主Lordはあるじであって、私はしもべであります。その主が私という被造物の中に宿ってくださるのですからこんな恵はありません。あまりに大それたことであり、想定を超えたことなのでにわかに信じることが出来ないのです。
ふがいない自分を見て、本当に主は内住されているのだろうかと疑ってしまうこともあります。しかしみ言葉は明確に「あなた方は神の神殿です。」と断言しています。最近気づいたのは、自分の相対性(弱さと限界)を自覚すると、返って絶対者である創造主の存在が現わされるということです。
アダムが誘惑されたのは「あの実を食べるとあなたが神のようになれる。」というサタンの言葉でした。つまり絶対者になることによって、真の絶対者を必要としなくなるということです。神をシャットアウトして己を主としなさいということです。こうして被造物の偶像化という原罪が人類を被いはじめました。
神が人になられたのは、原罪なきまことの人間を現わされるためでした。しもべとなられた主は、しもべとは真の絶対者を心に迎えその主導のもとに歩むこと。「私のうちで父なる神が語り行動される」と聖霊に依る生活を身をもって示されました。
私が主人公になって生きるのでなく、主なる神が私のうちでその永遠のいのちを生きて下さり、語って下さり行動されるのです。内住の神を実感できないのは、そのような体験の乏しさにあるのかもしれません。
まだまだ自分の相対性を悟らず、あいかわらず自分をあるじとして歩んでいるのです。
曽野綾子氏の「人間にとって成熟とは何か」という本には人間はひびわれた茶碗だとありました。パウロは土の器だと述べています。しかしその相対性と脆弱性を自覚すればするほど、その中に宿る宝の輝きがいや増すのだと思います。
主よ、私のうちに活きて私を通して御心を行ってください。マリヤは天使ガブリエルの告知を耳にした時にそのように祈りました。祈りは絶対者の介入に門戸を開くのです。
現在、私たちの内側に主はおられます。私たちは神をもつ者とされました。常識の範囲を超えた空前絶後の出来事です。あまりにも大きくて理解困難な恵みです。
しかし自分の相対性のうちに絶対者を迎え、その永遠と無限が時間と有限に覆われる時、その片鱗を知らされます。
歴史上唯一の、神の受肉という客観的奇跡は、ただ一度きりの私たちの人生への、聖霊なる神の降臨と内住という主体的な奇跡を生みだしました。主は私たちのうちにあって、死も打ち破る復活の力をもって今日も活動されておられます。
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