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創造

創造主とセルフイメージの世界

ア-ネスト・サトウ、安保清康年表

2014-12-30 22:02:07 | 歴史

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ゴ-ブル・仙太郎年表

2014-12-26 10:15:23 | 黒船絵巻
 

ゴーブルGoble,Jonathan
(1827.3.4-1896.5.1)

仙太郎Sam,Patch
(1832-1874.10.8)

バラ

フルベッキ

 

引用文献「ジョナサン・ゴーブル
『摩太福音書』の研究
:川島第二郎著(明石書店)」
"JONATHAN GOBLE of JAPN
-Marine,Mssionary,Maverick-"
F.Calvin Parker

"THE JAPANESE SAM PATCH-Saga ofa Servant-" F.Calvin Parker
「仙太郎-ペリ-艦隊黒船に乗っていた日本人サム・パッチ-」(アガリ総合研究所出版)

「仙太郎」宮地慶信著
「ペリー艦隊 黒船に乗っていたに日本人
‐栄力丸17名の漂流人生-」足立和著

   
 

序文Preface

     
 

はじめにIntroduction

     
 

     
 

索引

     
 

参考文献

     

1827(文政10)

ウエイン村で誕生

     
         
         

1830(文政13)

     

1・23フルベッキ誕生

         

1832(天保3)

 

瀬戸田福田村
誕生

9.7バラ誕生

 
         

1838(天保9)

7・28父死去

     
         
         

1846(弘化3)

金銭強要の脅迫状をシラキュースの雑貨店主ブレに送り強盗未遂罪でオーバン刑務所に二年服役

     

1847(弘化4)

獄中で回心、体験記を母教会へ

     

1848(嘉永元)

8.6バプテスマ

     
         

1850(嘉永3)

 

10・29栄力丸紀伊沖で遭難。12・21米船オークランド号に救助さる。

   

1851(嘉永4)

ペリー艦隊に応募海兵隊員となる

2・3サンフランシスコ到着。暖かいもてなしを受け記念写真を撮る

   

1852(嘉永5)

祖父ジョナサン死去

軍艦船とメリー号で中国へ。
マカオでサスケハンナ号に乗り移る

   

1853(嘉永6)

6・10琉球那覇でベッテルハイムに会い、日本伝道、聖書翻訳について影響を受ける
7・11ミシシッピ号乗員として来航、江戸湾の測量に参加、上陸

2・2サスケハンナ号上海着。ペリー艦隊と合流のため待機中、尾張の漂流民、音吉が訪問。
3・11仙太郎を残して12名下船。3・27ペリー艦隊上海着、仙太郎ミシシッピ号に移る。ゴーブルと出会う。          

   

1854(嘉永7)

2・13(旧暦1・16)ペリー艦隊江戸湾に集結。2・24(1・27)江戸湾着。
3・4ミシシッピー号で28回誕生日
3・8条約交渉のため上陸
3・31(3・3)日米和親条約締結。6、艦隊は那覇、香港、シンガポール、ケープタウンを経由して米国に向かう。

3・3(2・5)仙太郎はアダムス参謀長を通して,浦賀奉行支配与力香山栄左衛門に手紙をわたす
3・6(2・8)サンスケハンナ号甲板で香山与力と面会、仙太郎は上陸を拒否。
8・20(7・27)栄力丸一行長崎入航

   

1855(安政2)

4・23艦隊ブルクリン着。5月除隊。10・10エリザと婚約。
11月マジソン大学予科コースに仙太郎と共に入学。

5月ゴーブルの故郷(ニューヨーク州ステュベン、キウカに行く。ウエインのバプテスト教会出席。ゴーブルと共にマジソン大学で1年間学ぶ

   

1856(安政3)

4・14エリザと結婚。マジソン大学は退学決定。
5月ウエイン村教会に伝道師として承認。6月聴講生として復学許可。
12月聖書販売伝道でニューヨークにペリーを訪ね日本伝道の励ましを受ける

仙太郎自殺未遂を起こす。退学。ハミルトンでバプテスト教会出席。

   

1857(安政4)

学部コースの学びを終える

     

1858(安政5)

3・4ペリー死去。
10月マジソン大神学関係講座と哲学の演習聴講を許可さる。
11月長女ドリンダ誕生。

3・6ハミルトンバプテスト教会で信仰告白。
3・7チュナンゴ川でハーヴェー牧師よりバプテスマを受ける。「サムエル・シンタロー」と記載

   

1859(安政6)

