【コリント第一の手紙15章35-58節】
聖書を読んでいると、4福音書のイエス様の言葉や出来事に比べるとパウロの手紙は、何となく難しく感じます。手紙は相手が分かるように、相手の立場に立って時代や環境を考慮しながら書かれます。
「使徒の働き」を読むと前半はペテロの活動、後半はほとんどパウロの独壇場です。
これは福音がユダヤのガリラヤからエルサレムへ、そして地中海からギリシャのコリントへさらにピリポからローマへ拡大されてゆく歴史を反映します。
ギリシャにはイエス様が誕生する前400年代に活躍したソクラテスのような哲学者はじめ豊かな文化がありました。そのような背景を持つ人々に福音を伝えるためにもギリシャ語で書かれ、哲学的な用語も使用されなければなりませんでした。
そこでプシュキコス(精神・魂・自然的生)、ロゴス(言葉)などが用いられています。
ここでは自然的創造が生殖によってなされ、種(遺伝子)がやがてそれぞれの体を形成することを例にとって、新しい創造である復活の体について説明されます。
植物も動物も遺伝の法則によって繁殖します。
「あなた方は新しく生まれたのは、朽ちる種からでなく朽ちない種からであり、いつまでも変わることのない神の言葉に依るのです。」(ペテロ第一1・23)とありますように、神のいのちの種である聖霊によって永遠の復活の体が形成されるというのです。
「血肉の体(ソーマ・プシュキコン)があるのですから御霊の体(ソーマ・プニュマティコン)もあるのです」(44節)「最初の人アダムは生きた者(プシュケン・ゾーサン)となり、最後のアダムは生かす御霊(プニューマ・ゾーオポイスン)になった」(45節)
アダムは自然的生と魂を持つ人であり、キリストは超自然的創造者の霊を持つ者という意味です。
精神を含む人間はあくまで被造物であり、それ自身は朽ちる運命にありますが、御霊を持つ者は創造主と結ばれているゆえに永遠であり、やがて復活の体も与えられるのです。
精神力や人間の知力は、体力と同じようにやがて衰弱します。哲学によって人は救われない訳です。ヘレニズム思想においては精神が絶対化され肉体は軽視されました。これは人間の仏性や祖霊を崇める仏教思想や明治天皇を祀る明治神宮、戦死者を英霊として崇める靖国神社などの神道に通じるもので、仏壇で位牌を死者の霊魂を拝むのですが、創造霊を拝むことになりません。また独裁者の像や教祖を拝ませる偶像礼拝も同じです。
まことの信仰とは創造主に立ち返らせ、その霊Spiritにおいて永遠の交わりに至らせるのですが、被造霊spiritsもしくは被造物(マモンとしての富など)に依存し、信頼すべき方からそらせる的外れ(罪の原語)な道なのです。
神に直結することのない、曲がった方向です。
「この知識の木の実を食べたら神のようになれる」という自己を神にしようとするサタンの誘惑です。
創造主との対話を失った独立独歩の、天に閉ざされた道、そのようにしてアダムを通して死が人間と全被造物支配することになりました。創造の源泉であられる神から引き離された世界です。
ですから復活が信じられないのでした。
御子の十字架の贖いを通して御霊が注がれ、神と結ばれることによって永遠が体験されます。イエス様が、ぶどうの枝は幹に結ばれた時に実を結ぶといわれたように、神が私たちのもとに来られて一つになってくださることによって、新たな創造、救いが起こります。
この土の器はやがて栄光の体に変えられる日がやってきます。その日が来る前の現在においても聖霊様は私たちに内住されて、サタンに勝利させ、神との交わりに導いておられます。人間的に弱くても、御霊は私たちの力となり愛となりすべてとなって復活のいのちを現わされ、ついには栄光の体に変えてくださるのです。