創造

創造主とセルフイメージの世界

創造と復活

2024-04-21 16:54:52 | 福音

わが友にます

【コリント第一の手紙15章35-58節】

聖書を読んでいると、4福音書のイエス様の言葉や出来事に比べるとパウロの手紙は、何となく難しく感じます。手紙は相手が分かるように、相手の立場に立って時代や環境を考慮しながら書かれます。

「使徒の働き」を読むと前半はペテロの活動、後半はほとんどパウロの独壇場です。

これは福音がユダヤのガリラヤからエルサレムへ、そして地中海からギリシャのコリントへさらにピリポからローマへ拡大されてゆく歴史を反映します。

 ギリシャにはイエス様が誕生する前400年代に活躍したソクラテスのような哲学者はじめ豊かな文化がありました。そのような背景を持つ人々に福音を伝えるためにもギリシャ語で書かれ、哲学的な用語も使用されなければなりませんでした。

 そこでプシュキコス(精神・魂・自然的生)、ロゴス(言葉)などが用いられています。

ここでは自然的創造が生殖によってなされ、種(遺伝子)がやがてそれぞれの体を形成することを例にとって、新しい創造である復活の体について説明されます。

植物も動物も遺伝の法則によって繁殖します。

あなた方は新しく生まれたのは、朽ちる種からでなく朽ちない種からであり、いつまでも変わることのない神の言葉に依るのです。」(ペテロ第一1・23)とありますように、神のいのちの種である聖霊によって永遠の復活の体が形成されるというのです。

血肉の体(ソーマ・プシュキコン)があるのですから御霊の体(ソーマ・プニュマティコン)もあるのです」(44節)「最初の人アダムは生きた者(プシュケン・ゾーサン)となり、最後のアダムは生かす御霊(プニューマ・ゾーオポイスン)になった」(45節)

アダムは自然的生と魂を持つ人であり、キリストは超自然的創造者の霊を持つ者という意味です。

精神を含む人間はあくまで被造物であり、それ自身は朽ちる運命にありますが、御霊を持つ者は創造主と結ばれているゆえに永遠であり、やがて復活の体も与えられるのです。

精神力や人間の知力は、体力と同じようにやがて衰弱します。哲学によって人は救われない訳です。ヘレニズム思想においては精神が絶対化され肉体は軽視されました。これは人間の仏性や祖霊を崇める仏教思想や明治天皇を祀る明治神宮、戦死者を英霊として崇める靖国神社などの神道に通じるもので、仏壇で位牌を死者の霊魂を拝むのですが、創造霊を拝むことになりません。また独裁者の像や教祖を拝ませる偶像礼拝も同じです。

まことの信仰とは創造主に立ち返らせ、その霊Spiritにおいて永遠の交わりに至らせるのですが、被造霊spiritsもしくは被造物(マモンとしての富など)に依存し、信頼すべき方からそらせる的外れ(罪の原語)な道なのです。

神に直結することのない、曲がった方向です。

「この知識の木の実を食べたら神のようになれる」という自己を神にしようとするサタンの誘惑です。

創造主との対話を失った独立独歩の、天に閉ざされた道、そのようにしてアダムを通して死が人間と全被造物支配することになりました。創造の源泉であられる神から引き離された世界です。

ですから復活が信じられないのでした。

御子の十字架の贖いを通して御霊が注がれ、神と結ばれることによって永遠が体験されます。イエス様が、ぶどうの枝は幹に結ばれた時に実を結ぶといわれたように、神が私たちのもとに来られて一つになってくださることによって、新たな創造、救いが起こります。

この土の器はやがて栄光の体に変えられる日がやってきます。その日が来る前の現在においても聖霊様は私たちに内住されて、サタンに勝利させ、神との交わりに導いておられます。人間的に弱くても、御霊は私たちの力となり愛となりすべてとなって復活のいのちを現わされ、ついには栄光の体に変えてくださるのです。

