創造

創造主とセルフイメージの世界

バベルからペンテコステへ

2024-05-19 14:44:41 | 福音

雲が雨で満ちると

【使徒の働き2章1-21節】

ペンテコステ、聖霊降臨日の意味について学びます。1章8節「聖霊があなた方の上に臨まれる時、あなた方は力を受けます。そしてエルサレム、ユダヤとサマリヤの全土及び地の果てまで、私の証人となります。

という約束の言葉が成就した日です。「臨む」、「下る」とは既に内住されておられるお方が見える世界に現れる

事を意味します。

クリスマス、イースターそしてペンテコステと三大祝祭日ですが、私たちにとっては救いの油注ぎ、交わりの油注ぎ、力の油注ぎという三番目の恵みが聖霊降臨です。聖霊は主との出会いを与えて神の子へ新生させ、復活の主との交わりによる聖化をもたらし、そして力の油注ぎによる働き人に変えてくださります。

わたしたちの霊を神殿の至聖所にして永住されます。そして霊だけでなく、聖所である心を満たし、大庭である舌を清めてくださいます。

舌は体の一部ですが、発せられる言葉によって全体に影響を及ぼします。息の語源は霊であることから、本来言葉は霊から発せられることによって創造の力を帯びました。

しかし聖霊に連結されない舌は魂から発せられますので、ヤコブ書3章5節以下で述べられる通りです。

舌は小さな器官ですが大きな森をも燃やす火であり不義の世界です。人生の車輪を焼きゲヘナの火に焼かれます。」そして8節、「舌を制することは誰もできません。少しもじっとしない悪で死の毒に満ちています

14節、その言葉は「上からでなく、苦い妬みや敵対心から生じ、地に属し肉に属し悪霊に属す」とあります。

エレミヤは人の心は何よりも陰険で直らない、それは湧き水の源である主を捨てて、自分でほった壊れた水溜の薄汚いたまり水に根を下ろしているからだと語りました。(エレミヤ書2章13節)

 こわれた水溜とは偶像礼拝であり、被造物である人間の力を結集して天に登ろうとしたバベルの塔建設に代表されます。

この自力依存が混乱(カオス)と分断をもたらしました。神の霊のもとに人は一致と一つの思いをもってアガペの愛に生きるのですが、聖霊による神のいのちを失うと心も言葉も通じ合わなくなります。

 

しかし、神はこの失われた世界にご自身を投じてくださり、ご自身の永遠のいのちを与えられました。聖霊による救いと交わりと力の三つの油注ぎです。

父、御子、御霊の三位一体の創造主の交わりへと私たちを引き上げ、神のいのちと愛に満たしてくださるのです。

罪によって、この世の霊に支配された言葉は、単に肺からの息によって思いを発する手段だけになりました。そのサタンからの解放のためには、より強い力が必要です。

 人間自身から発せられる証言は、この世を支配する霊に太刀打ちが出来ません。

ですから、「兄弟たちは小羊の血と、自分たちの証の言葉によって彼に打ち勝った」(ヨハネ黙示録12・11)とあるように、聖霊から出る力ある言葉のみが勝利させるのです。

 

神に連結された言葉こそが悪霊からの救いと祝福をもたらします。私たちは自分自身というバベルを根底から悔い改め、自分に頼るのでなく、より深きにおられる内住の聖霊様に頼りましょう。

自分の魂(プシュケ)からでなく、内住の神のいのちの息であられる聖霊(プニューマ)に語っていただくことです。

そのためには自分に頼るのをやめて、自分の内に住んでおられる聖霊様に頼らなければなりません。

自分の弱さを知って、自我と魂が砕かれて、ただ主を仰ぐときに、神の炎の舌である聖霊が語り、爆発的に栄光を現わしてくださるのです。

新聖歌420雨を降り注ぎ

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世の光5月号・恵子・ホームズさん証し

2024-05-14 16:15:51 | 福音

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霊を見分ける

2024-05-05 21:08:01 | 福音

新聖歌376 いかに汚れたる

【ヨハネ第一の手紙4章1-16節】

星野 富弘さんが天に召されました。

「鈴の鳴る道」という詩があります。「電動車椅子に乗っていると、少しのでこぼこでも進むのが大変だ。
だから、なるべくでこぼこの道は避けて通ってきた。知人から小さな鈴をもらって、車椅子につけた。
偶然、でこぼこの道を通った。いやだと思いながら。そのとき、何とも言えない心に響く鈴の音が聞こえてきた。
何度も何度もそのでこぼこ道を通って鈴の音を聞いてみた。その日からでこぼこ道を通ることが楽しみになった。
『人も皆、この鈴のようなものを、心の中に授かっているのではないだろうか。』
その鈴は、整えられた平らな道を歩いていたのでは鳴ることがない。人生のでこぼこ道にさしかかったとき、揺れて鳴る鈴である。美しく鳴らしつづける人もいるだろう。閉ざした心の奥に、押さえ込んでいる人もいるだろう。私の心の中にも小さな鈴がある。その鈴が澄んだ音色で歌い、キラキラと輝くような毎日を送りたい。
私の行く先にある道のでこぼこを、なるべく迂回せずに進もうと思う。」

出エジプト記に以下のようにあります。

出 39:24 青服のすその上に、青色、紫色、緋色の撚り糸で、撚ったざくろを作った。39:25 また彼らは、純金の鈴を作り、その鈴を青服のすそ回りの、ざくろとざくろとの間につけた。39:26 【主】がモーセに命じられたとおりに、仕えるための青服のすそ回りには、鈴にざくろ、鈴にざくろがあった。

コリント第一の手紙12章は神の力の証の鈴であり、13章は神の愛の実であるざくろで、14章はもうひとつの神の力の証の鈴です。神的生命は人格的な愛の交わりと創造の力です。主は私たちにそのいのちを与えられました。聖霊が私たちに内住されて、父と御子との交わりに導かれ、御霊の実を現わされます。同時に「賜物(カリスマ)」としての知恵や知識、信仰、いやし、奇跡、預言、霊を見分ける力、異言、解き明かしが与えられます。ここで分かるのは霊的識別力は人間の自然的能力でなく、聖霊の祈りによる交わりを通して神から与えられる超自然の力だということです。聖霊はイエスを神の御子と告白(信じ)させ、御子とみ父との出会いと交わりに導かれます。十字架と復活の主への信頼です。事実確認と人格的関係が真の霊の働きです。モーセと戦ったエジプトの霊能者も不思議なことをして見せましたがまことの神との交わりはありませんでした。神のいのちは、この世の霊にない永遠性と清さ、復活の力があります。真の創造主との人格的交わりがないと、愛、喜び、平安、寛容、親切、慈愛、忠実、柔和、自制という神の性質の実を結ぶことができません。神に聴く力が無いので、自分の思いを独善的に述べるだけです。               目と口しか動かせない絶望的な弱さの中で、ただひたすら祈り主に頼った星野さんの内で主はユーモアにあふれた聖い人格と素晴らしい作品を生み出されました。信仰とは人格的信頼です。一番深くて身近な関係は、創造主であり、贖い主である主との関係です。主はいつでも子供と対話を望んでおられます。そしてどんな問題も「私にゆだねなさい」と語っておられます。主への丸投げ人生ほどエキサイティングで楽しいものはありません。 

新聖歌135 御霊は天より                         

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