ゴーブルGoble,Jonathan |
仙太郎Sam,Patch |
バラ |
フルベッキ |
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引用文献「ジョナサン・ゴーブル |
"THE JAPANESE SAM PATCH-Saga ofa Servant-" F.Calvin Parker 「仙太郎」宮地慶信著 |
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1827(文政10) |
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1830(文政13) |
1・23フルベッキ誕生 |
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1832(天保3) |
瀬戸田福田村 |
9.7バラ誕生 |
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1838(天保9) |
7・28父死去 |
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1846(弘化3) |
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1847(弘化4) |
獄中で回心、体験記を母教会へ |
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1848(嘉永元) |
8.6バプテスマ |
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1850(嘉永3) |
10・29栄力丸紀伊沖で遭難。12・21米船オークランド号に救助さる。 |
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1851(嘉永4) |
2・3サンフランシスコ到着。暖かいもてなしを受け記念写真を撮る |
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1852(嘉永5) |
祖父ジョナサン死去 |
軍艦船とメリー号で中国へ。 |
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1853(嘉永6) |
6・10琉球那覇でベッテルハイムに会い、日本伝道、聖書翻訳について影響を受ける |
2・2サスケハンナ号上海着。ペリー艦隊と合流のため待機中、尾張の漂流民、音吉が訪問。 |
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1854(嘉永7) |
3・3(2・5)仙太郎はアダムス参謀長を通して,浦賀奉行支配与力香山栄左衛門に手紙をわたす |
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1855(安政2) |
4・23艦隊ブルクリン着。5月除隊。10・10エリザと婚約。 |
5月ゴーブルの故郷(ニューヨーク州ステュベン、キウカに行く。ウエインのバプテスト教会出席。ゴーブルと共にマジソン大学で1年間学ぶ |
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1856(安政3) |
4・14エリザと結婚。マジソン大学は退学決定。 |
仙太郎自殺未遂を起こす。退学。ハミルトンでバプテスト教会出席。 |
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1857(安政4) |
学部コースの学びを終える |
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1858(安政5) |
3・4ペリー死去。 |
3・6ハミルトンバプテスト教会で信仰告白。 |
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1859(安政6) |
7・4神奈川開港。 |
5・7S・R・・ブラウン、シモンズ、フルベッキ各夫妻ニューヨーク出航(前二名11・1成仏寺宗興寺着 |
フルベッキ師は |
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1860(安政7) |
仙太郎は2週間あまり船を降りなかったが4月中旬成仏寺の小屋にゴーブル夫妻と共に住む。 |
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1861(万延2) |
11/7J・バラ来日 |
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1862(文久2) |
3月横浜居留地110番に家を建てて移転。4月ミションより帰国要請。エリザ英語塾。 |
仙太郎はゴーブルと別れる。バラ家へ子守り役、料理人、忠実な下僕として使える。 8月横浜江戸にコレラ大流行死者多数。9・14生麦事件。 |
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1863(文久3) |
聖書翻訳を進める。靴直しをしながら漢訳聖書の書き下し文を日本人助手に作らせる。(マタイ、マルコ、ヨハネ) |
バラ家、横浜居留地内のアメリカ領事館へ引っ越す。2・18米国ダッチ・リフォームド教会設立会議に出席。 |
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1864(文久4) |
6月居留地150番に家を建築するが資金不足で中断。 |
1月バラ家は海岸近くに引っ越す。半分をバラ家が、半分をブラウン家が使用。仙太郎はバラ家で忠実に働く。 |
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1865(慶応元) |
4月南北戦争終結。 |
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1866(慶応2) |
2月、ABS、ヘボンにゴーブルの聖書翻訳を援助すべきか尋ねる。 |
仙太郎、バラ家の礼拝にも出席,子守り役、料理版を勤める。 |
5月バラ夫人、バージニアに向かう。次女アンナ誕生。11・26横浜大火 |
