ヨハネ福音書と使徒行伝(言行録)はそれぞれヨハネとルカ
によって書かれたといわれます。
ヨハネは永遠のいのちに焦点をあて、ルカは使徒たちの伝道
の働きについて語ります。
前者は聖霊による神との永遠の交わりを強調し、それは
御子の十字架上で罪の贖いの結果として、聖霊が内住された
ことによると語られます。
すなわち、旧約時代も聖霊の働きはありましたが、間接的に
外側からの働きかけとしてでありました。
御子が十字架で血を流された瞬間に、聖所と至聖所を隔てて
いる幕が真っ二つに裂けたように、それ以来、人は創造主の内部へ、
創造主は我々の霊に住まわれる道が開かれたのであります。
神のいのちそのものが人の内側に入るという永遠の奇跡が始まった
のであります。
アタナシウスは「御子が人になられたのは、人の内に聖霊を住まわせる
ためであった。」と語りました。
旧約時代にはなかった、永遠の祝福、復活のいのちの幕が開けられ
たわけです。
さて、その上でルカの描いた使徒の働きに目を移します。
そこでは、カリスマ、聖霊の力が強調されています。
人々のニーズに答え、解放へと導く力です。
限りなく低空飛行をしながら、人々を主に導いてゆきます。
これは、実は主イエスご自身がその公生涯においてなされた
働きであります。現実の生活苦に解決を与ええること
によって、神の愛を現わされました。
もちろん、人間が本当に必要にしているのは、永遠のいのちであり
神ご自身との交わりであることをご存じでしたが、人は、とりあえず
永遠よりも外的な目先のニーズをかなえられることを願います。
主が、そのレベルまで下られたように、弟子たちも、そこで福音を
語らなければなりませんでした。
それは霊から思いへ、そして言葉(舌)という行程を意味します。
聖霊が私たちの霊の中から、目に見える現実の生活へと
下降し、満ちるという現象であります。
「御心が天になるごとく、地にもなさせたまえ」という主の祈り
の具体化ともいえます。
そのような文脈を知るときに、ルカが使徒言行録のなかで
霊の祈りと言葉としての異言を重視した訳がわかります。
神学者のボーレンが述べているように、異常な興奮状態
という類のものではなく、内住の聖霊が私たちの霊を満たして
語られる声なき声であります。
もちろん、悪霊も偽の異言や予言、奇跡をしますから注意
しなければなりません。
そのような時にはヨハネ福音書に立ち返り、それが永遠の
創造主から出ているものか、被造霊のマイインド・ コント
ロールによるものか見分ける必要があります。
主の流された贖いの血潮とそこから注がれる聖霊は
私たちを神の子にして下さり、創造主の中の永遠の交わりといのち
に導いて下さり、現実のニーズにも答えてくださいます。