創造

創造主とセルフイメージの世界

150年前のペンテコステ、村田若狭・織部兄弟と本野一郎のバプテスマ

2016-05-17 18:59:44 | 歴史

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柳谷謙太郎とグリフィス

2016-05-11 10:25:09 | 歴史

「フルベッキ氏がアメリカに送った、教師とその生徒たちの写真(筆者注:フルベッキ写真)は日本の歴史家にとっては非常に価値のある資料であろう。この若者たちの中には、後に政府の様々な部署で大きな影響力を持った多くの人物を認めることができる。各省の長、大臣、海外派遣の外交官、そして皇国の首相になった人物など。本の助けや、人に聞くことなく筆者(筆者注:グリフィス)が思い出したり、判別できる中に岩倉兄弟[岩倉具定・具経]がある。また、大隈伯[重信]がいる。日本の新体制の下、この40年間に大隈伯の活躍はめざましく、財務の長や外務大臣、大学の創立者となった。1874年に中国に派遣され外務卿となった副島[種臣]とともに、大隈はフルベッキ氏の下で特に合衆国憲法を学び、ほとんどすべての西欧諸国の基本法に精通した。柳谷謙太郎は特許局長であり、その他にも、1874年にキリスト教国に派遣された使節団の中に、写真に写る者を多く認めることができる。」

『新訳考証 日本のフルベッキ』(松浦玲監修・村瀬寿代訳編 洋学堂書店)p.119
 

The photograph of the teacher and his classes, which he sent home, forms an illustrative document of the highest valueto the historian of Japan. In this group of young men we can recognize many who afterward became powerfully influential in various government offices as heads of departments, as cabinet ministers, as diplomatists abroad, and even in the premiership of the empire. Among a few, whom the biographer,without assistance from book or person, can recall from memory or recognize in the picture, is Prince Iwakura and his brother; Count Okuma, whose potency in the new national life of Japan during forty years has been recognized as head of the treasury and the foreign department, and as founder of a college of literature, and whom,vv^ith Soyeshima, the Mikado's envoy to China in 1874 and minister of foreign affairs, Mr. Verbeck especially instructed in the constitution of the United States, besides making them familiar with the fundamental laws of most of the western nations; Kentaro Yanagiya, the chief of the Patent Office, besides many others who were members of the great embassy in 1874 to the nations of Christendom.(Verbeck of Japan.p132)

村瀬氏は、141ぺ-ジの注において「グリフィスが写るとする柳谷謙太郎と彼はどういう関係であるのかはっきりわからない。だが、柳谷は渡来の経験も数度あり、カリフォルニア在住の領事をしていたので、グリフィスとは顔見知りであった可能性がある。柳谷は済美館で教えていたが、写真に写るとされる人物中、彼以外の者は致遠館で学んでおり、岩倉兄弟を除けば除けばすべて・・・・」と述べました。

前回、書きましたように、村瀬氏は写場は明治以降に建てられたという前提の上で推察と究明を試み、岩倉兄弟が来崎した1868年12月(明治元年10月)から、大隈が、長崎で起きた英国水兵斬殺事件の審査のため1868年10月(明治元年9月)に来崎して長崎を離れる1869年1月末(明治元年12月)までの二か月足らずの間に撮影と推定されました。(p.138)

しかし、上述の柳谷謙太郎(1847-1923)は、済美館の英語句読を勤めた後、1867年(慶応3年)江戸に招聘され、英人海軍伝習所の通弁役となり、長崎府の通弁役として帰崎したのは1868年(明治元年)6月でした。(古賀十二郎著「長崎の英語研究」p.108) 

済美館の柳谷とともに1867(慶応3)年3月に江戸出府を命じられたのは、学頭の何禮之助、教授方柴田大助の三名でした。(〃p.68)

以上からフルベッキ写真の面々は致遠館よりも済美館時代の幕府の侍という可能性が高まります。撮影時期も早まるわけです。そもそも写場については不自然な点があります。寺か神社の境内を思わせる石畳の上にあること、被写体の履物がすぐ近くに無造作に置かれていることなどです。建物というよりもフラッシュ代わりに日光を利用できる野外に仮設されたものかのようです。ちなみにフルベッキ師は1864年(元治元年)7月28日に大徳寺という寺に引っ越しました。長崎七不思議のひとつと「寺がないのに大徳寺」と言われた寺です。

 

 

 

 

 

 

 

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フルベッキ師自身のコメント

2016-05-10 15:39:00 | 歴史

「(前略)ここに二枚の写真があります。(チョンマゲ大小の書生三十名ばかりと、他に五十名ほどの人々主人を取巻いて写る) ハイ日本第一の写真師でしょう、上手でした。長崎の上野と申す写真師です。私は長崎に居りまして、この書生はみな長崎で教えたのです。

