【ダニエル書9章】
ダニエルが罪の告白をしたときに、天使ガブリエルが近づいて神の言葉を伝達しました。4百数十年後、祭司ザカリヤとヨセフ及びマリヤに現れることになる天使です。
天使の存在について、疑うことがありますが、自分の経験からすると、高ぶっているときは遠い存在のように思え、自分の足りなさ罪深さを知らされへりくだる時はかえってありありと感じることがあります。
人間は高ぶりやすい性質なので、自分を高くするサタンが同調して、私たちを支配して、霊的な目をふさぎ、神や天使の存在やその働きを見えなくするのかのかもしれません。
10章には天使ガブリエルがサタンに妨害されて、ダニエルに近づけない3週間、ダニエルが祈り、天使ミカエルが戦ってくれたので接触できたことが語られています。義人だと誇ったパリサイ人は実は神から遠ざかり、罪を悲しんだ取税人は神に近かったともあります。
エリヤやエリシャの時代、イスラエルは偶像礼拝がはりこび、民は疲弊しました。しかしそのような困難な時代、天使の著しい働きがありました。
自分という被造物を誇り、頼る時、私たちの心の焦点は外的な世界に向きますが、自分の罪深さや弱さを知る時に、内住の聖霊なる神に目が注がされます。世の宝に目がくらむと、永遠の神の宝が見えなくなるのです。
弱さを通して自分が脇役であり、主役は神ご自身であることを心得て、主にゆだねると目には見えない素晴らしい世界があることを知らされます。被造物の力でなく、創造主の無限の力を見ることになります。
ダニエルはバビロンに捕らわれた囚人の一人でした。年も若く権威もありませんでしたが夢を解く賜物を与えられていました。神を心からおそれ敬っていたからです。
偶像礼拝を拒否してライオンの檻に入れられましたが、襲われませんでした。6章22節、「神が天使を送られて獅子の口をふせいでくださった」と不思議なことを語っています。
サムソンは熊を引き裂き、ダビデは熊やライオンを打ち負かしましたが、ダニエルは何の抵抗もせずにライオンと過ごしました。彼の従順と柔和な性格が目に見えるような気がします。
神は彼に特別な啓示、救いの計画を、天使を通して明らかにされました。
24節の70週は象徴的に解釈すれば十分な期間で、文字通りには、一週を7年として70×7=490年。
罪を贖い、永遠の義をもたらすメシヤは490年後に現れることになる。それは至聖所に油注ぎ、すなわち聖霊を注いで永遠の救いを成就するためです。至聖所となられた主はヨルダン川で聖霊を受けられて公生涯を3年半歩まれ、十字架上で罪の贖いを成就され、復活された後弟子たちに聖霊を注がれました。
これを正確にみると、アルタシャスタ王の勅令はBC457年。AD26年主のヨルダン川でのバプテスマと聖霊の注ぎ。457(BC年間)+26(AD年間)=483年。
62(週)×7=434年。7(週)×7=49年。 434+49=483年
次に27節、一週は7年間で半周は3年半。キリスト時代のローマ帝国、或いは教会時代を挿入して、終末時代の7年とする。「荒らす忌むべき者」が両者にかけれます。
黙示録13章5節には42カ月(3年半)とあります。
エゼキエル38章の預言を当てはめる解釈もあります。
私たちは天使よりもはるかにすばらしい聖霊なる神内住の油注ぎいただき、霊的にはすでに永遠の御国に生きています。そのために御子がこの世に下られました。体の贖いという完成に向かって希望をもって主を頼りつつ、主と共に神のいのちと力の中で歩んでゆきましょう。
【エペソ書3章】
パウロはユダヤ教パリサイ派としてのキリスト教徒迫害者から復活の主との出会いによる劇的な回心をしました。 旧約聖書と新約聖書の共通性と違い知ると信仰がよく分かります。
普通はユダヤ教からキリスト教が生まれたのだと言われますが、正統的には旧約聖書もイエス・キリストについて書かれているのですから、むしろ旧約は間接的予型的にイエス様について記され、新約は直接的な現われを述べています。そして現代は聖霊によって栄光の主との交わりに入れられています。現代のユダヤ教は新宗教の一種でイスラム教などと共に、天使教に近いといえるかもしれません。
例えばダビデやイザヤはユダヤ教徒かというならば、主を告白している点でキリスト教の先駆者となります。
ロシアによるウクライナ侵攻、そしてイスラエルとパレスチナのガザとの紛争が同時進行しています。
エゼキエル38章に、ロシア勢力とイスラエルの最終戦争が起こると預言ありますので再臨が近いのでしょうか。アウグスチヌスは第一の復活は新生した霊のよみがえりであり、第二の復活が再臨時の体のよみがえりであると解釈しました。つまり、この世の出来事におびえずに、私たちは既に永遠の霊のいのちを与えられていることを感謝し、さらに体のよみがえりの近いことを覚えて希望をもって生きるように勧められています。
NHK制作の宗教二世、神の子たちの問題についてドラマ風に描かれた番組を見ました。教会によく似た建物が登場したり、指導者が神の愛を説くシーンなどキリスト教に似ているのですが、十字架がなく聖霊不在の宗教であることが分かりました。聖霊は十字架の贖罪、血潮による赦しと信仰という管を通して注がれます。
その結果、神が、御霊として神の子とされた私たちに内住され、神の力を現わされます。
新生、清めや奉仕、献身すべては、神の御霊の業であり、神が先立ってなされる働きです。
しかし、それを聖霊なしに人間の力でなそうとすると自力による行いが強要され、その重圧に苦悩することになります。形式上の神の子は被造物としての人間のいのちプシュケーで生きるので、自力で神の子らしく振舞おうとして疲弊し無理と破綻が生じます。ドラマはその葛藤を描いていました。「似て非なるもの」外観は似ているが、中味は全く違うのが異端の特徴です。
しかしこれは他人事ではなく「御霊によって始めたのに肉によって完成しようとして」律法主義に陥る自分も注意することを教えられました。これは、幼児洗礼と民族主義的な東方キリスト教会の背景から生まれたウクライナの紛争、ユダヤ教と東方キリスト教会の背景の中から生まれたイスラム教の戦いの根本にある霊的問題と共通しています。
2章に記されているように確かに私たちは主と共に天の御座に坐らされたのです。そして御霊が我々の霊に住まわれて御業を行われます。演繹的本質的三位一体論において、御霊は私たちを神の交わりの中に入れてくださり、同時に帰納的経綸的三位一体論的に、御霊の業を行われます。
前者において御霊の実、愛や喜び、平安、寛容、親切、慈悲、忠実、柔和、自制の実を結んでくださり、後者において知恵、知識、預言、癒し、奇跡、信仰、異言、解き明かし、霊の見分けという能力を現わされます。
それは聖霊様の力によるもので、人間の力に依るものではありません。
自己依存では神の性質と力の現われはないのです。神への信頼をとうして、神は働かれ、神の力が解放されます
そして神の力の体験、神の脱穀機、神の虫、神の石にされます。
モーセも自分の力だと誇ることの罪故に、カナンに入れませんでした、ダビデも自軍への依存による不信の罪を犯しました。しかしモーセが祈りの手を挙げる時イスラエルが勝利したように一瞬、一瞬、御霊に頼ることによって主はもろもろの霊に中で勝利を現わされます。主に頼らないことがすべて罪だと聖書にあります。
実質的な神の子として、神のいのちゾーエーを持ち、聖霊によって祈り、行動しましょう。
聖霊は霊と心の深さと、無限の広がり、至聖所という霊の次元の高さと、深い洞察に導かれます。