加されました。人生と言う時の流れの中で永遠なるお方に出会い、創造主のいのちの次元に引き上げられることはすばらしい恵みであります。第20回記念イースターフェスティバルは2013年4月6日(土)尾道駅前のしまなみ交流館「シェルネ」で開催されることになりました。

 

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幕末維新の海・士官である前に紳士であれ

2012-05-10 11:28:30 | 歴史

1873(明治6)年英国海軍少佐ダグラス他教育団が海軍兵学校に着任、「士官である前に紳士たれ」

をモットーにしました。運動会やサッカーを紹介したのも彼らだったといわれます。

海軍に『五省』という教えがあり、戦後はアメリカのアナポリス海軍兵学校でも採用されたほどのものなそうです。
現在でもこの『五省』を社訓に採用する企業があるとのこと。

   一、至誠に悖(もと)る勿(なか)りしか (誠意に欠けた事はなかったか)
   一、言行に恥づる勿りしか        (恥ずかしい言動はなかったか)
   一、気力に缺くる勿りしか        (意気込みは充分だったか)
   一、努力に憾(うら)み勿りしか     (最善を尽くしたか)
   一、不精に亘る勿りしか         (怠けなかったかを己に問え)

幕末、海防の急務を知った勝海舟は坂本龍馬達とと共に兵庫海軍操練所を創設しました。

1864年11月10日、勝は政敵によって軍艦奉行の職を解任され、身の危険にさらされた一行は薩摩

にかくまわれることになります。

1865年、当時、前島密の紹介で薩摩藩に雇われていた24歳の安保清康が国分温泉場で西郷隆盛、坂本龍馬と邂逅し意気投合します。

1865年10月の龍馬の姉への手紙では「私は20人ほど連れて長崎へ来ています。・・・部下と一時的な商社をつくったのです。・・・」と亀山社中に言及しています。

向島は社中の二番目の基地であったとも言われます。

商会はやがて海援隊と名を改めます。長崎にはフルベッキ宣教師がおり、武士の間に広く知人をもっていました。

安保清康が海援隊に属していたことは、龍馬が暗殺される五日まえの、1867(慶応3)年11月10日の安保宛の手紙から知られます。

「海援隊の肩書は所属するところなので、持っておられたら良いと思いますが、しかし、幕府へでも、薩摩藩へでも君を喜んで迎えてくれるなら、海軍の技術で力をだせるところへ移られることにも同意します。」

龍馬の遺体を埋葬した後、安保は勤皇の志士と共に幕末の海を制し維新への道を開きました。

ここに小学校で講演した時の記念講演があります。「安保清康自叙伝」から推測して1895(明治28)年54歳前後と思われます。

サンメディアさんによるスーパーインポーズによる判定の結果、安保氏本人は軍服を着用した方ではなく前列中央の背広姿の人物であることが分かりました。

柔和な紳士、まさしく軍人である前にひとりのへりくだった人の姿ではないでしょうか。

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日英友好のための高見山入り口土地無償提供の申し出

2012-05-08 16:15:02 | 英国空軍捕虜

http://www.333.ecnet.jp/takamiyama.htm

高見山は尾道市向島を代表する景勝地の一つですが

先日のNHK放送をご覧になられた福山市吉野不動産

様から赤レンガ及びモニュメントのために高見山入り口の

509平方メーター(154坪)の土地の無償提供の申し出を

いただきました。感謝です。

 

 

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町おこしは自分おこしから

2012-05-08 12:11:25 | 歴史

都市計画においても建築においても概念(コンセプト)が基本になるといわれます。

しかし日本語の概念という言葉は、はっきりしません。

私はセルフアイデンティティあるいはセルフイメージの確立というように言い換えた方が

分かります。

そうしますと非常に単純ですが、創造主なる神を住まわせた自分、あるいは建物そして

例えばエルサレムのように神の宿る神殿を備えた都市、町というように考えます。

自分おこしは自己のセルフイメージの変換つまり聖霊の宮としての自覚、町おこしは

そのような民の形成につきるといえます。

詩篇127篇に主が家を建てるのでなければ建てる者の勤労はむなしく、主が町を守る

のでなければ守る者の見張りはむなしいとありますが、個人も家庭も町も国家も創造主を

土台にしてこそ祝福を受けることを歌っています。

 

 

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