日本の近代教育とラトガース大学・羽田積男氏
http://www.chs.nihon-u.ac.jp/institute/human/kiyou/27/H-027-014.pdf
岩倉使節団のグランドデザインであるフルベッキのブリーフスケッチを
所蔵されるニューブランズウィック神学校・ガードナーA・セイジ図書館サイト
聖書と日本の関係については興味深いサイトが多い。
http://inri.client.jp/hexagon/floorA3F_hb/a3fhb412.html
http://www.geocities.com/heartland/lane/7662/index_j.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E3%83%A6%E5%90%8C%E7%A5%96%E8%AB%96
へブル語は動詞の3母音が基本であり、日本の大和言葉と共通している。
また文法上、使役形は英語ではmakeやletを追加するがへブル語では
ヒスパエルと言って、母音を変化させる。
例えば日本語行く(本来はゆこむ)は行かせると母音をアエルと変化させて使役形にする。
川守田英二博士の「日本へブル詩歌の研究上下」(昭和21年)は三笠宮崇仁親王殿下
に捧げられたもので出版のための寄付者・後援者には賀川豊彦も名を連ねている。
賀川ほどの人物が何故に太平洋戦争に正面から反対しなかったのか。教理的な面からの
問題性も指摘されているが、上著の「第3章日本民族とキリスト教」を読むと、賀川自身日本のルーツをユダヤに求め、その象徴である天皇を敬うことが福音宣教に繋がると考えたのではなかろうか。(注1)
これは非常に微妙な課題である。
確かなことは従来、鎖国や皇国思想の影響下で純日本といわれてきた、和船(ジャンク船)や和太鼓や尺八など日本古来のものでなく、大陸にルーツがあることが明らかになりつつある。「天皇」という言葉自体が元来は中国語なのである。
創造主のもとに人間は一つであることを覚えたい。そして御子を通して父なる創造主に立ち返ることが最も幸いな人生である。
(注1)
「宣教師が観た天皇制とキリスト教The Two Empires in Japan」ジョンM・L・ヤングJohn M.L.Young著川崎豊訳(2005年燦葉出版)
(139ページ神道イデオロギーを宣伝する「クリスチャン」達より)
「神社参拝に出かけた人の一人に賀川豊彦博士がいたが、同氏は前述のように、朝鮮および満州の教会を、政府の命に従い神社参拝を行うように説得するために歴訪した人である。
彼の福祉事業への貢献を認めるにやぶさかではないが、彼の自由主義神学と神社問題に関する全面的妥協ぶりとが日本におけるキリスト教の発展を大いに阻害したことは明白である。賀川の自由主義神学は、その著書から以下の引用で明らかである。『どういう形で復活が行われたかわからない。四福音書が教えるように肉体をを備えていたのか、パウロが言うとおり霊体だったか、いずれにしてもそれは問題ではない。とにかく、イエスは弟子たちの心の内に本当に甦られたのだ。ここにキリスト教の発端がある。もしそれが迷信だと考えられたければそうといってもよい』(T.Kgawa, The Reliegion of Jesus,p.103)
さらに、最近になって、賀川氏はヨハネによる福音書第六章五三節について以下のように文章を物している。『社会事業家としての私の日々の活動はこのイエスの言葉を道標としている。すなわち、"人の子の肉を食わず、その血をの飲まずば、汝らに生命なし。”これは私(とわが国民)が世界の罪を罪を赦すために、我々の生命そのものを与えなければならないという意味である。ある国民が危険を冒し、道徳的、法律的罪の負債を喜んで弁済するのでなければ、罪は償われない。それは生命そのものの最も深い真理であるように、基督教神学の最も深い真理である。』(T.Kagawa,Japan Christian Quartery,October,1958,p.312.)
