創造

創造主とセルフイメージの世界

仙太郎が中退したコルゲ-ト大学と入会したハミルトン・バプテスト教会

2016-04-29 20:24:52 | 黒船絵巻

http://diglib.colgate.edu/cdm/ref/collection/p101901coll8/id/3184

1855年5月、ゴ-ブルと仙太郎はマジソン大学(現在のコルゲ-ト大学)に入学しましたが数か月で中退します。

1858年3月6日、ハミルトン・バプテスト教会(現在の第一バプテスト教会First Baptist Church)で信仰告白した仙太郎は、翌、7日に

シェナンゴ川Chenango Creek でバプテスマ(浸礼)を受けました。従来の日本の資料ではチェナンゴと訳されていましたが、発音は「シェナンゴ」に近いようです。

元来Chenangoはインディアンの言葉であり、home of the full thistle(雄アザミの産地)の意味があり、ハミルトンの紀章には、州花のバラとともに印されているとのことです。(宮地慶信牧師「主のあしあと」第4号)

この川はサスケハナ川の支流でもあります。

この川にちなんだ蒸気フリゲート・サスケハナ 号はペリ-艦隊の旗艦船として、1853年、仙太郎を乗船させて日本遠征を果たしました。

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ゴ-ブルの母教会、バリントン・バプテスト教会Barrington Baptist Church

2016-04-28 14:36:12 | 黒船絵巻

https://en.wikipedia.org/wiki/Second_Baptist_Church_of_Wayne 

 http://www.333.ecnet.jp/goblenew1.htm

 

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1865年(慶応元年)長崎の済美館と致遠館

2016-04-27 20:28:39 | 歴史

http://tabinaga.jp/column/view.php?category=2&hid=20140226200421&offset=5

「長崎洋学史上巻」(古賀著・長崎文献社・1966昭和41)199ぺ-ジによる。

「1862年に至って、この英語伝習所は、片淵郷組屋敷内の及武館のうちに移され,改めて、英語所といい、中山右門太が、頭取を命じられた。1863年英語所は、立山奉行所の東長屋に移り、何礼之助、平井義十郎が学頭となった。同年12月、英語所は江戸町に移り、洋学所と改称する事になった。そしてフルベッキGuido Fridolin Verbeck もまた英語の教授を嘱託された。1864年(元治元年)正月大村町に語学所を設け・・・」

とあり、翌年8月新町に移って済美館と改称されました。

昭和6年四条書房から刊行された「明治百話」にはフルベッキが話した以下のようなエピソ-ドが収録されています。

「ここに二枚の写真があります。(チョンマゲ大小の書生30名ばかりと。他に50名ほどの人々主人を取り巻いて写る)、ハイ日本第一の写真師でしょう、上手でした。長崎の上野と申す写真師です。私は長崎に居りまして、この書生はみな長崎で教えたのです。一方は立山で、一方は新町。新町のは佐賀藩のお侍。どうも顔付にすぐ見えます。幕府の方はよほど進んで居りました。どうも幕府の侍の方は文明の顔をしております。」(岩波文庫版「明治百話」より)

「S・R・ブラウン書簡集」(高谷道男編訳・日本基督教団出版局1965)156ぺ-ジの高谷氏の注には以下のようにあります。

「長崎でフルベッキの指導した学校は二つである。「済美館」は長崎の官憲で設立し、致遠館は佐賀藩で設立した学校。前者には岩倉具視の子息、薩摩の藩士、小松帯刀ら、明治時代の政治家もここで学んだ。佐賀藩の致遠館には大隈重信、副島種臣ら、同藩の者がここでフルベッキの指導を受けた」と。

事実は致遠館は大隈重信らが商人から募金して1865年設立した私塾から出発したといわれます。翌66年五島町の諫早屋敷の中に開校されてフルベッキは校長として招聘されました。(「フルベッキの生涯」大橋・平野共著・新人物往来社)

立山は長崎の北部、新町は後に興善町に併合されます。グリフィスはフルベッキ写真に柳屋謙太郎が写っていると証言しました。

柳屋氏は1867(慶応3)年通弁役として江戸に招聘されています。

 

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長崎済美館フランス語教師、ベルナ-ル・プティジャンBernard Petitjean司教 

2016-04-24 19:58:13 | 歴史

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3

なぜフルベッキ写真がフランスで発見されたのかヒントになるかもしれません。

http://blog.goo.ne.jp/mitsuominami/e/47bb430d6716fbe14a8ee42ca60c412e

「徳川時代における長崎の英語研究」古賀十二郎(九州書房・昭和22)68ぺ-ジには以下のように記されています。

「1865(慶応元年)8月、長崎の語学所は、新町の長州屋敷のあとに移り、新たに済美館と称し、外国語はもとより、歴史、地理、数学、物理、化学、天文、経済など諸学科の教授を開始した。その後、洋書の取締方は、済美館において行われることになった。従前は、運上所において、洋書の取締方にあたっていた。