2月ウエイン村教会ゴーブルを宣教師に任命.ABFM16回年会で日本伝道宣教師に任命。
6月シカゴからニューヨークまで五州に渡る募金旅行。
11・3ニューヨーク市レイトストリート教会で按手礼と宣教師任命式。仙太郎も挨拶し日本語賛美歌を歌う。

7・4神奈川開港。
11月ゴーブル夫妻と共にバルチック号で日本に向かう。

5・7S・R・・ブラウン、シモンズ、フルベッキ各夫妻ニューヨーク出航(前二名11・1成仏寺宗興寺着

フルベッキ師は
11・7長崎着

1860(安政7)

4・1バルチック号横浜着。成仏寺へ。日本人教師を雇うが役人の妨害に会う。

仙太郎は2週間あまり船を降りなかったが4月中旬成仏寺の小屋にゴーブル夫妻と共に住む。

   

1861(万延2)
 (文久元)

1月困窮始まる。エリザ病に倒れ5週間臥す。4・12南北戦争始まる。8・30二女メアリ・フランシス誕生。
10月ブラウンの依頼により横浜の船員の礼拝で奉仕。
11月青年武士と十戒、主の祈り、信仰告白など翻訳。

 

11/7J・バラ来日
、成仏寺本堂に
ヘボンと共に住む。

 

1862(文久2)

3月横浜居留地110番に家を建てて移転。4月ミションより帰国要請。エリザ英語塾。
 8月4歳のドリンダコレラで死去。日本残留の決意をミッションにつたえる。
阿波藩にウォルッシュ商会よりセントルイス号(乾元丸)を斡旋。居留地商人に頼まれて靴修繕を専業化。

仙太郎はゴーブルと別れる。バラ家へ子守り役、料理人、忠実な下僕として使える。        8月横浜江戸にコレラ大流行死者多数。9・14生麦事件。

   

1863(文久3)

聖書翻訳を進める。靴直しをしながら漢訳聖書の書き下し文を日本人助手に作らせる。(マタイ、マルコ、ヨハネ)

バラ家、横浜居留地内のアメリカ領事館へ引っ越す。2・18米国ダッチ・リフォームド教会設立会議に出席。
2・23バラは同教会の仮牧師と決まる。
3月第一主日礼拝が始まる。

   

1864(文久4)

6月居留地150番に家を建築するが資金不足で中断。
7月三女エニー・オーセリア誕生。この年よりABSの方針に従った聖書翻訳に着手。
  

1月バラ家は海岸近くに引っ越す。半分をバラ家が、半分をブラウン家が使用。仙太郎はバラ家で忠実に働く。

   

1865(慶応元)

4月南北戦争終結。
5月150番の家完成。四福音書を訳了.ABSに出版援助申請。

     

1866(慶応2)

2月、ABS、ヘボンにゴーブルの聖書翻訳を援助すべきか尋ねる。  
  5・30ABFM23回年会に四福音書訳了を報告。この年、エリザの健康すぐれず転地を勧められる。

仙太郎、バラ家の礼拝にも出席,子守り役、料理版を勤める。

5月バラ夫人、バージニアに向かう。次女アンナ誕生。11・26横浜大火
バラ焼け出される。

 

1867(慶応3)

1・13阿波、土佐藩との沿岸貿易をグラバー商会のダン船長に頼まれリジーアレン号で両藩士と共に出帆、家族同伴。16阿波着。31長崎帰着。
2月後藤象二郎と会い3月より「土佐商会」の教師となり、南山手B28番地に住む。
6月10日後藤、坂本竜馬と夕顔丸で上京。ゴーブルは学生と対立する。
8・13中国宣教師インスリー夫妻とエリザを連れ浦上キリシタン集落訪問.民家の教会堂で奨励。   
 26日、学生らと談判決裂、解雇される。
11・27米砲艦モノカシーの通訳となり長崎出帆。平戸、呼子、唐津、下関などの各地測量しながら兵庫へ向かう。
12・26兵庫着,旗艦ハートフォードに移り、ベル監督付き通訳とな
る。

     

1868(明治元)

2・12長崎の印刷技術の発達に刺激される。長崎を出帆して
3・2横浜着。ヘボン辞書による聖書翻訳に本腰を入れる。
4月バラより居留地167番に小会堂と山手48番に居宅の建築依頼を受ける。
10月バイブルクラスを自宅で行う。午後は被差別でもローマ字による聖書講義を行う。ABUは資金不足のため英国バプテスト聖書翻訳協会にゴーブルの援助依頼。

バラ夫人出産のため、バージニアへ向かう。仙太郎二人の子守り役として同伴。
4・28中村敬宇ら幕府の英国留学生はパリ万博に寄り6・25横浜に到着。
8月中村家静岡に移住。