一方は立illで、一方は新町。新町のは佐賀藩のお侍、立山のは幕府のお侍。どうも顔付に直ぐ見えます。幕府の方は余程進んで居りました。どうも幕府の侍の方は文明向の顔しております。」       (岩波文庫版・篠田鉱造著『明治百話』より)

 

「日本のフルベッキ」(グリフィス・洋学堂)の訳者、村瀬寿代氏は以下の86ぺ-ジで、証言はフルベッキ師の記憶違いだったと述べられました。

http://ci.nii.ac.jp/els/110000215333.pdf?id=ART0000594580&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1462844732&cp=

しかし、「顔付・・・」という表現から五十名の群像写真は済美館が立山にあった時代のものと思われます。三十名の書生との写真参照。

とすれば、上野彦馬の子孫、上野一郎氏による

「慶應元年八月長崎府新町二済美館ヲ設立シ後廣運館ト改称ス明治初 年同館担任教師「フルベッキ」氏東京出発ノ時重ナル門人記念トシテ新大工町上野彦馬寫真館二於テ撮影セリ」 との説明文はこの写真のものということになります。

そして、いわゆる「フルベッキ写真」の説明文は

「附記    安政五年七月(西暦千八百三十八年) 「徳川十四代家茂公」英語伝習
  所ヲ岩原郷官舎内二置キ楢林栄左工門、西吉十郎頭取タリ蘭人「ウイルヘルス」「デボーゲル」英人「アレッチエル」等相次デ教師タリ文久二年「西暦千八百六十二年」片渕郷組屋敷及武館二移シ英語所トシテ中山右門太頭取タリ文久三年七月(西暦千八百六十三年)立山奉行所境内二移シ何禮之助(礼之)平井希昌(義十郎)学頭タリ同年十二月江戸町二移シ○ ○所ト改メ米人(元蘭人) フルベッキ教師タリ慶應元年正月假語学所ト改メ 魯・英・蘭・佛・各語学ヲ教授ス・…  以下・…  」

といことになります。

 

 

 

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神学と自然科学

2016-05-07 20:25:03 | 神学と科学

創造者との直接的関係は、神学の分野であり、間接的関係は自然科学といえます。

神学は霊Spirit に関わる次元ですから、時空を超えた普遍性があります。天使ガブリエルはバビロンの捕囚時にダビデに現われましたし、主の降臨時に祭司ザカリヤやヨセフ、マリヤに語っています。

被造物としての自然にも普遍的な法則が見いだされますが、旧約聖書では、外的創造への天使的介入が示唆されています。全被造物は、創造主の永遠性と力を反映していますが、同時に虚無の中でうめき苦しんでいます。(ロ-マ書8章20節)

自然法則の破れは、神との契約関係における破綻に起因しているともあります。その律法について「御使いたちによって定められた」(使徒7・53)とありガラテヤの手紙3章19節では「御使いたちを通して仲介者の手で定められたのです」とあります。

旧約時代祭司でありましても、神殿の聖所までは入れましたが、至聖所には自由に行けませんでした。天使ケルビムが刺繍されている隔ての幕の内側は創造主ご自身が臨在されていたからです。つまり、人間は天使の下位に、律法の支配下に生きるほかなかったのです。

御子の十字架上での血の贖いが成就したときに、この幕が裂け、至聖所への道が開かれました。主の心に内住されていた御霊が私たちにも住まわれる道が開かれたのです。

「神が私たちのうちに、私たちが神のうち(至聖所)に」(第一ヨハネ4・15)という永遠のいのちに預かることになりました。ここには聖霊なる神の力と法則があります。天使やサタンよりもはるかに高い身分ですから死を超えた絶対的勝利の歩みです。

しかし、肉体は被造物と同じく贖いの時を待ち望みます。主の再臨と私たち自身が栄光の復活体に変えられる時を待望します。体は、まだ神との間接的関係に生きますので、自然の法則下に服するのです。

そこは天使とサタンの戦いの場であり(ユダ19節)、自然の異変や病気のなかでうめく世界でもあります。

しかし例えそのような間接性のなかで苦しむときでも、救急車が赤信号を超えて走行できるように、創造主ご自身が自然の法則を超え、天使の介入をさしおいて、体にも直接的に触れてくださるよう願うことが許されています。再臨を指し示すしるし(奇跡)として。

創造主の憐みのみ手が、困難の中におられる方がたに触れ、霊と心と体と環境を祝福してくださるようお祈りします。

 

 

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バリントンの歴史とバプテスト教会

2016-05-05 16:25:46 | 黒船絵巻

http://townofbarrington.org/history/history.htm

 

http://history.rays-place.com/ny/yates/barrington.htm

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コルゲ-ト大学のハミルトンバプテスト教会資料

2016-05-03 21:28:06 | 黒船絵巻

http://diglib.colgate.edu/cdm/landingpage/collection/p15119coll2

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