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1867(慶応3) |
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1868(明治元) |
2・12長崎の印刷技術の発達に刺激される。長崎を出帆して |
バラ夫人出産のため、バージニアへ向かう。仙太郎二人の子守り役として同伴。 |
3月ヘボン、タムソン、バラによるマタイのブラウン訳このころ完成。 |
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1869(明治2) |
2月政府より東京に創設する大学の英語科の総主任,県からも公務の要請を受けたが両方断ったとミッションへ報告。 |
仙太郎、バラ家で |
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1870(明治3) |
3月エリザの病状悪化。山手75Aに家を新築9月移転。BBTSより印刷機とローマ字活字3種到着。 |
11・25バラ夫妻帰国。 |
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1871(明治4) |
10・1バラと自分の1501番の店子日本人のことで争い裁判となる。 |
10・25 E・W・クラーク(22才)はグレートリパブリック号で横浜到着。日本政府側から静岡学問所の教授、中村正直(敬宇)が出迎える。日本政府と3年間雇用契約を結ぶ。 |
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1872(明治5) |
1月太平洋上アメリカ号甲板で岩倉にキリスト教政策を進言。団員二名にキリスト教講義。15日サンフランシスコ着。19日「イヴニングブリティアン」紙に使節団対応について意見書を投書。 |
クラークは仙太郎の実名が(幼名)が三太郎であることを聞く。6月クラークの洋館設計が始まる。9・30グリフィス,開成学校(東大の前身)への転任の折、クラークを訪問、数日過ごし仙太郎とも交流の時を持つ。10月勝海舟の世話で静岡城内に洋館を建築。11月頃、洋館の東側に仙太郎の住む平屋の日本家屋も建つ。12月クラーク洋館完成。洋館と仙太郎の家を写真に写す。(仙太郎は平屋の前に立って写った。)12・3太陽暦が採用される。 |
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1873(明治6) |
1・6 サンフランシスコよりチャイナ号でN・ブラウンの家族と共に家族ともども日本に向け出航。 |
夏、バラはクラークを訪問、一緒に富士登山。秋、仙太郎結婚する。クラークは英文聖書を仙太郎に贈る。 |
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1874(明治7) |
1月独立バプテスト教会設立。目を患い、水腫に悩む。「真道館」で説教、関東北部の者多く訪れ十数名の入信者生まれる。ゴーブルの購入していた山手75BをABMUに移譲。眼病悪化し、視力を失い翌年まで及ぶ。 |
1・4中村敬宇は横浜ユニオン教会(カックラン牧師)の礼拝に出席。 |
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1875(明治8) |
3月「真道館」未完成のままメソジスト宣教師マクレーに譲渡。 |
3.9 E.・W・クラーク、ベルハール号で日本(横浜)を去る。 |
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1876(明治9) |
8・14札幌農学校創立。W・S・クラーク来日。 |
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1877(明治10) |
1・30西南戦争始まる。 |
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1878(明治11) |
5月東京築地での宣教師大会に |
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1879(明治12) |
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1880(明治13) |
1・31埼玉県熊谷、千年亭,幻燈 |
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1881(明治14) |
京都、取手、木更津、長崎、佐賀、鹿児島、国分、福山他 |
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1882(明治15) |
1月旧約聖書翻訳委員会 |
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1883 (明治16 |
1月肝臓腫傷のため九死に一生を得る.24N・ブラウン宛教会への再入会願いを出し許可さる。 |
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1884(明治17) |
1月ワイントン州ピアス郡タコマの三女エニ-の婚約者(スウェーデン移民)宅に一時落ち着く。 |
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1886(明治19) |
1・1N・ブラウン死去 |
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1892(明治25) |
4・日本バプテスト教会機関紙「おだやか」創刊号に本多庸一、ゴーブル夫妻の思い出寄稿。 |
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1893(明治26) |
9・10ベンネットより日本の初期賛美歌についての質問に対してニュージェントホームから返事を書く |
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1895(明治28) |
ベンネットの求めに応じ,新訳ギリシャ語コンコーダンスと英文聖書全註解書をバプテスト神学校へ寄贈。 |
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1896(明治29) |
1・17ニュージェントホームより退去させられる。 |