(ヨハネ福音書5章19-29)
聞くことを大切にすると言われる岸田さんが自民党の総裁に選ばれ、総理大臣になられました。
広島県は前法相河合議員の逮捕という前代未聞のスキャンダル以来暗いニュ-スばかりでしたが、地元には少し明るいニュ-スとなったようです。
「プットインプットアウト」という諺があるように、人は接する人々や本など、聞いたもの、自分に取り入れたものが、自分から出てゆくといわれます。
牧師だと、どんな人のどんな本、新聞を読んでいるかによって大体語ることが分かると言われる。現代で言うとネットも加わってどんなメディアに接しているか。
誰とどのくらい話をしているかにもよるかもしれません。
「聴く祈り」をしたのはモーセ、「主よお話しください」と述べた少年サムエル、「自分はこう思いますが主はどう思われますか」と絶えず御心をうかがったダビデなどが思い浮かびます。ヒゼキヤ王は語る祈りは出来ましたが聴くことができたのは預言者イザヤでした。よく聴く人がよく語ることが出来ると言われるように、本当は聴くことは簡単ではありません。
イエス様はどのように祈り、聴いたのでしょうか。
神を父と呼び、聖霊によって祈られたことが分かります。諸宗教にも祈りがありますが、本当に神とのコミュニケ-ションが成立しているか疑問です。クリスチャンになる前の自分の祈りはそうでした。
聖霊による祈りは「至聖所」での祈りであり、旧約時代の祈りは「聖所」の祈りで間接的で、天使が介在して対話がなされたことがダニエルの体験から分かります。
19節以下はベデスダ池での出来事の続きです。ルルドの泉のように奇跡が起こったようです。
天使が降りてきて水がかき回され、一番目に浴をする者がいやされる。しかし、その病人はいつも誰かに先をこされて、癒される機会を逃していたのです。
38年間も病に苦しめられていましたとあります。
この数は出エジプトにおける荒野での38年間を暗示し、五回廊はモ-セ五書を意味するとも言われます。
そして旧約時代の奇跡は天使を仲立ちとするものであったことを思い起こさせます。
それに対して主は「起きて、床を取り上げて歩きなさい」という一言で癒された。御霊によって直接触れたのです。この日が安息日だったので、ユダヤ人たちが主を非難しました。
これに対して主は、父なる神の業を見て行う語り、30節では聞くと語られました。
その間に7回も「いのち・ゾーエ-ン」に言及されています。
ここから、見る、聴くと言われたのは、単に自然のいのち・ビオスで人の声を聞くというレベルでなく、神のいのちゾエ-のレベルでの対話を指します。クジラは深海で数百、数千キロ離れた先でも通信しあったいると言われますが鳥は鳥、魚は魚同士、犬は犬同士、人間は人間同士いわば同じ生命の質・遺伝子レベルで語り合えます。
聖霊が内住する主においては、その直接の父と子の神のいのちの中で交わりがなされる。直接、神と触れ語り合われるのです。
「霊的に聴く力」は聖霊によるよみがえりのいのちによって可能です。その神のいのちを与えてくだるために御子は世に来てくださいました。御霊に依って神の思いを聴くことが出来れば、御霊に依って語ることが出来る。それは天使よりも高みに、より親密に神のいのちに活きることです。