3月ヘボン、タムソン、バラによるマタイのブラウン訳このころ完成。

 

1869(明治2)

2月政府より東京に創設する大学の英語科の総主任,県からも公務の要請を受けたが両方断ったとミッションへ報告。
6月159番地に小屋を立て活字鋳造の機会を試作。BBTS(英国バプテスト聖書翻訳協会)150ポンド援助決定。ゴーブル人力車の発明。

仙太郎、バラ家で
益々忙しく働き多くの料理を覚える。

   

1870(明治3)

3月エリザの病状悪化。山手75Aに家を新築9月移転。BBTSより印刷機とローマ字活字3種到着。
5月政府の神道政策である伊勢神宮遷祀に怒りエペソ書翻訳を考える。
住居のないバラ夫妻のため75Aの新築の家を提供。12・23エリザ二人の娘と帰国。

 

11・25バラ夫妻帰国。

 

1871(明治4)

10・1バラと自分の1501番の店子日本人のことで争い裁判となる。
10日BBTSより100ポンド届く。
11月「摩太福音書」完成
12・5バラとの裁判判決、勝訴143ドル入手。23日岩倉使節団と同船して米国へ向かう。

10・25 E・W・クラーク(22才)はグレートリパブリック号で横浜到着。日本政府側から静岡学問所の教授、中村正直(敬宇)が出迎える。日本政府と3年間雇用契約を結ぶ。
10月下旬仙太郎はクラークに料理人として雇われる。
11・19中村と共に横浜を出発、途中鎌倉、箱根湖を見て静岡に向かう。
11・24クラーク一行静岡着。勝海舟の世話で蓮永寺に寄宿.仙太郎らはクラークの家族のようにして共に生活をする。クラークは3キロ離れた城内の学校まで通勤。
12・25授業開始、クラークは自宅で主日礼拝聖書研究会を漢文の聖書と日本語の聖書を用いて始める。

   

1872(明治5)

1月太平洋上アメリカ号甲板で岩倉にキリスト教政策を進言。団員二名にキリスト教講義。15日サンフランシスコ着。19日「イヴニングブリティアン」紙に使節団対応について意見書を投書。
3・13ウェイン村教会を家族で訪問。各地で講演。
7・11イギリスへ.23頃、スポルジョン神学校で講演。イングランド、スコットランドを廻り日本伝道への関心を訴える
9・4。リヴァプール出帆、米国へ。
10月ABMU日本伝道区主任宣教師にN・ブラウンを任命、聖書翻訳事業を継続させる。
11月ABMU中国宣教師M・ノールトン、日本に立ち寄りゴーブルの悪評を聞く。

クラークは仙太郎の実名が(幼名)が三太郎であることを聞く。6月クラークの洋館設計が始まる。9・30グリフィス,開成学校(東大の前身)への転任の折、クラークを訪問、数日過ごし仙太郎とも交流の時を持つ。10月勝海舟の世話で静岡城内に洋館を建築。11月頃、洋館の東側に仙太郎の住む平屋の日本家屋も建つ。12月クラーク洋館完成。洋館と仙太郎の家を写真に写す。(仙太郎は平屋の前に立って写った。)12・3太陽暦が採用される。

   

1873(明治6)

1・6 サンフランシスコよりチャイナ号でN・ブラウンの家族と共に家族ともども日本に向け出航。
2・7横浜到着。9山手居留地203番に似家族で住む。
2・24キリシタン禁制高札撤廃。3・2高札撤廃後の第一主日「横浜第一バプテスト(浸礼)教会設立。ゴーブル書記となる。
7・13筆工石川寿一郎に本牧海岸でバプテスマを授く。国内最初のバプテスト入信者。
9・13岩倉使節団帰国。 ゴーブルの評判N・ブラウン、ABMUと対立。
12・5ゴーブル石川寿一郎とのことで教会を脱会。     

夏、バラはクラークを訪問、一緒に富士登山。秋、仙太郎結婚する。クラークは英文聖書を仙太郎に贈る。
9・4 バラはクラーク家を出発。
10・9 開成学校(後の東京帝国大学)開校。
12月クラークは開成学校の教授となり東京に転居。仙太郎も同伴する。開成学校近くの外国人教師用の住宅にグリフィスも一緒に住む。

   

1874(明治7)

1月独立バプテスト教会設立。目を患い、水腫に悩む。「真道館」で説教、関東北部の者多く訪れ十数名の入信者生まれる。ゴーブルの購入していた山手75BをABMUに移譲。眼病悪化し、視力を失い翌年まで及ぶ。

