創造

創造主とセルフイメージの世界

「惜別・愛する日本」ブラネン先生

2013-06-22 20:36:11 | 日記・エッセイ・コラム

http://www.youtube.com/watch?v=gXOjYiwYKiw&feature=youtu.be

 

http://www.youtube.com/watch?v=z8Q_5OEipTc&feature=youtu.be

  AT HOME WITH GOD

At home with God, no thought of loneliness,

No look behind, no touch of restlessness

lf God has built this house, and He is here,

No other place on earth could be so dear

 

At home with God, wherever we may be,

A foreign land across a distant sea,

A strange new world about, a people odd,

Yet Somehow even this is home  with God

 

At home they say that everything is changed,

Old friends are gone, and some become estranged.

And in so short a time-a wink, a nod,

Someone we left at home is home...  with God

 

No home for Him, no place in Bethlehem,

No shelter there, no cover over them,

A strange new world about, a stable odd,

Yet here the homeless find their home .. ln God

At home with God, no thought of loneliness,

No look behind, no touch of restlessness

lf God has built this house, and He is here,

No other place on earth could be so dear

 

[Poem by Noah S. Brannen, written

   at Mukaishima, 1953]

 

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「惜別・愛する日本」ブラネン先生

2013-06-19 23:59:58 | 歴史

http://www.youtube.com/watch?v=gXOjYiwYKiw&feature=youtu.be

 

 http://www.youtube.com/watch?v=z8Q_5OEipTc&feature=youtu.be

  AT HOME WITH GOD 

At home with God, no thought of loneliness,

No look behind, no touch of restlessness

lf God has built this house, and He is here,

No other place on earth could be so dear

          

At home with God, wherever we may be,

A foreign land across a distant sea,

A strange new world about, a people odd,

Yet Somehow even this is home  with God

 

At home they say that everything is changed,

Old friends are gone, and some become estranged.

And in so short a time-a wink, a nod,

Someone we left at home is home...  with God

 

No home for Him, no place in Bethlehem,

No shelter there, no cover over them,

A strange new world about, a stable odd,

Yet here the homeless find their home .. ln God

At home with God, no thought of loneliness,

No look behind, no touch of restlessness

lf God has built this house, and He is here,

No other place on earth could be so dear

 

 [Poem by Noah S. Brannen, written

   at Mukaishima, 1953]

 

1959年(昭和34年)12月27日 尾道東高での音楽会・指揮ブラネン師

 

 

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内側からの認識

2013-06-17 14:17:01 | ゴスペル

カ-ルバルトはキリストを通してアダムを知ることができると語っています。

それは聖霊の光によって我々自身をほんとうに知ることができるという意味でもあります。

失われたものを捜すには、満たされたものを知らなければなりません。欠けたものばかり見ていては

本来の十全なものが分かりません。

キリストにあってアダムに無いものとは、内なる霊における聖霊の内住です。

真の人間性に不可欠なスピリチュアルな要素は人間の至聖所ともいうべき心の奥底で知られます。

十字架の罪の贖いを通して創造主なる御霊は私たちの霊に宿ります。その創造主のレベルの霊が

真の自己認識を可能にします。

自然や歴史を知るためのも同じようなことが起こることに気づかされました。

先日NHKの歴史の秘話番組で、クリスチャンの渡辺アナウンサ-が伊勢神宮を取材されていました。

その中で外宮は撮影を許されるが内宮は禁じられていて言及はなされませんでした。

そして天照大神、アマテラスのことは語られましたが、内宮にあるダビデの星のことや「有って在る者」

という神名には触れられませんでした。

おそらくアマテラスとは天使的レベルのものでしょう。もっと深く高い存在者については隠されているのではないでしょうか。

これは古代日本とそれを代表する伊勢神宮が、これまでは天使のレベル、宗教のレベルでしか認識されなかったということを物語っていると思います。

バルトは比較宗教学的ではなく、キリストを根拠に宗教の対話を試みたいと語りました。トマスアキュナスの「神学大全」を凌ぐといわれる自著「教会教義学」は聖霊論に依って改訂したいとも述べました。

