【ヨハネ福音書3章1-21節】
代表役員の変更手続きを通して多くのことを学ばされました。
教会がどのように松茂に教会設立をすることになったのか。
教会の沿革についての記事に、神学的知識などではなく、主との交わりそして一人一人との関わりが大切なことをカウンセリングの学びで示されたとありました。
「教会憲法」の写しを提出するように徳島地方法務局から指示されて探し回りましたが、キャビネのなかからやっと原稿を見つけ出してコピーして持参したところ受理されました。
宗教法人の手続きの時、お世話になったルーテル教会の牧師先生の指導のもとに作成されたとのことでした。それで私も理解できました。
かつて一度解散状態になった宗教法人を復活させるために都庁に何度も足を運んだことがありました。
法人の規則については詳しく検証しましたが「教会憲法」という言葉は聴いたことがありませんでした。
ホームページで分かったのはカトリック教会には「教会法」があり、日本基督教団、改革派、ルーテル派などでは「教会憲法」が「規則」とともに存在するということです。
なぜ、バプテストやメソジスト、ペンテコステなどの福音派には「憲法」がなかったという理由は、宗教改革をより徹底させて「聖書のみ」「信仰のみ」を主張した急進派(ラディカル・リフォメーション)の信仰が源流にあったということです。つまり幼児洗礼などの伝統的儀式に疑問を持った群れが、聖霊による信仰告白と新生を強調して別れた行きさつがありました。
スイスの改革者ツイングリに学んだ再洗礼派(アナバプテスト)であるフープマイアーは迫害を逃れてモラビアに移住しますがやがて火刑の処され、妻も川に沈められました。幕末維新時のバプテスト宣教師、ゴーブルはその影響を受けました。オランダ人フルベッキ宣教師はアメリカ改革派から派遣されましたが、もともとモラビアンの信仰と教育をうけました。アメリカ最大のプロテスタントはバプテスト派と言われますが、大統領が聖書に手を置いて宣誓するのは信仰の源流である聖書に立ち返ることを求めて新大陸に渡ったピューリタンたちの願いがあったからです。
ヨハネ福音書3章は、主イエスとパリサイ派ニコデモとの対話が記されています。
しかし聖霊のいのちと法則によって語られる主と、生まれつきの自然的いのちの力によってのみ依存するニコデモには真の理解と交わりが成立しませんでした。
そこで、主は荒野で揚げられた青銅の蛇について語られます。不信仰の罪を犯したため毒蛇に噛まれてバタバタと死んでゆく者を救うために、神がモーセに示されたのは青銅の蛇を竿にかけてそれを仰がせることでした。
主はニコデモのため、私たちすべての者のため、自らが呪われた蛇のようになって十字架で罪の裁きを受けられることを啓示されたのです。旧約時代の出来事は予型であり、新約時代の奇跡は「しるし」と表現されます。
それは、物質的一時的奇跡は、より深い霊的永遠的救いを指し示しているということです。
自然的いのち(ビオス)を生きていても人は罪によって霊的に死んでおり、ただ御子の十字架を仰いで主に御頼りすることによってのみ闇から解放され、聖霊によって新生して神のいのち(ゾーエー)に生きることを示されました。それは至聖所に、迎え入れられることです。自分の心よりも深い霊がよみがえらされて神のいのちに生かさせてもらうことです。神の御子の血がサタンの毒から私たちをいやして永遠のいのちへと解放されるのです。
19章29節、恐れをなして逃げ去って誰一人いない中、ニコデモは没薬とアロエをもって主の埋葬のために現れました。
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