創造

創造主とセルフイメージの世界

ヨブとエリフ

2023-03-20 11:21:11 | 福音

(ヨブ記33章)

族長時代(アブラハムからヤコブの時代)の出来事といわれます。

正しい者の苦難は23章10節「私は金のように、出てくる」新生・聖化・栄化のプロセスです。

ヨブには理解できない世界で、神とサタンとの問答が背後にあり、ヨブの愛は下心があって敬虔を装っているだけで条件付きのものだとの告発から始まりました。1章11節

その結果試練が許され、ヨブに突然の不幸に襲われ、さらに重病に陥ります。

三人の友が慰めにやってきますが、エリファズは因果応報の教条主義者で、額面上は間違っていないとしても真の受容と同情に欠け、ヨブは失望します。二人目のビルダは建て前主義者、三番目のツォファルは感情露出型で3ランドに及ぶ対話は口論のようになってしまいました。ヨブは環境上の痛手だけでなく、非難され人格を無視されるような内面的な傷を負わされることになります。

4人目に知識にも体験にも誇るところがない若年者「エリフ」が登場します。自分からというよりも、聖霊に押し出さて語りだします。何を話したか、よりhowどういう風に話したかです。

ヨブに対して御霊と共に人格的に語りました。そして初めてヨブは聞く耳を持ち始めます。

エリフは神への橋渡し役となり、やがて神ご自身がヨブに語り掛けます。(38章)

優れたカウンセリングは、真のカウンセラーである助け主(パラクレートス)でもあり慰め主でもある聖霊を紹介することだと言われます。

ヨブは苦難の中で、エリフのうちに働きたもう主に触れました。私たちも最初、誰かクリスチャンに出会い、間接的にその人のうちにおられる主に出会います。その後、主との直接の出会いと交わりに預かります。

ヨブは絶望の中で、主ご自身を顔と顔を合わせるように主に近づきました。やがてとりなしの祈りをささげて、神の力を解放することになります。以前の二倍の祝福が戻ってきました。

アブラハムも与えられた祝福、イサクを捧げて手放しなさいという試練を与えられました。

 それはその後、数百倍の祝福につながりました。

レント(四旬節・受難節)はイエス様の40日間の荒野での試練を思う時です。

主はサタンの誘惑という試練に直面しました。主は御霊に依って、御霊と共に勝利されました。

試練は、神に頼る訓練なのです。聖化とはより深く神を理解するステップだともいえます。

ヨブの苦難は外面的喪失だけでなく、最も身近な者達にさえ、無視され裏切られたような深い孤立感だったのではないでしょうか。私たちの心は、多くの偶像をもって主を無視し、悲しませることが多いのです。

主を十字架に追いやり、傷つけたのは、そのような自分自身でもあります。

ヨブは自分の受けた悲惨を通して、主の心に触れたのではないでしょうか。

苦悩が霊の目を開き、神理解を深められ、神との親密な関係へと清められたに違いありません。

御霊の光と啓示に依って隠されていた霊の世界が明るみにされます。

主イエスが荒野の試練を通過された後、御霊が川のように主の心の御座から流れ始めました。

聖化から栄化へと進まれたのです。

天から下られて内に住んでくだる聖霊様を悲しませてはならないとあります。いつも共にいてくださる永遠の助け主、慰め主に、たえず目を留め、頼りましょう。私たちも精練された金となって御霊の輝きに預かるのです。

安かれわが心よ

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神の愛の中に

2023-03-06 21:22:16 | 福音

(ヨハネ第一の手紙4章)

使徒信条私たちの信仰告白あり、父と子と聖霊の三位一体の神への賛美です。

私たちは真理からそれやすい性質がありますので、絶えず基本に帰り、特に間違った異端の教えを識別しなければなりません。

すべての教えや思想の背景には霊が働いていますが、異端とは1節に記されているように、神の霊Spiritによる教えでなく、世の霊spiritsからのものです。創造主の霊でなく、被造物の霊です。

どこで違いを判断するかと言えば、イエス様を神の御子と認めてそう教えているかどうかです。

つまり、主イエスは人の肉体をとって現れた創造主であること、復活して今も活きておられる永遠者であり、

その方との出会によって「主よ!」と告白するのは聖霊Spiritの働きによるということです。

それに反して「この世」の霊は、神ご自身のレベルではなく、人間の宗教によっては神に届こうとします。

しかし、3次元を超えた人間の能力を超えた力をもっていますので、この世の思想や宗教を支配します。被造物を偶像化する「バベルの塔」を立てはじめるのです。

新宗教、ニューエイジ、相対主義、バインダー宗教としての仏教に現れています。

八百万の神々と日本文化の特徴でもあります。ですが、バベルの塔のように、天まで届きません。「神は降りてこられた」とあります。

イエス様は天から地へそして地獄まで下られて、復活されて40日間現われ現在は天の父なる神の御許におれます。誰も天国や地獄に行って帰った者がいないのでほんとうかどうか分からないと言われますが、主がすべを明らかにされておられます。

「神は愛です」とは、神は父と子と聖霊の永遠の交わりの中で存在されるという意味です。三位一体の愛です。ここには「我と汝」という位格の違いがあり人格的な霊の対話があります。御子が十字架上で贖いを完成されましたので、御霊が我々のうちにお入りくださり内住されます。その結果、神のいのちとその交わりの中に引き上げられています。

徳島県神山の寺で育ち、やがてクリスチャンになった文芸評論家であり、二松学舎大学学長、中渋谷教会牧師でもあった佐古純一郎師のことが忘れられません。よく著作を読み、講演も聞きました。人とは本来人間「じんかん」であり、人格的な交わりこそ人間の基本であると強調されました。は夏目漱石や芥川、太宰などにみられる人格意識が近代日本文学の特徴で聖書の影響によると語りました。聖霊の人格性、三位一体の霊の交わりに預かることによって本当の人格意識が生まれるということです。聖霊が人間の格である私たちの霊をよみがえらせ、「アガペの愛」に導かれます。

私たちのうちに宿られて働かれる聖霊様が父なる神、御子なる神と交わり、そして人を人格的に尊重し愛されるのです。

神のみが人をご自分のもとに挙げることができます。

主が私たちの住まわれて聖さになってくださるのであって、人の側から神の聖さに達することはできません。人間の宗教としてのパリサイ主義には限界があります。被造物は自力では、創造主のレベルには到達できません。被造物の種子は、創造主の種子にはなりません。いのち(ビオス)をいくら延長しても、永遠のいのち(ゾーエー)には至りません。永遠のいのちは神のいのちで、自然的生命からは作れないのです。

創造主が、私たちの内に来てくださったので、私たちは主と共に至聖所まで引きあがられました。天から下られた聖霊なる神が、私たちの内から活ける水の流れのように、働かれて栄光を現わしてくださるよう期待しましょう。

キリストは生きておられる

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