たてよいざたて

主の御霊よ

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イエスは岸辺にたっておられた

2024-04-08 10:05:23 | 福音

ナザレのふせやに

【 ヨハネ福音書21章1-17節】

21章は付録の部分と言われます。書き足りなかったことを示されて追加されたのです。奇妙なことは二度も復活の主に出会ったのに、ガリラヤに帰って、琵琶湖の4分の一ほどのなつかしい湖で漁をしていることです。

もしかしたら、主の復活の噂を聞いても信じられずにエマオの村に急いだあの二人の弟子のように、エルサレムにいる危険性を覚えて逃げる思いで里帰りしたのかもしれません。

ペテロは主に出会ったはずですが、それでも確信が持てなかったと考えることもできます。本名は、風に揺らぐ「葦」の意味で、すぐ信じても、次の瞬間は疑うという弱さを持っていたようです。

主に倣って水の上を歩んでも、波を見て恐ろしくなりズブズブ沈みかけたこともありました。一番弟子を自負しながら十字架を前にした主を知らないと三度も裏切りました。

復活は人間の世界や経験を超えた、創造主の世界ですから容易には理解できません。

ヤゴは水中で生まれ育ち、やがて空中に挙げられて翼をもつトンボになりますが、水の中にいる限り陸のことはわかりません。

多分半信半疑の思いの弟子たちは、以前からの漁に戻りました。いつどこに網を降ろしたら、網にかかるか、長い経験で知っていました。しかし、一晩労苦しても一匹の魚も獲れません。

夜が明け始めて岸辺に立つ誰かが「子たちよ、獲物はありませんね」、「船の右側に網を降ろしてごらんよ。」と叫びました。

その声に従ったところ、おびただしい数の魚が網にかかりました。

主はずっと岸辺で見守っておられたのだと現在完了形で記されています。

復活の主は、いつでもどこでも共にいてくださるのですが、弟子たちは世と自分の働きだけに夢中になって、一番大切な方をすっかり見失っていたのでした。

私たちも自力だけに頼って、内住の聖霊様を軽視すると、霊の目が曇り仰ぐべき復活の主を見落としてしまいます。

この弟子たちの経験は、やがて主の働きをすることになる、伝道と牧会の教訓でもありました。

神からご覧になると、この世界はご自分から離反し霊的に死んだ状態です。

ガリラヤ湖は地中海よりも水位が低く、盆地の中にありますから、突風が吹いて大荒れになると非常に危険になりました。

 そのような死の海から、引き揚げて救い出すのが伝道であり、救いであります。ヨナは大魚の胃の中で僅かな酸素を吸ってかろうじて生き延びましたが、水中では呼吸できませんから窒息死します。

 息(ルーアッハ)がないと肉体が死滅するように、神の息がないと霊的に生きてゆけません。

 「人間をすなどる漁師にしてあげよう」(マタイ4・5)と、かつて主は約束されましたが、それは罪と死に沈んでいる人々が悲惨な闇の淵から引き揚げられて、聖霊の息吹によって霊のいのちによみがえる働きにたずさわることを意味します。新生(神生)して永遠の神の子にされるのです。

そして主はパンと魚で共に食事をされました。

神との交わりのなかで、神の子は成長(聖化)します。人間としての誕生と成長があるように、神の子は聖霊によって生まれ、聖霊によって成長して主の働き人にされます。聖霊によって新生したのですから、聖霊によって聖化されます。聖霊は、十字架の贖いの血を通して私たちの不信仰と罪を絶えず洗い清めて、主との永遠の交わりに導かれます。三度、主はペテロに「私を愛するか」と語られます。シモンからペテロ(岩)に改名されたのは、信仰告白による新生のときでしたが、自分に失望し悲しむことによって、かえって主を仰ぎそのみ言葉に頼りはじめたときに文字通りゆるぎない羊飼い、牧者として建てられてゆきました。

