【へブル書10章19-39節】
旧約時代、地上において神が宿られたのは幕屋、神殿であり、神に近づくために、贖いとして清い動物の血が流されました。新約時代になってその宮は主ご自身であり、主の十字架上での血の贖いは私たちの最も深い「良心」に及ぶことになりました。
日本語で良心と訳されますが原語では「ある事柄を神と共に知るconscience」という意味です。
ですから「霊」を指しているともいえます。従って「邪悪な良心」とは、闇の霊が私たちの霊を捕らえて告発する状態を意味すると言えます。
外的に問題がないように見えても、潜在意識下で「良心の呵責」に苦しめられているのが私たちの真相ではないでしょうか。エペソ書2章には「あなた方は自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、その頃は、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って歩んでいました。」とあります。
主は「なぜ良いことについて私に尋ねるのですか。良い方は一人だけです。」(マタイ19・17)とも語られ、人間としての相対性と聖霊の絶対性を示唆されました。人間の良心或いは霊は絶対的なのでなく、聖霊と共にあることによってのみ正常なのだと教えられたのです。サタンの誘惑によって自己絶対化という被造物礼拝に陥ったことを原罪と言います。独裁者やカルトの教祖がその典型ですがアダムのすえとしての私たちも他人事ではありません。そして偶像礼拝は悪霊による心に傷をもたらします。
主の十字架の血による代価は、至聖所ともいえる深みを清め、根源的な傷を癒されます。
主の贖いにお頼りする時、聖霊に触れられて永遠の霊の解放がなされるのです。
さらに御霊なる神は、私たちの内に住まわれて、私たちに代わって良い業をされます。本来、律法は、神あるいは天使による祝福を受けるためでした。しかし自分を絶対化することで、その恵みを妨げて、サタンや悪霊の支配下に陥りました。神は、エジプトの捕囚からモーセを通してイスラエルを贖いだしました。かもいと門柱に塗られた小羊の血が民を守ったからでした。
幕屋の聖所、至聖所を清める際にも小羊の血が注がれました。
私たちの霊、心、体に聖霊の祝福を受けるために日々の主の血潮の清めが必要です。
主の血潮は敵の告発を退け、御霊の働きを解放します。
29節に記されているように、自分を守り祝福してくださる主の血と御霊を軽んじ、頼らないなら恵みを捨てることになるのです。
内住の神こそが喜びであり誇りであり、より頼むべきお方です。
自分の思いが絶対正しいと思うのでなく、祈って聖霊様の思いを第一にし、明け渡して霊・心・体そして生活すべてに主に介入して働いていただきましょう。
エペソ5章16節「機会を充分に生かして用いなさい」は別訳「時を贖いなさい」であり、主の活動のチャンスとして全生活の時或いは場所を主に明け渡すことが勧められているのです。
やがて弱い体も贖われて、大自然界の贖いと共に栄光の体によみがえる時が約束されています。
「私たちは被造物全体が今に至るまで、共にうめき共に生みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たちも、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」(ロマ書8・22,23)
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