[ユダの手紙17-25節]
この手紙を書いたユダは主の兄弟で、長兄ヤコブの弟ですが、兄同様、イエス様を神の御子と信じて救われたのは復活後でありました。
しかし初代教会では重んじられ、公同書簡の7巻の最初がヤコブ書、ペテロやヨハネに続いて最後がユダの手紙となっています。パウロやルカのようなエルサレム付近の国際人たちと違って、ユダヤ民族意識が強く、もう一人の同じ名の弟子イスカリオテのユダは、主がユダヤ再興の夢をかなえてくれそうもないことに失望して裏切ったとも言われます。
12弟子だったマタイはクリスマスやイースターの出来事をガリラヤを背景に、ルカはエルサレム中心に語っています。
東方教会はパウロ書簡よりユダヤ色の強い公同書簡を重視するという説がありますが、ローマの支配下にあったユダヤの人々がかつてのダビデ王国の再興を願うたのでしょう。
しかし、ここに民族意識が課題となります。東方教会に属し、スラブ民族を強調するロシア正教の総司教が、西側に傾斜しようとするウクライナを背教とみなして、プーチンを支持したのはそのような事情があるのでしょうか。
自分をどのように意識するか。ユダは手紙で「聖霊の宮」としての自覚の重要性を訴えます。
聖霊を与えられた者を「霊の人・プイノマティカー」と、それに対して「生まれつきの人」、「魂の人・プシュキカー」と表現します。
聖霊は、十字架の主を信じて新生する時に与えられます。聖霊は閉ざされた被造物の世界から創造者の次元へ私たちを解放します。そこは主との出会いと交わりの至聖所です。
自分のうちに主を迎えてこのお方に頼り、働いていただくことによって自分を超えた神のいのちを体験します。生物は同じ種の間で相互に対話し理解できます。スズメはスズメ同士の養育と訓練によって成長し自己を現わします。人間は人間のいのち(プシュケ)の範囲で自分を知り相手を認識できます。神を知るには神のいのち(ゾーエン)を生きることによって可能です。創造霊ではなく、被造物である大和魂、ゲルマン魂、スラブ魂などの民族精神を誇り、これに依存するところは閉ざされた世界です。
今日、宗教と政治の問題が浮上しています。旧約時代、政治は神のもとにある神権政治でした。
しかし「政治と宗教・カール・バルトはどう闘ったか」(山本和著・1974教文館)には政治は天使権にあると示唆されています。
権力は絶対化されてはならず、神の主権のもとに相対化されなければならないのです。
民族意識を超える、創造霊を宿す神の宮意識にたって、天使レベルの政治の世界を超えた永遠のいのちの世界から生活が政治が改革
されると思います。
(テモテ第一の手紙6章13-21節)
復活されて40日間、弟子たちに姿を現された主は、その後、父なる神のもとに昇られました。
そこは光り輝く天上で、肉眼では見ることが出来ない世界です。
パウロに現れたのは、昇天後の主であるから、あまりの聖なる輝きのため、三日間失明状態に陥った。
雲の上では、太陽はいつもさんさんと輝いているように主は光の中で、今日も祝福を与えておられます。
再臨の際は、私たちは聖霊に依って復活の体に化せられ、栄光の主にまみえます。
先々週、歯医者さんで治療した後、横隔膜付近に断続的な刺すような痛みに見舞われましたが、祈祷会
の時に、その痛みが嘘のように消えて驚きました。復活と再臨の話しを聞いて、がんがいやされた方の証しを思い出しました。
思いが天に向かい、主と内住の聖霊に集中することによって、御霊が本当に働かれてその賜物である癒しの奇跡をなされたのかもしれません。
再臨までの中間時代は聖霊の時代です。父と御子と同質の聖霊なる神が私たちの内で輝いておられます。祝福はこのお方を通して注がれます。
ですが、どうしてこの驚くべき祝福を私たちは気付かないのでしょうか。霊の目が曇らされて、天上の輝きが遮られているのかもしれません。パウロは、私たちは無尽蔵の宝と富を与えられいると述べていますが、私たちの心は世の富や健康という宝に向かいます。富があるとどうしてもそれに依存しようとして、もっと豊かな永遠の宝である聖霊を疎んじます。
ヨブの試練は富や健康を失ったことでした。友人は、神に従わないので呪われたのだと責めました。
しかし、ヨブは絶望の中で、主に問い、やがてじかに主の御声を聴くことになります。この交わりこそ主が求めておられるものでした。聖霊の光による、光の中の神との直接の交わりです。
いのちの源泉は被造物でなく、創造主なる神にあり、神につながれ結ばれて活きる時より大きな祝福に預かります。ヨブは完全に癒され以前の二倍の祝福をもらうことになりました。
島崎藤村は「外なる太陽を追わずに、うちなる永遠の光を輝かせなさい」と語りました。
使徒信条は父と子と聖霊の創造主をたたえています。三位一体の神です。
20節の「霊知」は原語で「グノーシス・知識」のことです。聖霊に依る知識は「エピグノーシス」とあります。十字架の贖いを通して聖霊をいただかないと、人間の知識に依存し、光の主から目をそらせ、霊能者や教祖の教えにとらわれます。サタンはいつも新しい宗教を造り出すと言われますが、ニューエイジによるマインド・コントロールです。本物を学ばないと、偽物の区別が分からなくなります。
主は私たちに代わって十字架の呪いを受けられました。そこで私たちは呪いから解放されました。
聖霊様は私たちに代わって輝いてくださいます。自分が輝くのではなく光である主が輝いてくださるのです。