創造

創造主とセルフイメージの世界

神の宿

2022-12-27 11:40:36 | 福音

[ルカ福音書2章]

トントントン、今晩一泊したいのですが。あいにく部屋は満室です。ほかをおさがしください。

トントントン、今晩の宿を探しているのですが。すみません。お客さんでいっぱいです。

トントントン、妻がたいへんなのですが泊めていただきたいのですが。あいにく、空き室がありません。

あー家畜小屋なら空いています、それでもよろしかったら。

身重のマリヤさん、見守る夫のヨセフさんはどんなに心細かったでしょう。

自分の居場所がないということは本当につらいことです。東日本大震災の被災者がそうだったように、今、ウクライナの人々は家を壊さり、寒さの中で暖房もなく震えながら過ごしています。

神の家族がベツレヘムにたどり着いたものの、困ったのは、落ち着く先でした。やっと見つけたのは馬小屋でした。これが飼い葉おけから十字架へという御子イエス様の人生がはじまりでした。

後に主は、空の鳥、野の獣には宿るべき巣があるが自分には枕するところがない、とも語られました。

シメオンによるマリヤへの不思議な預言が35節にあります。「剣があなたの心さえも貫くでしょう。それは多くの人の思いが現れるためです。」

メリークリスマス(クリスマスおめでとう)なのに、なぜイエス様の十字架で流される血を現わすポインセチアの赤や茨の冠を指すギザギザの葉のヒイラギ(柊)を飾るのでしょうか。

それはイエス様こそが、私たちを清めて、神を宿す永遠の宮に変えてくださるからです。

どのようにして、でしょうか。本来人間こそ神を宿す神殿のはずでしたが、罪に落ちた人には住めず、幕屋に住まわれました。

私たちの心は世のものでいっぱいで、神の居場所がないのです。時間的にも自分の事で忙しすぎて、創造主に心が向かないのです。

一番大切な自分の造り主を無視し、迎い入れる余地がなく、追い出そうとします。

主の生涯と十字架は、このような人間の姿を照らし出だすのです。

イエス様の処女降誕の奇跡は、バプテスマと共に聖霊なる神を宿されたことで証明されます。

罪ある人間が神を宿すことは不可能だったので、神の子自らが、人となられて、神の宮としての本当の人間の姿を示されました。聖霊は主の中に宿り、創造の力を現わされ、ついに死を破り、復活の体を与え、栄光の中に昇らせました。神の永遠のいのちを体現されたのです。

その神のいのちを私たちにも与えてくださるために、この世に現れてくださったのです。

十字架を見上げる時、自分の真の姿を知らされます。神を無視し、逆らう自分の心が明るみにされます。それと同時に「父よ。彼らをおゆるし下さい。」という主の血潮の叫びを聞きます。その時に私たちのすべての罪が洗われ、清められて、心が創造主の霊に開かれます。両手がもので一杯ならどうしてプレゼントを受け取ることが出来ませんが、へりくだってただ主をお頼りする時に聖霊が注がれます。

聖霊は創造主であり、無尽蔵の富、この世にない宝、神のいのちです。

「主よ。私の罪を赦し、清めてください。」と祈り、そして「聖霊様私の内に宿ってくださり、私の中で神のいのちと力で活き、働いてください。」と共に祈りましょう。

今日、あなたは永遠のいのちというプレゼントを手に入れます。本当にクリスマスおめでとうございます。

ああ、ベツレヘムよ

 

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永遠のいのちを与えるたために御子はこの世に

2022-12-21 21:36:07 | 福音

いのちなき砂の悲しさよ、さらさらと握れば砂の間より落つ。

 