英語は、フルベッキ氏、何禮之助、平井義十郎、柴田大助、横山叉之丞、柳屋謙太郎、岡田誠一。玉名純之助、島田種次郎、西三保太郎、藤田雄之助、松尾孝太郎、伊藤寅太郎などが教え、フランス語はBernard Petitjean、名村泰蔵、その他がその教授にあたったという。

1867(慶応3年)3月、済美館学頭何禮之助、教授方柴田大助、句読柳屋謙太郎、三名は、外国方御用として、江戸出府を命じられた。

1868(明治元年)2月、澤宣嘉が、長崎裁判所総督として、長崎に着任した。そして4月に至り、済美館を広運館と改称し、学事に改革を加えて、本学局、漢学局、洋学局の三部を設けることにした。」

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試練と聖霊生活

2016-04-22 22:02:28 | 福音

熊本の被災地では、多くの方が疲労困憊し、ヨブのような心境でおられるのではないでしょうか。

この世界は、人間を超えた破壊と虚無の力が作用しているように思われます。

これに対抗するためには、創造主である聖霊を心にお迎えし、このお方に依存することだと考えます。

自力依存では疲れが増すばかりですが、主に働いていただけば荷が軽くなるからです。

思考や行動、すべての領域において創造者に主権を明け渡して、主を先頭に歩むならば、主の奇跡を体験されるでしょう。

今、試練の中におられる方々に、復活の主が親しく望まれ、いのちの息、聖霊様を注い下さり、闇の力から解放してくださるよう

お祈りします。

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「大君の都」(オ-ルコック著)原文

2016-04-21 16:08:04 | 黒船絵巻

https://openlibrary.org/books/OL7114417M/The_capital_of_the_tycoon

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幕末維新の英国外交官ア-ネスト・サトウ

2016-04-21 14:39:39 | 黒船絵巻

https://www.youtube.com/watch?v=8i5nBUUUBIc&ebc=ANyPxKpizlL50Ng9srcboHbqrOQicp9EO82QSVZ30HRpVyp4wDUamq7FodVI5zIdE3g-Z8z1LBVV1OJMOOIAn-C7xRyPDoKlyg

「その条約は、外国人との貿易を大君(タイク-ン)の直轄地の住民にだけ局限して、この国の大部分の人々との交渉から断ち切るものであった。そこで私は、条約の改正と日本政府の組織の改造を求めたのである。

私の提案なるものは、大君を本来の地位に引き下げて、これを大領主の一人となし、天皇(ミカド)を元首とする諸大名の連合体が大君に代わって支配的勢力となるべきである、というものであった。

それ以来私は、現存の条約の改良と修正について、いろいろの提言をするようになった。阿波侯(訳注・蜂須賀斉祐)の家臣である沼田寅三郎という、いくらか英語を知っている私の教師に手伝ってもらって、これらを日本語に翻訳し、パンフレットの形で沼田の藩主の精読に供したところ、それが写本されて方々へ広まった。

その翌年、私が旅行の際に会った諸大名の家臣たちはこの写本介して私のことを知っており、好意をよせてくれた。しまいにはその日本文が英人サトウの「英国策論」、すなわちイギリスの政策という表題で印刷され、大阪や京都のすべての書店で発売されるようになった。

これは勤王、佐幕の両党から、イギリス公使館の意見を代表するものと思われた。そんなことは、もちろん私の関知するところではなかった。」

「ア-ネスト・サトウ 一外交官の見た明治維新、第14章横浜の大火」(坂田精一訳・岩波文庫)197ペ-ジより

 

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「維新前の長崎洋学生」

2016-04-09 20:33:08 | 歴史

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失敗から学んだヴォ-リズ

2016-04-06 16:27:59 | ゴスペル

 NHKの「あさが来た」のヒロインモデルは広岡浅子氏とのことです。

「船の右側」4月号の「広岡浅子と滿喜子とヴォ-リス」によれば、浅子の娘と結婚したのは一柳恵三で、その妹がヴォ-リズと結婚することになる一柳滿喜子でした。

http://blogs.yahoo.co.jp/sirokuma6102000/33138829.html

輝かしい業績を残したヴォ-リスが「失敗者の自叙伝」を残したのは、あのガリラヤ湖での弟子たちと主との出会いの出来事を想起したからではないでしょうか。

復活の主は、湖畔に立ってずっと彼らの漁を見守っておられました。しかし彼らの目は仕事のことだけでした。

主を仰いで従ったときに、驚くべき成功を体験したのです。

 

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