歴史も自然も、そしてその一部である自己の認識も、結局自らが開かれたレベルによって様相を異にするともいえます。

聖霊によって開眼されて、見えない霊の諸相をかいま見る時に、この世界の高さと深さに目が開かれ、そして人間であることの神秘性に驚かされます。

罪なき神の御子キリストのみが宿し得た、神である聖霊を、御子はその裂かれた傷から流れ出た神の血潮と共に世に注がれました。

その愛と犠牲のゆえに、アダムの末裔としての私たちも、ただ十字架を仰いで頼るだけで、その罪を100パ-セント赦されて、無限の資源であり富でありいのちである聖霊御自身を心の奥底に迎えるのであります。

 

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明治天皇のお孫さん小林隆利牧師「祖父とフルベッキ」1995.6.23

2013-06-11 23:25:27 | 歴史

http://www.youtube.com/watch?v=qodTITjpQeU&feature=youtu.be

後編

http://www.youtube.com/watch?v=r5RbjUld1RI&feature=em-upload_owner

 

(参考サイト)

http://www.k2.dion.ne.jp/~yohane/000000tennnoubokusi.htm

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新たな日本古代史

2013-06-11 14:50:11 | 歴史

http://www.youtube.com/watch?v=N4TR32mPxrs

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フルベッキ写真(歴史読本7月号)ス-パ-インポ-ズ

2013-06-11 11:06:39 | 歴史

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歴史認識について

2013-06-10 16:50:34 | 歴史

最近、歴史とその認識について取りざたされています。

過去の出来ごとのどの部分を抽出しするかが、認識する側の問題になりますが、少なくとも史実として残された記録や伝承には客観性がありますから、その第一次素材を元に考察することになります。

私にとって最大の課題は「復活」という史実です。新約聖書では主が十字架につけられたことと復活したことが最も大事なことだと述べられているからです。

これを解くにはアダムとキリストの対比を考える必要があります。自然的な人間としてのアダムと聖霊を注がれた人間としてのキリストです。

ここで自然とはもともとのオリジナルな被造物としての自然ではなく、創造主との関係を断ち切られた者、すなわち聖霊の油注ぎを失った存在としての人間アダムを指します。

それは死の力、破壊霊に支配された存在です。この世界での認識は、そもそもそのような限界のもとでの理解しかできません。

この世で常識と呼ばれるもの、あるいは自然認識および歴史認識と呼ばれるものは、認識する主体がすでにひとつのマインドコントロ-ルのもとにあるということです。

この限られた視界のもとに、自然あるいは歴史を理解しようとすれば、その限界の範囲内での現象は把握されますが、それを超えた現象や史実は見逃されてしまいます。

新しい人間としてのキリストは創造主の霊を宿した神と直結した人間性をもたれています。創造霊は被造霊をはるかに凌駕していますから、死の力を超越しておられます。

そのキリストをどうとらえるかが我々の課題です。それは復活という出来事を把握できるかどうかということでもあります。十字架は我々の罪を赦し取り除く力があります。

十字架に依存することに依って罪が除かれるとサタンの支配から脱出できます。そうしますと創造霊なる神が私たちの霊に宿り、キリストと同じように神と直結されます。

そして聖霊と共に認識する新たな分野が開かれます。アダムと子孫としての自分は、神なしの単なる視聴覚や脳細胞で認識していました。それはすでに霊的に捕縛され、永遠を見る目を失った状態での理解でしかありませんでした。

処女降誕から復活に至る歴史の事実としてのキリストの生涯が記されていても、その信憑性をまともに受け入れることは出来ないのです。そこで哲学的解釈や道徳的あるいは宗教的解釈が生まれましたし、今日でもそのような認識がなされる場合があります。

しかし聖書は聖霊を注がれた者たちによって書かれていますので、その創造主の目を持って読まなければ正しく理解できません。

事実、聖霊ともに生きる時、復活されて活きておられる主がいつでもどこでも私たちと共にいて下さることを認識するのです。目に見える自然とこの世界は目に見えない創造主によって造られ維持されていることが分かります。

人間であることは聖霊の内住のもとに無限の可能性を秘めていることが分かるのです。

霊の中に住まわれる創造主から偉大な力といのちが湧きあがることを体験するからです。

正しく歴史を知ることは本当の自分を知ることに通じます。

そして本物の人間の人生であるキリストを知ることが本当の自分を発見すること通じます。

そこに神に依って、罪と死の呪縛から解放された人生があります。

 

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