復活やキリストの贖罪の意味についてのかような理解に基づく伝道では、迷信的神道多神教から魂を贖うことや、まったき愛と忠誠心をもってキリストに奉仕しようとする願望で心を満たすことはおぼつかない。このような説教が人々にキリストの唯一無二なることと彼へのまったき忠誠の必要を確信させ得ず、迫害の危険にさらされた時にベイカーの記録する以下のような発言を生み出すことになったのである。すなわち『いつ警察が愛国心の調査にやってくるかわからないから、どの日本家庭も神棚を祭っておくことが賢明なことだった』」
(参考文献)
「日本書紀と日本語のユダヤ起源」(ヨセフ・アイデルバーク久保有政訳・2005徳間書店)
「銅鐸の謎」(大羽弘道・光文社)
「日本語の起源に関する調査研究報告書」(今井弥生編1995・財団法人国際科学振興財団内)
1837年ギュツラフによって最初の日本語「ヨハネ福音書」がシンガポールで
出版。これには尾張の宝順丸で遭難した、漂流民、岩吉と久吉と音吉が協力。「海嶺」(三浦綾子)、「漂流」(春名徹)参照。
http://www.aichi-c.ed.jp/contents/syakai/syakai/chita/chi034.htm
http://www.city.joyo.kyoto.jp/introduction/international/van/multipage1/multipage14
日本国内で出版されたのは1871年のゴーブル訳「マタイ福音書」
「ミカド」(グリフィス著・亀井俊介訳・岩波文庫)
第6章「僧侶としてのミカド」で著者は霊的核心に触れる分析をおこなっているので引用したい。
「島国人と彼らの中心制度たるミカド主義はさらに変貌していくが、その間に仏陀の信仰が文学と精神の両面の宝を生み出し、シナ語の研究をおし進め、さらに儒教という宝庫の門を開いた。
儒教は初めは単なる倫理体系であったが、もおう哲学にまで成長していた。日本の仏教とは結局、一千年間につもりつもったさまざまな影響の総合的な呼び名に他ならない。そしてそれはこの国の最も偉大な、最も徹底した教化者であり、日本人の祖先崇拝の生みの親とさえなった。
この祖先崇拝は、上から押し付けられた氏族中心の祭礼とは異なり、島国本来の思想と習慣とを真のシナの方式にぴったりとはいえなくとも非常に近づけたものである。
さらにボンズ(梵僧・坊主)はミカドを説得し、「スメラギ」という古い呼称をやめて、シナの方法に従い「テンノー」(天の王)とか「テンシ」(天の子)とかいう称号を用いるようにさせた。今日、何世紀間にも渡って発達してきた修辞法のおかげで、ミカドは、ヨーロッパ流の「陛下」(マジェステイ)に当たる言葉のほかに、シナ語の称号をたくさん持っている。・・・・・」
近代日本の父と呼ばれたフルベッキ博士親子
と明治維新のリーダー達が写された写真を考察。
プログ「教育の原点」への投稿文
グリフィス著「皇国」(「明治日本体験記」山下英一訳・平凡社東洋文庫)130ページで三つの髪型でその思想を見分けたという興味深い記述があります。
西洋型(散髪・ざんぎりあたま)、王政復古型(惣髪)、伝統的サムライ型(半髪・ちょんまげ)です。フルベッキ写真では大隈を除いてすべて二番目のタイプのようにみうけられます。
最近発刊された「明治の若き群像ー森有礼旧蔵アルバムー」犬塚孝明・石黒敬章共著・平凡社)では子供はフルベッキ師長男と断じているようです。
9ページに鮫島尚信のベートーベン(ライオン)型
の写真がありますが、小泉元総理の祖父でしょうか。そうであれば、同じロンドン大学の先輩でもあり、激務のためパリで倒れた「気高き働き人」を
元総理は深く尊敬されて同じ髪型にされたのではないでしょうか。
投稿 南沢満雄 | 2007年4月20日 (金) 午後 09時48分
東京新聞による島田隆資氏
1985年、5-6月、東京新聞特報部はフルベッキ写真について、詳細にとりあげました。
6月、24日と27日号では特に島田隆資氏とその研究についてレポートされています。
本名は北川健児、肖像画家のかたわら、とりつかれたように解明にとりくみ、成果を本にして刊行しようとした直前に53歳で脳出血で東京葛飾区で亡くなられたこと。
その研究は熱心なだけでなく”良心的”だったと記載されています。
ところで『日本歴史』への氏の寄稿文で氏は江副廉蔵氏のご子息夫人からの昭和