愛する主よ

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復活の主の現われ

2024-04-01 11:04:16 | 福音

うるわしの白百合

【コリント第一:15章1-111節】

復活の主は日曜日に三度お姿を現わされたので、弟子たちはユダヤ教の土曜安息をやめて、日曜日に主をたたえ礼拝するようになりました。そして今日、全世界はこの日を祝日としています。

「二、三人私の名によって集まるところに私もいる」と約束された復活の主は、この礼拝にも共にいてくださるのです。肉眼では見えなく、現われがなくても、主は共におられます。

先週アナニアとサッピラ夫妻の嘘についてなぜ神は厳しい処置をなされたか学びました。ちょうど安倍元総理がやめろと言ったキックバック制を残したばかりに自民党が揺らいでいますが、どこかで金銭に依存しようとする政治家の姿は他人ごとではありません。水原一平通訳がギャンブル依存症であることを告白して大騒動になっています。この依存という言葉は信仰、あるいは信頼の類似語です。

偶像を捨てずに「残した」アカンの罪で、イスラエルはアイという小国に敗北しました。教会が世に勝利して栄光を現わしてゆくにあたり内部に偶像礼拝があると障害になることを教えられます。

 創造主でなく、被造物に頼る偶像礼拝はサタンとの関係が断ち切れないので結果的に神と敵対関係に入ることを意味します。

ギャンブル依存症は、嘘をつくようになると言われます。「サタンは初めから嘘をつき、騙し盗み、殺し滅ぼす」とあり、自力では脱出が困難です。「占い」とか新興宗教やカルト宗教、古い伝統宗教も一度関係を持つとなかなか縁を切れません。イデオロギーでも同じです。深層で悪霊と契約が結ばれて逃れられないからです。エジプトの支配下にあったイスラエルもそうでした。かもいと門柱に塗られた羊の血のみが、その関わりを断ち切ったのです。罪の結果サタンと死の支配下に落ちたこの世界は容易に解放されません。

人類とこの世は始まって以来、ずっと闇の力に縛られ、その悲惨な現実にさらされてきましたから復活が信じられないのは当然かもしれません。創造主である神との交わりを失った世界は滅びるからです。

ユダヤ教の指導者だったパウロも主の復活を信じることはできませんでした。復活はフェイクニュースだと確信して、嘘つきは殺されなければならないという律法に従ってキリスト教徒の逮捕と処刑に加担していたのです。

ところが復活の主は太陽よりも明るい光の中でパウロに現れました。それが自分だけの幻覚でないことが、弟子たちの証言で明らかにされました。

そして十字架に追いやったナザレのイエスこそ、罪のための贖いを成し遂げて、至聖所を開かれ、創造者と被造物の隔ての壁を取り除かれた救い主であることを悟りました。

創造主である聖霊が注がれその光に照らされ、天に引き上げられて、そこにおられる父と御子に出会い、永遠の交わりに入れられます。

「見ないで信じる者は幸いです」とあるように五感を超えた世界です。

夜が明けると漆黒の闇から地上の大自然が姿を現すように、太陽よりも輝く創造主の光が、見えない天を照らし出します。そのようにパウロは霊の目が開かれて復活の主に出会いました。

神は天使セラフィムでさえもまともに見ることが出来ない(イザヤ6・2)聖なるお方です。

私たちの主イエス・キリストの現われの時まで、あなた方は命令を守り、傷のない非難されるところのない者でありなさい。その現れを、神はご自分の良しとされる時に示してくださいます。神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主です。ただひとり死のない方であり近づくこともできない光の中に住まわれ、人間が誰一人見ることのない、また見ることのできないお方です。誉れととこしえの主権は神のものです。」(テモテ1・6の14-)召された方々はこの光の中に移されました。

それは私ではなく、私にある神の恵みです。」(10節)とパウロは主の血潮と聖霊によってすでに祝福に入れられたと述べています。私たちも被造物である自分と世に頼るのでなく、私たちの光となりいのちとなって内住されている神に一瞬一瞬お頼りしましょう。主が輝いてくださるからです。

救いの主はハレルヤ

 

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