いのちにも自然的な被造物としてのいのち(ビオス)と神が与ええてくださる永遠の霊のいのち(ゾーエー)があります。

啄木の悲しみとは前者のはかなさであり、

「クリストを人なりといへば
妹の眼がかなしくも われをあはれむ」

と詠んだように聖霊の啓示によらない自分を憐れむ心でもありました。

パウロはロマ書9章2節で

「私には大きな悲しみがあり、私の心には大きな絶えず痛みがあります。」

と語り、

10章2節

「私は彼らが神に対して熱心であることを証します。しかしその熱心は知識(エピグノーシス)に基づくもの

でありません。というのは彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。

キリストは律法を終わらせたので、信じる者はみな義と認められるのです。」

と述べています。

 自分の肉のいのちだけで生きるとゆきづまりますが、心に創造主を迎え、その永遠のいのちで活かされることに

絶望は希望に、闇は光に、悲しみは喜びに変えられます。

 

 

 

 

 

 

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「不思議な助言者」

2022-12-05 15:37:43 | 福音

[イザヤ9章]

6節の口語訳聖書は「霊妙なる義士、大能の神」、別訳では「ワンダフル・カウンセラー(驚くべき指導者)」と訳されています。

不思議さや奇跡は創造主なる神が霊Spiritであることに起因しています。

私たちは時間と空間である3次元の中に住んでいますが、霊はそれを超えています。

 創造主は失われた真の人を回復されるために、世に下りました。それは霊のいのちを回復するということです。

紀元前700年前の預言者イザヤが見たのは、真の人としてこの世に来られる主の姿でした。

どのようにして未来を認識できたでしょうか。

霊は空間を超えますから、離れていても対話し活動できます。チャールズ・ウェスレーは多くの讃美歌を造り兄ジョン・ウェスーと共にイギリスで人々を救いに導きました。よく旅に出ました。妻との間が疎遠にならないため、同じ時間を決めて祈りあったと言われます。体は離れていても霊では、主と共にあって交わりが出来ました。パウロもエリシャもそのような経験をしています。主を礼拝する時、天に帰られた人々と共にあり、また遠く離れていても近いのです。

礼拝では、神との交わりの中で、天国の民や天使たちとも出会っています。

これは空間だけでなく時間においても同じです。時間も神が造られたものですが、聖霊による祈りは時間を超えて働きます。創世記を書いたと言われるモーセは、宇宙の起源についてどのように知ったのでしょうか。恐らく神の霊によって天地創造の様子を見たのだと思います。

イザヤが700年後のイエス様の生涯を驚くほど正確に描いているのは、霊によって時間を超えてみることが出来たからではないでしょうか。聖霊の知恵や知識は、3次元の人間の能力をはるかに超えるのです。聖書が不思議と奇跡に満ちては創造主のいのちと活動を伝えているからです。

主のカウンセリング(助言)は御霊に依って行われました。御霊は時空だけでなく、私たちの心の深みまでご覧になります。人の目はうわべを見ることが出来ても隠されている心の思いまで洞察できません。

旧約聖書が明らかにするのは、神の真実な愛に対してイスラエルや異邦人がその愛を裏切る心と罪です。

神の霊は聖なる霊です。イザヤは主に近づいた時、「私はもうだめだ。(6章)」と光に照らされた自分の心の闇に絶望し、パウロも「私は何というみじめな人間なのだろう。(ロマ7章)と嘆きました。体育の教師として指導中の事故が原因で手足の自由がきかなくなり、口に筆をくわえて絵を描きはじめられ、その後、洗礼をお受けになった星野富弘さんは「黒い土に根を張り どぶ水を吸って なぜきれいに咲けるのだろう。私は大ぜいの人の愛の中にいて なぜみにくいことばかり 考えるのだろう」という詩を書いています。

イザヤは61章で語ります。「神である主の霊が私の上にある。主は私に油を注ぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために遣わされた。・・」また、「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」(詩篇139篇23〜24節)とあります。

傷つく道とは「偶像礼拝」です。

私たちの思いが主からそれる時、悪霊が心をとらえ、責めや咎めとなります。

しかし、「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53章5節)のです。

御子が人になられたのは、十字架上で傷を受けられ、血を流されて、罪の代価を負ってくださるためでした。そこで罪が赦され、清められて悪い霊とその思いから解放されます。代わって聖なる神の霊が心に宿ってくださり、愛と喜びと平安をもたらしてくださるのです。神のいのちはやがて、永遠の復活の体を与えてくださいます。

いと高きところに栄光が

 

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