(ヨブ記33章)
族長時代(アブラハムからヤコブの時代)の出来事といわれます。
正しい者の苦難は23章10節「私は金のように、出てくる」新生・聖化・栄化のプロセスです。
ヨブには理解できない世界で、神とサタンとの問答が背後にあり、ヨブの愛は下心があって敬虔を装っているだけで条件付きのものだとの告発から始まりました。1章11節
その結果試練が許され、ヨブに突然の不幸に襲われ、さらに重病に陥ります。
三人の友が慰めにやってきますが、エリファズは因果応報の教条主義者で、額面上は間違っていないとしても真の受容と同情に欠け、ヨブは失望します。二人目のビルダは建て前主義者、三番目のツォファルは感情露出型で3ランドに及ぶ対話は口論のようになってしまいました。ヨブは環境上の痛手だけでなく、非難され人格を無視されるような内面的な傷を負わされることになります。
4人目に知識にも体験にも誇るところがない若年者「エリフ」が登場します。自分からというよりも、聖霊に押し出さて語りだします。何を話したか、よりhowどういう風に話したかです。
ヨブに対して御霊と共に人格的に語りました。そして初めてヨブは聞く耳を持ち始めます。
エリフは神への橋渡し役となり、やがて神ご自身がヨブに語り掛けます。(38章)
優れたカウンセリングは、真のカウンセラーである助け主(パラクレートス)でもあり慰め主でもある聖霊を紹介することだと言われます。
ヨブは苦難の中で、エリフのうちに働きたもう主に触れました。私たちも最初、誰かクリスチャンに出会い、間接的にその人のうちにおられる主に出会います。その後、主との直接の出会いと交わりに預かります。
ヨブは絶望の中で、主ご自身を顔と顔を合わせるように主に近づきました。やがてとりなしの祈りをささげて、神の力を解放することになります。以前の二倍の祝福が戻ってきました。
アブラハムも与えられた祝福、イサクを捧げて手放しなさいという試練を与えられました。
それはその後、数百倍の祝福につながりました。
レント(四旬節・受難節)はイエス様の40日間の荒野での試練を思う時です。
主はサタンの誘惑という試練に直面しました。主は御霊に依って、御霊と共に勝利されました。
試練は、神に頼る訓練なのです。聖化とはより深く神を理解するステップだともいえます。
ヨブの苦難は外面的喪失だけでなく、最も身近な者達にさえ、無視され裏切られたような深い孤立感だったのではないでしょうか。私たちの心は、多くの偶像をもって主を無視し、悲しませることが多いのです。
主を十字架に追いやり、傷つけたのは、そのような自分自身でもあります。
ヨブは自分の受けた悲惨を通して、主の心に触れたのではないでしょうか。
苦悩が霊の目を開き、神理解を深められ、神との親密な関係へと清められたに違いありません。
御霊の光と啓示に依って隠されていた霊の世界が明るみにされます。
主イエスが荒野の試練を通過された後、御霊が川のように主の心の御座から流れ始めました。
聖化から栄化へと進まれたのです。
天から下られて内に住んでくだる聖霊様を悲しませてはならないとあります。いつも共にいてくださる永遠の助け主、慰め主に、たえず目を留め、頼りましょう。私たちも精練された金となって御霊の輝きに預かるのです。