1・4中村敬宇は横浜ユニオン教会(カックラン牧師)の礼拝に出席。
7・3クラークは学生に自然科学の試験を全文英文で出す。
7月上旬仙太郎は東京府病院に入院。病院を飛び出すが再入院させられる。
7.23クラーク京都旅行に、アーサー夫妻が仙太郎を世話。
9月下旬仙太郎と妻はアーサー家に移される。クリスチャン英人医師が仙太郎を診察する。
10・7仙太郎はクラークから脚気であることを知らされ死に対する心構えをする。
10・8 43才8ヶ月(信仰生活16年7ヶ月)で天に召される。
10・9神田駿河台のアーサー邸でタムソン牧師の司式で葬儀が行われる。仙太郎の手に英文聖書が妻によって持たされる。中村敬宇家の墓に「三八君墓」として埋葬される。
12月中村敬宇、カックランによりキリスト者になる。
同月,E・W・クラーク、日本政府との雇用契約が終わる。

   

1875(明治8)

3月「真道館」未完成のままメソジスト宣教師マクレーに譲渡。
翌年にかけて元村日本人宅で英語を教えたが中断。
7・10日本基督横浜公会海岸教会会堂建つ。

3.9 E.・W・クラーク、ベルハール号で日本(横浜)を去る。

   

1876(明治9)

8・14札幌農学校創立。W・S・クラーク来日。
11月点字による盲人教育が東京に結成される。

     

1877(明治10)

1・30西南戦争始まる。
9・3東京一致神学校設立。

     

1878(明治11)

5月東京築地での宣教師大会に
おいて聖書翻訳常置委員会の委員に選ばれる。
11月「東京日々」「読売」「伊勢」の各新聞に」自分の発明になる
人力車税の幾分かを下符するよう」東京府に願いを出したと報道される。目的は計画中の訓盲院
の資金のため。

エリザ婦人病のため病臥。

     

1879(明治12)

3月半年の闘病生活後回復。
秋、ギューリックに雇われ聖書販売伝道者となり茨城房総地方を巡回(日当2ドル)

     

1880(明治13)

1・31埼玉県熊谷、千年亭,幻燈
伝道集会千名
3-5月水戸房総巡回伝道
7・2S・Rブラウン死去
11‐12月中仙道17日走破、琵琶湖まで平均100冊以上、続いて大阪京都で販売伝道。

     

1881(明治14)

京都、取手、木更津、長崎、佐賀、鹿児島、国分、福山他
10・11明治14年の政変

     

1882(明治15)

1・3岡山から神戸へ。7広島丸で横浜へ帰港。エリザ病気悪化。
5・1エリザ46才で死去。

   

1月旧約聖書翻訳委員会

1883 (明治16

1月肝臓腫傷のため九死に一生を得る.24N・ブラウン宛教会への再入会願いを出し許可さる。
12・19英国船レディ・ボーウェン号で全家族とカナダ・ヴィクトリアに向け出帆。23年間の在日生活に別れを告げる。

     

1884(明治17)

1月ワイントン州ピアス郡タコマの三女エニ-の婚約者(スウェーデン移民)宅に一時落ち着く。
ウェイン村訪問、母教会で「日本の風俗と習慣」の講演。
11・1エニーとボーマンの結婚式の司式。

     

1886(明治19)

1・1N・ブラウン死去

     

1892(明治25)

4・日本バプテスト教会機関紙「おだやか」創刊号に本多庸一、ゴーブル夫妻の思い出寄稿。
同月バプテスト神学校 第一回卒業式。
5・31フィラデルフィア・ジャーマンタウンのバプテスト退職牧師施設「ニュージェントホーム」に8才年上のキャサリンとシアトルより来て入所。
10・22へボン帰国

     

1893(明治26)

9・10ベンネットより日本の初期賛美歌についての質問に対してニュージェントホームから返事を書く

     

1895(明治28)

ベンネットの求めに応じ,新訳ギリシャ語コンコーダンスと英文聖書全註解書をバプテスト神学校へ寄贈。

     

1896(明治29)

1・17ニュージェントホームより退去させられる。
2月ミズーリ州セントルイスのバプテスト療養所に入る。
5・1エリザと同じ日に老衰で死去
69才。3日セントルイスのベルフォンテン墓地に埋葬。
キャサリンのその後の消息不明

     

 

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2014Have a blessed Christmas!

2014-12-17 20:18:14 | ゴスペル

https://www.youtube.com/watch?v=_IeV6fy2lLs

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